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先週のメッセージ

「この人は神の子」

2021年3月28日

マタイによる福音書27章45~56節

   

 弟子たちはイエスさまを捨てて逃げました。イエスさまは神さまに希望をかけて、最後まで望みました。しかし、神さまは返事がなく、イエスさまは一人で十字架に架けられました。 

第1に、イエスさまは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)と叫ばれます。詩編22編と一緒で神さまを讃美する解釈もありますが、これは途方に暮れているイエスさまの叫びです。絶望のどん底に狼狽えてしまう、イエスさまの必死の思いです。あらゆる理不尽さをすべて身に背負っています。

第2に、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(51節)と、あります。大祭司のみが年1回入って、すべての人の罪を動物に移して許してもらうのです。垂れ幕は大祭司と民を徹底的に区分します。しかし、外国人たちがイエスさまを通して、神さまに礼拝するようになったのです。イエスさまは死んで、救いが世界に広がったのです。

第3に、百人隊長や、一緒に見張りをしていた人々は「本当に、この人は神の子だった」(54節)と言われました。この間には断絶や、隔たりがあります。イエスさまの死が、時と場を超えて「今」私に迫ってくるのです。十字架上の無惨な死と、垂れ幕が二つに裂けたことを通して、この人は神の子だったと告白します。これが私たちの信仰告白です。

   

 イエスさまの十字架は、私の罪であり、その救いの恵みです。この罪と恵みを吟味しながら、受難週を過ごしましょう。

〔魯孝錬〕〕

「主に倣う救い主を見る」

2021年3月21日

ヨハネによる福音書13章1~17節

   

ご自分の死が近いことを悟ったイエスさまは、食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めます。体の中で一番汚れる足を洗うのは奴隷の仕事です。イエスさまの行動に弟子たちはとても驚いたでしょう。「わたしの足など、決して洗わないでほしい」と、拒否するペトロにイエスさまは言われます「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。 

イエスさまが、弟子たちの足を洗われたのには、二つの意味があると思います。ひとつは、私たちは皆、自分の弱さ、罪をイエスさまの前に出し、それをイエスさまにゆるしてもらう必要があるということです。もしも、私たちが、自分の弱さをイエスさまの前に出さないのであれば、それは、イエスさまを救い主として受け入れていないということです。

イエスさまは、弟子たちの弱さを良くご存じだからこそ、前もって、弟子たちの足を洗い、その弱さをゆるされたのでしょう。

 弟子たちの足を洗い終わったイエスさまは、再び食事の席に着かれ、言われます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。ここに、もう一つの意味があります。イエスさまが弟子たちを愛されたように、弟子たちも互いに愛し合わねばならないのです。その「愛」は、相手を自分よりも優れた方だと考え、仕える愛、相手の弱さを受け入れ、ゆるす愛です。イエスさまは愛の模範を弟子たちに示されたのです。イエスさまの言葉を、受け止め、互いに愛し合う生き方へと押し出されていきましょう。  

   

〔細井留美〕〕

「主に遣わされて」

2021年3月14日

マルコによる福音書5章1~20節

   

私たちクリスチャンはそれぞれ宣教の使命が与えられています。主の導きによって一人ひとり異なる道が用意されています。このゲラサの男のように実は私たちもまた神様から遣わされた者の一人です。時には、神様に懇願しても思い通りに神様の道を歩むことができないことがあるかもしれません。

しかし、そのような時神様は決して私たちに悪意を持ってそのようなことをしているわけではありません。ゲラサの男は一人孤独に、決して容易ではない伝道の使命に召されましたが、イエスがその地で宣べ伝えるよりも最善だと考えられた結果そのようにされました。

神様はご自身の目から見て、私たち一人一人に相応しい、良いとされる時と場所に遣わされています。それは他の人には担えない、あなただから出来る宣教です。

 私たちはそれぞれの思いを持ち、主の導きによって何かしらの形で神様に仕えています。神様は一人ひとりに相応しい場へ遣わされますが、もしかしたら自分が歩もうと思っていた道でなく、困難に思えるような道に導かれるかもしれません。

   

しかし神様は、他の誰でもない私たちだからこそ成し遂げられる使命を与えられるのです。受難節にあたり、主イエスに罪を赦されたものとして、愛されているものであることを思い巡らした上で、主イエスがなしてくださったことが身をもって証することができればと思います

〔郭修岩〕

「救い主を見る」

2021年3月7日

マルコによる福音書10章46~52節

   

イエスさまがエリコの町を出ると、道端に座っていた盲人の物乞い、バルティマイが大声で叫び始めます。バルティマイは、町の中ではなく、町の城壁の外側にいました。エリコの共同体に加わえられることなく、周縁で暮らしていたのでしょう。城壁の外で物乞いをしながら、町の外からの情報に接していたでしょう。

その中には、イエスさまの噂もあり、イエスさまがどういう方であるのかを思いめぐらす中で、彼こそは救い主「ダビデの子」であるという確信に至ったのでしょう。バルティマイは、イエスさまと出会う日を、待ち望んでいたはずです。そのイエスさまが目の前にいると知り、彼は大声で叫びます。「ダビデの子イエスよ」。これは、主告白です。バルティマイには、イエスさまが救い主であることが見えていたのです。

バルティマイは、様々な苦しみや悔しさを抱えながら生きていたのでしょう。彼は「憐れんでください」と叫び、助けて欲しいという気持ちを、率直にイエスさまにぶつけます。すると、イエスさまはバルティマイに尋ねます「何をしてほしいのか」。バルティマイは迷わず答えます「目が見えるようになりたいのです」。イエスさまに願うことを、決めていたのかもしれません。彼のイエスを救い主と信じて揺るがない信仰が、彼を救います。

目が見えるようになったバルティマイは、イエスさまに従います。彼が見えることを願ったのは、イエスさまに従って行くためであったのかもしれません。恵みへの応答です。私たちは、いただいた恵みに応えて、どのように生きることができるでしょうか。

   

〔細井留美〕〕

「しるしを付けられた」

2021年2月28日

創世記4章1~16節

   

神さまにカインは土の実りを、弟アベルは羊の中で肥えた初子を献げました。二人の献げ物は差異がありません。しかし、神さまはアベルの献げ物だけを受け取りました。なぜでしょうか?

第一に、神さまはカインに「お前はそれを支配せねばならない」と言われました。カインは自分が何を求めているか考えました。そしてカインは弟アベルを殺しました。これには当時農耕民が牧羊民より優位に立っていましたが、これが何かの拍子に逆転し、そのことに腹を立てた農耕民カインが、牧羊民アベルを殺しました。

第二に、神さまは「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言われます。カインはそうなると、わたしを殺されると言います。神さまはカインが「さまよい、さすらう者」となることを通して、自分の罪と向き合うことを願いました。カインは殺されることを怖がりますす。

第三に、神さまは「カインを殺す者は、だれであれ、七倍の復讐を受けるであろう」 と言います。神さまはカインを生かしました。カインの恐れを遙かに超えて「命」が続けられます。神さまはカインに「しるし」を与えられましたが、その意味は、①カインが弟の殺人を、心から反省することです。②カインの命が守られることです。

   

今まで見えなかったことを見て行きたい、分かち合いたいと思います。カインにも生きることが与えられたように、私にも生きることが求められています。私の人生を通して、神さまの愛を証して生きます。

〔魯 孝錬〕〕

「神に信頼して歩みだす」

2021年2月21日

創世記12章1~9節

   

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」これまで、父テラに従って生きてきたアブラムに、神さまは、新たな生き方を示されます。アブラムは、自分の生きる意味を神さまに問うていたのかもしれません。自分は何者なのですかと問うアブラムに神さまは、わたしが示す地に行きなさい、と呼びかけます。私と一緒に歩んでいこうという招きです。

さらに神さまは言われます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神さまは、彼の生きる意味も示されたのです。一人の外国人に過ぎないアブラムを通して地上のすべての氏族を神さまの祝福に導くことを神さまは約束されたのです。神さまに従って生きる時、人生には新たな意味が与えられます。神さまの呼びかけを受けて、アブラムはハランを出発します。アブラムが、歩みだすことを決断できたのは、神さまの言葉に信頼することができたからでしょう。

神さまを信頼して歩みだしたアブラムに、「あなたの子孫にこの土地を与える」と神さまは約束されます。約束はアブラムでなく、アブラムの子孫に成就します。アブラムの歩みを見る時、私たち信仰者も一人一人神さまと共に歩む旅の途上にあることを教えられます。

私たちが約束の成就をはるか先に見ながら、新たな場所でも、あなたを礼拝し、その地域の人々の祝福の源となっていくことができることを心から願います。

   

〔細井留美〕〕

「キリストにおいて」

2021年2月14日

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

   

キリストにおいて、結ばれて、隔ての壁が壊され、分断が解かれる。・キリストにおいて、キリストの平和に結ばれて、二つのものが一つとなる。キリストにおいて、キリストの平和に結ばれて、一つとなった私たちは、神との和解が与えられる。

このことが、日々、繰り返し、繰り返し、出会いと交わりの中で起こされ、わたしたち、教会は建てあげられていきます。敵対や排除ではなく、関心を寄せあい、支え合うものとなるのです。時に忍耐を伴う経験を通して、平和を知らされて、神に近づき、神と和解し、平和を実現するものとなります。 キリストご自身が、その伴いが、すべての土台であり、出発点です。

神は分け隔てをなさらない。教会と教会の外という、区別はない。世界中どこでも神の恩寵が支配している。クリスチャンだけが、聖ではありません。すべてが聖であり、すべてが俗であり、すべてが聖となる場所であり、すべてが俗といえる場所となる。

教会も、弱い人の集まり。時には、傷つけ合う場ともなってしまう。だからといって、それで良しとしていては、教会は誰の居場所にもなれません。 安心な場所になれません。教会は、最も低みにある場所の一つ。その低みにイエスさまがとことん付き合っていてくださっています。キリストにおいて、やっと教会はイエスの一つ体となっていくことができます。

   

教会という、その低くされた場所で、与えられる出会い。キリストにおいて、痛み、悲しみ、喜びを共に感じ分け合うことができます。その体験の中で、教会は日々新たにされ、教会となっていくことができるのではなでしょうか。

