2018年のメッセージ

「共に生きよ」

2018年5月27日

創世記7章1〜5節

 神さまはノアに、清い動物すべてと清くない動物すべてを箱舟に一緒に連れて行くように言われます。人間は、自分を基準に、良い生き物と害のある生き物を区別し、自分たちにとって良くないものを排除してしまいますが、神さまの言葉は、すべての被造物と共に生きる必要を示唆していると思います。

箱舟には、ノアが苦手とする生き物はじめ、様々な生き物がいて、ノアは彼らと共に生きねばなりませんでした。神さまは、「すべての命あるものを守る使命」を、ノアに委ねられたのです。

ノアが日々彼らに心を配り、世話をする姿を想像する時、天地創造物語の中で、神さまが人に言われた言葉、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)の「支配せよ」とは、すべての生き物の命を守るために、人間に委ねられた働きであることを改めて思わされます。

ところが、人が自己中心的に生きた結果、自然は破壊され、強い者が弱い者を犠牲にし、世界は「神の前に堕落し、不法に満ち」(創世記6:11)ています。しかし、本来被造物は支え合って生きるように造られたのであり、神さまは私たちに「共に生きよ」と呼び掛けています。私たちは、ノアのように、すべての命に配慮しながら、共に生きる努力をしていかなければなりません。すべての命が尊重される社会の実現を目指して、教会から共に生きる共同体を形作っていくことができればと思います。〔細井留美〕

        

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「わたしの平和を与える」

2018年5月20日

ヨハネによる福音書14章15〜31節

 聖霊が降り、恐れていた弟子たちは励まされ、力づけられました。収穫祭の五旬祭はシナイ山での律法授与をも記念していました。ペンテコステの出来事は、「律法遵守」を超えて「聖霊に従う」時代の到来が示されていると言えます。

今日の聖書箇所は弟子たちと過越祭の食事の場面で「聖霊」を送るとのイエスさまの約束がなされています。ここで聖霊は「弁護者」(パラクレートス、「傍らに立つ者」)と言われますが、他の訳では「助け主」や、「慰め主」とも言われます。イエスの不在(イエスの死)に、心騒ぎ恐れている弟子たちに、なお「共にいる」とのイエスさまの約束です。

この際イエスさまが繰り返し強調されているのは、15,21,23節にあるように、ご自分を「愛する」人は「教えを守る」に違いないという、イエスさまの弟子たちへの信頼です。そしてこれは、申命記でこれからカナン地での全く新しい生活を始めるイスラエルの民に、エジプトからの救いと荒れ野での恵みを想起して「律法を忠実に守って生きる」ようにと告別説教をするモーセの姿に通じます。

イエス・キリストが共に歩まれたのと同様に、聖霊は傍らに立って私たちを支えてくださいます。神・イエス・聖霊という三位一体に秘められた「平和」(シャローム)に、わたしたちは常に招かれています。聖霊の導きによって、主に従う者へと変えられていくのです。〔魯 孝錬〕

        

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「夜の幻」

2018年5月13日

ダニエル書7章9〜14節

 物語の舞台は紀元前6世紀のバビロン捕囚ですが、実際置かれた状況はシリアのセレウコス王朝のアンティオコス4世による迫害の時代です。ちょうどマカベア戦争(前164年〜)が起きる直前だと言われています。「根本的な世界転換の期待」が「幻(啓示)」に示されていたのでしょう。

7〜12章の幻の中で最初の話。海から現れた獅子や熊、豹のような獣、4つ目は10本の角があった。目と口のある小さな角が生え、10本のうち3本が抜かれる。裁きの座に「日の老いたる者」が座して、獣は裁きを受けて燃え盛る火に投げ込まれる。人の子が権威、威光、王権を受け、すべての民が彼に仕え彼の支配と統治が続く。

ダニエルは自分を悩ませたこの幻が、歴史の主であるヤハウェの神の支配が「人の子」を通して実現されると知らされました。「人の子」は、地の果てまで見渡され(ヨブ記28章)、初めに主に造られ(箴言8章)、民の中に根を下ろす(シラ書24章)「知恵」そのものでした。

