「平和を実現するために」

2020年8月16日

マタイによる福音書5章3〜12節

   

 この時代、「貧しい」とは、単に経済的に貧しいだけでなく、社会的な不幸によって名誉を失い、社会の中で小さくされていることを意味しました。病や苦しみを癒してもらうためにイエスさまのもとに集まってきた人々に重なります。「幸いである」とは、尊敬の言葉で、「なんと尊敬に値するだろうか」という意味です。

イエスさまは、社会の価値観とは反対に、「貧しい人々は、なんと尊敬に値するだろうか」と宣言されます。それは、彼らが他の人を傷つけたり、他の人から奪うことがないからです。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」は、皆社会の中で力をもたずに小さくされている存在ですが、他者の権利や尊厳を奪わないが故に、尊敬に値するとイエスさまから称賛されるのです。

聖書の平和は、単に戦争状態にないことを意味するのではなく、「安心」「無事」「安泰」など、社会的にも精神的にも満たされた安らかな状態を意味します。平和は、神によって人間に与えられるものですが、平和が実現するためには、人間側の正義も求められています。それゆえイエスさまは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われるのです。6節から8節の「義に飢え乾く人々」「憐み深い人々」「心の清い人々」は、平和を実現するために生きる人々です。彼らもイエスさまから「なんと尊敬に値するのだろう」と称賛されます。

私たちは、他者を傷つけず、他者から奪わない者として、生きることができればと願います。そして、神の平和=すべての人が幸せに暮らせる社会の実現のために、正義を求め、また他者の苦しみに寄り添い、神さまに助けを求める者になることができればと思います。

   

〔細井留美〕

「平和への扉をたたき続ける」

2020年8月9日

ルカによる福音書18章1〜8節

   

8月9日。75年前、長崎に原子爆弾が落とされた日です。3日前の6日は広島でした。あらためて核のない、平和な世界を祈り求めます。しかし今でも、日本は、核拡散防止条約に批准していません。不信・不正に対して、怒ること、声を上げるのは、空しいことでしょうか。無駄、無理なことでしょうか。一人の力の限界はだれが決めたのでしょうか。信仰とは関係ないことでしょうか。

本日の箇所の、社会的に最も弱いとされているひとりの女性(やもめ)が不正な裁判官の家の扉をたたき続けました。「正義を下さい」と叫び続けたのです。朝、昼、晩、ひと月、半年、一年、二年でしょうか。そうしなければこの女性はサバイバルできないのです。だから必至、死に物狂いです。しだいに周囲の人々は、いつまで裁判官は、無視し続けるのかと、彼女に共感し始め、一人また一人と、彼女を応援し、生活面で支える人が表れたかもしれません。そうでなければ、彼女が生きて扉を叩き続けることは難しかったでしょう。

遂に、裁判官はやもめの願いを聞き入れます。彼女の非常識なくらい勇気ある行動によって、不正な裁判官が正義の行動へと動き出すのです。そして正義の判例がこの社会に一つ残されるのです。それは、平和への一歩となります。聴いていた聴衆は、驚きつつも、ひとりの行動によって変わるのだという「希望」をみたことでしょう。彼女は平和への扉をたたき続けました。そのことが、正義と平和を諦めかけていた人々に勇気を与えたのです。

「無理だとはじめから諦めながら」ではなく、どこで神は逆転劇を起こそうとしておられるのだろうかと、期待しながら、信仰をもって「平和の扉をたたき続け」たい(祈り行動)ものです。社会のことも、教会のことも、すべて神が起こされた自分自身の事柄です。謙虚かつ誠実に、諦めないで向き合っていけますように。

   

〔米本裕見子〕

「先立つ主と共に」

2020年8月9日

ヨハネによる福音書6章16〜21節

   

この短い物語は、沢山のことを示唆しているように思います。暗闇の中、自分たちだけで目的地に向かって舟をこぎ出した弟子たち。舟は、しばしば「教会」になぞられます。「暗闇」は、イエスさまという「光」無しで、物事をすすめようとする弟子たちのことを象徴しているようです。舟は強い風と波に翻弄され、目的地に着きません。しかし、イエスさまが弟子たちのところに、来てくださいます。暗闇の中にいる弟子たちは、それがイエスさまであることに気づきませんでしたが、イエスさまから「わたしだ」と弟子たちに声をかけ、ご自分を示してくださるのです。そして、弟子たちがイエスさまを舟に迎え入れようとすると、すぐに、舟は目的地に到着します。

イエスさま抜きで目的地を目指した弟子たちは、到着することができませんでした。それは、イエスさまご自身が、目指すべき目的地だからです。そして、目的地へと導いてくださるのも、イエスさまなのです。