〔米本裕見子〕

「キリストの体として」

2021年2月7日

コリントの信徒への手紙1 12章12~26節

   

パウロは教会に様々な人がいることを否定的にはとらえず、むしろそのことを積極的にとらえているように思います。パウロは、教会をキリストの体にたとえます。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っている」(14)とは、教会には同じ価値観の人々だけがあつめられているのではなく、神さまによって様々な賜物を授けられた、多種多様な人々がいるということです。体に必要のない部分がないように、教会に集められた一人一人も、キリストの体にとってかけがえのない存在です。

しかし、多種多様な人々が体として一致することは、簡単なことではありません。体として一致するとは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26)ことでしょう。他者の痛みを自分の痛みとし、他者の喜びを自分の喜びとすることです。

パウロはもっとも大きな賜物は「愛」だと語ります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4-7)。教会がキリストの体として一つになるためには、愛の賜物が必要なのです。

教会が体として一致するためには、相手を自分のように大切に思う必要があるでしょう。そして、相手のことを知ろうとすること、その人が置かれている状況、考え方、習慣などを理解することが大切です。それが難しい場合でも、排除しないこと、価値観が違っても一緒にいるということが大切だと思います。私たちは、キリストを救い主として告白し、バプテスマを受けたその点において一致することができるのです。

   

〔細井留美〕〕

「イエス・キリストを土台として」

2021年1月31日

コリントの信徒への手紙1 3章10~11節

   

私は、私に与えられた神の恵みに従って、建築家たちのうちの知者のようにして、土台を据えた。他の者は、その上に建築するのである。しかし各自は、どのようにその上に建築するか、注意しなさい。なぜならば、〔すでに〕横たわっている土台以外に他の土台を据えることは、誰にもできないからである。その土台とはイエス・キリストである。

イエス・キリストの土台の上に、私たちは、それぞれの個性や賜物をいただきながら、神と自由に交わるもの・祈るものとして建てあげられていきます。イエス・キリストの土台の上に、一つの「キリストのからだ」教会が立てあげれていくのです。それは、決して完全なものではありませんが、完成を目指して成長へと導かれています。

私たちが、どれほど揺さぶられても、神はびくともしません。イエス・キリストを土台としていれば、決して吹き飛ばされることはありません。「恐れるな、わたしが共にいる」と叫ばれるイエス・キリストは、今も、最も低みで、最も惨めな姿・十字架にかかられています。この世の常識からすれば、これほどみじめで弱々しい土台はありません。しかし、苦しみと涙を引き受け、今も共に苦しんでくださるこのお方ほど、私たちの間で和解と癒しをもたらす強固な土台はありません。

境界線を越えて、蔑まれ苦しむ人々と連帯し生き抜かれ、十字架を背負われたイエス・キリストの土台の上に生かされているのならば、私たちは、神を信頼し、神のもとで出会う隣人を信頼し、神のわざの証し人として、招かれ、変えられていきます。

   

格差と貧困がより顕著になっているこの格差社会の不条理の中で、これから私たち、キリストのからだ(教会)は、神から何を託され使命とするのか。「私たち」だけのためではなく、この先に出会う人々、特に今コロナ下で苦しみ、孤独を抱えている方がたを覚え、多様な人々と共に生きるため、キリストの霊に満たされつつ導かれていきたいと願います

〔米本裕見子〕〕

「弟子たちはイエスを信じた」

2021年1月24日

ヨハネによる福音書2章1~22節

   

ヨハネ共同体は、外部的にはユダヤ教からの異端とされ、内部ではグノーシス主義(一言で言えば、霊は良い、肉は悪いという二元論)が広がっていました。

第一に、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった(6節)とあります。イエスは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われ、「さあ、それを宴会の世話役に持っていきなさい」と言われました。水はぶどう酒に変わっていました。ユダヤ教にある差別を、イエスが誰でも喜ぶ姿に変えられた話です。

第二に、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)とあります。ユダヤ教の神殿を、イエスの体と比較します。46年も掛かった神殿を、3日で建て直すと言うのです。イエスという神殿は、枠の外にいる人々を抱きしめるものです。

第三に、「弟子たちはイエスを信じた」(11節)とあり、「弟子たちは、…聖書とイエスの語られた言葉を信じた(22節)とあります。信仰は行動を伴います。一度はイエスを裏切った弟子たちですが、復活したイエスに出会い、変わらぬ信仰をいただきました。繰り返し自分の失敗を覚えて復活の主と共に大胆に歩んでいきましょう。

   

復活のイエスが自分の救い主であることを吟味します。ユダヤ教の清めの水を、ぶどう酒に変えられた主イエスを、ユダヤ教の神殿を壊して三日で建て直すと言った主イエスを信じます。私たちはまた失敗するかも知れませんが、イエスの死と復活に希望をおいて何度でも新しく歩みましょう。

〔魯孝錬〕〕

「網を捨てて従う」

2021年1月17日

マルコによる福音書1章14~20節

   

イエスさまは、ガリラヤから宣教活動を始められます。イエスさまは言われます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。ギリシャ語の「悔い改め(メタノイア)」の文字通りの意味は、「方向転換」です。「思いや心が変化」すること、またそれに伴って「行いが変化」することを意味します。「悔い改めて、福音を信じなさい」という呼びかけは、搾取され貧しさの中で、日々明日の食べ物をどうするかを悩みながら生きる人々に、生き方を変えること、すなわち神さまに信頼して生きることを呼びかけるものです。

イエスさまが、ガリラヤ湖のほとりを歩いていると、漁をしている人たちに出会います。 彼ら漁師もまた、王室や大土地所有者によって搾取されている人々です。網を打つシモンとアンドレにイエスさまは言われます。「わたしについて来なさい」。これはまさにメタノイア(方向転換)の呼びかけです。今の生き方から方向転換して、わたしに信頼してついて来なさい、とイエスさまは呼びかけます。

「二人はすぐに網を捨てて従」います。彼らの人生において、もっとも大切なものの一つである網を彼らは捨てて、イエスさまに従ったのです。イエスさまに従うとは、自分が大切にしてきたもの、信頼してきたもの、仕事や生活、知識、能力、価値観に頼ることをやめて、イエスさまに信頼し、すべてをゆだねて歩むことなのです。

イエスさまは、私たちが大切だと考えていたものを、ただ「捨てなさい」、「方向転換しなさい」と言うのではありません。「わたしについて来なさい」と言うのです。それは、「わたしと一緒に生きよう。私があなたと一緒に生きる。」という呼びかけです。共に歩んでくださるイエスさまに信頼して歩む生き方への招きなのです。

   

〔細井留美〕〕

「再出発させてくださる神」

2021年1月10日

列王記上19章9~13節前半

   

私が日本にきてから現在に至るまで、ずっと頭の中を巡っているひとつの言葉があります。それは「わからない」という言葉です。今日までに、多くの「わからない」と私は出逢いました。エリヤという人物も、多くの「わからない」と向き合い、葛藤した人物でした。

複雑な心境、そしてわからないという気持ちを抱えながら、エリヤは主の山へと逃げて、主である神に自分の思いをぶつけました。しかし、エリヤがぶつけたひとつひとつの思いに対し、主は聞き心地の良い慰めの言葉や、励ましの言葉は与えませんでした。主は慰めのことばを用いて、一時的に彼を慰めることよりも、使命に就かせることによって、エリヤを「神の人」として用いて、生かしたのです。 

私たちは、「わからない」という気持ちを受けとめてくださり、そして用いてくださる主に信頼を置くことができているのでしょうか。目に見える現実ではなく、主の静かにささやく声、つまり御ことばに耳を傾けることができているのでしょうか。

「わかる、わからない」と、「できている、できていない」が問題ではないのです。大切なことは、わからないという気持ちや、逃げたいという事実すべてを用いて、再出発をさせてくださる主に注目できているかなのです。わからないことは、悪いことではありません。

   

何度でもチャレンジさせてくださる主がいてくださる、それだけが、私たちが前に進める根拠なのです。私たちの現実の全てを用いて、2021年に再出発させてくださる主の静かにささやく声、主のみことばに耳を傾けていきたいです。 

〔郭修岩〕〕

「良い知らせを告げよ」

2021年1月3日

詩編96編1~13節

   

詩編96編は、全世界の人々に「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけます。主すなわち自分たちの神に感嘆する気持ちが、そのようにさせたのでしょう。この詩編は、捕囚を経験した人々が、歌った歌だと解されています。なぜ捕囚の苦しみの只中にある人々が、このように神を賛美する歌を歌うことができたのでしょうか?

古代においては、民族間あるいは国家間の戦いは、その民族や国家の神と神の戦いだと考えられており、負けた方の神が戦いに敗れたと理解されました。したがって、ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされたことは、イスラエルの人々にとって深刻な信仰の危機でした。

人々は国が滅んだ理由を苦悩しながら考え、神さまから離れて歩んできた自分たちの歩みに思い至ります。国が滅んだのは、イスラエルの民を主に立ち返らせるために、主が諸国の民を用いてイスラエルを裁かれたのだ。主は諸国の神々を超えて世界を支配する方である。このことに気が付いたイスラエルの人々は、苦しみの先に希望を見出したのです。

異国にあって様々な抑圧を経験している人々は神の公平な裁きの実現を確信したのです。 しかも単に自分たちの回復だけでなく、世界を支配される神は、必ず真実をもって諸国の民を裁かれると確信し、その「驚くべき御業」をたたえて、新しい歌を主に向かって歌うことを全世界に呼びかけたのです。

   

神さまという揺るがない存在により頼む時、私たちは強くされます。新しい年を、「驚くべき御業」をなさる神さまに信頼して歩みましょう。神さまの公平な裁きが実現するように祈り、神さまの救いの出来事を人々に伝えていきましょう。    

〔細井留美〕〕

「幼子のところに導かれる」

2020年12月27日

マタイによる福音書2章1~12節

   

イエスさまはヘロデ王時代に、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。ユダヤ人が忌み嫌う異邦人によって、ユダヤの新しい王の誕生が告げ知らされます

