2017年のメッセージ

「平和への道」

マタイによる福音書5章38−48節

2017年8月13日

 ヘブライ語の「シャローム」は、「平和」と訳されますが、ただ「戦争がない状態」と言うだけの意味ではありません。「あらゆる点、すべての関係性においてで満ち足りている状態」欠けのない状態です。

ギリシア語で、平和は「エイレーネ」といいます。イエスの山上の説教の冒頭、5章8節に、「幸せだ。平和を作りだす者は」とあります。平和を目指して行動する者が、幸いな者だとの宣言です。信仰的なことがらと社会的な事柄は切り離せず、一体なものとして、イエスはまずこの「幸い」を宣言されました。

山上の説教の後の、イエスの非暴力による抵抗の勧めは、人間の常識、考え方の枠を超えた行動です。イエス様は、人が感情的になったり、怯えて諦める弱さをご存じです。そんな弱さを抱えるからこそ、そこを乗り越える所に、平和の道があると述べています。

もちろん、リスクはあります。逆上されるかもしれません。それでも、イエス様の教える「平和への道」は、暴力で応戦するよりも、よほどシャロームの可能性に開かれているのです。マハトマ・ガンジー、マーチン・ルーサー・キングなど、非暴力によって、権力による理不尽な差別や抑圧に抵抗し勝利を勝ち取ったことは歴史が証明しています。

何より、イエス自身が、権力の横暴に対して、最後まで非暴力に徹し、十字架に架けられました。すべての人のシャロームのために、非暴力の抵抗を貫いたのです。

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。

神は、人を差別しません。すべて同じ人間を、個性と賜物を与えて造られました。そのすべての人に愛を注がれ、憐れみと慈しみのまなざしをもっておられるのです。わたしたち人間は、そんな神に似せて作られた者です。敵を含むすべての人に、愛と、憐れみと慈しみを注ぐようにと創られた者です。

 

今この世界に派遣されている、私たち教会が、次の世代に本当の平和「神の国」シャロームを残していけますように。今、できることは何か、共に祈り、考え、行っていきたいものです。〔協力牧師 米本裕見子〕

        

page top ↑

「主イエスの招き」

ルカによる福音書9章57−62節

2017年8月6日

 ペトロのメシア(救い主)告白を(ルカ9:20)機に、イエスさまはご自分の死と復活を語られ、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という「服従」への招きをなされました。

「どこへでも従います」と言う人には、何の保障もない道であることを伝える一方、ある人には「わたしに従いなさい」と呼びかけ、父親の葬儀の心配に対しては、神の国の福音を広げなさいと送り出します。また「従いますが、まず家族に別れを」と申し出る人には、「鋤を手にして後ろを顧みてはならない」と厳しく戒められます。

「服従」への招きは、それぞれの状況や思いの中でその人に響くような言葉で与えられるものです。決して画一的なものではありません。そしてこれらの招きの大事なのは、血縁関係の家族を克服することが強調されている点だと思います。当時、血縁中心の家父長的な宗教観の中で、多くの病者や、悪霊に取りつかれた者、女性たちなど、関係を絶たされた者たちが主イエスのところに集められ、癒しと励ましを得ていたのです。イエスさまは彼らのことをご自分の家族だと明言されたことがあります(ルカ8:21)。主イエスは神の家族の関係を示されたのでしょう。

 

教会に呼び集められた一人ひとりは、様々な形で主イエスを中心に補い合い、支え合って生きるようにと招かれています。欠けの多い自分たちですが、共にこの使命に生きていく時に真の教会へと変えられていくと信じます。〔牧師 魯孝錬〕

        

page top ↑

「神の心」

ヨナ書4章1−10

2017年7月30日

 ヨナは怒ります。神さまがニネベの滅亡を「思い直された」からです。それは神さまの恵みと憐れみの故だと頭では分かりますが、素直に喜べません。逆に「死んだ方がまし」だと訴えます。神さまは「お前は怒るが、それは正しい(ヤタブ)ことか」と問います。これは創造された時「良し(トーブ)」とされた被造物に本来の姿を取り戻してほしいとの造り主の招きとも言えます。神を避けて恐れていたアダムたちに「どこにいるのか」という根源的な問いと相通じています。

 神さまはヨブのために一夜にしてとうごまの木を生じさせ木陰を与えられ、また一夜にして虫にその木を食い荒らさせ枯らしてしまいます。消えていたヨナの怒りはぶりかえります。ヨナは神さまに「お前は…怒るがそれは正しいことか」と問われます。これによってヨナが自分の怒りや自分の信仰が、自己中心的であったことに気づかされたのでしょうか。

 神さまはヨナが何のかかわりもないとうどまの木を喜んでいるならば、ご自分が創造して生かしたものを惜しむのは当然ではないのかと必死に訴えます。このようにして神さまは、ヤハウェは自分たちだけの神だと思い込んでいる主の民を呼び覚ましているのだと思います。まさにイエスさまが善きサマリア人のたとえ話を通して、ユダヤ人の民族主義の克服を促されたのと同様に。神さまの惜しむ(フース、共に苦しむ)心に私たちは突き動かされ、これからの福音宣教を進めていくのです。〔牧師 魯孝錬〕

        

page top ↑

「主のまなざし」

マタイによる福音書12章1−21

2017年7月23日

 安息日は、6日にわたる天地創造を完成された神さまが、7日目に休まれたこと、エジプトで奴隷であったイスラエルの人々を神さまが救ってくださったことに根拠があります。安息日には、「いかなる仕事もしてはならない」と命じられた神さまの本来の目的は、人間が人間らしく生きられるようにするためであり、一人ひとりの命を大切にするためであったでしょう。

 ある安息日に、空腹であった弟子たちが、麦の穂を摘んで食べます。すると、それを目撃したファリサイ派の人々が、弟子たちの行為を「刈り入れ」の仕事と見做して、非難します。ファリサイ派の人々は、弟子たちの空腹、窮状には目を留めず、律法違反の行為を問題にします。イエスさまは聖書を引用し、律法を教条主義的に解釈するファリサイ派の人々を批判します。続いてイエスさまが、彼らの会堂に入られると、そこには片手の萎えた一人の人がいました。人々は、イエスさまを訴える口実のために「安息日に病気を治すのは、律法で許されているか」尋ねます。イエスさまの反対者たちは、イエスさまを訴えるために、手の萎えた人を利用したのです。その人の痛みには、目もくれずに。彼らの質問に、イエスさまは穴に落ちた一匹の羊(犠牲の羊)のたとえ話を語られると、「人間は、人々の手で犠牲にされる羊とは違う」と答え、手の萎えた人に向き合い、彼をいやされます。イエスさまのまなざしは、その人の痛みに向けられていたのです。

