2018年のメッセージ

「神の前に生きる」

2018年11月18日

創世記32章23-32節

 兄のかかとをつかんで生まれたヤコブ。兄と父から長子の祝福を騙し取ったため叔父の家への逃亡生活を余儀なくされました。今度は叔父に騙されつつも妻子に恵まれ、財産を築き、20年ぶりに帰郷する場面です。心に伏せていた兄への恐怖が蘇り、独り悩みます。 

       

ヤコブは夜通し「何者か」と格闘し、腿の関節を打たれますが、「何者か」は神で、ヤコブは神さまから名前を変えられる祝福を受けます。人を騙し騙されつつ必死に生きてきた人生を象徴する「ヤコブ(押しのける)」が、神が共におられ神がたたかってくださったことを意味する「イスラエル(神が闘う)」へと変えられたことは意味深長です。

ヤコブは格闘したヤボク川辺を「ペヌエル(神の顔)」と名付けます。これまで何とか自分の力で頑張ってきた人生が、実は神さまに守り導かれてきた、つまり神さまの前に生きる人生であることに気づかされたのではないでしょうか。足を引きずるヤコブの上に昇る太陽の光。前日の恐怖を乗り越えて和解へと進められる力を得ていたと思います。

 

地域協働プロジェクトが第64回連盟総会にて全国諸教会の励ましと期待の中で承認されました。31年の東京北教会の歩みを導かれた神さまに気づかされます。これからも自分たちの力ではなく、神の前に生きていきましょう。多文化共生という宣教課題への取り組みが、諸教会を励まし励まされるプロジェクトとなることを祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「神の国を生きる」

2018年11月11日

マタイによる福音書18章1-9節

 「天の国では誰が一番偉いのでしょうか?」という弟子たちの質問にイエスさまは子どものように自分を低くするようにと戒められ、「小さな者一人」を受け入れることを強調されました。そして「小さな者一人」をつまずかせることを厳しく戒められました。

 

イエスさまは「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)という言葉を持って公の働きを始められ、「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、...あらゆる病気や患いをいやされ」(4:23、9:35)ました。当時の宗教価値観によってダメだと決めつけられた人々と共に歩まれたのです。主イエスの生き方に「神の国」は示されているのです。

 

マタイの教会(共同体)はイエスさまの十字架の死と復活を通して、「小さな者一人」を大事にしていくことこそ、イエスさまの体である教会の使命であると気づかされる一方で、実際には小さな者一人がつまずせられ、信仰を失い、教会から離れることも起きていたようです。しかし矛盾を抱える欠けの多い「教会」に、なおイエスさまと共に「神の国」を実現していくようにと招かれているのです。

いよいよ地域協働プロジェクトが第64回連盟定期総会で審議されます。小さな者一人を大事にしていく歩みが総会で分かち合われ、励まし励まされるプロジェクトとなっていくことを祈ります。  〔魯 孝錬〕         

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「わたしは世の光である」

2018年11月4日

ヨハネによる福音書8章12-20節

「わたしは世の光である」。これが真実である理由は3つです。  

一つ目は、「自分が何者なのかを知っている」からです。イエスさまはご自分が神さまの独り子であり、この世が救われるために神さまから遣わされたものであることをよく知っておられました。まさにイエスさまは、天地創造の時の「光あれ」と命じられた神さまの「言」なのです。

 

二つ目は、「わたしは誰をも悪いと言わない」からです。イエスさまは人々を自分たちの闇に気づかせ、一人ひとりを光の中で生きるように導かれます。前の段落でも「姦通の女性」の話しで「罪を犯したことのない者が、まず女性に石を投げなさい」という言葉は、宗教指導者たちや群衆に自分たちの行動を省みさせ、女性も光の内に生かしてくださったのはそのよい例です。

 

三つ目は、「父はわたしと共にいる」からです。ユダヤ人たちに排斥され、弟子たちや人々に理解してもらえず見捨てられていく状況の中でも、イエスさまは神さまと共にいるという一点がぶれませんでした。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしはいつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29節)とあるとおりです。

 

イエスさまは、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12)と宣言されます。この招きに答えていきたいものです。〔魯 孝錬〕

        

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「主は避けどころ」

2018年10月28日

詩編36編6-11節

 詩編36編は、主を「避けどころ」と歌っています。召天者記念礼拝は、先に天に召された者と残された者とが、共に主の「翼の陰」に身を寄せ、主から与えられる励ましと復活の希望にあずかる時です。

 詩人はおそらく大変厳しい状況のただ中で、神さまの慈しみ(ヘセド)と真実(エムナ)、つまり神さまの愛に自分が無条件に受容されていることを信頼しています。神さまは苦しめられ、弱くされた者を支え、「命の尊厳」を取り戻し、自由に生かしてくださるからです。詩人は神さまの恵みの御業(ツェデカー)とさばき(ミシュパト)が、現実の様々な矛盾や不条理を正してくださることに望みをかけています。

 このように、「避けどころ」とは、神さまの慈しみと真実に基づいて、恵みの御業とさばきが行われている、いわゆる「神の愛の支配」を意味していると言えます。すべての命は神さまに創造されたものですから、神さまによって保たれ、導かれています。この光(オール)によって、私たちは神さまが命の泉(マコール)という、「光(オール)」を見ることができるのです。神の愛の支配は、生と死との間の断絶をはるかに超えて、復活の希望をもたらします。

 私たちはこのような神の愛の支配の中で、先立たれた一人ひとりが生きていることを信じます。またイエスさまによって示された復活の希望によって神の前に共に生きているのです。〔魯 孝錬〕

        

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「立ち上がって行きなさい」

2018年10月21日

ルカによる福音書17章11-19節

 裸同然の一群が道端で大騒ぎです。自分や隣の人の体をしきりに見回しています。いつもなら人に見られまいと隠れるのが常だったのに。もしかしたら病気が治ったのかも知れません。天を仰いで叫んだり、信じられないという顔で何度も体を確かめたりしています。確信ができたのか、彼らは行く道を急ぎます。一人だけが道を引き返し、見る見る群れから遠くなります。

 いつから病気だったのか、もう忘れた。発病した途端に、不浄者とされ、町から追い出され彼らと一緒に住むようになった。患者同士の隔離生活は自分が生きているのか死んでいるのか分からない日々だった。家族に会える希望はとうに失せた。一番しんどかったのは、自分の出自のために「混血」「偶像崇拝者」と差別される日常。

 道を引き返したサマリア人はイエスさまのもとにひれ伏しました。彼の痛みが痛いほど分かるイエスさまは「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言され、彼が奪われてきた「命の尊厳」を証しして生きるようにと語りかけました。この招きは、これからの彼の歩みにイエスさまご自身が共にいることを示された言葉でもあります。だからこそイエスさまは十字架の道を引き受けたのではないでしょうか。

このようにしてイエスさまはユダヤ人とサマリア人との間にある壁を取り壊し、「和解」に生きることをチャレンジしています。イエスさまの救いに答えて和解に仕える教会となることを切に祈ります。     〔魯 孝錬〕

        

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「見えなくされた痛み」

2018年10月14日

マルコによる福音書3章1-6節

 イエスさまが会堂に入られると、律法に違反して、安息日に片手が萎えた人を癒すかどうかに人々は注目します。人々の関心は、イエスさまが律法を守るか、守らないかに向けられており、片手が不自由な人の持つ痛みは、彼らの目には映っていません。

 イエスさまは手が萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われます。それは、彼のことをイエスさまが律法違反をする対象としてしか見ておらず、その苦しみに目を向けようとしない人びとに、彼の痛みに気づいて欲しいという願いのためでしょう。

 と同時に、手が不自由であることから来る差別や偏見のために、小さくなって生きてきたその人に、「堂々と生きなさい、あなたはそのままで神さまから祝福された存在だ」ということを伝えたかったのではないでしょうか。

 律法を守ることだけが優先され、律法が本来尊重しようとした人間の命がないがしろにされ、見えなくされている痛みがあることにイエスさまは心を痛められて、彼の手を癒されます。イエスさまに言われて、手を伸ばした時、彼は手の不自由さだけでなく、これまでの痛みからも解放されて、新しい命をいただいたことでしょう。

