2019年のメッセージ

「バルティマイの信仰」

2019年3月17日

マルコ10章46-52節

 

 エリコの町の路上に、バルティマイという盲目の物乞いが座っていました。彼は目が見えないことで、罪深い者とみなされ社会から排除されるつらさや一人の人間として認められない悲しさを経験してきたことでしょう。物乞いの彼は、路上を行き来する人々の会話や様子から世の中で起こっていることを、誰よりも敏感に感じ取っていました。当然、イエスさまの噂も耳にしていたはずです。

「ナザレのイエスだ」という言葉を聞いた彼は、大声で叫び始めます。「ダビデの子よ!」。「ダビデの子」とは、救い主を意味します。バルティマイは、イエスさまが抑圧され小さくされた人々を救われる方だと確信し、「救い主だ」と信仰告白したのです。

イエスさまに「何をしてほしいのか」と聞かれたバルティマイは「目が見えるようになりたい」と答えます。「見えるようになりたい」の一義的な意味は、「見上げる」です。彼は「神を仰ぎ見たい」と願ったのです。イエスさまは言われます「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

見えるようになったバルティマイは、イエスさまに従います。受難の道を歩むイエスさまに従うことは、決して楽なことではありません。しかし、バルティマイは、周縁に追いやられている者、小さくされている者が解放される社会の実現を切望して、自分もイエスさまと同じ道を歩むことを選び取ったのです。              〔細井 留美〕

        

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「天地創造」

2019年3月10日

創世記1章1-5節

 

 レント(受難節)の最初の主日に東日本大震災から8年目を迎えます。日本社会は東日本大震災以降を生きています。それまでの価値観が覆され、新たな秩序に渇いています。

 

今日の天地創造物語も国の滅亡とバビロン捕囚という出来事が背景にあります。絶望のどん底から神と自然と人間を捉え直す試みです。著者は大胆にも神告白の手段としてバビロン建国神話を借用します。エヌマ・エリシュのマドォルク(風の神)がティアマト(海の神)戦いと神々の奴隷として人間創造というモチーフを借りつつも、神話性を排除し、一貫性を持つ神、人を愛する神を告白しているのです。

 

混沌と闇の深淵(テホム:ティアマトと同じ語根)に秩序をもたらす神の霊(ルアフー風)は「光あれ」という言葉として響き渡ります。これは、軍事力による戦争と勝利とを最高の価値とするバビロン帝国のあり方を根底から揺さぶり、被造の世界を「良い」と肯定し、人間が神の似姿としてまた神の命の息を吹き入れられて互いに助け合うという、尊い存在として造られたことを訴えているのです。時の権力が見落としていた、ないがしろにしていたものがなんであるのかを怖気づくことなく宣言することによって、バビロンの人々の目も、またイスラエルの目もひらかれる出来事が当時起きていたのではないでしょうか。

 

神の愛の支配に気づかせてくださるイエス・キリストの支えを祈りつつ、レントの期間一人ひとりが整えられますように祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「わたしはぶどうの木」

2019年3月3日

ヨハネによる福音書章15章1-11節

 

 「わたしは真のぶどうの木である」とイエスさまは言われます。「ぶどうの木」とは、当地では誰もが日常的に見られる植物であると同時に、旧約聖書で神の民の象徴でした。人々はこの言葉に、新しい主の民の創造が直結していたことを実感していたのでしょう。

 

1節では「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、また5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。イエスさまは神さまとご自分の関係をご自分と弟子たちの関係のモデルに示していたと思います。そして弟子たちがご自分とつながって、ご自分の言葉に留まっていることを望んでいたのでしょう。

 

枝は木につながって栄養を受けてはじめて成長でき実が結ばれます。木と離れた枝は枯れて実を結ぶことができません。イエスさまの言葉に突き動かされ、従っていくことがまさにイエスさまというぶどうの木につながる意味です。忘れてはならないのは、イエスさまは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」とご自分が弟子たちに、また私たちにつながっていると約束に支えられていることです。