 マタイは、イザヤ書42章1−4節を引用し、イエス・キリストが聖書の預言の成就であることを示します。律法の順守に固執するあまり、本質を忘れている宗教指導者たちに比して、イエスさまは柔和で、弱い者、希望を失っている者をそれ以上傷つけることなく、本当の憐れみをもつ方であることを伝えるのです。教会も、イエスさまと同じまなざしをもって、痛む人、苦しむ人、悲しむ人に寄り添って歩むことができればと思います。〔副牧師 細井留美〕

        

page top ↑

思い直される神

ヨナ書3章1-10節

2017年7月16日
サマーキャンプ当日

 アッシリア帝国はイスラエルの人々の敵国です。紀元前722年北イスラエル王国はアッシリアに滅亡され、南ユダ王国も100年近く散々苦しめられた歴史があるからです。ニネベはそのアッシリア帝国の首都です。

 おそらくヨナもニネベの人々が大嫌いだったのでしょう。一度はニネベに行って神さまの言葉を語りなさいとの命令に逆らって逃げ出したほどです。ヨナは海に投げ込まれ、魚に呑み込まれた出来事を経て、今度はニネベにちゃんと行って神さまの裁きを呼びかけます。すると、ニネベの人々が「神を信じ」て王様から家畜までも悔い改めます。神さまはこれらを御覧になり、「思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられ」たのです。

 イスラエルの敵国の人々であっても彼らを憐れみ「思い直される神」は、ヨナをはじめ当時の人々には馴染まなかったはずです。これは「ナホム書」にある、「主は敵に報復し仇に向かって怒りを抱かれる」(ナホム1:2)「ニネベは破壊された…お前を慰める者はどこを探してもいない」(ナホム3:7)という「報復する神」への挑戦です。まさに「隣人を愛し、敵を憎め」と、「隣人」をユダヤ民族に限られて捉えていた時代に、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたイエスさまの言葉に通じる話です。

 自国第一主義が正当化されていく時代に呑み込まれず、果敢に「待った」を呼びかけ、神の「愛」を伝えていきたいものです。
〔牧師 魯孝錬〕

        

page top ↑

何もかも捨てて

ルカによる福音書5章27-32節

2017年7月9日

 イエス様はレビという徴税人のところに出掛けて行き「わたしに従いなさい」と言って彼を招かれました。27節に「イエスは出て行って」と書かれていますが、並行箇所のマタイとマルコでは「通りがかりに」となっています。つまり、ルカはイエス様が通りがかりにレビと出会ったと言うよりも、わざわざ出かけて行ってレビに出会われたことを強調しています。このイエス様の行動から失われた一匹の羊を求め、見つかるまでどこまでも捜しに行く羊飼いの愛を感じます。

 「座っていたレビがイエス様と出会い、立ち上がって行く」という単純な短い文章の中に大切な意味が込められています。この「立ち上がる」という言葉は「復活する」という言葉と同じギリシア語が使われています。つまり、「新しい人間になる」、「新しく生まれ変わる」ことを意味しているのです。イエス様の招きが、愛が、レビの心に働いて、罪人として無力と束縛と絶望の中にあった彼を揺り動かし、命の息を吹きかけ、立ち上がらせたのです。そして、レビもまた持てる物を何もかも捨てた(手放した)からこそ、その場から立ち上がることができ、イエス様に従って行くことができたのです。

 イエス様は、今日もこの私たち一人一人に目を留め「一緒に歩むもう」と招かれています。私たちは今日、その招きに素直に応えて、何もかも捨てて、何もかも手放して、ここから立ち上がり、共に前へ歩んで行きましょう!〔牧師 松崎 準〕

page top ↑

主との対話に生きる

創世記18章20-28節

2017年7月2日

 神さまはソドムの町を滅ぼすと決断されました。アブラハムはこれに「正しい者がいたら滅ぼされますか」と異議を申し立てます。神さまは「町全部を赦そう」と答えられます。やり取りは何度も繰り返され、その都度神さまは「滅ぼさない」と言われます。「あれ?神の決断ってこんなにすぐ変わるものだったのか」と疑問を抱く人もいるでしょう。

 私はこのやりとりが「対話」に見えます。すべてを滅ぼすという神さまの決断に対する、一人の人間の戸惑いと揺れ動き、そして神の真意を知りたいという叫びに聞こえてくるからです。対話の実りもなくソドムは滅ぼされます。では、この対話は一体何の意味があったのでしょうか。盲目的な信仰への戒めではないでしょうか。神さまの決断であったとしても「違う」と言える空間が聖書にあることが不思議な気がします。

 神さまは命を生かすお方です。だからこそ、神さまの決断であったとしても命を滅ぼすという命令に対話の余地はひらかれていると思います。むしろ神さまの側がこの対話を喜び待っているのかも知れません。新約聖書の福音書にはシリア・フェニキアの女性の話が出てきますが、彼女は「子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と断るイエスさまに、食卓の下の小犬でも子どものパンくずはもらう、と対話に挑みました。

 今の時代に神さまとの対話に生きる信仰とは、他の人々と一緒に聖書を読み、相手の読み方に心の耳を傾ける姿勢かも知れません。その輪において私たちは解放を味わうのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

力づけてくださる神

列王記上19章1-18節

2017年6月25日

 バアルの預言者らと対決し勝利したエリヤは、バアルの預言者らを皆殺しにしてしまいます。イスラエルの王アハブが、これらの出来事を熱心なバアル信仰者の妻イゼベルに告げると、イゼベルはエリヤに死を宣告します。

 恐れ、逃げ出したエリヤは、イズレエルから遠く離れたベエル・シェバから更に荒れ野を一日中歩き続けます。しかし、体力の限界を迎えたエリヤは、生きる気力も、自信も失い、「わたしの命を取ってください。」と主に呼びかけ、眠ってしまいます。すると、主は食べ物によってエリヤを力づけます。力づけられたエリヤは、ホレブの山に行きます。