イエスさまはこのようなユダヤ教の知恵伝承の中で、ご自分のことを「人の子」と呼ばれ、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を」(ヨハネ17:24)、私たちに見せてくださるように祈っておられます。「人の子」による神の支配を再発見して、「人の子」に従っていきたいと願います。〔魯 孝錬〕

        

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「我々と共にいる主」

2018年5月6日

マタイによる福音書28章16〜20節

 復活されたイエスさまが弟子たちをこの世へと送り出す大宣教命令の場面です。主に登るように指示された山が「ガリラヤ」だったことに目が留まります。ガリラヤとはエルサレムに比べて弱くされ貧しくされた者たちの町です。中心から蔑視され否定されていたところです。

弟子たちはイエスさまがそのガリラヤで自分たちを呼ばれ、山の上で「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである」と祝福されたことや、実際に罪人とされ周縁に追いやられ病に苦しむ者たちを癒し力づけた主イエスの生き方を思い起こすことができたのでしょう。

復活の主イエスはその原点で「行って…弟子とし…バプテスマを授け…教えなさい」と弟子たちを送り出されているのです。「いつもあなたがたと共にいる」という約束と共に。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ2:23)との約束の実現でもあった主イエスが、今度は弟子たちをこの世へと送りだし、インマヌエルを約束されているのです。

「あなたがた」とは、まずは弟子たち、そしてマタイの教会であったのでしょう。しかし実はマタイの教会にとってこの言葉は、ユダヤ教の分派として歩もうとしてきた彼らが、いよいよ「異邦人伝道」へと踏み出さねばならない決断に迫られていた状況を端的に示しています。「我々」の範疇に「異邦人」が入ることを主の御心として受け止めているのです。これは私たちにとっても大きなチャレンジです。〔魯 孝錬〕

        

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「起きて食べよ」

2018年4月29日

列王記上19章3-9節

 〔米本裕見子〕

        

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「命の糧の分かち合い」

2018年4月22日

マルコによる福音書6章34〜44節

 「飼い主のいない羊のような」人々の様子を深く憐れんだイエスさまは、教え始められ、人々は時間が経つのも忘れてそのお話に耳を傾けます。弟子たちは、人々が各自食事を求めるように、解散することをイエスさまに提案しますが、イエスさまは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」といわれます。弟子たちの手持ちは、パン5つと魚が2匹で、大勢の群衆には、とうてい足りない数でした。しかし、イエスさまが、分けられたパンと魚を弟子たちが配ると、すべての人が食べて満腹します。そして人々が食べて満足しただけでなく、弟子たちの籠にもいっぱいの食べ物が与えられます。

 

単なる供食(食事の提供)では、人々を本当の意味で満すことはできなかったでしょう。命のパンであるイエスさまのみ言葉があったからこそ、人々の深い所にある飢えと渇きが満たされたのです。

 

「分かち合う」とは、互いに与えたり、受け取ったりするものです。弟子たちが、イエスさまから渡されたパンを人々に配った時、人々が満腹しただけでなく、弟子たちの籠もいっぱいにされました。み言葉を中心にした交わり、つまりイエスさまを中心にした交わりの中では、互いにみ言葉から受けたものを「分かち合う関係」を築いていくことができるのではないでしょうか。そして、そのことが、真に人を生かすのだと思います。〔細井 留美〕

        

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「奪われた野にも春は来るか」

2018年4月15日

創世記8章6〜12節

 今日の聖書箇所はノアの物語です。洪水というカオスの中で神さまは箱舟にいたノアとすべての生き物を御心に留め(ザカール、思い起こして)、地の上に風(ルアフ、霊)を吹かせられて世界を破局から回復へ向かわせます。天地創造の記事を思い浮かばせる書き方です。

 