   

結ばれる「実」とは、生きづらさを抱えている今の時代に、教会が傷ついた人々のいやしの場となることでしょう。数が増えることだけではありません。神さまの働きを信じ、イエスさまに支えられて、自分と人の尊さに気づかされ、互いの違いの豊かさに目がひらかれていく教会となることを心から祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「何を見に行ったのか」

2019年2月24日

マタイによる福音書11章1-15節

 

 イエスさまの到来を大変喜んでいたバプテスマのヨハネでしたが、獄中でイエスさまの働きを聞くと揺れてしまい、イエスさまが本当に待っていたメシアなのかと弟子たちを使って尋ねさせます。

 

イエスさまは彼らに淡々と「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えられます。イザヤの預言が実現され、命と尊厳が回復されていることを伝えます。

 

イエスさまは群衆に対して「何を見に荒れ野に行ったのか」と3度も問うことを通して、バプテスマのヨハネが救い主の道を整えた「使者」であり、「預言者」であることを想起させます。イエスさまはバプテスマのヨハネの存在を認めると共に、ご自分と一緒に新しい共同体を目指す人々は天の国ではバプテスマのヨハネより大きいとご自分の下に来る一人ひとりの存在の尊さも認めてくださったことに驚きます。なぜならイエスさまの周りに集まった人々は当時の宗教価値観では罪人とレッテルが貼られていたからです。

当時の宗教価値観を翻し神の愛の支配を生きられたイエスさまこそ、神の国を激しく襲う者ではないでしょうか。神の国は誰かが定義づけてくれるものではなく、神の愛の支配を信じて生きる歩みに見出される関係の中にあるのではないかと思わされます。〔魯 孝錬〕

        

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「分かち合う生き方へ」

2019年2月17日

ヨハネによる福音書5章1-30節

 

 「ベトザタ」では、病のために社会から排除された人々が癒しを待っていました。この、祭りでにぎわう神殿とは対照的な場所に、イエスさまは目を留め、38年間も病で苦しんできた人に「起き上がりなさい」と声を掛けます。すると、その人はイエスさまの言葉によって、自分で起き上がり、新たな歩みを歩み出します。それは、まるで彼を排除し苦しめているユダヤ教の縛りの中から、彼自身が立ち上がったかのようでした。起き上がり、歩み出した時、彼は、大きな喜びに満たされたことでしょう。

イエスさまは、神殿の中で再会したこの人に言います。「あなたは、良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」。イエスさまが言う「もう罪をおかしてはいけない」とは、「私が誰であるのに気が付かないままではいけない、私が誰なのかを認めなさい」という意味ではないでしょうか。イエスさまは、彼がユダヤ社会に再び受け入れられることだけでなく、彼自身がユダヤ教の規定に縛られない新しい生き方を歩むことを望まれたのではないかと思います。それは、単に神殿に出入りできるようになったことを喜んで終わるのではなく、いまなお神殿に入ることが許されない、かつての彼のようにベトザタの池の周りに横たわっている人たちに、「起き上がりなさい。大丈夫。あなたはイエスによって癒されている」と、自分のいただいた恵みを分かち合っていく生き方なのではないかと思います。〔細井 留美〕

        

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「ヨセフが見た夢」

2019年2月10日

創世記37章5-11節

 

 父親に偏愛され、兄たちに憎まれていたヨセフがある日夢を見ました。「兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏している」と。ヨセフはこの夢を兄弟に話したことでますます憎まれます。

 

これを引き金にヨセフは兄たちに命を狙われ、エジプトに売り飛ばされ、異郷の地で奴隷とされ、濡れ着を着せられ牢屋に入れられていくのです。とんでもない展開ですが、聖書は「神が共におられた」と解釈します。ヨセフは牢屋で夢を解いてあげたことがきっかけで、エジプト王ファラオの夢を解き7年の豊作と7年の飢饉のことを伝えます。ヨセフは対策を講じる責任を任され大臣となり、飢饉の時エジプトに来た兄たちと再開し、色々と兄たちを試したあげく自分の身を明かします。