 山の中で、主が通り過ぎますが、激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられません。しかし、火の後に、静かにささやく声が聞こえます。孤独と恐怖を訴えるエリヤに、主は逃げてきた道を引き返し、新しい場所へ向かうように告げます。そして、エリシャという後継者とバアルにひざまずかった7千人の同志の存在をエリヤに示します。

 主は、エリヤを励まし、再び預言者として立たせるのです。生きる気力を失っていたエリヤ。しかし、自信にあふれたエリヤでは、主の静かな声を聴くことはできなかったでしょう。エリヤは自分は弱いが主が共にいてくださる、そして仲間が与えられているという心強い思いで、引き返して行ったことでしょう。〔副牧師 細井留美〕

page top ↑

キリストの愛

エフェソの信徒への手紙3章14-21節

2017年6月18日

 今日の聖書箇所は、「神があなたがたを強めて、あなたがたの心にキリストを住まわせ、…この愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、そして聖なる者と共に、キリストの愛を深く理解し…この愛を知るようになり…神の豊かさにあずかり、満たされますように」(15-19)という祈りです。

 これは「神の愛」に対する確信なしにはあり得なかったのでしょう。そしてそれはキリストにおいてユダヤ人と異邦人と間に実現された平和と和解そのものでした。イエス・キリストは傷む者の友となって一緒に歩まれ、十字架において「神の愛」を示してくださいました。パウロは「キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)と確信しています。

 創世記のヤコブ物語を思い出します。故郷を離れ苦労しつづけてきたヤコブが最後の最後に兄のエサウに対する恐れで悩みます。ペヌエルで神との格闘です。ヤコブは神が自分の人生に共におられるとの約束を誠実に守られたことをそこで気づかされたのでしょう。太ももの関節を打たれてはじめて。

いわゆる共謀罪法が可決され、絶望している人々が多いのかも知れません。しかし、キリストを信じるがゆえに、祈りつづけられます。また横のつながりを広げて可能なことから少しずつ実りをあげていきたいと切に祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

教会の出発

使徒言行録2章36-42節

2017年6月11日

 ペンテコステの出来事の本質は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の実現です。イエスさまが生涯をもってこれを示したとするとすれば、これからは聖霊がこのインマヌエルの約束を引き続き示していく、ということです。教会の出発です。

 酒に酔っているとの非難に対してペトロは立ち上がって語り始めました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36)と。これは、自分たちこそ神を知っていると高いプライドを自慢していたユダヤ人にとっては、その信仰が根底から揺さぶられる言葉だったのでしょう。まさにパウロの目からうろこの体験だったと思います。

 「どうしたらよいのか」と叫ぶ人々に対して、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38)と語ります。力強いメッセージです。しかし聖霊の働きが彼らをバプテスマに導いていたのに、いつのまにかバプテスマが聖霊を受ける条件のような言い方となっていることに注意したいです。初代教会の限界です。

 自由な聖霊の働きはこのような限界ある群れを、教会としてふさわしく導いていくのです。私たちの神を「知っている」ということが、時に神に対する「無知」(高慢、罪)であり得ることを覚え、主によって日々新たにされていく教会でありたいと切に祈ります。  〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

驚きととまどい

使徒言行録2章1-13節

2017年6月4日
            
ペンテコステ

 聖霊が降った出来事の本質とは、旧約聖書のモーセの召命記事の燃え尽きない柴や、シナイ山での律法授与記事を想起させる「神の臨在」です。そしてこれはモーセを通して与えられた律法の時代から、イエス・キリストを通して与えられる聖霊の時代へ突入を意味します。

 聖霊とはヘブライ語では「神の息」で、天地創造物語の中に神の命の息を吹き入れられてはじめて人は生きる者となったことが連想されます。つまり神さまが人々を「主イエスの証人」として再創造される新しい物語のはじまりなのです。そしてそれは原初史のバベル塔の分断と離散がまさに主によって回復される出来事なのです。

 「これは一体どういうことか」と人々は「驚き、戸惑」っています。ユダヤ戦争後律法遵守において自分たちのアイデンティティを守ってきた人々にとっては、民族と宗教を超えるチャレンジだったからです。受胎告知を受けたマリアも、復活を告げらせられた女性たちも同じ驚きと戸惑いを経験したのでしょう。ペンテコステの出来事は、キリストに従う群れがユダヤ教の枠を乗り越えて、主イエスの証人として送りだされる派遣式だと言っても過言ではありません。

 初代教会は過越祭(出エジプトの解放を記念)と五旬祭(シナイ山での十戒授与記念)を、それぞれイエス・キリストの復活と聖霊降臨として再解釈して、主イエスの証人として開かれたいく歩みに踏み出しました。私たちも教会のあり方を問われています。      〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

失望せずに祈る

ルカによる福音書18章1-8節

2017年5月28日

 イエスさまのたとえ話です。神を畏れず人を人と思わない不義な裁判官が、正しい裁きを絶えず求めるやもめをしばらくは取り合おうとしなかったが、散々な目に遭わされるのはごめんだと裁判を行う決心をした。このたとえ話の大切なポイントは、「気を落とさずに祈り続ける」ことです。「祈り続ければ何でも叶えられる」ではありません。

 もちろんルカは11章で「しつように頼めば...何でも与えられる」と言いましたが、この時でさえ「何でも」とは具体的に「聖霊」であると明らかにしています。ユダヤ戦争を機に激しくなっていくキリスト者に対するユダヤ教徒からの迫害のただ中で、聖霊の導きを必死で求めていたことが想像できます。文脈を追って読むことが大事です。

 今日のたとえ話の前後の文脈はどうでしょうか。前の部分は、すでに到来した神の国(支配)の確認とやがて完成する神の国(支配)への希望との間で、今落胆せず祈り続けることの大切さが強調されています。また後の部分には、イエスさまの眼差しを通して示された神の誠実さが並列されています。徴税人の祈りを聞き、金持ちの欠けを指摘し、十字架の死に復活をもたらすことがまさに神さまの働きです。しかしこれに無理解の弟子たち。イエスさまは最後に目の不自由な人をいやすことを通して、弟子たちの霊的な目をも開こうとされたのでしょう。

 主イエスがなさった救いの出来事の豊かさをぜひ見るために、私たちを憐れんでくださいと現実に落胆せず祈り続けて歩みたいと願います。                         〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