ノアは鳩(ヨナ)がオリーブの葉をくちばしにくわえてきたことを通して絶望のどん底の中で回復の兆しに気づかせられたのでしょう。預言者ヨナの「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、我が神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった」という祈りに通じます(ヨナ2:9)。

 

破局の時代のただ中で芽生えた神さまの働きを、わずかことでも伝えつづけることこそが教会の使命ではないでしょうか。そしてこの使命は外に出て行って、その破局を生きる人や自然に出会うことから始まるのだと思います。教会のチラシや週報に聖書に座っている「のぞみちゃん」には、東京北教会のこのような使命が繰り返し確認されてきたのだと思います。

「奪われた野にも春は来るか」とは、日本植民地時代に韓国人の李相和(イ・サンファ)が歌った詩のタイトルです。土地を奪われた農民が土地を喜び踊る姿から暗闇に輝く希望が浮き彫りにされます。生きる基盤を奪われる人々に目を向ける時に、そこに既に春が来たことに気づかされていくのだと思います。〔魯 孝錬〕

        

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「目が開かれた」

2018年4月8日

ヨハネによる福音書9章1〜12節

 生まれつきの目の不自由な人を見て、弟子たちの「誰の罪のせいか?」と聞きます。これに対してイエスさまは、神さまの業が現れるためだと宣言されます。当時の宗教価値観をひっくり返す言葉です。

 

これは8章で姦通の現場で捕らえられた女性を罪に定めなかったのと同じです。10章ではこのような眼差しの持ち主こそ、命がけで羊を守る「善い羊飼い」だと記されています。そして実際イエスさまはユダヤ人たちに石打ちされそうな危機に立たされます。イエスさまは8章の女性や今日の箇所の盲人のような弱者に向けられた殺気や裁きの矛先にご自分を差し出しているのです。

 

イエスさまは地面に唾をし、土をこねて彼の目に塗ってシロアム(「遣わされた者」の意)という池に行かせます。イエスさまが彼に触れた行為は、彼の痛みを深く共感すると共に、不浄を理由に彼を排除し沈黙させた当時の宗教価値観に抗うものでした。さらには神さまが天地創造の時に人間を土の塵で形作った御言葉を想起させるような仕方で、彼を生かしているのです。

 

彼はイエスさまが自分の目に泥を塗った時、すでに目が開かれていたのかも知れません。遣わされることは、神の業に気づされるためなのかも知れません。同様にイエスさまは私たちを神さまに創造された尊い命として関わって下さいます。教会はこのイエスさまの愛に触れ、目が開かれ、遣わされて共に歩む群れです。〔魯 孝錬〕

        

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「空の墓の証人」

2018年4月1日

ルカによる福音書23章50〜24章12節

 議員のヨセフはイエスさまの遺体を十字架から下ろし亜麻布で包み、石に掘った墓の中に納めました。彼の神の国への希望は消え失せ、惨たらしい遺体に悲しんだことでしょう。多くの美術作品のモチーフとなっている「ピエタ」(慈悲)です。

同様の痛みをもってイエスさまの墓に駆けつけた女性たちは、空の墓を前にして途方に暮れます。そして見知らぬ二人の「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか」「ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」という言葉に揺さぶられました。

証人たちの歩みの方向は、イエスさまの「死」から「生」へと180度変えられたのでしょう。「思い出す」とは、繰り返しイエスさまの言動を心に留めて忘れないことです。この言葉から主の晩餐を「記念する」という言葉が出てきたことからも分かるように、礼拝の核となる言葉でもあります。ことに旧約聖書のヘブライ語では「ザカール(想起する)」です。神さまが主語ですと、ご自分の契約を思い起こす意味で、人が主語ですと四面楚歌の場面でなお神の救いを望むことです。

2018年度はイースターからスタートしました。今年の主題聖句は東方の博士たちの「先立つ主を見上げつつ、歩み続ける」(マタイ2:9)姿から取っています。これはまさに空の墓の証人たちが生前のイエスの言動を繰り返し心に留めて歩んだことと言えます。教会のあり方をここから聞いていきたいと願います。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストに支えられて」