 

 私たちの生きる世界にも見えなくされた痛みが、沢山あります。教会は、ひとりひとりが、人間としての尊厳を守られて、自分らしく生きることのできる社会を目指したイエスさまに従っていきたいと思います。〔細井 留美〕

        

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「わたしは命のパンである」

2018年10月7日

ヨハネによる福音書6章32-35節

 6章は「5000人を食べさせる物語」から始まっています。イエスさまは飢えている人々を憐れみ、満たしてくださいました。これはエジプトから救い出された先祖が荒れ野で飢えを訴えた時に、マンナを天から降らせて人々を満腹させた神さまの働きと重なります。

イエスさまは「わたしは命のパン」であると宣言され、おそらく「一人の少年が差し出したわずかな物で5000人が満腹したのを見たのか。ならば、わたしが自分自身を差し出し、神さまがあなたがたを新しく生かしてくださることをもよく見なさい」と言われたのではないでしょうか。

こういう意味で「命のパンを食べる」とは、イエスさまからの「わたしを信じ、わたしに聞き従いなさい」という呼びかけであり、「わたしのもとに来なさい、そしてわたしに学びなさい」という招きであるのでしょう。また「わたしの言動や、わたしの生き方は、きっとあなたがたの中に消化され、肉となって血となり、あなたがたを全く新しいものに変え、主と共に歩ませる」という主イエスの決断が込められていると信じます。

主イエスはユダヤ教が失くした喜びを取り戻し、商売の場に転落した神殿を一掃して、神さまと人との交わりを回復してくださいました。矛盾な世界の只中で、私たちはこれを証していきたいと切に祈ります。  〔魯 孝錬〕

        

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「主にひらかれていく」

2018年9月30日

創世記11章1-9節

 バベルの塔の出来事をご覧になった神さまは、言葉を混乱させ人々を散らされました。「散らす」とは、旧約聖書の中では大体神さまの裁きとして使われる言葉ですが、これは人々の何に対する裁きだったのでしょうか。

 一言で言うと、「多様性の否定」に対する処置だったのではないかと思うのです。前の10章には洪水後ノアの息子たちの系図が記されていますが、4,20,30節に「氏族、言語、地域、民族に従って」住むようになったと、神さまが再建した世界が多様性に富んでいたことが分かります。

 しかし、そのような多様性に満ちた世界は、ハムの子孫にニムロドという勇士がバベルやアッカドなどのシンアル地域に定着していく中で、軍事力によって一つにされていたことが伺えます(10:8-9)。まさにバベルの塔はシンアルの地で起きた出来事です。背景にバビロン帝国の支配があるとも考えられます。1節の「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1)とは、実は多様性が踏みにじられた人々の叫びだったのでしょう。

 人々は神さまに散らされて、違いを認め合って共に生きることを学んでいくことになるのですが、ぐっとズームアップされてアブラハムの物語が始まるのです。神さまの「散らす」行為は、主イエスを頭とする体の各部分のように認め合う時代の到来まで続いたのが聖書の証だと信じます。差別と排除が正当化される時代のただ中で、教会は主によって多様性が認められていること、そして共に生きることを証していきたいと祈ります。  〔魯 孝錬〕

        

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「思い悩むな」

2018年9月23日

マタイによる福音書6章25-34節

 「思い悩むな」というイエスさまの言葉には、自分の力(お金、マモン)ではなく、神さまを信頼して生きる新しい生き方が示されています。

 イエスさまは思い悩みに埋もれている人々の目を「空の鳥」と「野の花」に向けさせます。当時、「空の鳥」(=カラス)は忌み嫌われ、「野の花」(=アザミ)は今日生え明日は炉に投げ込まれる無価値なものと思われていました。しかし神さまはそれらさえも養い、装ってくださるのだ、もしそうであるなら、神さまに尊ばれるあなたがたはなおさら神の養いと守りに支えられるに違いないと、励ましを与えたのでしょう。

 実際、ガリラヤという辺境地で生活する人々は、常に中心から忌み嫌われ、無価値なものだとさげすまれていました。だからこそ「思い悩むな」というイエスさまの言葉は、自尊心を失っていた人々を大いに勇気づけていたに違いありません。旧約聖書の出エジプト記で神さまはエジプトで奴隷生活を強いられる民を救おうと、燃え尽きない柴の中でモーセに語りかけられます。「履物を脱ぎなさい」と。まさに神への信頼が求められていたのでしょう。わたしはこの言葉が「思い悩むな」に通じていると思います。「神さまが共にいる」ことが前提であるからです。

「思い悩む」時にこそ、インマヌエルの主に信頼しましょう。〔魯 孝錬〕

        

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「試練を共に担ってくださる神」

2018年9月16日

ダニエル書3章1-30節

 ある時ネブカドネツァル王は金の像を造り、国中の高官にひれ伏して拝むことを命じます。「信教の自由」が保障されず、強大な権力の前に金の像を礼拝するバビロンの高官たち。しかし、ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは金の像を拝みません。そのことに激怒した王は、3人を燃え盛る炉の中に投げ込みます。ところが、王は4人の者が火の中を自由に歩く姿を見て驚き、彼らの神が御使いを送ったことを理解し、「まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない」と神を称えます。

 この物語は、ネブカドネツァルの時代に本当にあった迫害ではなく、ユダヤ人が厳しい迫害を受けていたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世の時代に書かれたものだと言われています。「燃え盛る炉」は、当時の迫害の様子を象徴的に表したものでしょう。「わたしたちのお仕えする神は、燃え盛る炉や王の手から必ず救ってくださる。そうでなくとも、わたしたちは王の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決してしない」という3人の言葉は、アンティオコスの下で迫害を受けていた人々の信仰告白なのです。激しい迫害の中で御使いによって救われ、迫害者がまことの神の存在をみとめるようになるダニエルの物語は、当時厳しい迫害の中にあった人々にとって、大きな励ましであり、希望だったのです。〔細井留美〕

        

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「命を生かす神に従う」

2018年9月9日

出エジプト記1章15-22節

 今日の聖書箇所は、二人の助産師がエジプトのファラオ王の殺人命令に従わず、「命を生かす」神を畏れ、神の働きに参与した物語です。二人の助産婦の名前は、「シフラ(美しい)」「プア(輝く)」という意味ですが、ここに神から与えられた命の尊さが象徴的に現れているのでしょう。

 「神を畏れる」とは、神さまから造られた「命」の尊さを最優先させ、命が軽んじられるいかなる脅威にも果敢に立ち向かう生き方だと思わされます。二人は助産婦です。日々女性たちの出産に立ち合い、命の尊さを実感していたからこそファラオの命令に屈せず命がけて行動を起こすことができたのでしょう。

 王の命令はエスカレートして、我が子が男の子ならナイル川に捨てければならない危機に直面します。しかし神は一人の赤ん坊を川から引き上げる出来事を、母親とお姉さん、そしてファラオの王女と共に成し遂げられます。時代は不条理に満ちていた上に神さまの救いが全く見えない暗闇の時代でしたが、聖書の物語を通して私たちは、そのような残酷な時代に神さまの憐れみによって神さまの救いが微力な力しか持っていない人々と共に始まっていることを知るのではないでしょうか。

 神さまは自分たちのわずかな力を通して、今の時代に必要な救いをはじめておられると信じ、命を生かす神に従っていきましょう。〔魯孝錬〕

        

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「主イエスに支えられて」

2018年9月2日

ヨハネによる福音書1章15-23節

 イエスさまの死後70余年、初代教会ではキリストの神性が強調されたあまり、イエスさまが人であったことへの懐疑を抱く主張が広がりつつあったようです。ヨハネはイエスさまの生前の歩みを思い起こしつつ、まことの人でまことの神であるキリスト(=救い主)に目を向けています。

 1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあるように、キリストは神の言葉として天地創造の働きを担われ、この世のすべてはキリストによってなったのです。そして今なおキリストに支えられているのです。イエス・キリストはその死と復活を通して人に新しく生きる道を開いてくださったまことの神なのです。