12人の働き

マルコによる福音書3章13-19節

2017年5月21日

 イエスさまが12人を立てた目的は、彼らを派遣するためであると同時に、ご自分と一緒にいるようにするためでした。それは、彼らがイエスさまを見て学ぶためですが、イエスさまにとっても12人が必要であったのかもしれません。

 立てられた12人は、実に多様な人たちです。この多様性は、教会にも受け継がれています。パウロの書簡からは、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、奴隷と、様々な人たちが、イエスを主と信じる信仰の下に集まっていたことがわかります。私たちの教会にも、様々な年齢、職業、背景をもった人間が集まっています。そのため、誤解や摩擦が生じることもあります。互いを理解し合うために努力も必要です。しかし、そこから学ばされ、聖書を読む視点を新しくされるのです。

 イエスさまは「派遣するため」に12人を立てました。派遣するとは、彼らを人々の間に送り出すことでしょう。彼らが派遣される目的は、「宣教するため」(イエスさまの言葉を人々に伝える)であり、「悪霊を追い出す権能を持つ」(人々を苦しめているものから解放する)ためでした。この働きは、教会にも託されています。一人では難しいことも、多様な人の集まる教会ならば、知恵を出し合い、力を合わせて、出来ることも広がるでしょう。東京北教会が、イエスさまからの任務を携えて、人々の中に入っていくことができればと思います。  〔副牧師 細井留美〕

page top ↑

主の食卓に招かれる

ヨハネによる福音書21章1-14節

2017年5月14日

 ペトロが漁に行くと言い出すと、他の弟子たちもついて行きました。弟子たちは 復活の主に励まされ(20:19以下)聖霊を受け、おそらく「あなたは人間を取る漁師となる」(ルカ5:10)という生前のイエスさまの招きを思い起こしていよいよ福音宣教に出かけたことなのでしょう。

 ですから「夜は何も取れなかった」(3)ということは、単に魚が取れなかったというより、福音宣教での挫折を意味すると言えます。依然として弟子たちは自分たちの力と経験に頼っていたのかも知れません。しかし主イエスはこのような弟子たちの様子を見守っておられます。弟子たちと共にいるとの約束を誠実に守ってくださる姿です。

 イエスさまは弟子たちのために魚とパンを用意し、陸に上がった弟子たちを責める代わりに、食卓に招かれます。弟子たちは何を考えていたのでしょうか。そこはティベリアス湖畔で、一人の少年が差し出したパン5つと魚2匹で5000人を満腹させた場所です。弟子たちは持っているものはわずかでも差し出して主の働きを信頼することこそが、福音宣教の核心であることに気づかされたのではないでしょうか。

 21章はユダヤ教からの迫害や、教会内で異端に惑わされていたヨハネ共同体の厳しい現実に対する主イエスの励ましでもあったと思います。この言葉を通して、私たちの福音宣教の歩みの厳しさとともに復活の主イエスが共におられる希望が与えられることを祈ります。〔牧師 魯孝錬〕

page top ↑

真ん中に立つ主

ヨハネによる福音書20章19-29節

2017年5月7日

 イエスさまの死後、ひどく恐れた弟子たちは部屋に閉じこもっていました。すると復活の主イエスが真ん中に立たれ、「平和があるように」と言われます。イエスさまの十字架の傷は弟子たちの恐れを覆うのに十分でした。イエスさまは弟子たちが復活を生きるように「使命」を与えられます。それは、互いの足を洗い合う生き方でしょう。

 イエスさまは弟子たちに息を吹きかけて聖霊を与えられます。これは創世記で「その鼻に命の息を吹き入れられ(て)…人は…生きる者となった」(創2:7)と、神が人を造られたように、イエスさまが弟子たちを新しく造り直され「赦し合う」生き方へと生かして下さることだと思います。

 復活体験に居合わせていなかったトマスは復活を疑います。8日の後、再びイエスさまが現れ、真ん中に立たれ、平和を願われます。8日とは、生まれた子どもが割礼を受けるのに必要な期間です。疑う者が信じる者へと変えられることを割礼に重ねていたのかも知れません。割礼は神の救いへの応答です。同様に復活の恵みに対する応答へと、トマスをはじめ私たちも招かれているのではないでしょうか。

イエスさまは常に、傷む者や虐げられた者を真ん中に立たせて真の解放を与えられました。主イエスはいまも最も小さな者の姿を通してわたしたちの前に立っておられます。教会はこれに気づき、その一人を受け入れ、共に生きることによって復活を生きるのです。〔牧師 魯 孝錬〕

        

page top ↑

ガリラヤ伝道

マルコによる福音書1章14-45節

2017年4月30日

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、「救いの時は成就した。神の国が今、目と鼻の先に来ている」というイエスさまの呼びかけに、応えて従います。

 シモンの家で、イエスさまが熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取って起こされると、熱が去ります。共同体を健康に保つために、病気の人に触ってはいけないという規定がありました。この規定によって病人は「汚れた存在」と見做され、病人に触れる者も汚れた者とされる危険がありました。しかし、イエスさまはそのことを承知の上で、「汚れた存在」だと見做されている人の痛みを、ご自分の身に負うことを選ばれたのです。苦しみから解放された姑は、イエスさまの弟子として歩み始めます。他者の痛みを自分の痛みとするイエスさまに、教会もシモンの姑のように従うことができればと思います。

 ご自分のところへやってきた病の人々、悪霊にとりつかれた人々をいやされたイエスさまは、宣教するために自ら出かけて行かれます。イエスさまは来る人を待つだけでなく、やって来られない人たちのところへ行くことも大切にされたのです。教会も人が来るのを待つだけでなく、私たちから出かけていく必要があるでしょう。様々な人々に出会うことで、教会は教えられ、新しく変えられていきます。何よりも、出かけて行った先で、すでに働かれているイエスさまに出会うことができると思います。                   〔副牧師 細井留美〕

page top ↑

エマオの途上で

ルカによる福音書24章22-35節

2017年4月23日

 イエスは十字架上で処刑されました。弟子たちには晴天の霹靂だったでしょう。急いでエルサレムを立ち去る二人。「暗い顔」とは、深い喪失感、迫る命の危険、師を見捨てた罪責に耐えられない想いが詰まっていたから知れません。しかし気づくといつの間にか同伴の一人。