2018年3月25日

マルコによる福音書14章26-31節

 過越しの食事の後、オリーブ山に出かけたイエスさまは、ゼカリヤ書の言葉を引用し、弟子たち全員が、自分のもとから逃げ去ることを予告します。この躓き予告に対して、ペトロや他の弟子たちは、自分は決して躓かないと断言しますが、いくら自信や自負があっても、人間は恐れや誘惑に対してとても弱い存在であることが、この後明らかになります。人々が、イエスさまを捕えにやって来ると、その混乱の中で、弟子たちは一人残らずイエスさまを見捨てて逃げてしまいます。

 

しかし、イエスさまは弟子たちの弱さをよくご存じで、そのことを責めるのではなく、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われます。「先にガリラヤへ行く」とは、「先に行って待っているよ」という意味ではないでしょうか。イエスさまを失い、悲嘆と絶望にある弟子たちが、イエスさまと一緒に過ごしたガリラヤのことを思い起こし、再び立ち上がることを待っている、という温かいメッセージなのではないでしょうか。イエスさまを裏切った弟子たちは、この言葉によって、傷から癒され立ち直ることができたのではないでしょうか。

 

主イエスは、人間の弱さや限界をよくご存じで、私たちが弟子たちのように大きな失敗をしても、また立ち上がらせてくださいます。教会も同じくその歩みが主によって支えられています。主の支えに信頼しながら、2018年度の歩みを進めていくことができればと思います。〔細井留美〕

        

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「どこにいるのか」

2018年3月18日

ルカによる福音書23章39−43節

 イエスさまのつけられた十字架の両側にいた犯罪人の一人がイエスさまのことを激しくののしります。「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」と。兵士や宗教指導者たちの嘲りとは違い、イエスさまへの希望が完全に崩れ落ちる叫びだったのでしょう。

 

イエスさまは沈黙されます。疲れ切った全身は息衝くため震えています。彼らがイエスさまに期待したメシア像とはかけ離れた姿です。無力で嘲笑われる者として二人と共におられるのです。ヒーローのメシアではありませんが、痛み付けられている彼らの傍に居続けていたのです。このような生き方は、馬小屋の飼葉桶に生まれた時から一貫した主イエスのあり方だったのではないでしょうか。

このような生き方において二人の犯罪人を含め、私たち教会は、神さまから「どこにいるのか」と問われているのだと思います。神さまに背を向け、隣人を殺した最初の人間たちに問いかけられた問いでもあります。それは咎めの問いではなく、慈しみに満ちた、再び生きるようにしてくださる省察を促す問いです。主イエスは痛みのただ中で「赦しの祈り」(34)と「神さまに委ね切る信仰」(46)で彼らを支えてくださっていたのだと信じます。

 

十字架に立ち、「自分たちがどこにいるのか」と「隣人はどこにいるのか」と問われつつ、小さくされた人々、見えなくさせられて人々と一緒に生きる教会となることを切に祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストに従って生きる」

2018年3月11日

フィリピの信徒への手紙3章12−21節

 7年前の今日、東日本大震災と福島原発事故が起きました。「もう7年」、「まだ7年!」、あるいは「時間は止まったまま」と感じ方は多様でしょう。教会はその中で「救い」を捉え直しつつ歩んできているのではないでしょうか。

 

今日の聖書箇所では、狭間を生きる使徒パウロも「わたしは、既に完全な者となっているわけではありません。何とか捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12)と途上の信仰を告白しています。

 

救いとは、十字架上で惨たらしい死に様をさせられたイエスを甦らせた神さまの憐れみによって与えられるものです。決して律法遵守という自分の努力や正しさから勝ち取るものではありません。キリストの神さまへの信頼と服従こそがそれを可能にしたのです。このような恵みに答えて生きるその歩みのただ中で、救われた者へと変えられていくのではないでしょうか。

 