第一に、学者たちは、2節に「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とあります。ユダヤ人が忌み嫌う異邦人たちが東方で星を見て、新しい王を拝みに来ました。この発言にヘロデ王とエルサレムの人々は皆、不安を抱きました。

第二に、ヘロデ王は宗教指導者たちから、メシアは「ユダヤのベツレヘム」で生まれると言われました。宗教指導者たちは、ミカ5:1を引用します。預言はイスラエルの指導者が現れて、抑圧された民衆を解放し、自由を与える内容でした。しかし、当時の宗教指導者たちは、この言葉よりも目の前のヘロデ王に従いました。

第三に、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み」とあります。王宮で新しい王が見つからず、そこを離れた瞬間、東方で見た星が先立って進みました。やっと幼子と母マリアを見つけました。学者たちは星の導きを信じて、贈り物を献げました。徹底的に隠れた形の出会いです。星の導きとは、イエス・キリストの言動であり、聖書の御言葉であり、その聖書を共に読む仲間のことです。

   

その時、私たちはこの社会の見えなくされている人々に出会うのです。その痛みを分かち合い、その苦しみに遭遇して、共に泣く時に、助ける者、助けられるものの区別はなくなり、主の励ましと慰めを共に喜ぶのです。

〔魯 孝錬〕

「暗闇を照らす光」

2020年12月20日

ルカによる福音書2章8~20節

   

イエスさまが生まれた夜、城壁の外で野宿をしながら羊の群れの番をしている羊飼いたちに、突然主の天使が近づき、主の栄光が暗闇の中にいた彼らを照らします。恐れる彼らに天使が告げます「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

この方こそ主メシアである。」民全体の喜びの出来事が、町の中に居場所のない羊飼いたち、いわば社会の中で周縁に追いやられている人々に告げられたのです。突如、社会の周縁が、主の栄光によって照らされ、世界の中心となったのです。

天使たちが天に去ると、羊飼いたちは、主が知らせてくださった出来事を見ようと、急いで出かけていきます。彼らは「まっすぐ」ベツレヘムへと向かい、飼い葉おけに寝かせられている救い主を探し当てます。これが最初のクリスマス=キリスト礼拝です。「拝む」とか「ひれ伏す」という言葉はありませんが、キリストに会いに行くことが、礼拝なのです。「礼拝する」とは、神さまに会うことを最優先することであると学ぶことができます。

やがて、羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら、元の場所へと帰って行きます。そこは、町の城壁の外です。しかし、彼らはそこが主の栄光に照らされた、世界の中心であること、神さまのもとに自分たちの居場所があることを知っています。元の場所へ戻っていく彼らには、平和があったことでしょう。暗闇の中にいる人々を照らす光として、イエスさまは誕生されました。

   

〔細井留美〕〕

「居場所となるため」

2020年12月13日

ルカによる福音書2章6~7節

   

最近、コロナ禍の影響で多くの人は仕事が失い、泊まる場所さえないというニュースをテレビで見ました。これからの寒い冬で、この人たちは居場所がないとどう過ごせるのかと心配しながら、今日の聖書箇所を改めて考えさせました。皆さんは、自分には居場所がない!という経験をしたことがあるのでしょうか。

1.居場所なく生まれたイエス様

 今日の聖書箇所には、「泊まる場所がない」という言葉があります。「泊まる場所がない」という言い方は他の聖書パージョンで「居場所がない」と訳されています。なぜ、彼らには居場所がなかったのでしょうか。なぜかと言うと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。イエス様が来られることは、はるか昔から約束されていました。けれども、この地上にお生まれになると、居場所がなかったのです。この世に来てくださった救い主を拒んだのは、この世の人々でした。

2.私たちの居場所となるため

   

ところが、イエス様は、ご自分のための居場所をつくろうとはなさいませんでした。イエス様の使命は、イエス様を拒んだ人々に、居場所をつくることだったからです。わたしたちはみな、本当の居場所を求めて、さまよっています。そんなわたしたちの居場所をつくるために、お生まれになったのが、イエス様です。もっと正確に言うならば、イエス様ご自身が、わたしたちの居場所となってくださったのです。

〔郭修岩〕〕

「神の平和を待ち望む」

2020年12月6日

イザヤ書11章1~10節

   

 貧富の格差が広がり、不正義と不公平、偶像礼拝がまかり通る時代に、神さまはイザヤを通して、この世の支配者とはまったく違う新しい王の姿を語られます。

主の霊に満たされた新しい王は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することは」ありません。この世の価値観で判断するのではなく、物事の本質を見極めます。そして、彼は、弱い人のために正当な裁きをおこない、貧しい人を公平に弁護します。また、彼は武力や暴力によって人々を裁くのではなく、力ある言葉によって、人々に善悪を示すのです。この世の現実とは全くかけ離れたイザヤの語るメシア像は、多くの人々に驚きと希望を与えたでしょう。

さらに、驚くのは、本来、共生することのできないものが共に並ぶ6節以下の預言です。私たちの世界に存在する強者弱者という関係が新しい王の下で共生へと変えられ、平和が実現するとイザヤは語ります。

イザヤの語る新しい王は、イエス・キリストとしてこの世界に来られました。しかし、いまだこの世界には、不正義、不公平が存在し、神の平和は実現していません。「その日が来れば、・・・・」(11:10)とイザヤは言います。私たちは、すでに「新しい王」が与えられていることを喜びながら、「神の平和」の実現を祈って、このアドヴェント(キリストの降誕を待ち望む期間)を過ごすことができればと思います。

   

〔細井留美〕〕

「世界に開かれた教会へ」

2020年11月29日

使徒言行録11章19~26節

   

11/29の礼拝で、東京から5,000キロ以上離れたシンガポール日本語国際教会の伊藤世里江先生が、聖書から多民族・多文化共生について次のように語ってくださいました

新約聖書の時代から教会は常に多民族・多文化共生に葛藤してきました。アンティオキア教会は、エルサレムで起きた迫害によって散らされた人々が、生活の基盤を奪われ難民のような状況の中で、福音を告げ知らせながら巡り歩いた結果、生まれた教会です。初めから異邦人伝道がテーマであったわけではありませんが、意図せずに色々な人々が集まり、主の助けの中で、イエスをキリスト信じる異邦人が多く与えられたのです。

やがて、そのことがエルサレム教会に伝わり、視察のためにバルナバがアンティオキアに派遣されます。アンティオキア教会に新しい可能性を見出したバルナバは、教会にふさわしい伝道者としてパウロを連れて来ます。そして、1年の準備期間を経て、パウロを世界伝道へと派遣していくのです。その働きを支えたのは、アンティオキア教会の信徒たちです。迫害されてアンティオキアにやってきた人々ともともとアンティオキアに暮らす人々が一緒になって支えたのです。

多文化共生は、初代教会からあった聖書に根差した働きであり、その働きは聖霊が先立ち導いてくださいます。主が東京北教会の働きを必要としてくださっており、東京北教会の一人一人を主が必要としてくださっています。主は、国籍民族言語の違いを超えて、すべての人が神に立ち返り、神の守りと恵みの中で活き活きと生きることを願っておられるのです。

   

恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:10)

〔要約:細井留美〕

「天地創造Ⅱ」

2020年11月22日

創世記2章後半13~25節

   

 創世記1章は水の豊富なメソポタミヤの地域背が背景ですが、2章は乾燥したパレスチナ地域が背景です。また1章では神さまが創造後「極めて良かった」と肯定するのに対して、2章では「人が独りでいるのは良くない」(8節)と不完全を言います。このように、2章の創造物語を見てみましょう。

第一に、神さまの命の息が、吹き入れられて人間は生きています。人(アダム)を呼ぶ度に、土(アダマ)を思い出します。この言葉は、人間を謙遜にさせます。人間の根本は、土の塵ではかないものですが、そこに神さまの命の息が加わって人間となりました。 

第二に、神さまは人が自分を絶対化せずに、エデンの園を「耕し」「守る」ために、善悪の知識の木を与えました。善悪を判断されるのは、神さまです。私たちは被造物として自分の間違いを認めるのが大事です。

第三に、神さまは人に向き合う対等の存在を与えました。自分に合う助ける者は見つけられなかった人を神さまは眠らせ、「助ける者」を造ります。助ける者とは、彼と向き合って支え合う、「対等」な相手を言います。決してイシュがイシャーより、偉いという事ではありません。

   

家族や、教会の方々から大きな助けをいただいて回復に向かっています。以前とは違う助ける・助けられる関係を探しています。応答賛美歌を、300番としました。自分の罪を主イエスが解放してくださいました。それを恵みとして受け止め、新しい生き方を決断していきましょう。

〔魯孝錬〕

「わたしのところに来させなさい」

2020年11月15日

マルコによる福音書10章13~16節

   

人々はイエスさまに触れていただくために、子供たちを連れて来ます。「人々」とは、おそらく母親や年の離れた姉たちでしょう。「触れる」は、すべてイエスさまによる「いやし」の物語で使われている言葉です。「触れていただく」とは、単に手を置いて祈ってもらうのではなく、そこには子どもたちの「いやし」という願いもあったでしょう。「いやし」とは、その人が痛みや苦しみ、悩み、不安などから解放されて心身が平穏になることを意味します。

当時の子どもたちは、貧困によって、生きることそのものが、脅かされていました。また、社会の中で一人の人間として存在を認められない痛みも抱えていたでしょう。それは、子どもたちをイエスさまのもとに連れて来た人々も同じであったと思います。

ところが、弟子たちは、子どもたちを連れてきた人々を叱ります。イエスさまはこれを見て激怒します。そして、言われます。「子供たちを私のところに、来るままにさせておきなさい」。「させておきなさい」には、「解き放つ」という意味もあります。

イエスさまは、女性や子どもたちを苦しめている、抑圧や偏見に激しく怒り、「彼らを解き放ちなさい」と言われるのです。そして、神の国はこのような者たちのものである」と言われます。さらに、「子供を受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われるのです。

   

〔細井留美〕〕

「見失った羊のもとへ」

2020年11月8日

ルカによる福音書15章1~7節

   

徴税人や罪人が皆、イエスさまの言葉を聞くために近寄ってきました。ところが、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めます。