 その人は二人と対話をされ、聖書全体を紐解いてくださいました。メシアの死と復活を説明されたのです。夕方になり二人はその人と食事をします。その人はパンを取り感謝の祈りをして裂いてくれました。パンを受け取った瞬間二人の目が開きます。イエスさまだ。一日共に歩んでくださったのだ。我らの悲しみに耳を傾けてくださったのだ。聖書の言葉に我々の心は燃えていたのではないか。イエスさまが復活したのだと分かったのです。不思議なことに悟った瞬間イエスの姿は見えません。

 見える見えないという境界を超えて二人の弟子は復活を体験したと思います。二人の体験から垣間見られる初代教会の復活信仰とは、聖書や主イエスの御言葉を「想い起す」ことです。この「想起」のチャレンジの中で主ご自身が復活を悟らせてくださったのでしょう。二人は時を移さず背を向けた共同体に戻ります。そこにはすでに主イエスの復活の喜びが満ちていました。共同体の回復です。

 不安と恐れの暗い時代に復活の喜びを分かち合う共同体として歩み続けたいと切に祈ります。             〔牧師 魯孝錬〕

page top ↑

復活信仰

ヨハネによる福音書20章1-10節

2017年4月16日
イースター

 4福音書著者たちは皆復活記事を伝えますが、その意図は違うようです。ことにヨハネはマグダラのマリアのみを復活の最初の証人として伝えています。また彼女は十字架の「そば」でイエスさまの死を見守ったとあります。「マリア」のヘブライ語表記はミリアム(「抵抗」の意)です。彼女はまさにミリアムのような女預言者だったのかも知れません。

 教会の初期の伝承によるとマグダラのマリアは復活の証人として初代教会の女使徒として重要な役割を果たしたと言われています。しかし聖書の中には、例えばコリントの信徒への手紙15章の復活信仰の記事や使徒言行録では彼女は一切登場していません。このような違いは初代教会が男性の権威を強調する過程の中で起きたことなのかも知れません。ルカは彼女は7つの悪霊に取りつかれていたと伝えたり、彼女を含めた女性たちの復活の知らせを「たわごと」と聞いています。彼女が罪深い女で娼婦だったという解釈は紀元後500年代に初めて登場したものです。

 ヨハネは復活の最初の証人であった女性たちの働きが、初代教会によって縮小及び削除されようとしたことに抵抗して、あえてマグダラマリアに焦点を当ててクローズアップしたのかも知れません。21章が後代に追加されたことを考えると、ヨハネの試みは失敗だったと言えるのでしょう。だからこそこのイースターに、初代教会の中で沈黙させられ、罪深いイメージを着せられ、歪曲させられたマグダラのマリアの姿を読み直したいと思います。               〔牧師 魯孝錬〕

page top ↑

エルサレム入城

ヨハネによる福音書20章12-19節

2017年4月9日

 イエスさまはいよいよエルサレムに登られる時、なぜろばの子に乗ったのでしょうか?

 群衆は過越際の祭りの最中、イエスさまがローマをかの昔のエジプト兵士たちのように溺れさせてくれると期待して歓呼したのかも知れません。私たちが時々生きづらい現実を主がからっと変えてくれることを期待するように。弟子たちは復活後、旧約聖書のゼカリヤ書を通してその意味が分かりました。

 預言者ゼカリヤは9:9でろばに乗って来る王を「高ぶらない者」(アニー)と描いています。貧しき者の意味です。また10節では王が「戦車」や「軍馬」を絶ち、「平和」(シャローム)を告げる使命があると言います。弟子たちはこの聖書箇所を通して主イエスの十字架の道が理解できたのでしょう。

  

ろばの子に乗って大勢の群衆に迎え入れられるイエスさまはどのような気持ちであったのでしょうか。前章の11章で死に支配される人間の限界に憤ったように、(ローマ)の力に恐れつつもその「力」に憧れていく人間の限界に憤り、また憐れんでおられたのではないでしょうか。主イエスは非暴力で抵抗し、十字架の死をもって死に打ち勝ちました。

私たちの現実でも「おやおや、ろばの子に乗って何ができるの?」という嘲笑いがあるのかも知れませんが、なお主イエスと共に一人ひとりが主に生かされる教会を建てていきたい、イエスの十字架に目を向け、復活を生きる教会を建てていきたいと願います。   〔牧師 魯孝錬〕

page top ↑

神の恵み/h3>

ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

2017年4月2日

 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16)。これは「信仰義認」というパウロの重要な神学です。これは異邦人伝道の働きが水の泡のとなりかかっていた岐路で生まれたものです。机上の空論ではありません。現場の苦悩から出て来たものです。

 ペトロはアンティオキア教会で異邦人キリスト者と食事をしていましたが、エルサレムから人々来た時には律法違犯者という非難を恐れて食事を共にしませんでした。パウロはペトロの行動を批判し、ただキリストへの信仰によって救われることを主張しています。

 ユダヤ人や異邦人という出自は選択不可能で、努力して変えられるものではありませんが、長い間ユダヤ人は異邦人を軽蔑してきました。イエスさまは十字架の死によってこのような敵意の中に和解を実現させられました。初代教会はこの土台の上にスタートしたはずですが、差別は依然としてありました。パウロは他ならぬこの差別と戦ったのでしょう。

沖縄の課題をはじめ、在日や、福島、部落差別、難民、格差社会などの現実から突き付けられる課題がたくさんあります。それぞれの課題に誠実に向き合いながら福音を吟味して分かち合って歩んでいきたいです。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く教会となることを心から祈ります。                         〔牧師 魯孝錬〕

page top ↑

主イエスに聞く

ルカによる福音書9章28-36節

2017年3月26日

 イエスは弟子たちと一緒に祈るために山に登られます。ゲッセマネの祈りを二人の天使が力づけたように(22:43)、モーセとエリヤがイエスと話をしています。イエスの姿が輝くようになったことは、モーセとエリヤの例で分かるように、神さまがイエスと共におられることを意味するのでしょう。このような書き方は一種の革命です。なぜなら当時はイエスが神を冒涜した罪で神に呪われて十字架につけられたと考えていたからです。実はイエスが変わったというよりは、弟子たちのイエスさまを見る目が開かれたことを伝えているのかも知れません。