復活させられた主イエスは、愛する弟子たちに自分の十字架をなぜ拒んだのかととがめることをされませんでした。むしろ、釘の跡のある手を差し伸べられ、もう一度一緒に歩もうではないかと招かれているのです。このような主イエスの温かいまなざしに信頼して、この招きに答えて歩みたいと祈ります。主ご自身がわたしたちを捕らえてくださっていることを覚えて歩んでいきましょう。〔魯 孝錬〕

        

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「嘆きを喜びへ変え」

2018年3月4日

エレミヤ書31章10−14節

 神さまはエレミヤを召され、滅亡が差し迫ったユダの人々のところへ遣わされました。エレミヤの言葉を通して、人々はユダ王国の滅亡と捕囚とが、自分たちの神への背きのためだと知り、嘆きました。

 

エレミヤは「イスラエルを散らした方は彼を集め羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と語ります。「散らす」という言葉は、バビロン捕囚に連れて行かれる出来事を意味する一方で、パレスチナにおいて空中で種を蒔く(散らす)という意味をも持っています。この動詞の主語が神さまですと「イズルエル」となりますが、預言者ホセアの長男の名前として神さまの裁きと共に神さまが種を蒔くという希望を同時に伝えている言葉として用いられています。つまり、滅亡と捕囚という嘆きのただ中に神さまによる希望が語られているのです。

 

涙の預言者とも言われるエレミヤの嘆きとは、ほかならぬ民の背きと苦しみに対する神さまのご自身の嘆きでもあるのでしょう。共に苦しむこの神さまの憐れみこそが、捕囚の民を連れ戻す力となっていたのだと信じています。神さまは人々の嘆きを喜びへと変えて、ご自分の民を命がけで守り、養ってくださるとの約束が今日の箇所です。

 

日常が取り戻され、歌と踊りの礼拝が回復されるという主の約束を信じて、十字架の死の先に復活の希望を見上げつつ、このレント(受難?)を過ごしていきたいと祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「」

2018年2月25日

 

        

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「争いと敵意を超えて」

2018年2月18日

創世記26章15-25節

 イサクは飢饉のためペリシテ人の町のゲラルに移り住んでいます。その滞在は、妻を妹と偽らねばならないほど危険極まる寄留者の日々ですが、「寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福」するとの神さまの約束だけが支えであり、希望であったのでしょう。

 

イスラエルの人々にとって「寄留する」とは、エジプトでの奴隷生活を思い出しています。ファラオの幼児虐殺命令に立ち向かい、神さまを畏れ、命を生かした助産師やモーセの母親とお姉さんの挑戦が重ね合わせられています。時の権力に屈せず、命を生かす神さまの業に参与していく生き方こそが、この言葉に込められているのです。

 

自分たちが掘った井戸を簡単にゲラルの人々に奪われますが、イサクは他の井戸を掘り続け、ついには「レホボト(広い場)」と名付ける井戸を掘り当てます。争いと敵意を乗り越えて、広くひらかれた居場所、つまり共に生きる喜びの場を作り出した証だと思います。井戸を掘り続けたイサクの歩みに神さまに従う群れの生き方を示されます。

 

イサクは「ベエル・シェバ」(井戸の町)で神さまの祝福を約束され、この祝福の約束に応答して、祭壇を築き、御名を呼び、天幕を張り、井戸を掘り続けました。私たちの福音宣教もまたこのようなイサクの挑戦に倣い、赤羽における「レホボト」(ひらかれた居場所)を作り続ける営みだと信じています。〔魯 孝錬〕

        

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「キリストによって豊かにされる」

2018年2月11日

Tコリントの信徒への手紙1章6-9節

 パウロは、問題の多いコリント教会のことを「神の教会」(2節)と呼びます。「神の教会」とは、完璧な教会のことではなく、課題はあっても主によって支えられている教会のことを示しているのです。

 