 また、14節に「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」とあるように、天地創造を成し遂げた言葉は人としてこの世にお生まれになり、ユダヤ教や律法によってあらゆる関係を絶たされ、罪人と決めつけられた人々を赦し、受け止め、新しく生かし、共に歩まれ、支えてくださったのです。

 人々はイエス・キリストによって命を与えられ、キリストによって今なお支えられているのですが、キリストを認めず、受け入れません。これは私たちの姿でもありますが、主イエスは、命のパンや、世の光、羊の門、良い羊飼、復活と命、道と真理と命、ぶどうの木として私たちを支えてくだっさっているのです。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストの場『教会』」

2018年8月26日

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

 教会はキリストの働きが世に行なわれる媒体としての役割を担っているとエフェソ1章23節に記されています、ギリシャ語でプレーローマという言葉は「すべてにおいて、すべてを満たしている方の満ちておられる場」を意味すると申せましょう。

 「キリスト」の意味するところは、「油そそがれた」であり旧約のメシアであり、新約ではキリストと呼んでいるのです。従って「イエス・キリスト」の意味は「イエスはキリストである」という信仰告白を意味するのです。この表現は身体的表現でなくキリストこそ体という比喩的な表現であると言えるのです。即ちプレーローマ「すべてを満たしている方の満ちておられる場」こそがパウロの特に愛する表現であると申せます。

私たちの教会のミッション・ステートメントを要約しますと、1.神に喜ばれる礼拝、2.恵みを分かち合う、3子どもを愛し受け入れる、4.地域に仕え地域から聞く教会の形成を目指す。

あたかも与えるのみの教会でなく、教えられ聞きとっていく教会のあり方と社会に育てられていく教会へと成長していくことにこそキリストの場があると言っているのです。〔田代 敬〕

        

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「平和への道」

2018年8月19日

出エジプト記20章1-17節

 神さまが、イスラエルの人々をご自分の民とされる契約を結ぶにあたり語られた十戒は、エジプトで過酷な労働を強いられ、人としての尊厳を奪われていたイスラエルの人々が、これから人間らしく生きていくために与えられた言葉であると思います。

十戒の前半は、神のみを神とするという戒めであり、後半は隣人を大切にすること、すなわち他者の人権を尊重するようにという戒めです。私たちが真の救いの神以外のものを神とするならば、そこでは誰かが犠牲にされ苦しみます。十戒の前半、神のみを神とするとは、人間が人間らしく生きるため、すなわち人間としての尊厳を守るために非常に大切なことです。そして、後半の戒めは、他者の尊厳を守るために必要な戒めです。

神さまは、神のみを神として自分自身の尊厳を守ると同時に、他者の尊厳を守ることを十戒で命じられたのです。これこそが、人間が人間らしく生きる道であると。そして、人間が人間らしく生きる道こそが、平和への道です。戦争は、人間の尊厳を踏みにじる最たるものです。私たちが人間の尊厳を守る意識(=人権意識)を高めていくことは、人間の尊厳を奪う戦争に対して、断固反対する力になっていくのではないでしょうか。〔細井留美〕

        

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「剣とイエス、そして平和」

2018年8月12日

マタイによる福音書10章34-39節

 イエスさまは「わたしが来たのは…剣をもたらすために」(34)と言われます。「剣」とは、家族との「敵対」、つまり共同体の宗教価値観との敵対を意味するのでしょう。武力闘争ではありません。暴力については「剣を取るものは皆、剣で滅びる」(26:52)とはっきり禁じているからです。

 イエスさまは5-7章の山上の説教で当時のユダヤ教の価値観を翻し、8-9章でユダヤ教が罪人と決めつけていた人を赦し、律法によって共同体から排除されていた病者をいやし、彼らと一緒に食べ、口と目の不自由な人を解放されました。イエスの言動は当時の宗教価値観と先鋭な敵対を巻き起こし、この緊張がここで言われる「剣」に象徴されるものです。

 そのイエスさまが弟子たちを派遣し彼らもまた敵対に遭うことが語られつつも、人々が弟子たちを迎え入れない、耳を傾けないのは、弟子たちのせいではないと励まし、また「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と弟子たちがどれほど神さまに大切にされているのかを語り、「恐れるな」と憐れみ深い眼差しが示されているのです。

 今日日本社会においてキリストに従う道とは、ユダヤ教が見せた敵対よりは、むしろ「無関心」に直面することが多いのかも知れません。無関心は対象がぼやかされていて、打ち破りにくいものでしょう。主の伴いを信じ、命の尊厳を取り戻してくださったイエスさまを証していく群れでありたいと祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「わたしの隣人とはだれですか」

2018年8月5日

ルカ10章27-29節(25-37節)

 「わたしの隣人とはだれですか」。受け身のようで自分中心な言葉です。自分は円の中心にいて、隣に立つ人を、「隣人か、隣人でないか」を裁く(振り分ける)のです。この質問をした律法学者は、「同胞」のユダヤ人だけが隣人と考えていました。それが当時の「常識」でした。イエスさまはその「常識」をくつがえすように譬え話を始めました。「善いサマリア人」の話です。当時、ユダヤ人とサマリア人の間には大きな壁がありました。しかしこのサマリア人は、瀕死のユダヤ人を助けたのです。話を聴いていたユダヤ人たちはどう感じたでしょうか。常識、当り前がガラガラと崩されたでことしょう。

 なぜこのサマリア人は、ユダヤ人を助けることができたのでしょうか。33節の「その人を見て憐れに思い」という言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイ」です。はらわた、腸がちぎれるような感覚です。これが彼の「隣人となる」行動の原点でした。イエスさまも、この深い痛みへの共感に覆われ涙を流されました。これがイエスさまの生涯の宣教活動の原点だったのでしょう。私たちは、隣人の痛みや苦しみを感じることができるでしょうか。「多文化共生」は私たちの大きなチャレンジです。

 他者の「痛み」を100%知ることはできません。でも、その人をよく理解しようとすることは、自分の意志です。相手の状況を知るとき、より深く近く他者の「痛み」を自らのことと感じ行動に押し出されていくしょう。弱くされた人々の側に立ち続け「共に痛み」苦しみ、癒しと解放の道を教え続けたイエス。その死と復活によって、私たちはすでに永遠の命を得るものとされていると、パウロは語ります。私たちは「神との和解」によって、新しい希望の中に生かされ神に応答するものとされています。すべての命と和解し互いを尊重しあって互いが自分らしく生きる「共生」は「神の国」への実現であり、神の願いです。自分を中心とした円を描いて「私の隣人はだれか」と問うのではありません。私たちが新たな人として、この円から出て行き「隣人」になっていくのです。〔米本裕見子〕

        

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「神の夢」

2018年7月29日

使徒言行録10章1-16節

 マーティン・ルーサー・キングJr牧師は「私には夢がある」と訴え、人が肌色に関係なく平等に生きられる世界を夢見ていました。私はキング牧師が見ていた夢は神さまの夢でもあったのだと思います。

 今日の聖書箇所にも、外国人も等しく福音にあすかれる、神さまの夢が語られています。カイサリアにいた外国人のコルネリウスにはヤッファにいるユダヤ人のペトロを招くようにと、またペトロには律法で禁じられている動物たちを食べるようにと語られているからです。二人は出会い、福音の自由さを喜び合うことが出来ました。

ヤッファとカイサリアの地名に目が留まります。なぜなら、霊に導かれてエチオピアの宦官(異邦人)と出会い、律法で禁じられていた人にもバプテスマを授けたフィリポは、アゾトからカイサリアまで伝道していく(8:40)途中で、おそらくヤッファも通り過ぎたであろうからです。フィリポはヤッファでは差別されていたで皮なめし職人シモンとも、カイサリアでは異邦人コルネリウスと出会っていたのでしょう。と思いますと、迫害を経験したフィリポは追われながらも次から次へとイエス・キリストの福音が律法や、民族、差別の枠を乗り越えて広がっていく現場を体験していたと思われます。

エルサレム教会は自分たちが福音宣教のリーダーシップを取っていると思っていましたが、逆に聖霊の働きによって広げられていくことについていったことと思います。私たちもこのように聖霊の御業に目が開かれつつ、自分たちが新たにされていくことを楽しみにしていきたいものです。〔魯孝錬〕