 3人はイエスの「最期」について話をしています。最期とは死、つまり終わりを意味します。しかしこのギリシア語は「エクソドス」です。エジプトの奴隷であった人々を神さまが導き出される解放(救い)の出来事を意味する言葉でもあるのです。ですから、十字架の死とは、終わりではなく神の救いの業が始まる「新たな旅立ち」と受け止めているのです。復活や、昇天、再臨に対する希望が投影されている言葉です。

 気が動転して何をしゃべているのか分からなかった弟子たちに雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声が聞こえます。イエスがバプテスマを受けた時の言葉です。神ご自身がイエスを証している場面です。このイエスが切り捨てられた一人ひとりを受け止め、関係を回復させて共に生きるようにしてくださったことを、私たち教会は聞いていきたいと切に願います。〔牧師 魯孝錬〕

page top ↑

生きて働く神の力

Uコリントの信徒への手紙4章7−15節

2017年3月19日

 コリント教会のパウロの反対者たちが、パウロの弱々しさを批判すると、パウロは、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇(11:30)」ろうと反論します。

 イエスを救い主として信じることで、パウロが経験したのは、ありとあらゆる苦難でした。しかし、自分自身が最も弱くされているその時に、パウロは生きて働くキリストの力を実感したのです。パウロは「わたしは弱いときにこそ、強い」と告白します。なぜなら、パウロは「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる(13:4)」ということを、自分の身において経験したのです。パウロは悲惨な状況にある時に、神によってキリストと共に生かされていることを何度も実際に経験したのでしょう。

 「わたしたちはこのような宝を土の器に納めています(17)」とは、パウロ自身が経験した、人間の弱い肉体の内に、神の力が働くことを意味しているのだと思います。それは、具体的には、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(8)」ということでしょう。

 キリスト教は、「いつでもハッピー」という安定的な幸福を約束してくれるものではありませんが、苦しみの中で生きる力を与えてくれるます。パウロが経験したように、私たちにも苦難から立ち上がる力を与えてくれるのです。〔副牧師 細井 留美〕

page top ↑

悪人に手向かってはならない

マタイによる福音書5章38-48節

2017年3月12日

 今日の聖書箇所は、イエスさまが律法を廃止するのではなく、完成するために来たという言葉の延長線上にあります。イエスさまは「目には目、歯には歯」という律法、つまり復讐のエスカレートを防ぐための規定を、「悪人に手向かうな」と再解釈されます。イエスさまは抑圧を受けて苦しめられている民衆に対して、一切の抵抗は無用だと語っているのでしょうか。決してそうではありません。

 「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とは、手の甲で右の頬を打つ(=彼を動物のように扱う)相手に対して、「左の頬」を向け「わたしは人間である」と訴えることです。また「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着をも取らせてやれ」とは、裁判を通してあらゆるものを搾取しようとする相手に対して、裸で必死に抗うことです。また「あなたを徴用して一ミリオン行かせようとする者とは一緒に二ミリオン行け」とは、義務として1ミリオンの徴用を強いる相手に対して、こちらの自由でもう1ミリオンを歩くことによって不条理を訴えることです。暴力の連鎖を断ち切る、非暴力の抵抗そのものです。

 これは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、神さまの在り方に通じています。受難節の2週目、イエスさまの十字架の道を想起しながら、教会のあり方を考えていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

福音のためなら

コリントの信徒への手紙一 9章17-27節

2017年3月5日

 今日の聖書箇所は、「福音のためなら」何にでもなる、あるいは何でもやるとのパウロの言葉です。読み方によってはとても危険なニュアンスですが、おそらくこの背景には、コリント教会の中に救われたのだから「何をやっていもいい」という人々の信仰が、弱い信仰者を傷つけていることを心配する配慮があったと思われます。

 パウロは救われた者はその自由を兄弟を「生かす」ために用いることを進めているのです。決して兄弟を「つまずかせる」ために用いてはならないのです。パウロは様々な立場の人々と全く対立があろうとも、忍耐して対話し続けていく生き方を選び取ったのです。これは公の働きの前に40日間の荒野での誘惑を退けたイエスさまが示してくださって自由です。さらには十字架の道を怯むことなく進まれたイエスさまが選び取った自由と相通じるものがあります。

 パウロは自分が福音のために「すべてのものに対してすべてのものに」なったのは、「わたしが福音に共にあずかる者となる」ためだと告白します。「共にあずかる(シュン・コイノノス)」とは、接ぎ木された各々の枝が根から同じく養分を受けているように、キリストに結ばれて一つの体となった者同士が、主イエスによって共に生かされていることを意味しているのです。結局パウロはキリストがそうであったように、互いに仕え合う生き方を進めているのでしょう。

 私たちは主がなさる業を共に経験する群れです。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

さあ、向こう岸へ

ルカによる福音書8章22-25節

2017年2月26日

 イエスさまは嵐を静めました。恐怖でパニックになっている弟子たちを救い出したのです。イエスさまは「あなたたちの信はどこにあるのか」と言いながら、それでも、悲鳴を上げつつ、なお助けを求め続ける弟子たちに、イエスさまは脱出の道を与えられました。神の誠実、です。わたしたちを決して見捨てない神の誠実です。人の消えそうな信仰を覆う、神の信(エメト)が、嵐の中でこそ鮮やかに浮かび上がるのです。

 「シャローム」(主の平和)とは、温泉に浸かったようなのんびりした状態のことではなく、嵐の中で、「ひえ〜」と言いひっくり返されながらなお喜んでいる状態が、シャロームです。向かい風、嵐はだれにでもおこります。その中でどう立つのでしょうか。

  Life is not just waiting for the storm. Life is about how to dance in the rain. 人生は、ただ嵐を待っているだけのものじゃない。人生とは雨の中でどうやって踊るかだ。無力、小ささを思い知らされて、そこに十字架を担いでともに苦しみ涙してくださるイエス・キリストに出会い直すとき、静かな確信と希望、平安が、生まれます。

 私が東京北号に乗り込んだ理由の一つは、教会が大きな夢をもってチャレンジしていると聞いたからです。どんな主のわざに出会えるのか、教会が試され、強められていくのか、一緒に体験したくて、わくわくしながらこの船に乗り込みました。小さな力ですが、ご一緒に苦労と恵みを分かち合って、主のわざに感動したいと思いました。