ファリサイ派の人々は、律法を遵守する自分たちこそ「正しい者」だという自負をもっていました。「正しさ」の判断は人間にできるものではありませんが、自分の価値観を絶対化したファリサイ派や律法学者の人々は、律法を守ることのできない人々や徴税人に、「罪人」(=正しくない者)というレッテルを貼って見下したのです。

「罪人」と呼ばれる人々が神から遠ざかったのではなく、社会が彼らを神から遠ざけたのです。「罪人」というレッテルを貼られ、社会から差別され、排除される彼らの苦しみは、どれほど大きなものであったのでしょうか。

彼らの痛みを理解せず、彼らを蔑む人々にイエスさまは、たとえ話を語られます。見失った1匹の羊は、「徴税人や罪人」のことです。律法を守ることが目的となった社会が彼らのことを見失っている状況です。わたしたちの社会は、99匹のために1匹が犠牲にされます。しかし、このたとえ話の羊飼いは、私たちの社会とは反対に、99匹を荒れ野に放置して、見失った1匹の羊を探しに行きます。社会の中で見失われた存在を、神さまは、探し求め続けるというメッセージなのです。

   

この言葉は、徴税人や「罪人」に、大きな福音となったでしょう。イエスさまが、このたとえを語られた時、社会の中で見失われていた羊が見出されたのです。

〔細井留美〕〕

「主イエスの食卓に招かれて」

2020年11月1日

マルコによる福音書14章22~26節

   

今年のコロナの影響で多くの教会は主の晩餐について、キリスト教の中でどうすればいいのかと多くの議論がありました。わたし個人の意見としては、どんな状況に置かれても、主の晩餐を受け取る必要があると思います。

第一に、主イエスは、「取りなさい」と言われたのです。この言葉は、私たちに強いイメージを与えます。この言葉は命令形です。このパンは必ず取らなければならないのです。これは主の命令です。主の晩餐にあずかることによって私たちは自分の弱さを知り、世の終わりに約束されている救いの完成を垣間見て、その希望に支えられ、神の民として歩んでいくからです。

第二に、これは「多くの人のために」と言われたのです。この「多くのために」という言葉は、マルコの視点から見ると、主の晩餐、それは、晩餐を受ける個人、また特定の共同体を超えていく世界的な広がりを持っています。神が、イスラエルを越えて、多くの人と契約を結んでくださったのです。その意味において、主の晩餐は、ただ内向的なものではなく、外へ「伝道」という形で外へと向かっていくものなのです。

主の晩餐にあずかることによって私たちは、その救いを多くの人々に知らせつつ、主イエスが招いて下さっている食卓に連なる人々が加えられていくことを祈り求めていくのです。そのような中で、終末において、はっきりとする救いの完成における食卓の姿を示されつつ、希望を持って歩む者とされるのです。

   

〔郭 修岩〕

「キリストの従順」

2020年10月25日

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

   

召天者お一人おひとりに大事な人生がありました。御言葉を聞きながら、召天者のお一人おひとりを覚えたいと思います。またご家族、ご友人、教会の皆さまに主からの励ましと慰めがあることを祈ります。

第一に、パウロはキリストに倣い、他人のことにも注意を払いなさいと言いました。「へりくだって、互いに相手よりも優れた者と考え、…他人のことにも注意を払いなさい」(3−4)。これは、人の力では、不可能です。しかし、へりくだって生きられたキリストに倣うことにより可能になります。

第二に、キリストは十字架の死に至るまで従順でした。キリストは「従順」に神さまに従う生き方を貫いた結果、十字架を背負いました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)とあります。必死の祈りの中で、死をも神さまに委ねられました。

第三に、神は、へりくだって生きたキリストを高く上げ、高い名を与えました。神さまは、自分をへりくだって生きたイエスさまを復活させられたのです。イエスさまの復活によって、私たちに復活の希望が与えられています。

   

召天者お一人おひとりにも、イエス・キリストの復活によって希望があります。イエス・キリストは確かに死んで復活されました。ご家族、ご友人、教会の皆さまも、神さまを信頼して、与えられた命を精一杯に生きましょう。

〔魯 孝錬〕

「主の励まし」

2020年10月18日

列王記上19章1~18節

   

再び立ち上がる力をいただいたエリヤは、40日40夜歩き続け、神の山ホレブに目指します。預言者としての自信を喪失したエリヤは、自分自身が何者であるのかを確かめるためにホレブに向かったのかもしれません。  

長旅の末、ホレブに到着したエリヤに、神さまが語りかけます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。エリヤは自分の挫折と失望を、神さまに打ち明けます。神さまはエリヤに再び尋ねます。 

「エリヤよ、ここで何をしているのか」。エリヤはもう一度、自分の挫折と失望を語ります。「一生懸命やったのに、うまくいかなかった。自分は、いったいどうしたら良いのか?」。神さまはエリヤに言われます。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」と。

神さまは、エリヤに新たな道、彼がなすべきことを示します。「行け、引き返せ」とは、預言者としての道を再び歩みなさい、という意味ではないでしょうか?エリヤは神さまの言葉によって、自分が何者であるのかを再確認し、再び預言者として立つ力をいただいたのです。

   

私たちもエリヤのように挫折し、自分の歩む道を見失うことがあるかもしれません。しかし、そのつらい中にあって、神さまに問い続けるのであれば、神さまは私たちに応え、私たちの歩むべき道を示してくださるのだと思います。

〔細井留美〕

「立ち帰って、生きよ」

2020年10月11日

エゼキエル書18章30~32節

   

 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前は死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる 

私たち人間は、欠け、揺れ、弱さ、限界を抱えています。時には過ちもおかします。それでも過ちから離れて、神に立ち帰る人は「生きる」と、神は宣言します。 

「立ち帰り、立ち直れ!」私たちは、いつでもやり直せるのです。THE ENDではないのです。ですから、もう終わりだ、と自ら諦める必要はありません。自分はこんな人間だ、と枠の中に自分を閉じ込める必要はありません。容易なことではないかもしれませんが、過去の自分の過ち・失敗からの囚われを振り払い(捨てて)、新たな霊と心を神から頂いて、神に自分自身体全体で向きなおれば、真に生きることができるのです。

神が、一人のいのちを決して諦められない方、見捨てられない方だからです。ここに「いのちの神」が私たちの主であることの希望があり、私たち一人一人のいのちを支配しておられる神の徹底的な愛が存在しています。「わたしはだれの死をも喜ばない。」神は、ご自分の霊を吹き込んだ一人一人に、信実ないのちに生きて欲しい、それぞれの生を主にあって輝かせてほしい、と今も願い続けておられます。

   

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4(新改訳)神の厳しさ(熱情)は、この愛の眼差しに基づいています。私たちは、神のこのとてつもなく大きな愛と赦しを、イエス様によって示されて受け取っているのです。  

〔米本裕見子〕

「天の国は、からし種のように」

2020年10月7日

マタイによる福音書13章31~33節

   

 天の国は、神さまの正義が実現する国ということができます。その天の国は、からし種のようだとイエスさまは言います。からし種は、小さな種ですが、人が畑にまくと、どんな野菜よりも大きくなって、空の鳥が枝に巣を作るぐらいになるといいます。天の国は、からし種と同様に最初はごく小さくても、それが成長してやがて何倍にも大きくなるのです。

 また、言われます「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と言われます。混ぜられたパン種は目に見えませんが、やがて生地全体を大きく膨らませるように、天の国も目に見えなくても、やがて世界に大きな影響を与えるようになるのです。

このことは、今、目に見える現実が小さくても落胆する必要はないという希望を与えてくれます。小さな神の国は、広がり続け、社会を変え続けるのです。

そして、小さな働きであっても、からし種を蒔く人やパン種をまぜる女のような働きが、大切です。かれらの働きは、地味な働きです。しかし、かれらの働きがなければ、からし種は成長を始めることも、パン生地も膨らみ始めることはありません。

   

この働きが、わたしたちに託されています。わたしたちの働きは、神の国が広がっていくためのほんの少しのきっかけにしか見えませんが、神の国が広がっていく上で欠かせない働きなのです。私たちは、神の国が自ら大きくなることに希望を置いて、福音の種まきを行ってくことができればと思います。

〔細井留美〕

「ザアカイ、救いの宣言」

2020年9月27日

ルカによる福音書19章1~10節

   

ザアカイの名前の意味は「純潔、義人」です。税金を集める、徴税人の頭で、金持ちです。ザアカイは群衆を避けて、イエスさまが見える場所を見つけました。いちじく桑の木の上です。木に登ってイエスさまが通り過ぎるのを待つのです。

第一に、イエスさまは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われました。ザアカイはびっくりです。原文は「泊まらねばならない」と強い表現です。ザアカイは「急いで降りてきて、喜んでイエスさまを迎え」ました。

第二に、群衆はザアカイを「罪深い」と判断しますが、イエスさまは救われていると言われます。人々はイエスさまが自分たちを救う方だと思いましたが、徴税人の家に宿をとったことを見て失望します。また、ザアカイは「財産の半分を貧しい人々のために施します。誰かから何かだまし取っていたら4倍に返します。」と言います。ここで「施します」と「返します」は、未来形ではなく、現在形です。もう既にザアカイは日常でそのように実践しているのです。

第三に、イエスさまは「今日、救いがこの家を訪れた」と言われます。公に救いを認めたのです。この救いの宣言は人々の考えをひっくり返すものでした。この救いの宣言は、ザアカイを真に自由にしたのでしょう。

   

イエスさまは今日も一人を探しておられます。イエスさまは隠されているザアカイのようなものを、呼び出して、救いを宣言されます。主の救いは私の考えをはるかに超えるものです。 

〔魯 孝錬〕

「命のパン」

2020年9月20日

ヨハネによる福音書6章41~59節

   

ガリラヤ湖畔でイエスさまによってパンと魚を与えられ満腹した人々は、翌日もイエスさまを探し求め、イエスさまの元にやって来ます。再びイエスさまから、食べ物をもらうためでした。そんな群衆をみて、イエスさまは言われます。

「朽ちる食べ物のためではなく・・・永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」 イエスさまが人々に与えたいのは、食べてなくなるパンではなく、神が与えるまことのパン、その人に活き活きと生きる力を与えるものなのです。