        

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「分けても尽きない粉と油」

2018年7月22日

列王記上17章1-16節

 預言者エリヤは、北イスラエルの首都サマリアにバアルの神殿が築かれ、主なる神ヤハウェから遠く離れていた時代に登場します。エリヤは、アハブ王に神の言葉を伝えます。「わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」。バアルが雷と雨を地上にもたらす豊穣の神として信仰されているのに対して、ヤハウェこそが真に自然を支配する神であることを知らしめる言葉です。

 主は、エリヤにケリト川のほとりに身を隠すように命じ、干ばつの影響がケリト川にも及ぶと、「立って、シドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは、一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と告げます。エリヤがサレプタでやもめに出会い、声を掛けると、明日からは食べる物がなく、あとは死を待つしかない彼女の困窮が明らかになります。シドンは海上交易で栄える町ですが、社会的に弱い立場に置かれた人々のことは、顧みられていませんでした。バアルの下にある、弱者の現実が明らかになります。

 しかし、主は、やもめに日々食べるものを与えることを約束し、また、それを同じく命の危機にあるエリヤと分け合うようにと促します。やもめが主の言葉を信じて、わずかな粉と油を分け合った時、壺の粉と瓶の油は、尽きることがなく、彼女の家族とエリヤは、食べ物に困ることがありませんでした。主から与えられたものを、惜しみなく他者と分け合っていく時、私たちは尽きることのない神さまの恵みを実感することができるのではないでしょうか。〔細井留美〕

        

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「重荷を担い合う」

2018年7月15日

ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節

 今日の聖書箇所は、パウロがガラテヤ教会に宛てた手紙の最後の部分です。ガラテヤ教会が違う福音、つまりキリストを信じる信仰だけでは不十分で、割礼や律法を守らなければならないという教えに翻弄されている危機に直面した際、パウロは人々がキリストを信じることによって聖霊を受け、義とされたことを想起させつつ、末筆のところで聖霊に従い、教会を大事にして生きることを切に願っています。

 言い争いが激しくなっていく教会の中で、パウロは2節で「互いに重荷を担いなさい」と、また5節で「めいめいが自分の重荷を担うべき」だと、教会の交わりの中では「互いに」、そして独りになった時は「めいめいが」、重荷を担っていくようにと勧めています。これには「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい」というイエスさまの招きへの応答する群れの生き方が示されています。主イエスが共に重荷を担って歩んでくださるからこそ、従えることです。

 ガラテヤ教会の「愛によって互いに仕えて」いく歩みには、救いに相応しく生きられない自分たちへの「失望」や、違う福音との戦いと迫害に「弱り果てる」ことも予想されます。しかし、パウロは「実が結ばれて、刈り取る時が来る」という信仰を伝えています。主イエスの支えによって教会の種まきは必ず実を結びます。たとえ自分たちの生きている間にその実を目にすることができなくとも。〔魯 孝錬〕

        

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「我々を救う神」

2018年7月8日

創世記20章1-16節

 妻のサラを妹だとウソをつく夫のアブラハムの姿を皆さまはどのように読んでいますか。このエピソードは創世記に3回も記されています。12章と20章ではアブラハムが、26章ではイサクがウソを言います。ゲラルの王様に召し入れらたサラを危機から救うのは神さまでした。おそらくこれは自分たちを救われる神さまを語るために用いられた話なのでしょう。

信仰の父の名に相応しくない話だと思う人もいるかも知れませんが、アブラハムがカナン地で寄留者として、生と死のぎりぎりの状況に常に置かれていたことを理解する必要があります。寄留者(ゲール)とは、「在日外国人」、「避難民」、「移民」とも訳せる単語で、その地で歓待されるか敵対されるかを先住民たちの決定に委ねざるを得ない不安定な立場です。多くの場合常に招かざる脅威として敵対されていたのでしょう。

アブラハムの寄留者としての弱い立場を理解してこの話を読むとどうでしょうか。生と死の岐路に常に立たされている際、ヤハウェの神が相手の夢の中で現れ、アブラハムとサラを救い出される話と語り継がれていたのでしょう。さらには神さまはアブラハムを先住民たちのために祈る預言者として立ててくださっていることは驚きです。

アブラハムとサラ、そしてこの物語を聞いてきた多くの人々は、ヤハウェの神がいつも共におられることを信じ、厳しい信仰の旅路を続けられる力と勇気を得ていたのではないでしょうか。〔魯 孝錬〕

        

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「神の国を分かち合う」

2018年7月1日

ルカによる福音書10章1-16節

 ルカは9章での12弟子派遣(平行箇所:マタイ10章)に加えて、72人の派遣を伝えています。さらにはマタイがこだわったユダヤ人限定を言及していないので、異邦人伝道への緊迫した状況が想像できます。

当時の異邦人伝道は危険を伴うものでした。なぜなら初代教会はイエス・キリストを神の子として告白していたため、ローマ皇帝を神の子と崇められていたローマ帝国にとっては反逆を企てる危険な集団と見なされました。迫害は必然で、ルカはその様子を「憎まれ、追い出され、汚名を着せられる。王や総督の前に引っ張り出される。」と描いています。

72人の弟子たちは、このような当時のパックスロマナーの価値観に否を唱え、「命の尊厳」が保障される、神の愛の支配(シャローム)伝える使命を託されたのでしょう。これはイエスさまの生き方そのものです。当時の宗教価値観によって罪人と決めつけられ、関係を絶たれ、沈黙させられた者と共にいて、神さまに造られた尊い存在であることを宣言され、生かしてくださったからです。全く新しい世界です。弱くされていた人々が厳しい状況の中でもイエスさまに勇気づけられ、人として生きる歩みを起こしていたところに、既に神の国は実現していたと思います。

イエスさまは、弟子たちを迎え入れてくれる「平和の子」がいて、そこで世話になるようにと励まします。そのような出会いと連帯の中で、神の国(シャローム)は実現していくのだと信じます。〔魯 孝錬〕

        

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「一人ひとりと出会ってくださる方」

2018年6月24日

ヨハネによる福音書4章1-30節

 旅につかれたイエスさまは、サマリアにあるヤコブの井戸のそばに座り込みます。時は正午ごろ、一人のサマリアの女性が水を汲みにやってきます。イエスさまがその女性に「水を飲ませてください」と声を掛けると、女性は驚きます。イエスさまが、サマリア人に対する差別と、女性に対する蔑視を越えて話かけられたからです。

女性は、イエスさまの言う「生きた水」のことをなかなか理解しませんが、イエスさまによって自分の痛みを言い当てられた時に、イエスさまに対する見方を変えられます。そんな彼女にイエスさまは、霊と真理をもってまことの礼拝をする者を神さまが求めておられることを伝え、自分がメシア(救い主)であることを明かします。

彼女は、町へ戻りイエスさまのことを人々に伝えます。救い主が、彼女と直接出会い、彼女の痛みを理解し、まことの礼拝に招いてくださったことが、彼女にそのような勇気を与えたのです。イエスさまとの出会いによって、彼女はありのままの自分をよしとすることができたのでしょう。永遠の命にいたる生きた水というのは、その人を自分らしく活き活きと生きさせるものではないかと思います。自信をもち活き活きと語る彼女の姿に、町の人たちは心を動かされて、イエスさまのもとにやって来たのでしょう。〔細井留美〕

        

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「預言者を立てる」

2018年6月17日

エレミヤ書1章1-10節

 北イスラエル王国の滅亡(前722)から100年余りが経ち、全盛期を謳歌していたアッシリア帝国の衰退と共に、バビロン帝国が力を得ています(前612)。前627年からバビロン帝国に捕囚で連れて行かれる頃(前587年)までの期間、神さまは一人の若者エレミヤを預言者として立てられます。エレミヤは神の言葉を携えて隣国に翻弄され、エルサレム陥落と神殿の全焼という悲惨な歴史を生きる人々に遣わされるのです。