パウロは、ユダヤ人宗教指導者たちの敵意、ユダヤ人キリスト者からのクレーム、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の葛藤など、様々な課題に向き合わなければなりませんでした。しかし、自分の力ではどうにもならない数々の困難の中で、自分自身の弱さの中で働いてくださるキリストの力を経験し、「わたしは弱い時にこそ強い」という確信に至るのです。

 

初代教会時代、異邦人伝道が進む中で聖書が読み直され、神理解が深められていったように、現代の教会も様々な人との出会いの中で、聖書の読み方や、神理解が変えられていくでしょう。それは教会に与えられている豊かさの一つです。違いをもった者たちが関りを持つことには、痛みも伴います。しかし、その痛みをイエスさまが共に担い、教会を支えていてくださいます。

 

9節の「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」とは、欠けだらけの神の教会が、イエス・キリストによって支えられていることを意味しているのだと思います。〔細井留美〕

        

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「恵み深い言葉」

2018年2月4日

ルカによる福音書4章16-30節

 公の働きを始められ荒れ野で40日間の誘惑を退たイエスさまは、一刻も早く故郷の人々に福音の喜びを伝えたかったのかも知れません。ナザレに来られ、会堂でイザヤ書を朗読され、ご自分が神に油注がれた者(メシア、キリスト、救い主)となったことを、「恵みの年」の実現として示されました。

 

「恵みの年」とは、旧約聖書で言及される「ヨベルの年」(レビ25:8以下)のことですが、7年の安息年が7回めぐった翌年(50年目)に、土地を休ませ、嗣業の土地を元の所有者に戻し、奴隷を自由にするといった自分たちが神さまによって解放と自由を得ている原点に立ち帰る年として位置付けられていました。

人々はイエスさまを褒め称えましたが、彼の生まれ育ちを知っていたために逆に信じ難く思ったのでしょう。イエスさまは旧約聖書でエリヤとエリシャがサレプタのやもめとシリアのナアマンにそれぞれ遣わされた話を引用し、故郷で歓迎されない状況を指摘しました。これはヤッファで汚れた獣を食べなさいという幻を見たペトロをはじめ、異邦人が救われる姿に戸惑いを覚えた初代教会の姿に見えます。

主イエスによって私たちの救いの理解がひらかれていくことを信じます。また抑圧され、痛みつけられている人々がキリストによって解放され自由にされることを喜ぶ教会となりたいです。〔魯 孝錬〕

        

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「罪人を招く」

2018年1月28日

マタイによる福音書9章9-17節

 イエスさまは徴税人のマタイを呼ばれました。当時の徴税人はローマ帝国の手先だと言われ、大変嫌われました。差別と嫌悪の対象です。イエスさまはマタイの存在の尊さを認め、その命を生かしてくださったのです。だからこそ、マタイの応答は喜びの応答であって、自らイエスさまを家に招き、友達をも呼び食卓を囲み、交わりました。

 

当時の宗教指導者は徴税人と一緒に食事するイエスさまを咎めますが、イエスさまは「わたしが来たのは罪人を招くため」だと宣言します。私なりに言い直すならば、「あなたがたが徴税人を罪人と決めつけるのであれば、わたしはまさに、あなたがたによって「罪人」よばわりされているこの一人ひとりのために来たのだ。一人ひとりは神さまに造られた尊い命だ。彼らを招き、癒し、立ち上がらせ、家族や共同体の中で生きる日常を取り戻させるために来たのだ。そこに神さまの望んでおられることだ」

 

主イエスの招きは差別されるマタイを解放しただけではなく、当時の宗教指導者たちをはじめ大多数の差別する側の人々をも解放へと招いておられるのだと思います。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」とあるように、主イエスの福音が人々を解放へと導くことを信じて、主に従って歩みたいと思います。〔魯 孝錬〕

        

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「新しくされる恵み」

2018年1月21日

Uコリントの信徒への手紙 5章17-18節

 パウロがコリントの教会を去った後、教会に様々な問題や混乱が生じていたことが、二つの手紙を通して知らされます。その一つは、新しく入ってきたユダヤ主義的キリスト者のパウロ批判、すなわちキリストの弱さを誇り、自分の弱さを誇るパウロの福音理解への批判がありました。パウロとは逆の、強いキリスト理解、この世的な力の強さや優秀さを誇る彼らの主張は教会を大きく揺さぶっていました。パウロは、反論します。

