2019年のメッセージ

「わたしは道である」

2019年2月3日

ヨハネによる福音書14章1-14節

 

 イエスさまは、師の不在予感に恐れる弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われ、「わからない」、「御父をお示しください」と目に見える保証を求めるトマスやフィリポに、「その道をあなたがたは知っている」(4)「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9)と、弟子たちを支え、励ましたのです。

 

しかし初代教会がこのようなイエスさまの支えと励ましに気づかされたのは、イエスさまの死と復活を経験してからのことです。それから70年以上経った時に、ヨハネ教会の人々はユダヤ教とローマ帝国による厳しい迫害やグノーシス主義による神学危機に直面して再びこの場面を想起し、「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と弟子たちを支え励ましたイエスさまの言葉に耳を傾けていると考えられます。そういう意味では、これはイエスさまの自己啓示であると同時に、ヨハネ教会の「信仰告白」でもあるのです。

 

「道、真理、命」とは、イエスさまの存在そのものを意味します。決してノウハウではありません。「飼い葉桶に生まれた神の子」や「子ろばに乗ってエルサレムに登る救い主」、「十字架で処刑されたユダヤの王」の姿に端的に現れています。2000年も経った今日において、私たちは何事に不安や恐れを感じているのでしょうか。そのような時にこそ、イエス・キリストに目を向け、聖霊(ヨハネは「弁護者、パラクレートス」(助け手として呼ばれた者の意」の単語を使っていますが)に助けられながら歩みつづけていきたいと祈ります。(魯 孝錬)

        

page top ↑

「キリストと共にバプテスマ」

2019年1月27日

ローマの信徒への手紙6章6-11節

 

 パウロは罪深い自分に神の恵みがなお満ちあふれた(5:20)と告白しましたが、論敵は言葉尻を捉えて、恵みが増すように罪の中にとどまるべきだ(6:1)と主張します。このような詭弁に対してパウロは「罪に対して死んだ者は、罪の中に生きることはできない」ときっぱりと答え、人々にバプテスマを想起させます。

 

バプテスマとは、水の中に沈められることによって古い自分がキリストと共に死に、水から引き上げられることによってキリストと共に新しい命を生きることを体で証する場です。キリストと共に死にキリストと共に新しい命を生きる者は、罪の中にとどまることはできません。

 

バプテストという教派は、その発生当時(1610年頃)伝統的教会から「バプテスマ(水に浸す)を頑なに主張する奴ら」という軽蔑されていました。しかし彼らはその批判と迫害を引き受けて、なお自覚を持った信仰告白と、浸礼によるバプテスマにこだわり続けました。そしてその中で、自ら身を低くかがめて、人々からの冷たい軽蔑の視線、裁く視線をご自分のものとして引き受けられ、弱者を憐れみ宗教や社会構造の矛盾に立ち向かった主イエスが共に歩まれることを実感したのでしょう。

   

バプテスマは信仰の仲間が一人増えた喜び以上の意味があります。教会の一人ひとりがイエス・キリストの共に歩んでくださることを想起し、主イエスに従って生きる決断を新たにする恵みの場でもあるからです。〔魯 孝錬〕

        

page top ↑

「生きた水の泉」

2019年1月20日

ヨハネによる福音書7章37-39節

 

 仮庵祭の期間中、どれほど多くの水が祭壇に注がれても、イエスさまの目には、人々の魂が渇いているように見えたのでしょう。イエスさまは、大声で人々に向かって叫びます。

 

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」

 渇きの原因は、人々が神さまの愛から大きく離れていることにありました。神さまに立ち返る時、人の魂は本当の意味で潤され、渇かないばかりか、その人の内で永遠の命が泉となってわき出ていく。人々が真に活き活きと生きるために神さまに立ち返ってほしい、そう切実に願っての説教でした。

 

水は、あらゆるものを生かすと同時に、ものをきれいにする力も持ちます。聖書では、罪を洗い清めるものとしても語られています。人々が本当に幸せに活き活きと生きるためには、人々の命の尊厳が守られることが必要です。そのためには、神さまの心から大きく離れいるユダヤ社会を、変革していく必要がありました。だからこそ、イエスさまは、人々を苦しめている律法解釈に対峙し、本来の律法の意味を示し、神さまの愛の真意を人々に伝えたのです。

私たちもまた、一人ひとりが本当に活き活きと生きるためには、社会の中で痛みを覚えている人々の人権の問題に関心を持ち、社会を変えていく必要があるでしょう。〔細井留美〕

        

page top ↑

「神の民となる」

2019年1月13日

エゼキエル書37章15-23節

 37章で預言者エゼキエルは、バビロン捕囚時代において神の救いを、枯れた骨の生き返る幻と、二つの木を手の中で一つのように合わせる象徴行為とを、セットにして語っています。

預言者の行動は、ユダ(南)と書いた木と、ヨセフ(北)と書いた木が一つとなる、つまり枯れた骨が生き返る驚くべき神の救いとは、南ユダと北イスラエルとが一緒に神の民となるという意味です。これは南の人々にとっては大きなチャレンジだったのでしょう。なぜなら、南北王国の歴史は神の民としての正当性を主張し合った対立だと言えるからです。

「神の救い」は捕囚の民にとって、希望であると同時にチャレンジでした。かつて出エジプトの出来事が奴隷状態からの解放であると同時に、未知の荒れ野生活のチャレンジ出会ったように。さらに初代教会もユダヤ人の枠をはるかに超えて異邦人と共に教会を建てるというチャレンジを受けていたのでしょう。「キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し...キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ」(エフェソ2:14-22)とあるように、「神の民」となることは、キリストの体としての「教会」となることを意味します。

教会を建てていくことは画一となりがちですが、むしろ体の各部分のように多様性と有機性の中で、キリストを頭とする体としての「教会」を、それぞれの分に応じて形成していくことを祈ります。〔魯 孝錬〕

        

page top ↑

「復活と命の主イエス」

2019年1月6日

ヨハネによる福音書11章17-27節

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25-26節)

これはラザロの死後4日も経って到着したイエスさまが、弟の死を残念がるマルタに、終末の復活の出来事がご自分を通して「いま、ここで」先取りしているのだという主イエスの証です。

ラザロの死は、形しか残っていないユダヤ教に縛られ、諦めを強いられていた当時の人々の現実を端的に表しているのでしょう。人々はラザロの死からもう四日も経って匂っていると諦め、盲人の目を開けた人もラザロの死はどうすることもできなかったのかと嘲笑しています。主イエスは、その死に支配され「生」を諦めている人々の現実を憐れまれ、ラザロの墓の前に立ち「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。「死」の敗北と「新しい生」の創造です。人々はイエスさまの十字架の死と復活を通して、この出来事を想起したことでしょう。

イエスさまはもうダメだと諦める人々に「石を取りのけなさい」と言われ、墓から出てくるラザロを見て怖がっている人々に「手足の布をほどいて行かせなさい」と言われました。我々に新しい命を与えられるイエス・キリストを見上げ、諦めと恐怖を超えて主の救いの出来事に参与していく教会でありたいと祈ります。〔魯 孝錬〕

        

page top ↑