神さまの言葉がエレミヤに臨み、母の胎内に造られる前から神さまに知られていたエレミヤを「諸国民の預言者」として奮い立たせます。エレミヤは神さまが世界の歴史の主であることを告げるために召されます。

このような神さまの召しに対して、エレミヤは自身が若者にすぎないことを「ヒンネ(見てください)」と訴えます。しかし神さまは「わたしはあなたと共にいて、必ず救い出す」と励まし、ご自分がエレミヤの口に語る言葉を授けることを「ヒンネ(見よ)」と語られます。彼は自分の弱さに固執するのではなく、厳しい状況の中でも神さまの救いを信頼し、諸王国の興亡盛衰を大胆に語るようにと神さまによって立てられます。

自国の滅亡という絶望において、世界を治められる神さまの言葉こそが私たちを生かす源なのでしょう。状況は悪くとも、弱い自分たちに主の言葉が委ねられていることを覚えて歩みたいものです。〔魯 孝錬〕

        

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「信仰と偽善の間に立って」

2018年6月10日

ルカによる福音書13章10-17節

 先週の朴思郁宣教研究所所長からの説教の内容と感想を紹介します。

まずは内容です。イエスさまが安息日に病者をいやされたことに対して、会堂長は「働く日は六日ある。その間に来て直してもらうがよい。安息日はいけない」と批判します。律法と伝統を重んじる人々にとってはそれこそ正しい、いわゆる正論でした。

しかし、イエスさまはこのような会堂長の言葉に煽られる人々に対して、「18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではないか」と問われました。イエスさまは彼らの正論を「偽善」だと厳しく指摘されたのです。イエスさまは18年も「腰が曲がったまま」下を向いて生きてきた一人に、「手を置かれ」その苦しみに共感し、「たちどころに腰がまっすぐに」前を向いて歩くようにさせたのです。まさに一人の命の尊厳が取り戻される瞬間でした。

次に感想です。教会の伝統や、これまでやってきたことを守りたいという信仰の篤さのゆえに、むしろ苦しんでいる人の叫びが聞こえなくなる危険性を突き付けられました。常に信仰と偽善との間に揺れ動く自分たちの弱さをしっかり自覚して、イエスさまのまなざしに目を向け、一人の命の尊厳を大事にしていく教会を目指していきたいと思います。さらに二つの礼典を教会の業として行なっていく時に、まさにイエスさまのまなざしを大事にしていきたいと切に祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「神の恵みに変えられて」

2018年6月3日

ローマの信徒への手紙4章1-5節

 信仰は個人の決断の問題であるかのように思われがちですが、大切なのは、信仰に対象があること、またその対象である神さまと人との相互関係の中で成長し得る問題として捉える視点です。

 パウロは3節で創世記15章6節を引用しながら、アブラハムが神さまに義と認められたのは、信仰によるものであると強調しています。決して割礼を受けたからではありません。これは初代教会に根強くあった、律法遵守こそ、大事だという主張に否を唱えるものでした。

 この創世記15章6節での「信じた…義と認められた」という彼と神さまのやり取りは、12-23章での彼と神さまとの同行の核心とも言えます。換言すれば、信仰は主の恵みによって与えられ、また導かれるものなのです。神さまの約束とアブラハムの服従には少し緊張関係がありますが、その絶頂はイサク出生の約束と、アブラハムとサラが笑う場面です(創17:17,18:11)。神さまの約束を信じられないと笑ってしまうアブラハムに対して、神さまは揺れ動くアブラハムがやがて揺るがない信仰者として歩むことを信頼しておられるのです。イサクとは「彼は笑う」の意味ですが、これはアブラハムの「失笑」でもあれば、神さまのアブラハムに対する限りない信頼の「微笑」でもあるのです。

 パウロは17節以下でアブラハムの信仰を高く評価しています。私たちの信仰は神さまの恵みによって変えられていくのです。〔魯 孝錬〕

        

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「共に生きよ」

2018年5月27日

創世記7章1-5節

 神さまはノアに、清い動物すべてと清くない動物すべてを箱舟に一緒に連れて行くように言われます。人間は、自分を基準に、良い生き物と害のある生き物を区別し、自分たちにとって良くないものを排除してしまいますが、神さまの言葉は、すべての被造物と共に生きる必要を示唆していると思います。

箱舟には、ノアが苦手とする生き物はじめ、様々な生き物がいて、ノアは彼らと共に生きねばなりませんでした。神さまは、「すべての命あるものを守る使命」を、ノアに委ねられたのです。

ノアが日々彼らに心を配り、世話をする姿を想像する時、天地創造物語の中で、神さまが人に言われた言葉、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)の「支配せよ」とは、すべての生き物の命を守るために、人間に委ねられた働きであることを改めて思わされます。

ところが、人が自己中心的に生きた結果、自然は破壊され、強い者が弱い者を犠牲にし、世界は「神の前に堕落し、不法に満ち」(創世記6:11)ています。しかし、本来被造物は支え合って生きるように造られたのであり、神さまは私たちに「共に生きよ」と呼び掛けています。私たちは、ノアのように、すべての命に配慮しながら、共に生きる努力をしていかなければなりません。すべての命が尊重される社会の実現を目指して、教会から共に生きる共同体を形作っていくことができればと思います。〔細井留美〕

        

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「共に生きよ」

2018年5月27日

創世記7章1-5節

 神さまはノアに、清い動物すべてと清くない動物すべてを箱舟に一緒に連れて行くように言われます。人間は、自分を基準に、良い生き物と害のある生き物を区別し、自分たちにとって良くないものを排除してしまいますが、神さまの言葉は、すべての被造物と共に生きる必要を示唆していると思います。

箱舟には、ノアが苦手とする生き物はじめ、様々な生き物がいて、ノアは彼らと共に生きねばなりませんでした。神さまは、「すべての命あるものを守る使命」を、ノアに委ねられたのです。

ノアが日々彼らに心を配り、世話をする姿を想像する時、天地創造物語の中で、神さまが人に言われた言葉、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)の「支配せよ」とは、すべての生き物の命を守るために、人間に委ねられた働きであることを改めて思わされます。

ところが、人が自己中心的に生きた結果、自然は破壊され、強い者が弱い者を犠牲にし、世界は「神の前に堕落し、不法に満ち」(創世記6:11)ています。しかし、本来被造物は支え合って生きるように造られたのであり、神さまは私たちに「共に生きよ」と呼び掛けています。私たちは、ノアのように、すべての命に配慮しながら、共に生きる努力をしていかなければなりません。すべての命が尊重される社会の実現を目指して、教会から共に生きる共同体を形作っていくことができればと思います。〔細井留美〕

        

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「わたしの平和を与える」

2018年5月20日

ヨハネによる福音書14章15-31節

 聖霊が降り、恐れていた弟子たちは励まされ、力づけられました。収穫祭の五旬祭はシナイ山での律法授与をも記念していました。ペンテコステの出来事は、「律法遵守」を超えて「聖霊に従う」時代の到来が示されていると言えます。

今日の聖書箇所は弟子たちと過越祭の食事の場面で「聖霊」を送るとのイエスさまの約束がなされています。ここで聖霊は「弁護者」(パラクレートス、「傍らに立つ者」)と言われますが、他の訳では「助け主」や、「慰め主」とも言われます。イエスの不在(イエスの死)に、心騒ぎ恐れている弟子たちに、なお「共にいる」とのイエスさまの約束です。

この際イエスさまが繰り返し強調されているのは、15,21,23節にあるように、ご自分を「愛する」人は「教えを守る」に違いないという、イエスさまの弟子たちへの信頼です。そしてこれは、申命記でこれからカナン地での全く新しい生活を始めるイスラエルの民に、エジプトからの救いと荒れ野での恵みを想起して「律法を忠実に守って生きる」ようにと告別説教をするモーセの姿に通じます。

イエス・キリストが共に歩まれたのと同様に、聖霊は傍らに立って私たちを支えてくださいます。神・イエス・聖霊という三位一体に秘められた「平和」(シャローム)に、わたしたちは常に招かれています。聖霊の導きによって、主に従う者へと変えられていくのです。〔魯 孝錬〕

        