イエスさまは言われます「わたしは、天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」 命のパンを食べるというのは、人々を悪しき律法主義から解放し、人間が尊重されるように導かれる神さまのみ心をイエスさまを通して知ることでしょう。神の御心を知り、それにふさわしく生きることこそ、永遠に生きるということなのではないでしょうか。

イエスさまは「私の肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」と言われます。 私たちは主の晩餐を通して、イエスさまの十字架の死とイエスさまによって与えられた永遠の命を思い起こします。そして、その与えられた命でイエスさまの内にとどまりイエスさまと共に歩みたいと思います。  

   

〔細井留美〕

「神様が与えてくださること」

2020年9月13日

ルカによる福音書10章38~42節

   

イエス様がこの町に寄ったのは、エルサレムに向かう途中でした。十字架への道を歩むイエス様はマルタとマリアの家に寄って、とてもほっとしたのではないのでしょうか。

マルタはイエス様がゆっくりとお話ができ、皆がイエス様のお話が聞けるように、食事を含めて、立ち働いていたのだと思います。しかし、マリアはマルタの手伝いをせずに、イエス様の側にずっといました。

そこで、マルタはマリアも一緒に働いてほしいとイエス様にお願いしたのでしょう。イエス様はマルタのおかれた状態、気持ちを十分に分っており、それを慰めるように、また、マリアの今の行動を妨げないようにとこの言葉を述べたのだと思います。

マリアはイエス様の足元に座り、イエス様の話を聞いています。マリアはイエス様のそばにいてお話を聞き、信仰を高めていきました。ヨハネの記述から、イエス様はマルタの家に人々と非常に親しい間がらであり、マルタの家の人はイエス様の宣教をよく理解していました。さらに、信仰的にマルタはマリアより円熟していました。イエス様はマルタをよく見ていて、イエス様の言葉を理解し、実行できると考え、マルタに必要な言葉を、その時、かけて下さったのです。

   

翻って私たちを見ると、イエス様はいつも私たち一人一人を見てくださっています。そして、イエス様は必ず一緒にいて下さって、なぐさめ、そして、私達それぞれに道を与えてくださっていると思います

〔鶴ヶ谷芳昭〕

「神の救い」

2020年9月6日

ローマの信徒への手紙3章21~31節

   

パウロの人間の罪に対する認識は、直前の3章10~18節の旧約聖書からの引用、「正しい者はいない。一人もいない」「彼らの目には神へのおそれがない」に表されています。パウロは、たとえ律法を行っても人は神の前では正しくされないと言います。

ところが、今や、律法と関係なく、すべての人に神の義=神の救いが示されたのです。それは、「ピスティス イエスース クリストス」によります。新共同訳聖書では、「イエス・キリストを信じること」と訳され、イエス・キリストを信じる私たちの行為によって救われることを意味する一方、「ピスティス」の本来の意味が「本当に信じるに足る確かなもの」「誠実で信頼のおける態度」であるため、協会共同訳聖書では「イエス・キリストの真実」と訳されています。

この場合は、私たちの信仰に関係なく、イエス・キリストの真実によって、救われるという意味になります。「イエス・キリストの真実」とは、イエスの神に対して誠実な生き方そのものであり、十字架の死も含まれるでしょう。

キリストの真実によって示された神の救いは、「神の恵みにより無償で」信じる者すべてに与えられるとパウロは言います。「信じる」は、ピスティスから派生した言葉です。真実で誠実であることを意味します。神の前で正しくない存在でありながら無償で救われた私たちは、その恵みに応えて、神に対して誠実に生きるのです。

   

〔細井留美〕

「新たに生まれる喜び」

2020年8月30日

 ヨハネによる福音書11章1~15節

   

イエスさまは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。しかしニコデモは新しくなること、新しく生まれるということを誤解して、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えます。

この答えはニコデモの心の中にあった人間は新しくなどなれない、新しく生まれ変わることなどできないというあきらめの表現でもあったと思うのです。ニコデモの心の中にある思いは私たちの思いでもあるのではないでしょうか。もうこれ以上良くなることはない。いまさら新しくなどなれない。このあきらめに私たちの信仰生活、人生は打ちのめされてはいないでしょうか。

イエスさまはニコデモに言われます。キリストを仰ぎ見る人は罪から救われ永遠の命を得ることができる。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」十字架のキリストを信じる人はだれであっても救われるのです。

私たちの前には新しくなることに怖気づいてしまうようなさまざまな難問が山積みしております。私たちの心は不安であり、どう今までの自分の生き方を清算すればよいのかわからないということがあるでしょう。

   

しかし神さまはすべてをご存知です。私たちがキリストの招きに応えて新しくなろう、もう一度始めようとする思いをもって古き人を捨てて新しくなろうという決意をしたことをご存知です。新しくなろうではないですか。それこそ救いなのですから。

〔林健一〕

「人間をとる漁師になる」

2020年8月23日

ルカによる福音書5章1~11節

   

イエスさまはペテロたちが網を洗っているのを見て、船に乗り少し漕ぎ出すように頼みます。ペトロはイエスさまの言葉を一番近くで聞くことになります。

第一に、イエスさまは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。イエスさまは、ペトロに自分の経験や考えを捨てて、ご自分を信頼するようにチャレンジしました。結果、おびただしい魚がかかり、ペトロたちの常識が破られます。

第二に、ペトロは「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです」と答えます。ペトロのイエスさまの呼称が「先生」から「主よ」と変わっています。実は「罪深い私はどうすれば良いのでしょうか。」と、心の罪を打ち明け、助けを求めたのです。

第三に、イエスさまは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と答えました。ペトロの間違いはわかった上で、イエスさまは共にいてくださるのです。心配は要りません。イエスさまが責任を取ります。弟子たちは船を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスさまに従いました。イエスさまの招きがあり、弟子たちの応答があります。不完全なものであることを知りながら、イエスさまに希望を置いて従うのです。

   

 イエスさまは、一番相応しい時に私たちを呼んでくださいました。私たちそれぞれの信仰の経験を証していきていと思います。私は主に従えるか自信がありませんが、このような病気の体でも神さまに信頼していきます。

〔魯孝錬〕

「平和を実現するために」

2020年8月16日

マタイによる福音書5章3~12節

   

 この時代、「貧しい」とは、単に経済的に貧しいだけでなく、社会的な不幸によって名誉を失い、社会の中で小さくされていることを意味しました。病や苦しみを癒してもらうためにイエスさまのもとに集まってきた人々に重なります。「幸いである」とは、尊敬の言葉で、「なんと尊敬に値するだろうか」という意味です。

イエスさまは、社会の価値観とは反対に、「貧しい人々は、なんと尊敬に値するだろうか」と宣言されます。それは、彼らが他の人を傷つけたり、他の人から奪うことがないからです。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」は、皆社会の中で力をもたずに小さくされている存在ですが、他者の権利や尊厳を奪わないが故に、尊敬に値するとイエスさまから称賛されるのです。

聖書の平和は、単に戦争状態にないことを意味するのではなく、「安心」「無事」「安泰」など、社会的にも精神的にも満たされた安らかな状態を意味します。平和は、神によって人間に与えられるものですが、平和が実現するためには、人間側の正義も求められています。それゆえイエスさまは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われるのです。6節から8節の「義に飢え乾く人々」「憐み深い人々」「心の清い人々」は、平和を実現するために生きる人々です。彼らもイエスさまから「なんと尊敬に値するのだろう」と称賛されます。

私たちは、他者を傷つけず、他者から奪わない者として、生きることができればと願います。そして、神の平和=すべての人が幸せに暮らせる社会の実現のために、正義を求め、また他者の苦しみに寄り添い、神さまに助けを求める者になることができればと思います。

   

〔細井留美〕

「平和への扉をたたき続ける」

2020年8月9日

ルカによる福音書18章1~8節

   

8月9日。75年前、長崎に原子爆弾が落とされた日です。3日前の6日は広島でした。あらためて核のない、平和な世界を祈り求めます。しかし今でも、日本は、核拡散防止条約に批准していません。不信・不正に対して、怒ること、声を上げるのは、空しいことでしょうか。無駄、無理なことでしょうか。一人の力の限界はだれが決めたのでしょうか。信仰とは関係ないことでしょうか。

本日の箇所の、社会的に最も弱いとされているひとりの女性(やもめ)が不正な裁判官の家の扉をたたき続けました。「正義を下さい」と叫び続けたのです。朝、昼、晩、ひと月、半年、一年、二年でしょうか。そうしなければこの女性はサバイバルできないのです。だから必至、死に物狂いです。しだいに周囲の人々は、いつまで裁判官は、無視し続けるのかと、彼女に共感し始め、一人また一人と、彼女を応援し、生活面で支える人が表れたかもしれません。そうでなければ、彼女が生きて扉を叩き続けることは難しかったでしょう。

遂に、裁判官はやもめの願いを聞き入れます。彼女の非常識なくらい勇気ある行動によって、不正な裁判官が正義の行動へと動き出すのです。そして正義の判例がこの社会に一つ残されるのです。それは、平和への一歩となります。聴いていた聴衆は、驚きつつも、ひとりの行動によって変わるのだという「希望」をみたことでしょう。彼女は平和への扉をたたき続けました。そのことが、正義と平和を諦めかけていた人々に勇気を与えたのです。

「無理だとはじめから諦めながら」ではなく、どこで神は逆転劇を起こそうとしておられるのだろうかと、期待しながら、信仰をもって「平和の扉をたたき続け」たい(祈り行動)ものです。社会のことも、教会のことも、すべて神が起こされた自分自身の事柄です。謙虚かつ誠実に、諦めないで向き合っていけますように。

   

〔米本裕見子〕

「先立つ主と共に」

2020年8月9日

ヨハネによる福音書6章16~21節

   

この短い物語は、沢山のことを示唆しているように思います。暗闇の中、自分たちだけで目的地に向かって舟をこぎ出した弟子たち。舟は、しばしば「教会」になぞられます。「暗闇」は、イエスさまという「光」無しで、物事をすすめようとする弟子たちのことを象徴しているようです。舟は強い風と波に翻弄され、目的地に着きません。しかし、イエスさまが弟子たちのところに、来てくださいます。暗闇の中にいる弟子たちは、それがイエスさまであることに気づきませんでしたが、イエスさまから「わたしだ」と弟子たちに声をかけ、ご自分を示してくださるのです。そして、弟子たちがイエスさまを舟に迎え入れようとすると、すぐに、舟は目的地に到着します。