 

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって(力強く)生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱いですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によって(力強く)キリストと共に生きています。」

 

さらに、イエスの苦難と十字架の死によって神に新しく創造された者は、もはやこの世的な力を誇る仕方で人を知ることもキリストを知ることもないのだといいます。弱く、脆く、失敗を繰り返す者でしかないわたしたち人間に、神の方から無条件で和解してくださった。わたしたちはいったい何者なのかが問われます。その恵みにあずかる者を、神は和解のために奉仕する器として用いてくださるのだと、パウロは神の招きを語るのです。こんにち分断が益々深刻化するこの世界で、わたしたち教会はその招きに応え、キリストの恵みを分かち合い、分断されたものが繋がれていくために仕えるものでありたいと願います。弱さの中に働く神の力を信じ、主の助けを祈り求めつつ教会の歩みを進めていきたいものです。〔村上 千代〕

        

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「時宜にかなった助け」

2018年1月14日

ヘブライ人の手紙4章14-16節

 「公に言い表した信仰をしっかり保とうではありませんか」。

 

イスラエルの民はかつて出エジプトを経験した後、荒れ野で「心をかたくなに」したために、神の約束された安息の地(カナン)へ入ることが出来ませんでした(3:8,3:15,4:7)。しかし、神はその約束を「今」更新され、イエス・キリストを通して一緒に歩もうと私たちに手を差し伸べてくださっています。

 

主イエスの誕生や、生涯、死と復活に刻まれているのは、虐げられていた人々の痛みそのものであったのでしょう。だからこそ主イエスは当時の律法によって「罪人」のレッテルをつけられていた、徴税人や、娼婦、病気の人々などの友となって共に食べ、共に歩まれました。初代教会はこの主イエスを想起する中で、イザヤの苦難の僕の預言、つまり「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(イザヤ53:4)ものだと告白するようになったのでしょう。

 

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(16)。

 

主イエスは私たちと共におられ、今も時宜にかなった助けを与えてくださいます。初代教会に対する信仰の励みが、イエス・キリストの生き方に目を向ける時に、時空を超えて甦ります。主イエスに信頼して共に信仰を保ち、大胆に神に近づこうではありませんか。〔牧師 魯 孝錬〕

        

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「主を仰ぎ見つつ」

2018年1月7日

マタイによる福音書2章1-12節

 占星術の学者たちは東方で星を見て、新しく生まれたユダヤ人の王を探してヘロデの宮殿にたどり着きました。礼拝するためでしたが、真逆の展開となり、ヘロデの陰謀の斥候としてベツレヘムに送り出されるはめになりました。ちょうどその時、9節の言葉が響きます。

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(9)

 彼らは途中で星を見失った様子でしたが、これは星が見えなくなったとも、あるいは、王は王宮で生まれるとの先入観で、もう星を見なくなったとも言えるのではないでしょうか。方向を見失った危機に「星が先立って」彼らを導き幼子のいる場所にたどりつかせたのです。私たちも様々な理由で道に迷い、方向を見失うことがありますが、その時は主イエスが先立って進んでおられることを見上げつつ歩みたいものです。

 初代教会は当時の中心の神学を揺さぶったイエスさまの生涯を見上げつつ、誕生物語を伝えていたのではないでしょうか。婚約中の妊娠がばれたら、律法によって石打にされかねなかったと思います。ヨセフとマリアは戸惑い、恐れ、人々からは白い目で見られていたのでしょう。ちょうどその時に東方の占星術の学者たちによって、「大丈夫。あなたは尊い存在」であるとの神さまの励ましの言葉を聞くことができたと思います。私たちもイエスさまの生涯がこのような小さな者たちを励まし生かしてくださったことに向けていきたいと祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

        

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