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「夜の幻」

2018年5月13日

ダニエル書7章9-14節

 物語の舞台は紀元前6世紀のバビロン捕囚ですが、実際置かれた状況はシリアのセレウコス王朝のアンティオコス4世による迫害の時代です。ちょうどマカベア戦争(前164年-)が起きる直前だと言われています。「根本的な世界転換の期待」が「幻(啓示)」に示されていたのでしょう。

7-12章の幻の中で最初の話。海から現れた獅子や熊、豹のような獣、4つ目は10本の角があった。目と口のある小さな角が生え、10本のうち3本が抜かれる。裁きの座に「日の老いたる者」が座して、獣は裁きを受けて燃え盛る火に投げ込まれる。人の子が権威、威光、王権を受け、すべての民が彼に仕え彼の支配と統治が続く。

ダニエルは自分を悩ませたこの幻が、歴史の主であるヤハウェの神の支配が「人の子」を通して実現されると知らされました。「人の子」は、地の果てまで見渡され(ヨブ記28章)、初めに主に造られ(箴言8章)、民の中に根を下ろす(シラ書24章)「知恵」そのものでした。

イエスさまはこのようなユダヤ教の知恵伝承の中で、ご自分のことを「人の子」と呼ばれ、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を」(ヨハネ17:24)、私たちに見せてくださるように祈っておられます。「人の子」による神の支配を再発見して、「人の子」に従っていきたいと願います。〔魯 孝錬〕

        

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「我々と共にいる主」

2018年5月6日

マタイによる福音書28章16-20節

 復活されたイエスさまが弟子たちをこの世へと送り出す大宣教命令の場面です。主に登るように指示された山が「ガリラヤ」だったことに目が留まります。ガリラヤとはエルサレムに比べて弱くされ貧しくされた者たちの町です。中心から蔑視され否定されていたところです。

弟子たちはイエスさまがそのガリラヤで自分たちを呼ばれ、山の上で「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである」と祝福されたことや、実際に罪人とされ周縁に追いやられ病に苦しむ者たちを癒し力づけた主イエスの生き方を思い起こすことができたのでしょう。

復活の主イエスはその原点で「行って…弟子とし…バプテスマを授け…教えなさい」と弟子たちを送り出されているのです。「いつもあなたがたと共にいる」という約束と共に。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ2:23)との約束の実現でもあった主イエスが、今度は弟子たちをこの世へと送りだし、インマヌエルを約束されているのです。

「あなたがた」とは、まずは弟子たち、そしてマタイの教会であったのでしょう。しかし実はマタイの教会にとってこの言葉は、ユダヤ教の分派として歩もうとしてきた彼らが、いよいよ「異邦人伝道」へと踏み出さねばならない決断に迫られていた状況を端的に示しています。「我々」の範疇に「異邦人」が入ることを主の御心として受け止めているのです。これは私たちにとっても大きなチャレンジです。〔魯 孝錬〕

        

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「起きて食べよ」

2018年4月29日

列王記上19章3-9節

 〔米本裕見子〕

        

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「命の糧の分かち合い」

2018年4月22日

マルコによる福音書6章34-44節

 「飼い主のいない羊のような」人々の様子を深く憐れんだイエスさまは、教え始められ、人々は時間が経つのも忘れてそのお話に耳を傾けます。弟子たちは、人々が各自食事を求めるように、解散することをイエスさまに提案しますが、イエスさまは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」といわれます。弟子たちの手持ちは、パン5つと魚が2匹で、大勢の群衆には、とうてい足りない数でした。しかし、イエスさまが、分けられたパンと魚を弟子たちが配ると、すべての人が食べて満腹します。そして人々が食べて満足しただけでなく、弟子たちの籠にもいっぱいの食べ物が与えられます。

 

単なる供食(食事の提供)では、人々を本当の意味で満すことはできなかったでしょう。命のパンであるイエスさまのみ言葉があったからこそ、人々の深い所にある飢えと渇きが満たされたのです。

 

「分かち合う」とは、互いに与えたり、受け取ったりするものです。弟子たちが、イエスさまから渡されたパンを人々に配った時、人々が満腹しただけでなく、弟子たちの籠もいっぱいにされました。み言葉を中心にした交わり、つまりイエスさまを中心にした交わりの中では、互いにみ言葉から受けたものを「分かち合う関係」を築いていくことができるのではないでしょうか。そして、そのことが、真に人を生かすのだと思います。〔細井 留美〕

        

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「奪われた野にも春は来るか」

2018年4月15日

創世記8章6-12節

 今日の聖書箇所はノアの物語です。洪水というカオスの中で神さまは箱舟にいたノアとすべての生き物を御心に留め(ザカール、思い起こして)、地の上に風(ルアフ、霊)を吹かせられて世界を破局から回復へ向かわせます。天地創造の記事を思い浮かばせる書き方です。

 

ノアは鳩(ヨナ)がオリーブの葉をくちばしにくわえてきたことを通して絶望のどん底の中で回復の兆しに気づかせられたのでしょう。預言者ヨナの「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、我が神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった」という祈りに通じます(ヨナ2:9)。

 

破局の時代のただ中で芽生えた神さまの働きを、わずかことでも伝えつづけることこそが教会の使命ではないでしょうか。そしてこの使命は外に出て行って、その破局を生きる人や自然に出会うことから始まるのだと思います。教会のチラシや週報に聖書に座っている「のぞみちゃん」には、東京北教会のこのような使命が繰り返し確認されてきたのだと思います。

「奪われた野にも春は来るか」とは、日本植民地時代に韓国人の李相和(イ・サンファ)が歌った詩のタイトルです。土地を奪われた農民が土地を喜び踊る姿から暗闇に輝く希望が浮き彫りにされます。生きる基盤を奪われる人々に目を向ける時に、そこに既に春が来たことに気づかされていくのだと思います。〔魯 孝錬〕

        

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「目が開かれた」

2018年4月8日

ヨハネによる福音書9章1-12節

 生まれつきの目の不自由な人を見て、弟子たちの「誰の罪のせいか?」と聞きます。これに対してイエスさまは、神さまの業が現れるためだと宣言されます。当時の宗教価値観をひっくり返す言葉です。

 

これは8章で姦通の現場で捕らえられた女性を罪に定めなかったのと同じです。10章ではこのような眼差しの持ち主こそ、命がけで羊を守る「善い羊飼い」だと記されています。そして実際イエスさまはユダヤ人たちに石打ちされそうな危機に立たされます。イエスさまは8章の女性や今日の箇所の盲人のような弱者に向けられた殺気や裁きの矛先にご自分を差し出しているのです。

 

イエスさまは地面に唾をし、土をこねて彼の目に塗ってシロアム(「遣わされた者」の意)という池に行かせます。イエスさまが彼に触れた行為は、彼の痛みを深く共感すると共に、不浄を理由に彼を排除し沈黙させた当時の宗教価値観に抗うものでした。さらには神さまが天地創造の時に人間を土の塵で形作った御言葉を想起させるような仕方で、彼を生かしているのです。

 

彼はイエスさまが自分の目に泥を塗った時、すでに目が開かれていたのかも知れません。遣わされることは、神の業に気づされるためなのかも知れません。同様にイエスさまは私たちを神さまに創造された尊い命として関わって下さいます。教会はこのイエスさまの愛に触れ、目が開かれ、遣わされて共に歩む群れです。〔魯 孝錬〕

        

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「空の墓の証人」

2018年4月1日

ルカによる福音書23章50-24章12節

 議員のヨセフはイエスさまの遺体を十字架から下ろし亜麻布で包み、石に掘った墓の中に納めました。彼の神の国への希望は消え失せ、惨たらしい遺体に悲しんだことでしょう。多くの美術作品のモチーフとなっている「ピエタ」(慈悲)です。

同様の痛みをもってイエスさまの墓に駆けつけた女性たちは、空の墓を前にして途方に暮れます。そして見知らぬ二人の「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか」「ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」という言葉に揺さぶられました。