イエスさま抜きで目的地を目指した弟子たちは、到着することができませんでした。それは、イエスさまご自身が、目指すべき目的地だからです。そして、目的地へと導いてくださるのも、イエスさまなのです。

教会も同様です。教会の目指すべき目的地は、イエスさまなのです。イエスさまと共に、イエスさまを目指して進む時に、わたしたちは目的地に到着することができるのです。会堂建築に向けた具体的な歩みがスタートしています。イエスさまが先立ち導いてくださることに信頼して、地域に開かれた教会、多種多様な方々に開かれた教会を目指していくことができればと思います。

   

〔細井留美〕

「神の創造」

2020年8月2日

創世記1章1~2章4節前半

   

昨年12月、一日で右足、右手、右目の力を失いました。韓国語、日本語の読む力・書く力を失いました。神への信頼を見失なった私に、神がヤコブに語った言葉 「見よ、わたしはあなたと共にいる」が、大きな力となりました。神の新しい道を信頼します。教会の皆さまの祈りと支えを感謝します。

神が天地を創造する時のことです。世の始まりについて書かれていますが、実際に書かれたのは、バビロン捕囚の頃です。第一に、トーブ(良い)とされました。イスラエルの民はバビロンに負けて、捕囚、残留、寄留を経験していました。絶望のドン底に、「良い」と丁寧に重ねます。

全く新しい世界を示されるのです。第二に、すべての人を王のようにされます。メソポタミアやエジプトでは王が神の似姿とされましたが、イスラエルでは人は誰しも神の似姿です。戦争に負けた人々も皆、神の似姿です。その上で「産めよ、増えよ」と命じられます。第三に、安息されました。神は創造の働きを離れ、安息なさいました。今日の聖書箇所では、神殿・祭儀中心から、神の言葉中心の信仰が再出発したのです。

神のなさる業を感謝します。私も神さまの力を再発見し、皆さまと分かち合いたいと思います。洪水の被害に命を脅かされている今、コロナウィルスの感染が広がる今、どうすればいいか分からなくなっているからこそ、聖書から力を得て共に次の行動を考えていきたいと思います。 

   

〔魯孝錬〕

「一つの体」

2020年7月26日

コリントの信徒への手紙一12章12~6節

   

コリントは、多種多様な人々が住む町でした。そのため、教会の中にも、多種多様な人々がいました。それゆえ、教会の中に摩擦や衝突があったのでしょう。しかし、パウロは「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」と言います。教会に多種多様な人々を集められたのは、神さまなのです。

パウロは、コリントの教会に、信仰によって一つになることを勧めます。体の各部分が配慮し合うことで、体が分裂せずに機能するように、教会においても互いに配慮しあうことの大切さを説いています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」教会となるように人々を励まします。簡単なことではありませんが、そのこともまた体から学ぶことができます

私たちの体は、通常わたしたちの意思に従って動きますが、生まれたばかりの赤ん坊は、自分で体の向きを変えることもできません。あきらめずに、繰り返し体を動かすことで、赤ちゃんは、体を自分で操れるようになっていきます。

教会も一緒ではないかと思います。様々な背景をもった人々が、苦しみや喜びを共にする共同体となるためには、衝突や摩擦があってもあきらめずに、信仰によって一致することを模索し続けてくことが大切なのだと思います。私たちがイエス・キリストに倣い、自分の利益ではなく、相手を尊重し配慮していく時に、教会はキリストの体として一つになっていくことができるのでしょう。コロナ禍にあって、キリストの体として、互いのことを一層尊重し配慮し合いながら、歩みを続けていくことを願います。

   

〔細井留美〕

「神の子イエス」

2020年7月12日

マタイによる福音書4章1~11節

   

神から「わたしの愛する子」という承認を受けたイエスさまは、神の霊により、荒れ野に導かれます。そこで、40日40夜断食をしたイエスさまは悪魔から試されます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスさまは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、悪魔を退け、本当の意味で人を生かすものは、神の言葉であることを指し示めします。

次に悪魔は、イエスさまを神殿の屋根の端に立たせ、あなたがここから飛び降りても、神が守ってくださる、試してみたらどうだと試みます。イエスさまは、「あなたの神である主を試してはならない」と悪魔を退けます。イエスさまが神によせる信頼は完全なので、それを試す必要などないのです。

悪魔は、最後にイエスさまに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、言います。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。これは、十戒の第一項「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」に対する挑戦です。イエスさまはこれを退けます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と。

マタイの示す神の子とは、み言葉を土台として、神に全幅の信頼を置き、ただ神のみに礼拝し仕えるイエス・キリストなのです。この世の栄誉を求めずに、苦しみを受けて十字架にかけられて死ぬ、徹底的に低みに立つイエス・キリストこそが、神の「愛する子」であることをマタイはイエスの活動に先立って、象徴的に伝えました。

   

〔細井留美〕

「美しくなくてよい」

2020年7月5日

マタイによる福音書16章24~26節

   

イエスさまに従うとは、自分がイエスさまより前に出てはいけないのです。教会の主であるイエスさまが、どうぞ私達の前を歩まれますように。という祈りが大切です。

イエスさまが、十字架の死に至るまで従順に仕えられたのは、弟子たちもまた、永遠の命が「わがためなり」と信じ、幸いに生きることが出来るためです。十字架と復活なしにはペトロも「だめ」なままです。けれども、キリストという着物を着せていただく中で、神さまから初めて「これは良い」とされ、永遠の命を受け取るようになりました。

十字架のイエスさまを見上げる時、わたしたちは、美しくなくていい。ということを思い出すことが出来ます。初代教会、弟子たちを考えると、どう考えてもすべてスムーズに進んだとは思えません。それでもなお、神さまの福音は山を越えて海を越えて、私たちのところまで不思議なことに届きました。

イエスさまが地上におられた間に出会った全ての人が、信じ従うようになった訳ではありません。しかし確実にイエスさまは目の前にいる人たちに神の国の豊かさを分かち合われたのでした。

   

わたしたちは、喜びと感謝をもって「ワンダー フル!」この世界は神さまの不思議な、くすしき御業に満ちている。と証する者とされたいと思います。今日私たちが吐く一つひとつの息が、主をたたえ、神さまが造られた、私たちの周りにいる一人ひとりの命を輝かせ、励まし、力づける、そのように用いられますように。 

〔エイカーズ愛〕

「隅の石を土台に」」

2020年6月28日

マルコによる福音書12章1~12節

   

イエスさまのたとえ話から、ぶどう園の主人は神さま、農夫たちはイスラエルの民、そして、ぶどう園の主人から農夫たちのもとに送られる僕たちは、イスラエルの歴史の中で、人々から無視され迫害されてきた預言者たちであると連想させられます。そして、ぶどう園主の愛する息子が殺される場面は、イエスさまが、祭司長たちに捕らえられて、死に引き渡されることと重なります。

イエスさまは、たとえ話の最後に詩編の118篇を引用します。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える」。 人々から悪人とみなされ、十字架にかけられて亡くなったイエスさまは、まさに家を建てる者により捨てられた石のようですが、そのようなイエスさまに、神さまは力を与えて死者の中から復活させられます。

神さまは、人々から虐げられ倒された存在を、見捨てたままにはされません。助け出し、重要な存在として用いてくださるのです。琉球処分の時代から、常に日本の利益のために犠牲を強いられ、文字通り「捨て石」とされてきた沖縄を、神さまがもっとも重要なものとしてくださる時が必ずくるでしょう。私たちの教会の土台は、イエスさまです。イエスさまが、捨てられた隅の石であったことを心に刻み、社会の中で周縁に追いやられている人々とともに歩む教会を目指していくことができればと思います。  

   

〔細井留美〕

「神の言葉に生きる」」

2020年6月21日

イザヤ書40章1~11節

   

バビロンに連れていかれ、「土地、王、神殿」の全てを失ったユダヤ人にとって、残っているものは「神のことば」だけだった。登れ!声を上げよ!声を上げよ!恐れるな!見よ!ひるみ、あきらめ腰を下ろしている民に向かい、神ははっぱをかけます。黙っているな、恐れるな、「見よ、あなたたちの神。」 神以外に目を移し、恐れる必要はない。まず、見えない神を見ること、知ること。

行く手は、起伏激しく、険しいものに見える。その道は、まるでモーセとイスラエルの民が、追い迫る軍隊から逃げて、葦の海を渡る時のように、海が真っ二つに分かれその真中を、神と共に進んでいくようなもの。救い主、解放者である神のわざを見ることになる。神とともに進む険しい道のりが身を沈めるバプテスマ、恵みの時となる。

人は、限界がある。どれほど権力、財力、能力、力・武力を誇っても永遠ではない。弱い人間に頼るのではなく、永遠に生きて働く「神の言葉」に頼れ、と声は告げる

神の言葉に生きるとは、福音に生きること。それは、単にキリストを述べ伝えるということだけではなく、この世界に目を開き、この世界に生きて、神の国を指し示すこと。神は何を語ろうとしているのか、神は何を願っておられるのか、イエスならどのように生きるのかを、探し求め続け、それを表していくことではないか。

   

大国に囲まれた、小さな国、イスラエルの弱さゆえに、神は彼らを選び、その罪をゆるし、憐れまれた。神は、弱く虐げられた者たちの、慰めの神であり、苦しみから解放してくださる方。それをイエスは体現した。神の愛の深さを、神の示す場所から、声を上げていきたい。神の言葉に頼るなら、神の言葉に生きるなら、その道はすでにそなえられている。  

〔米本裕見子〕

「「広がる神の働き」」

2020年6月14日

使徒言行録11章19~26節

   

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩きます。迫害という大きな困難がきっかけとなって、キリストがユダヤの外へと伝えられる新たな展開が始まります。