 

試しのやりとりは、ヨセフの傷がいやされ、兄たちの罪が赦されていくプロセスだったと思います。そしてヨセフは兄弟間の深い傷を「命を救うために神がわたしを先にあなたより先にお遣わしになったのです」と(45;5)、また「あなたがたはわたしに悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの命を救うために、こんにちのようにしてくださったのです」(50:20)と、告白し、神の救いと和解の出来事として過去を捉え直します。これは族長物語を読む視点でもあります。

   

ヨセフの夢の背後には神さまの「救い」の出来事が隠されていました。わたしたち一人ひとりの人生に、また教会の歩みにおいても主の計らいがあることを信じ、一歩一歩進めていきたいと思います。 〔魯 孝錬〕

        

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「わたしは道である」

2019年2月3日

ヨハネによる福音書14章1-14節

 

 イエスさまは、師の不在予感に恐れる弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われ、「わからない」、「御父をお示しください」と目に見える保証を求めるトマスやフィリポに、「その道をあなたがたは知っている」(4)「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9)と、弟子たちを支え、励ましたのです。

 

しかし初代教会がこのようなイエスさまの支えと励ましに気づかされたのは、イエスさまの死と復活を経験してからのことです。それから70年以上経った時に、ヨハネ教会の人々はユダヤ教とローマ帝国による厳しい迫害やグノーシス主義による神学危機に直面して再びこの場面を想起し、「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と弟子たちを支え励ましたイエスさまの言葉に耳を傾けていると考えられます。そういう意味では、これはイエスさまの自己啓示であると同時に、ヨハネ教会の「信仰告白」でもあるのです。

 

「道、真理、命」とは、イエスさまの存在そのものを意味します。決してノウハウではありません。「飼い葉桶に生まれた神の子」や「子ろばに乗ってエルサレムに登る救い主」、「十字架で処刑されたユダヤの王」の姿に端的に現れています。2000年も経った今日において、私たちは何事に不安や恐れを感じているのでしょうか。そのような時にこそ、イエス・キリストに目を向け、聖霊(ヨハネは「弁護者、パラクレートス」(助け手として呼ばれた者の意」の単語を使っていますが)に助けられながら歩みつづけていきたいと祈ります。(魯 孝錬)

        

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「キリストと共にバプテスマ」

2019年1月27日

ローマの信徒への手紙6章6-11節

 

 パウロは罪深い自分に神の恵みがなお満ちあふれた(5:20)と告白しましたが、論敵は言葉尻を捉えて、恵みが増すように罪の中にとどまるべきだ(6:1)と主張します。このような詭弁に対してパウロは「罪に対して死んだ者は、罪の中に生きることはできない」ときっぱりと答え、人々にバプテスマを想起させます。

 

バプテスマとは、水の中に沈められることによって古い自分がキリストと共に死に、水から引き上げられることによってキリストと共に新しい命を生きることを体で証する場です。キリストと共に死にキリストと共に新しい命を生きる者は、罪の中にとどまることはできません。

 

バプテストという教派は、その発生当時(1610年頃)伝統的教会から「バプテスマ(水に浸す)を頑なに主張する奴ら」という軽蔑されていました。しかし彼らはその批判と迫害を引き受けて、なお自覚を持った信仰告白と、浸礼によるバプテスマにこだわり続けました。そしてその中で、自ら身を低くかがめて、人々からの冷たい軽蔑の視線、裁く視線をご自分のものとして引き受けられ、弱者を憐れみ宗教や社会構造の矛盾に立ち向かった主イエスが共に歩まれることを実感したのでしょう。

   

バプテスマは信仰の仲間が一人増えた喜び以上の意味があります。教会の一人ひとりがイエス・キリストの共に歩んでくださることを想起し、主イエスに従って生きる決断を新たにする恵みの場でもあるからです。〔魯 孝錬〕

        