証人たちの歩みの方向は、イエスさまの「死」から「生」へと180度変えられたのでしょう。「思い出す」とは、繰り返しイエスさまの言動を心に留めて忘れないことです。この言葉から主の晩餐を「記念する」という言葉が出てきたことからも分かるように、礼拝の核となる言葉でもあります。ことに旧約聖書のヘブライ語では「ザカール(想起する)」です。神さまが主語ですと、ご自分の契約を思い起こす意味で、人が主語ですと四面楚歌の場面でなお神の救いを望むことです。

2018年度はイースターからスタートしました。今年の主題聖句は東方の博士たちの「先立つ主を見上げつつ、歩み続ける」(マタイ2:9)姿から取っています。これはまさに空の墓の証人たちが生前のイエスの言動を繰り返し心に留めて歩んだことと言えます。教会のあり方をここから聞いていきたいと願います。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストに支えられて」

2018年3月25日

マルコによる福音書14章26-31節

 過越しの食事の後、オリーブ山に出かけたイエスさまは、ゼカリヤ書の言葉を引用し、弟子たち全員が、自分のもとから逃げ去ることを予告します。この躓き予告に対して、ペトロや他の弟子たちは、自分は決して躓かないと断言しますが、いくら自信や自負があっても、人間は恐れや誘惑に対してとても弱い存在であることが、この後明らかになります。人々が、イエスさまを捕えにやって来ると、その混乱の中で、弟子たちは一人残らずイエスさまを見捨てて逃げてしまいます。

 

しかし、イエスさまは弟子たちの弱さをよくご存じで、そのことを責めるのではなく、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われます。「先にガリラヤへ行く」とは、「先に行って待っているよ」という意味ではないでしょうか。イエスさまを失い、悲嘆と絶望にある弟子たちが、イエスさまと一緒に過ごしたガリラヤのことを思い起こし、再び立ち上がることを待っている、という温かいメッセージなのではないでしょうか。イエスさまを裏切った弟子たちは、この言葉によって、傷から癒され立ち直ることができたのではないでしょうか。

 

主イエスは、人間の弱さや限界をよくご存じで、私たちが弟子たちのように大きな失敗をしても、また立ち上がらせてくださいます。教会も同じくその歩みが主によって支えられています。主の支えに信頼しながら、2018年度の歩みを進めていくことができればと思います。〔細井留美〕

        

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「どこにいるのか」

2018年3月18日

ルカによる福音書23章39-43節

 イエスさまのつけられた十字架の両側にいた犯罪人の一人がイエスさまのことを激しくののしります。「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」と。兵士や宗教指導者たちの嘲りとは違い、イエスさまへの希望が完全に崩れ落ちる叫びだったのでしょう。

 

イエスさまは沈黙されます。疲れ切った全身は息衝くため震えています。彼らがイエスさまに期待したメシア像とはかけ離れた姿です。無力で嘲笑われる者として二人と共におられるのです。ヒーローのメシアではありませんが、痛み付けられている彼らの傍に居続けていたのです。このような生き方は、馬小屋の飼葉桶に生まれた時から一貫した主イエスのあり方だったのではないでしょうか。

このような生き方において二人の犯罪人を含め、私たち教会は、神さまから「どこにいるのか」と問われているのだと思います。神さまに背を向け、隣人を殺した最初の人間たちに問いかけられた問いでもあります。それは咎めの問いではなく、慈しみに満ちた、再び生きるようにしてくださる省察を促す問いです。主イエスは痛みのただ中で「赦しの祈り」(34)と「神さまに委ね切る信仰」(46)で彼らを支えてくださっていたのだと信じます。

 

十字架に立ち、「自分たちがどこにいるのか」と「隣人はどこにいるのか」と問われつつ、小さくされた人々、見えなくさせられて人々と一緒に生きる教会となることを切に祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストに従って生きる」

2018年3月11日

フィリピの信徒への手紙3章12-21節

 7年前の今日、東日本大震災と福島原発事故が起きました。「もう7年」、「まだ7年!」、あるいは「時間は止まったまま」と感じ方は多様でしょう。教会はその中で「救い」を捉え直しつつ歩んできているのではないでしょうか。

 

今日の聖書箇所では、狭間を生きる使徒パウロも「わたしは、既に完全な者となっているわけではありません。何とか捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12)と途上の信仰を告白しています。

 

救いとは、十字架上で惨たらしい死に様をさせられたイエスを甦らせた神さまの憐れみによって与えられるものです。決して律法遵守という自分の努力や正しさから勝ち取るものではありません。キリストの神さまへの信頼と服従こそがそれを可能にしたのです。このような恵みに答えて生きるその歩みのただ中で、救われた者へと変えられていくのではないでしょうか。

 

復活させられた主イエスは、愛する弟子たちに自分の十字架をなぜ拒んだのかととがめることをされませんでした。むしろ、釘の跡のある手を差し伸べられ、もう一度一緒に歩もうではないかと招かれているのです。このような主イエスの温かいまなざしに信頼して、この招きに答えて歩みたいと祈ります。主ご自身がわたしたちを捕らえてくださっていることを覚えて歩んでいきましょう。〔魯 孝錬〕

        

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「嘆きを喜びへ変え」

2018年3月4日

エレミヤ書31章10-14節

 神さまはエレミヤを召され、滅亡が差し迫ったユダの人々のところへ遣わされました。エレミヤの言葉を通して、人々はユダ王国の滅亡と捕囚とが、自分たちの神への背きのためだと知り、嘆きました。

 

エレミヤは「イスラエルを散らした方は彼を集め羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と語ります。「散らす」という言葉は、バビロン捕囚に連れて行かれる出来事を意味する一方で、パレスチナにおいて空中で種を蒔く(散らす)という意味をも持っています。この動詞の主語が神さまですと「イズルエル」となりますが、預言者ホセアの長男の名前として神さまの裁きと共に神さまが種を蒔くという希望を同時に伝えている言葉として用いられています。つまり、滅亡と捕囚という嘆きのただ中に神さまによる希望が語られているのです。

 

涙の預言者とも言われるエレミヤの嘆きとは、ほかならぬ民の背きと苦しみに対する神さまのご自身の嘆きでもあるのでしょう。共に苦しむこの神さまの憐れみこそが、捕囚の民を連れ戻す力となっていたのだと信じています。神さまは人々の嘆きを喜びへと変えて、ご自分の民を命がけで守り、養ってくださるとの約束が今日の箇所です。

 

日常が取り戻され、歌と踊りの礼拝が回復されるという主の約束を信じて、十字架の死の先に復活の希望を見上げつつ、このレント(受難?)を過ごしていきたいと祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「」

2018年2月25日

 

        

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「争いと敵意を超えて」

2018年2月18日

創世記26章15-25節

 イサクは飢饉のためペリシテ人の町のゲラルに移り住んでいます。その滞在は、妻を妹と偽らねばならないほど危険極まる寄留者の日々ですが、「寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福」するとの神さまの約束だけが支えであり、希望であったのでしょう。

 

イスラエルの人々にとって「寄留する」とは、エジプトでの奴隷生活を思い出しています。ファラオの幼児虐殺命令に立ち向かい、神さまを畏れ、命を生かした助産師やモーセの母親とお姉さんの挑戦が重ね合わせられています。時の権力に屈せず、命を生かす神さまの業に参与していく生き方こそが、この言葉に込められているのです。

 

自分たちが掘った井戸を簡単にゲラルの人々に奪われますが、イサクは他の井戸を掘り続け、ついには「レホボト(広い場)」と名付ける井戸を掘り当てます。争いと敵意を乗り越えて、広くひらかれた居場所、つまり共に生きる喜びの場を作り出した証だと思います。井戸を掘り続けたイサクの歩みに神さまに従う群れの生き方を示されます。

 

イサクは「ベエル・シェバ」(井戸の町)で神さまの祝福を約束され、この祝福の約束に応答して、祭壇を築き、御名を呼び、天幕を張り、井戸を掘り続けました。私たちの福音宣教もまたこのようなイサクの挑戦に倣い、赤羽における「レホボト」(ひらかれた居場所)を作り続ける営みだと信じています。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストによって豊かにされる」

2018年2月11日

1コリントの信徒への手紙1章6-9節

 パウロは、問題の多いコリント教会のことを「神の教会」(2節)と呼びます。「神の教会」とは、完璧な教会のことではなく、課題はあっても主によって支えられている教会のことを示しているのです。