散らされた人たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きますが、ユダヤ人以外には、み言葉を語りませんでした。ところが、彼らの中の数名がアンティオキアでギリシャ語を話す人たちにイエス・キリストを伝え始めます。すると、大勢の人々が信じて神に立ち返ります。「主がこの人々を助けた」すなわち聖霊の働きがあったからだと聖書は記します。中央から周縁に追いやられた人々を通して、イエスさまの「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という言葉が実現していったのです。

アンティオキアでの福音の広がりがエルサレムの教会に伝わり、バルナバが派遣されます。バルナバがサウロ(パウロ)をアンティオキアに呼びよせ、アンティオキアの教会はますます大きくされ、やがてこの地でキリストの弟子たちが「キリスト者」と呼ばれるようになります。

聖霊(=神さまの働き)は、わたしたちの想像をはるかに超えて働かれます。私たちは、今年、新型コロナウイルスという大きな災害に見舞われました。一見マイナスに見える、これらの出来事の中にあって、聖霊が教会を導き、わたしたちの考えを新たにして、新しい教会が生み出されていくことに信頼して歩みたいと思います。

   

〔細井留美〕

「この最後の者にも」

2020年6月7日

マタイによる福音書 20 章 1~16 節

   

本日はペンテコステの礼拝です。創世記2章7節は、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」 「命の息」は「神の息吹・聖霊」です。「聖霊」が宿るとき、人は生きる者となったのです。「聖霊」は分裂ではなく建て上げる。教会を建て上げ、一人一人を信仰告白へと導かれます。

天国とはどんなところか。ぶどう園の労働者のたとえです。主人(神さま)は夜が明けると同時に労働者の寄せ場に人を雇いに出かけます。1 日1デナリオンの約束で雇います。9時・12時・3時に出かけて行って雇います。夕方の5時にも出かけて行くとまだ人が立っています。「だれも雇ってくれないのです。」と今にも泣きだしそうです。主人はぶどう園に送り込みます。

夕方になって賃金を支払いました。主人は不思議なことをしました。一つは最後に来た労働者から先に賃金を支払いました。これは不安な人への配慮です。朝早くから仕事のあった人は安心しています。保証された人生を歩んでいます。しかし夕方まで立ち続けた人は、不安な人生を生きています。その人への配慮です。

二つ目は、朝早くから働いた人も5時から働いた人も同じ1デナリオンが支払われました。この1デナリオンは「命の価」です。命の価に差別がないことを示しています。働いた時間や量ではなく、明日への生きる希望をつなぐ必要な額を支払いました。あなたがここに居る。あなたはあなたらしく生きていい。そのことを神さまが喜ばれるのです。

   

後にいる者が先になる。神さまは「この最後の者にも」同じように支払ってやりたいのです。私たちは既に神の国に入れらています。

〔岡田有右〕

2020年のメッセージ

「イエスの死を記念して」

2020年5月3日

マタイによる福音書14章22~26節

   

死を前にしたイエスさまは、弟子たちと共にした過越の食事の席で、パンを取り「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒の杯を取り「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。

イエスさまの体であるパンを裂いて与えることは、イエスさまの死によってもたらされる「救い」がそれぞれに与えられること、またイエスさまという一つの体に与る共同体の形成を意味するでしょう。杯は、イエスさまの血すなわちイエスさまの死を意味し、さらにそれが新たな神との和解の契約の血であることを示しています。

しかも、マルコによる福音書では、それは、弟子たちに限定されずに、多くの人々のために流される血であるとされています。さらに、イエスさまは「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と言われます。神の国での宴という「救いの完成」が必ずくることを約束されたのです。

「イエスさまの死」を記念する「主の晩餐」の3つの意味、私たちに与えられた「救い」、「共同体として一つ」に結び合わされていくこと、そして、やがて起こされていく救いの完成の「希望」を繰り返し思い起こすことで、私たちの歩みは力づけられていくのだと思います。 

   

〔細井留美〕

「イエスのいる風景」

2020年4月26日

マタイによる福音書11章28~30節

   

イエスの言われる重荷とは、単純に精神的な悩みやプレッシャーという意味より、前後の文脈から、律法学者や宗教関係者たちによって課せられた律法に関する「言い伝え」を意味すると思われます。12章には、その事例として、安息日をめぐる二つの論争が記されています。弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を積んで食べたこと(1-8節)、イエスが安息日に片手の萎えた人を治したこと(9-14節)を、宗教指導者たちは「労働」とみなして、「安息日の規定違反」と定めたのです。

要するに、二つの出来事から、当時の民衆は、宗教指導者たちによって強いられている種々のノルマを抱えて、常に自分は何か間違いを犯しているのではないか、いつ叱られるかもしれないと、戦々兢々としている様子が伺えるのです。私たちの生活においても、安らぎが得られると思っていた宗教が、ときには聖書の言葉でさえも、自分の人生のための力になるどころか、いつの間にか、自分の生活を縛り付けて、身動きが取れなくなる重荷になってしまうことがあります。

大工さんとして、軛を直接つくったり修繕したりして、誰よりも軛に詳しいイエスの「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という招きは、「私とあなただけの関係性をしっかり築き上げよう。そうすればどのように生きるべきかを私に学ぶことになる」という意味なのです。言い換えれば、それは、他ならぬ、イエスの精神、生き方、ものの見方を身に着けていくことを意味すると思います(参照、フィリピ2:6-8)。主イエスとペアを組んで軛を負って歩いている、その「イエスの居る風景」を思い描きながら、未曾有のパンデミックの危機を乗り越えていきたいと思います。

   

〔朴 思郁〕

「復活のキリストとともに」

2020年4月12日

マルコによる福音書 16章1~8節

   

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」驚き、恐れる女性たち、絶望した弟子たち、そして今を生きる私たちに、再びガリラヤへと向かわせ、イエスと共に歩き出そう!と招いています。ガリラヤ湖は、人々に豊かな恵みを与えた一方で、周囲を丘に囲まれていて、風の通り道になったため水面に吹き付ける風によってたびたび、激しい嵐に襲われました。

この世界も、自然は私たちに豊かな恵みを与えてくれます。しかし、一方で、人の傲慢に起因する災害など激しい嵐が起こります。今、私たちは想像もしていなかった、米粒の5万分の1という小さなウイルスによって、大きな脅威に向き合わされています。東日本大震災の時もそうでしたー「神はどこにいるのか」と問いたくなります。

何らかの形で弟子たちの間にイエス・キリストは現れ、弟子たちを絶望の底から再び立ち上がるような出来事が起こったでしょう。ですから2000年以上たった今も、私たちは、嵐の中に佇み翻弄されながらも、神の言葉に励まされ、ともに復活を喜び感謝の礼拝をささげる恵みに与っています。もう私たちは、ため息をつきながら、暗い墓の中で光を探す必要はありません。

この人を見よ。この復活した人を見よ。人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して復活にまで達した。…人類は、今なお古い命に生きているけれども、すでに古い命を超えている。人類は今なお、この世界に生きているけれども、すでにその死を超えている。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を超えている。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている。 (ボンヘッファー)  神の愛によって、死と闇を超え、イエスさまが起こされたこと。復活されたイエス・キリストが、今も後も永遠に、私たちとともにおられること。なんという希望、なんという喜び、なんという恵みでしょうか。

   

〔米本裕見子〕

「エルサレムの途上で」

2020年3月29日

マルコによる福音書 10章32~45節

   

神の愛を体現したイエスさまの受難節(レント)の第5主日を迎えています。来週は第6主日(棕櫚の主日)になり、いよいよイエスはエルサレムに入場し、その木曜にはゲッセマネで捉えられるのです。本日は、そのエルサレムに向かう道の途中、「途上」での出来事です。

イエスの受難の可能性を、全く理解できない弟子たちを、イエスは突き放しません。とことん向き合います。そして、イエスの生涯を通して伝えたかった大切なことを伝えます。それは「仕える」ということです。

人の上に立つことを人生の目的にしていては、心から隣人に仕えることはできないでしょう。そのような野心、自己承認欲求を手放す(自分に死ぬ=イエスのバプテスマをこうむる)者たちが、自分では気が付かないうちに、イエスに倣う「人に仕える僕となる」道を歩みだし始めるのではないでしょうか。

イエスの生涯、それは弟子たちの足を洗う僕のように仕え続ける生涯でした。多くの苦しむ人々をその痛みから解放し希望をもたらし、弟子たちに身をもって「仕えきる」ことを示しました。その終着点であり、出発点に、十字架の死と復活があります。

   

私たち教会はエルサレムへの途上を、この世界・この時代に、イエスとともに歩んでいます。だから、私たちは倒れても引き上げられ、イエスの生と死に日々繰り返し向き合い、出会いなおしています。一人ひとりが、教会のからだとなって、様々な隣人に本当に「仕える」とは、どういうことなのかを探し求め、教えられながら。

〔米本裕見子〕

「弱さの中に働く神の力」

2020年3月22日

コリントの信徒への手紙二12章1~10節

   

推薦状をもってコリント教会に入り込んできた人々に対して、パウロは自分は彼ら以上にキリストに仕える者であると、経験した数えきれないほどの苦労を語り始めます。さらに、素晴らしい啓示を経験したものの、一つのとげ(苦しみ)が与えられたことを語ります。パウロはその苦しみが取り去られるように何度も祈りましたが、神さまの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。

その言葉を受け入れることは簡単ではなかったでしょう。しかし、パウロは、さまざまな困難を経験する中で、自分の弱さや状況の悪さにもかかわらず、その中で働かれる神の力を経験したのでしょう。そしてそれこそが、十字架に掛けられて死んだイエスが、3日目に神によってよみがらされたという福音を、自分の身に経験することであると理解したのです。したがって、パウロにとって、キリストの福音とはキリストの死を身にまとうことであり、死をまとう身にイエスの命が現れることでした。

「わたしは弱い時にこそ、強い」という逆説は、普段、強いことや優秀なことに価値を見ている私たちにも、受け入れることは難しいことです。しかし、ひとたび自分の力でどうすることもできなくなった時に、私たちは、私たちの弱さの中で働いてくださる神の力に気づかされるのです。そして、「弱い時にこそ強い」ということが、本当の希望になっていくのだと思います。

〔細井留美〕

        