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「生きた水の泉」

2019年1月20日

ヨハネによる福音書7章37-39節

 

 仮庵祭の期間中、どれほど多くの水が祭壇に注がれても、イエスさまの目には、人々の魂が渇いているように見えたのでしょう。イエスさまは、大声で人々に向かって叫びます。

 

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」

 渇きの原因は、人々が神さまの愛から大きく離れていることにありました。神さまに立ち返る時、人の魂は本当の意味で潤され、渇かないばかりか、その人の内で永遠の命が泉となってわき出ていく。人々が真に活き活きと生きるために神さまに立ち返ってほしい、そう切実に願っての説教でした。

 

水は、あらゆるものを生かすと同時に、ものをきれいにする力も持ちます。聖書では、罪を洗い清めるものとしても語られています。人々が本当に幸せに活き活きと生きるためには、人々の命の尊厳が守られることが必要です。そのためには、神さまの心から大きく離れいるユダヤ社会を、変革していく必要がありました。だからこそ、イエスさまは、人々を苦しめている律法解釈に対峙し、本来の律法の意味を示し、神さまの愛の真意を人々に伝えたのです。

私たちもまた、一人ひとりが本当に活き活きと生きるためには、社会の中で痛みを覚えている人々の人権の問題に関心を持ち、社会を変えていく必要があるでしょう。〔細井留美〕

        

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「神の民となる」

2019年1月13日

エゼキエル書37章15-23節

 37章で預言者エゼキエルは、バビロン捕囚時代において神の救いを、枯れた骨の生き返る幻と、二つの木を手の中で一つのように合わせる象徴行為とを、セットにして語っています。

預言者の行動は、ユダ(南)と書いた木と、ヨセフ(北)と書いた木が一つとなる、つまり枯れた骨が生き返る驚くべき神の救いとは、南ユダと北イスラエルとが一緒に神の民となるという意味です。これは南の人々にとっては大きなチャレンジだったのでしょう。なぜなら、南北王国の歴史は神の民としての正当性を主張し合った対立だと言えるからです。

「神の救い」は捕囚の民にとって、希望であると同時にチャレンジでした。かつて出エジプトの出来事が奴隷状態からの解放であると同時に、未知の荒れ野生活のチャレンジ出会ったように。さらに初代教会もユダヤ人の枠をはるかに超えて異邦人と共に教会を建てるというチャレンジを受けていたのでしょう。「キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し...キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ」(エフェソ2:14-22)とあるように、「神の民」となることは、キリストの体としての「教会」となることを意味します。

教会を建てていくことは画一となりがちですが、むしろ体の各部分のように多様性と有機性の中で、キリストを頭とする体としての「教会」を、それぞれの分に応じて形成していくことを祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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「復活と命の主イエス」

2019年1月6日

ヨハネによる福音書11章17-27節

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25-26節)

これはラザロの死後4日も経って到着したイエスさまが、弟の死を残念がるマルタに、終末の復活の出来事がご自分を通して「いま、ここで」先取りしているのだという主イエスの証です。

ラザロの死は、形しか残っていないユダヤ教に縛られ、諦めを強いられていた当時の人々の現実を端的に表しているのでしょう。人々はラザロの死からもう四日も経って匂っていると諦め、盲人の目を開けた人もラザロの死はどうすることもできなかったのかと嘲笑しています。主イエスは、その死に支配され「生」を諦めている人々の現実を憐れまれ、ラザロの墓の前に立ち「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。「死」の敗北と「新しい生」の創造です。人々はイエスさまの十字架の死と復活を通して、この出来事を想起したことでしょう。

イエスさまはもうダメだと諦める人々に「石を取りのけなさい」と言われ、墓から出てくるラザロを見て怖がっている人々に「手足の布をほどいて行かせなさい」と言われました。我々に新しい命を与えられるイエス・キリストを見上げ、諦めと恐怖を超えて主の救いの出来事に参与していく教会でありたいと祈ります。〔魯 孝錬〕

        

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