同じように、期待をよせて、注目している教会、人々がいます。ともに夢を追い、主のわざを見上げていくプロセスが、恵みであり、励まし、力となるからです。この舟は、すでに東京北だけのものだけではなく、全国の教会の祈りの対象となりつつあります。東京北は希望の芽となるよう選ばれ、赦されているのです。

地域共同プロジェクトを通し自前の会堂を持つことは、多くのエネルギーを必要とします。嵐は何度来るかわかりません。現実を見据えつつ、恐れるときこそ神に立ち返り、ともに祈り、私たちにできること、今、自分にできることを探し、神の声に従っていきたいと願います。イエス様が招かれる「向こう岸」、次の世代へ、前を向いて漕ぎ出したいと願います。険しい道のりこそが、神の恵み、憐み、恵に満ちているからです。〔協力牧師 米本裕見子〕

page top ↑

命の息

創世記2章4-9節

2017年2月12日

 「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息(ネシャマー)を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」

 人間は土の塵のようにはかない存在ですが、神の息を吹き入れられて、つまり神との交わりによってじめて本当に生きるようになる、という人間理解、そして神理解です。背景は前10世紀頃の全盛期を謳歌していたダビデとソロモン王国時代です。戒めの性格が強い箇所です。

 しかし国の滅亡を経験する時代に入って、預言者たちは、この箇所も1章と同様に励ましとして読み直したようです。預言者イザヤは「息」(ネシャマー)を1章2節の神の「霊」(ルアフ)と同じく捉え、このネシャマーの動詞形を、「今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く(ナシェム))」とバビロニア捕囚からの解放のために「産みの苦しみ」に神の働きとして使っているからです。

 このように「命を生かす」神の働きは、創造物語だけではなく、創世記全体に奏でられてる重低音のように聞こえてきます。人は自分たちのはかなさに気づかず、高慢に振る舞い、神などいないかのように様々な悪をはからいますが、神はその中で虐げられている一人ひとりの命を生かすために、人と一緒に働き、計らってくださるのです。

        

「命を息」を吹き入れられ、今を生かされていることを心にかけ、「命を生かす」神の働きに参与していく群れでありたいと切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

混沌からの創造

創世記1章1-5節

2017年2月5日

 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2)。創世記1章は、国の滅亡とバビロニア捕囚という出来事が背景です。ですから混沌とは、国の滅び及びヤハウェの敗北という絶望であり、神の民が現実にバビロニア帝国の宗教や文化の支配下で生きざるを得ない困難さを意味しているのでしょう。混沌「形なく(トーフ)」、「むなしく」)とは、まさに生きるすべを見失った状態を表すのです。

 しかし、その上に神の霊(ルアフ)が働いていることに注目したいものです。神の働きが混沌を包み、「命を生かす」陣痛の中にある様子だと言えるからです。決して敗北してしまい、世の離れ去った神ではない。むしろ混沌の中にさまようご自分の民に生きる力と勇気を与える神なのだと、人々は告白しています。「光あれ」という言葉には混沌(トーフ)を良し(トーブ)へと変えられる神のシャロームに対する確信があったのです。

 ヨブは自分の人生から神の正義が消えたことを叫びます。暗闇です。ヨブは友達からの「お前こそ問題だ」という言葉に納得せず、絶え間なく闇を歩み、神に訴えます。神の創造世界に生きていながら。論争の最後に、ヨブは神の登場にあっさりと承服します。なぜでしょうか。ヨブは実は神が苦しむ自分自身と共におられ、自分の訴えを聞き、見、知っておられたその一点にあったのだと思います。

 混沌としたこの時代に、神が共におられ、一人ひとりの命を生かしてくださることを証言していきたいと切に祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

新しいぶどう酒

マタイによる福音書9章9-17節

2017年1月29日

 イエスさまは徴税人のマタイを弟子と呼ばれ、彼の友達と一緒に食事をされました。当時の徴税人はローマの手先と見なされ、さらには罪人だと決めつけられ、なかなか共同体から受け入れれてもらえなかったので、このようなイエスさまの行動は議論を巻き起こしました。

 ファリサイの人々は「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と聞き、ヨハネの弟子たちは「なぜ、あなたの弟子たちは断食しなのですか」と聞いているからです。イエスさまはご自分の行動が神の憐れみに基づいていることを示され、友なき者の友となってくださるイエスさまを共に喜ぶようにと招かれています。

 イエスさまは「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われました。新しいぶどう酒とは、当時の価値観を打ち破って友なき者の友となってくださる、イエスさまによってもたらされる喜びを意味するのでしょう。古い革袋とは、律法遵守を重んじるあまり人や命をおろそかにしてしまう、当時の本末転倒の価値観なのかも知れません。

 外キ協(外国人住民基本法制定を求める全国キリスト教連絡協議会)全国協議会・全国集会へ参加のために大阪に行って参りました。「在日」の存在に改めて気づかされ、否定できない彼らの「生」を通して自分の信仰が揺さぶられ、また自分自身が解放される体験をしました。弱くされている人々との出会いは、新しいぶどう酒を喜べる新しい革袋となると信じます。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

人間であるために

出エジプト1章8−2章10節 

2017年1月22日

 イスラエルすなわちヤコブたちがエジプトに移住して長い年月が経ち、新しい王はイスラエル人の脅威を煽り、彼らに強制労働を課し、さらにはその数を減らすために、生まれてくる男児殺害を命じます。初めは秘密裡に、二人のヘブライ人助産婦に。ところが、彼女たちは、神を畏れ、王の命令に従いません。二人は、それが神の前に正しいことなのかを考えたのでしょう。職業柄、命は神に与えられるものであることも知っていたでしょう。たとえ命の危険にさらされても、神によって与えられた命を奪うことはしてはいけない、そう考えたのでしょう。彼女たちは、神の前で思考し王に背くことによって、子どもたちをジェノサイドから救います。

 次に王は、ヘブライ人の男児を川に放り込むように人々に命じます。しかし、王の娘は、川に捨てられたヘブライ人の男児を憐れに思い、自分の子として育てることを決めるのです。彼女は他者の痛みを自分の痛みとすることのできる人間だったのです。