「私たちの目指す教会」

2020年3月15日

エフェソの信徒への手紙4章12~16節

   

パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、教会の目指すべき姿として「キリストの体を造り上げる」ことをあげています。そのためには、教会員一人ひとりの「成熟」が不可欠であると言います。「成熟した人間」とは、「キリストに対する信仰と知識において一つのものとなる」という言葉にその意味が示されています。

今日において「信仰と知識において一つのものとなる」ことは、世の中に飛び交っている種々の情報や流行思想に振り回されることなく、信仰に照らし合わせて、しっかりと物事を把握していくこと、また常に独善に陥ったり自分を絶対化したりせず、相手の立場に立って、相手を尊重する生き方を保つこと。それこそ成熟した人間の姿であると思います。

パウロは、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェソ4:16)と、「体」を用いて教会形成に関する二つの事柄を示しています。その一つは、「肢体意識」です。

 

人間の体が「あらゆる節々が補い合うことによって」成り立っているように、互いの存在を尊重し、それぞれの賜物が生かされることが大切なのです。もう一つは、「連帯意識」です。教会形成のために、それぞれの役割を「競い合う」のではなく、「組み合わされ、結び合わされて」、キリストの体なる教会を形成していくことができるのです。

〔朴思郁〕

「主に望みを置く人」

2020年3月8日

イザヤ書40章27~31節

   

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。紀元前6世紀頃、イスラエルの民はバビロンに捕囚となって苦難の生活を強いられ、自分たちは神から見捨てられたのだと絶望していました。しかし神はイザヤを通して、捕囚のただ中で望みなく嘆いている人々にイスラエルの民の解放を預言し、神のみ言葉に信頼して生きることこそが本当の希望であると語られました。元気のある若者も疲れますし、勇者であっても時には倒れてしまいますが、「主に望みをおく人」は神から日々新たな力をいただいて生きることができるという約束です。

主に望みをおくならば、有限の人間の中に限りない神の力が注ぎ込まれます。神が確かに導いてくださることを信じて生きる事こそが真の希望です。聖書の言葉は何千年も前に語られた言葉ですが、信じる者に日々新しく語りかけ、希望を与え、新しい力を与えてくれます。私たちが信じるのは希望の神です。

 

主に望みをおいた人としてイエスの母マリアを思います。イエスの最初の奇跡は水をぶどう酒に変えたことでしたが、それは喜びの婚宴の最中に起きた危機を知ったマリアが、主に望みをおいて、召し使いに託した言葉があったからです。どんな時も、主なる神に望みをおいて生きるならば、その希望が失望に終わることはありません。なぜなら主のみ言葉はいつまでも変わらずに存続するからです。 

〔常廣澄子〕


「神に信頼して生きる」

2020年3月1日

マタイによる福音書6章25~34節

 

貧しい放浪生活の中で、食べ物、飲み物、着る物に困り、悩んでいた弟子たちに、イエスさまは言われます。「思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」これは、本当に大切ではない事に、心をふさがれてしまっている弟子たちへのイエスさまの呼びかけであり、励ましだと思います。「思い悩むな」とは、すなわち神に信頼して生きなさい、ということでしょう。

   

2月23日に連盟宣教部の松藤部長が、東京北教会が全国支援地域協働プロジェクトを進めていくうえで、まずは、「多文化共生」を自分たちの課題としていくこと、祈りと献身をもってこのテーマと向き合っていくことが大切だ、と仰ってくださいました。

地域協働プロジェクトの1年目、私たちは常に諸教会に発信するに足る何かを形にしていかなければならないというプレッシャーを感じ、時には「何にも形にできていない」と、自己批判をすることもありました。しかし、今大切なのは、他の教会からどう見えるのかということよりも、私たちが「多文化共生」という正解のないこのテーマに向き合い、悩みながら取り組んでいくことなのでしょう。その中で、教会として取り組むべきことを神さまに示されていくことに信頼したいと思います。

〔細井留美〕

「あなたがあきらめても」

2020年2月23日

使徒言行録3章1~10節

 

ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時間に神殿に上っていくと、生まれつき足の不自由な男性と出会います。二人は、彼をじっと見つめると言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。

   

子どもの頃には、自分の足で立って歩きたいと願っていただろう彼は、いつしか現実を受け入れ、あきらめていったのでしょう。そんな彼にペトロたちは「君が欲しているのは、本当にお金なのかい?自分の足で立ち上がり歩くことではないのかい?たとえあなたがあきらめても、イエス・キリストは決してあきらめない」という招きを行ったのです。すると、たちまちその人は躍り上がって立ち、歩きだします。

私たちの周りでこのような出来事はなかなか起きません。しかし、自分の人生をあきらめ、神に祈ることさえ忘れていた彼が、神を賛美し、神に信頼する者に変えられたことが、この物語の一番大きな奇跡であり、このように人生そのものを変えるような人間解放の出来事は、私たちにも起こる可能性があるでしょう。  

自分らしく生きることが難しく、何かをあきらめなければならない生きづらい世の中にあって、キリスト者は、私たちに期待し、歩むべき道を示し、再び立ち上がらせてくださるイエス・キリストを信じて希望をもって歩むことと、「あなたの欲しいものは、本当にそれですか?何かあきらめていることはないですか?」とキリストの招きを人々を伝えていくペトロたちの働きを求められています。  

〔連盟宣教部長 松藤一作〕


「他者を愛する」

2020年2月16日

ルカによる福音書10章25-37節

 




「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」という律法学者の答えは、まさに律法の真髄でした。ところが、なお隣人とは誰かということを論じようとする彼に、イエスさまは一つの話をされます.   

追いはぎに襲われて倒れている人を見たサマリア人の旅人が、民族や宗教の違いを超えてその人に近寄り彼を手当てし介抱する話です。隣人を愛するとは、同胞を愛することだと考えていた彼は、イエスさまの話によって、民族の枠を超えて、自分の目の前にいる誰かを愛すること、その人の痛みを自分の痛みとすることが、隣人を愛することだということに気づかされたことでしょう。「隣人を自分のように愛する」とは、他者に目を向け、他者の尊厳に気づき、他者の痛みを自分の痛みとして、具体的に行動することなのだと思います。

私たちの教会は今年度から、全国支援地域協働プロジェクトを歩み出しました。このプロジェクトが目指すところは、地域の人たちに開かれた教会となり、居場所を提供することと、多様なルーツを持つ人々と共に礼拝する教会を形成をしていくことです。ここには、他者と共に生きたいという私たちの思いが込められており、それが、わたしたちの教会の「隣人を愛すること」であり、「神を愛すること」なのだと思います。 

〔細井留美〕


「よい指導をしている牧師さん、御世話さまです

2020年2月9日
テモテへの手紙5:17-20節

 先週の礼拝で、カールトン・ウォーカー先生が牧師について語られるのを聞きながら、カール・バルトの牧師論を思い起こしました。それはバルトがスイスの牧師の集まりで語った「神の言葉への奉仕」という講演で、このように始まります。

   

「牧師なるものが次のような人物であることは、当然のことながらきわめて望ましい。道徳的性格を持ち宗教的人柄たること、趣味がよく教養ある人、才気煥発な思索家であり、同時に、良識による種々の求めにも深く敬意を払う人、自分自身の内に土台を持ち、かつ自分の周囲の人々の喜びや苦しみに開かれている人、誠実な祈りの人であり、規則正しい働き手・・・・彼は、祭司・預言者。牧会者として、考え、語り、振る舞う術を心得ていなければならぬ」と2頁以上にわたって牧師像を列挙した後で、バルトはこう言います。「こういった諸要求のすべてをもってしても、御言葉への奉仕、すなわちプロテスタントの牧師職の本質については、厳密に言うならば、未だ何も言われていないのである」。

人柄や性格などよりもまず、牧師職の本質は「御言葉への奉仕」であり、牧師はイエス・キリストから召命を受けた者として、イエス・キリストを宣教する者でなくてはならず、御言葉に奉仕する者は、世の反対と反抗に苦しむ運命を担い、福音と異なるものを語らないために信仰の闘いを行なう者であるとバルトは言います。牧師の「御言葉への奉仕」のために、お祈りください。 

ウォーカー師のメッセージをうけて           〔細井留美〕

        

「安心して行きなさい」

2020年1月28日

マルコによる福音書5章25~34節

 

 女性は一人前ではないと扱われていた当時。12年間もの出血の病を持つこの女性は、「汚い」「罪人」というレッテル張りをされ一人で生きてきました。だれも彼女をまともに心配し寄り添う人もなく、さらに治療と称して屈辱的な経験を味わい僅かな貯金さえ搾り取られてしまいました。しかし彼女は、生きることをあきらめませんでした。

   

群衆の中で、やっとイエスさまの真後ろまでたどり着き、彼の上着の裾をつかみました。イエスさまにすがったのです。すべての壁・障害を越えて、ただイエスさまにしがみついたのです。これが彼女の「ピスティス(信)」であり、彼女の生きる「希望」でした。彼女の「信」は、彼女をぐっと前に押し出しました。イエスさまに触れると一瞬にして、彼女を縛っていた病の元が消え解放されました。たしかに生きる「いのち」を取り戻したのです。イエスさまは自分の衣に触れた人を探しはじめました。とうとう彼女は、観念して前に出て、自分の身に起きた一切の真実を話しました。するとイエスさまは、恐ろしさで震える彼女の眼をみて優しく呼びかけました。「娘よ」。女性の体だけでなく心の内も一瞬にして溶かされていくような温かな安心感が流れ込んできたことでしょう。イエスさまは、彼女を周囲の視線から守り、ぴったりと寄り添うようにして語りかけました。「娘よ、あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った」

私たちは、日々の生活の中で、どれほど神を信頼をしてるでしょうか。平安を与えられているでしょうか。私も、日々、信仰と疑いの間で揺れ続ける弱さを抱えています。 しかし、神はどっしりと私たちに語られます。「安心して行きなさい」 この一週間も「信」に基づく「平安」を腹の底にいただきながら、ともに神の国の平和に向かって歩みだしていきたいと願います。身近な人から、すべての人までが、平安のうちに生きられる世界をめざして。

〔米本裕見子〕