 

パウロは、ユダヤ人宗教指導者たちの敵意、ユダヤ人キリスト者からのクレーム、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の葛藤など、様々な課題に向き合わなければなりませんでした。しかし、自分の力ではどうにもならない数々の困難の中で、自分自身の弱さの中で働いてくださるキリストの力を経験し、「わたしは弱い時にこそ強い」という確信に至るのです。

 

初代教会時代、異邦人伝道が進む中で聖書が読み直され、神理解が深められていったように、現代の教会も様々な人との出会いの中で、聖書の読み方や、神理解が変えられていくでしょう。それは教会に与えられている豊かさの一つです。違いをもった者たちが関りを持つことには、痛みも伴います。しかし、その痛みをイエスさまが共に担い、教会を支えていてくださいます。

 

9節の「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」とは、欠けだらけの神の教会が、イエス・キリストによって支えられていることを意味しているのだと思います。〔細井留美〕

        

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「恵み深い言葉」

2018年2月4日

ルカによる福音書4章16-30節

 公の働きを始められ荒れ野で40日間の誘惑を退たイエスさまは、一刻も早く故郷の人々に福音の喜びを伝えたかったのかも知れません。ナザレに来られ、会堂でイザヤ書を朗読され、ご自分が神に油注がれた者(メシア、キリスト、救い主)となったことを、「恵みの年」の実現として示されました。

 

「恵みの年」とは、旧約聖書で言及される「ヨベルの年」(レビ25:8以下)のことですが、7年の安息年が7回めぐった翌年(50年目)に、土地を休ませ、嗣業の土地を元の所有者に戻し、奴隷を自由にするといった自分たちが神さまによって解放と自由を得ている原点に立ち帰る年として位置付けられていました。

人々はイエスさまを褒め称えましたが、彼の生まれ育ちを知っていたために逆に信じ難く思ったのでしょう。イエスさまは旧約聖書でエリヤとエリシャがサレプタのやもめとシリアのナアマンにそれぞれ遣わされた話を引用し、故郷で歓迎されない状況を指摘しました。これはヤッファで汚れた獣を食べなさいという幻を見たペトロをはじめ、異邦人が救われる姿に戸惑いを覚えた初代教会の姿に見えます。

主イエスによって私たちの救いの理解がひらかれていくことを信じます。また抑圧され、痛みつけられている人々がキリストによって解放され自由にされることを喜ぶ教会となりたいです。〔魯 孝錬〕

        

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「罪人を招く」

2018年1月28日

マタイによる福音書9章9-17節

 イエスさまは徴税人のマタイを呼ばれました。当時の徴税人はローマ帝国の手先だと言われ、大変嫌われました。差別と嫌悪の対象です。イエスさまはマタイの存在の尊さを認め、その命を生かしてくださったのです。だからこそ、マタイの応答は喜びの応答であって、自らイエスさまを家に招き、友達をも呼び食卓を囲み、交わりました。

 

当時の宗教指導者は徴税人と一緒に食事するイエスさまを咎めますが、イエスさまは「わたしが来たのは罪人を招くため」だと宣言します。私なりに言い直すならば、「あなたがたが徴税人を罪人と決めつけるのであれば、わたしはまさに、あなたがたによって「罪人」よばわりされているこの一人ひとりのために来たのだ。一人ひとりは神さまに造られた尊い命だ。彼らを招き、癒し、立ち上がらせ、家族や共同体の中で生きる日常を取り戻させるために来たのだ。そこに神さまの望んでおられることだ」

 

主イエスの招きは差別されるマタイを解放しただけではなく、当時の宗教指導者たちをはじめ大多数の差別する側の人々をも解放へと招いておられるのだと思います。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」とあるように、主イエスの福音が人々を解放へと導くことを信じて、主に従って歩みたいと思います。〔魯 孝錬〕

        

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「新しくされる恵み」

2018年1月21日

2コリントの信徒への手紙 5章17-18節

 パウロがコリントの教会を去った後、教会に様々な問題や混乱が生じていたことが、二つの手紙を通して知らされます。その一つは、新しく入ってきたユダヤ主義的キリスト者のパウロ批判、すなわちキリストの弱さを誇り、自分の弱さを誇るパウロの福音理解への批判がありました。パウロとは逆の、強いキリスト理解、この世的な力の強さや優秀さを誇る彼らの主張は教会を大きく揺さぶっていました。パウロは、反論します。

 

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって(力強く)生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱いですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によって(力強く)キリストと共に生きています。」

 

さらに、イエスの苦難と十字架の死によって神に新しく創造された者は、もはやこの世的な力を誇る仕方で人を知ることもキリストを知ることもないのだといいます。弱く、脆く、失敗を繰り返す者でしかないわたしたち人間に、神の方から無条件で和解してくださった。わたしたちはいったい何者なのかが問われます。その恵みにあずかる者を、神は和解のために奉仕する器として用いてくださるのだと、パウロは神の招きを語るのです。こんにち分断が益々深刻化するこの世界で、わたしたち教会はその招きに応え、キリストの恵みを分かち合い、分断されたものが繋がれていくために仕えるものでありたいと願います。弱さの中に働く神の力を信じ、主の助けを祈り求めつつ教会の歩みを進めていきたいものです。〔村上 千代〕

        

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「時宜にかなった助け」

2018年1月14日

ヘブライ人の手紙4章14-16節

 「公に言い表した信仰をしっかり保とうではありませんか」。

 

イスラエルの民はかつて出エジプトを経験した後、荒れ野で「心をかたくなに」したために、神の約束された安息の地(カナン)へ入ることが出来ませんでした(3:8,3:15,4:7)。しかし、神はその約束を「今」更新され、イエス・キリストを通して一緒に歩もうと私たちに手を差し伸べてくださっています。

 

主イエスの誕生や、生涯、死と復活に刻まれているのは、虐げられていた人々の痛みそのものであったのでしょう。だからこそ主イエスは当時の律法によって「罪人」のレッテルをつけられていた、徴税人や、娼婦、病気の人々などの友となって共に食べ、共に歩まれました。初代教会はこの主イエスを想起する中で、イザヤの苦難の僕の預言、つまり「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(イザヤ53:4)ものだと告白するようになったのでしょう。

 

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(16)。

 

主イエスは私たちと共におられ、今も時宜にかなった助けを与えてくださいます。初代教会に対する信仰の励みが、イエス・キリストの生き方に目を向ける時に、時空を超えて甦ります。主イエスに信頼して共に信仰を保ち、大胆に神に近づこうではありませんか。〔牧師 魯 孝錬〕

        

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「主を仰ぎ見つつ」

2018年1月7日

マタイによる福音書2章1-12節

 占星術の学者たちは東方で星を見て、新しく生まれたユダヤ人の王を探してヘロデの宮殿にたどり着きました。礼拝するためでしたが、真逆の展開となり、ヘロデの陰謀の斥候としてベツレヘムに送り出されるはめになりました。ちょうどその時、9節の言葉が響きます。

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(9)

 彼らは途中で星を見失った様子でしたが、これは星が見えなくなったとも、あるいは、王は王宮で生まれるとの先入観で、もう星を見なくなったとも言えるのではないでしょうか。方向を見失った危機に「星が先立って」彼らを導き幼子のいる場所にたどりつかせたのです。私たちも様々な理由で道に迷い、方向を見失うことがありますが、その時は主イエスが先立って進んでおられることを見上げつつ歩みたいものです。

 初代教会は当時の中心の神学を揺さぶったイエスさまの生涯を見上げつつ、誕生物語を伝えていたのではないでしょうか。婚約中の妊娠がばれたら、律法によって石打にされかねなかったと思います。ヨセフとマリアは戸惑い、恐れ、人々からは白い目で見られていたのでしょう。ちょうどその時に東方の占星術の学者たちによって、「大丈夫。あなたは尊い存在」であるとの神さまの励ましの言葉を聞くことができたと思います。私たちもイエスさまの生涯がこのような小さな者たちを励まし生かしてくださったことに向けていきたいと祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

        

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