 神というこの世の価値観を相対化する、絶対的な存在を畏れる信仰と、その神が与えられる命への尊敬の想い、そして他者の痛みに共感する力こそが人間を人間らしくするのではないでしょうか。今、世界で起きている様々な問題には、個々の命への尊敬の念が欠如しているように思います。世間の流れに抗って、一人ひとりの命を大切にするために、神を畏れ、他者の痛みを想像し思考することを大切にする「人間であり続ける」ことができればと思います。〔副牧師 細井 留美〕

page top ↑

彼らも一つに

ヨハネによる福音書17章20-26節

2017年1月15日

 ヨハネは他の福音書とは違って十字架の受難が迫ってきたゲッセマネの園でのイエスさまの祈りを詳しく伝えます。核心は弟子たちが一つとなることです。さらに弟子たちの言葉によってご自分を信じる人々が一つとなることを祈っています。

 イエスさまはご自身と神が天地創造のはじめのときから一つであったように彼らが一つとなることを祈ります。ヨハネの教会は神の子が人となられて人々の間に宿られ、共に生きられたことを通して独り子の恵みと真理に満ちた栄光を見た信仰告白によって一つとなった群れです。

 「彼らも一つに」とは、体の各部分がつながっているような一致を意味します。キリストは教会の頭であり、一人ひとりはその体の各部分だからです。この一致の一番の特徴は、「痛みを共に感じる」ことです。血統や、民族、国家、組織など、ありとあらゆるボーダーを乗り越えた全く新しい基準がここに十字架を背負ったイエス・キリストによって示されているのです。自国中心主義が広がり、愛国心が強調される時代に、小さくされ痛みつけられる人々がこれまでよりも急速に見えなくされていくのでしょう。教会が誰と一緒に「彼らも一つに」と祈られたイエスさまの福音を分かち合っていくのか、大きな岐路に立たされています。

 イエスさまの執り成しの祈りは聖霊の働きを通して続けられていることを信じます。私たちは罪深い時代を生きていますが、善き力に囲まれているのです。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

暗闇に輝く光

マタイによる福音書4章12-25節

2017年1月8日

 カファルナウムとは、慰めの町という意味です。イエスさまは中心から追いやられた人々の苦しみを共に苦しまれました。貧しい者たちを弟子と呼ばれ、神の国を伝え、悪霊に取りつかれた者や病人をいやされました。まさに「慰め(ナハム)」であり、新しい共同体の始まりです。

 マタイはこのようなイエスさまの働きとそれによって始まった新しい共同体はイザヤ書の言葉の実現だと言っています。なぜなら紀元前8世紀にアッシリア帝国の支配に反対したアラムや北イスラエルからの攻撃(シリア・エフライム戦争)を、南ユダはアッシリアの力を借りて退治したのですが、まさに戦場となり苦しんだガリラヤ湖畔の町々はやがて神の回復を与えられることが語られていたからです。

 イザヤはアッシリア帝国に苦しめられながらもその帝国の力に憧れていた時代に、「神の支配」を伝え、その神の支配を生きるようにと促した預言者です。そのような神の支配に生きる共同体が700年の年月を経て、ローマ帝国の支配とエルサレムのヘロデの権力の時代に、ここカファルナウムにおいてイエスさまによって今始まっていることは、旧約聖書を知っているユダヤ教の人々に大きな慰めとチャレンジを与えたものだと考えられます。

 このようなイエスさまの働きは今も「弁護者(パラクレートス)」(ヨハネ14:16)、すなわち主イエスが与えてくださった聖霊によって実現されていることを信じます。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

新たな旅立ち

マタイによる福音書2章1-12節

2017年1月1日

 東方の占星術の学者たちは星を見て旅立ちます。その星はすぐ見えなくなったようです。彼らがたどり着いたのはヘロデの宮殿だったからです。新しい王は宮殿で生まれるとばかり思っていたのでしょう。しかし番地数が間違っていたのです。マタイは彼らの失敗に、当時の人々が軍事的なメシアを待ち望んでいたことや、自分たちさえもイエスさまが革命を起こすに違いないと期待を高めていたことを重ね合わせていたのかも知れません。

 「ユダヤの王は、どこにおられますか」という彼らの問いに、ヘロデをはじめ、エルサレムのすべての人々が「不安を抱いた」(3)のです。ローマの植民地支配下で権力を手に入れたヘロデは、神殿補修工事を通して民衆に自分こそがメシア(救い主)であるとアピールしていたし、この時の権力に協力した宗教指導者たちは見返りとして宗教行為を保障されていたのです。パックス・ロマーナ(ローマの平和)に安住していたことによって多くの小さな者が苦しめられていたのです。

 エルサレムを後にしたベツレヘムに向かってはじめて星は再び現れて先立って進みました。方向性を再発見した彼らは、イエスにひれ伏し、贈り物を献げて権力の不条理に抵抗しました。へりくだり、小さい者と共に歩まれたイエスさまの教えや生き方こそがマタイ共同体にとってはまさに星そのものであったのでしょう。私たちもこのような信仰告白をする一年の歩みであることを祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑

主との対話に生きる

創世記18章20-28節

2017年7月2日

 神さまはソドムの町を滅ぼすと決断されました。アブラハムはこれに「正しい者がいたら滅ぼされますか」と異議を申し立てます。神さまは「町全部を赦そう」と答えられます。やり取りは何度も繰り返され、その都度神さまは「滅ぼさない」と言われます。「あれ?神の決断ってこんなにすぐ変わるものだったのか」と疑問を抱く人もいるでしょう。

 私はこのやりとりが「対話」に見えます。すべてを滅ぼすという神さまの決断に対する、一人の人間の戸惑いと揺れ動き、そして神の真意を知りたいという叫びに聞こえてくるからです。対話の実りもなくソドムは滅ぼされます。では、この対話は一体何の意味があったのでしょうか。盲目的な信仰への戒めではないでしょうか。神さまの決断であったとしても「違う」と言える空間が聖書にあることが不思議な気がします。

 神さまは命を生かすお方です。だからこそ、神さまの決断であったとしても命を滅ぼすという命令に対話の余地はひらかれていると思います。むしろ神さまの側がこの対話を喜び待っているのかも知れません。新約聖書の福音書にはシリア・フェニキアの女性の話が出てきますが、彼女は「子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と断るイエスさまに、食卓の下の小犬でも子どものパンくずはもらう、と対話に挑みました。

 今の時代に神さまとの対話に生きる信仰とは、他の人々と一緒に聖書を読み、相手の読み方に心の耳を傾ける姿勢かも知れません。その輪において私たちは解放を味わうのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

page top ↑