教会も同様です。教会の目指すべき目的地は、イエスさまなのです。イエスさまと共に、イエスさまを目指して進む時に、わたしたちは目的地に到着することができるのです。会堂建築に向けた具体的な歩みがスタートしています。イエスさまが先立ち導いてくださることに信頼して、地域に開かれた教会、多種多様な方々に開かれた教会を目指していくことができればと思います。

   

〔細井留美〕

「神の創造」

2020年8月2日

創世記1章1〜2章4節前半

   

昨年12月、一日で右足、右手、右目の力を失いました。韓国語、日本語の読む力・書く力を失いました。神への信頼を見失なった私に、神がヤコブに語った言葉 「見よ、わたしはあなたと共にいる」が、大きな力となりました。神の新しい道を信頼します。教会の皆さまの祈りと支えを感謝します。

神が天地を創造する時のことです。世の始まりについて書かれていますが、実際に書かれたのは、バビロン捕囚の頃です。第一に、トーブ(良い)とされました。イスラエルの民はバビロンに負けて、捕囚、残留、寄留を経験していました。絶望のドン底に、「良い」と丁寧に重ねます。

全く新しい世界を示されるのです。第二に、すべての人を王のようにされます。メソポタミアやエジプトでは王が神の似姿とされましたが、イスラエルでは人は誰しも神の似姿です。戦争に負けた人々も皆、神の似姿です。その上で「産めよ、増えよ」と命じられます。第三に、安息されました。神は創造の働きを離れ、安息なさいました。今日の聖書箇所では、神殿・祭儀中心から、神の言葉中心の信仰が再出発したのです。

神のなさる業を感謝します。私も神さまの力を再発見し、皆さまと分かち合いたいと思います。洪水の被害に命を脅かされている今、コロナウィルスの感染が広がる今、どうすればいいか分からなくなっているからこそ、聖書から力を得て共に次の行動を考えていきたいと思います。 

   

〔魯孝錬〕

「一つの体」

2020年7月26日

コリントの信徒への手紙一12章12〜6節

   

コリントは、多種多様な人々が住む町でした。そのため、教会の中にも、多種多様な人々がいました。それゆえ、教会の中に摩擦や衝突があったのでしょう。しかし、パウロは「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」と言います。教会に多種多様な人々を集められたのは、神さまなのです。

パウロは、コリントの教会に、信仰によって一つになることを勧めます。体の各部分が配慮し合うことで、体が分裂せずに機能するように、教会においても互いに配慮しあうことの大切さを説いています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」教会となるように人々を励まします。簡単なことではありませんが、そのこともまた体から学ぶことができます

私たちの体は、通常わたしたちの意思に従って動きますが、生まれたばかりの赤ん坊は、自分で体の向きを変えることもできません。あきらめずに、繰り返し体を動かすことで、赤ちゃんは、体を自分で操れるようになっていきます。

教会も一緒ではないかと思います。様々な背景をもった人々が、苦しみや喜びを共にする共同体となるためには、衝突や摩擦があってもあきらめずに、信仰によって一致することを模索し続けてくことが大切なのだと思います。私たちがイエス・キリストに倣い、自分の利益ではなく、相手を尊重し配慮していく時に、教会はキリストの体として一つになっていくことができるのでしょう。コロナ禍にあって、キリストの体として、互いのことを一層尊重し配慮し合いながら、歩みを続けていくことを願います。

   

〔細井留美〕

「神の子イエス」

2020年7月12日

マタイによる福音書4章1〜11節

   

神から「わたしの愛する子」という承認を受けたイエスさまは、神の霊により、荒れ野に導かれます。そこで、40日40夜断食をしたイエスさまは悪魔から試されます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスさまは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、悪魔を退け、本当の意味で人を生かすものは、神の言葉であることを指し示めします。

次に悪魔は、イエスさまを神殿の屋根の端に立たせ、あなたがここから飛び降りても、神が守ってくださる、試してみたらどうだと試みます。イエスさまは、「あなたの神である主を試してはならない」と悪魔を退けます。イエスさまが神によせる信頼は完全なので、それを試す必要などないのです。

悪魔は、最後にイエスさまに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、言います。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。これは、十戒の第一項「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」に対する挑戦です。イエスさまはこれを退けます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と。

マタイの示す神の子とは、み言葉を土台として、神に全幅の信頼を置き、ただ神のみに礼拝し仕えるイエス・キリストなのです。この世の栄誉を求めずに、苦しみを受けて十字架にかけられて死ぬ、徹底的に低みに立つイエス・キリストこそが、神の「愛する子」であることをマタイはイエスの活動に先立って、象徴的に伝えました。

   

〔細井留美〕

「美しくなくてよい」

2020年7月5日

マタイによる福音書16章24〜26節

   

イエスさまに従うとは、自分がイエスさまより前に出てはいけないのです。教会の主であるイエスさまが、どうぞ私達の前を歩まれますように。という祈りが大切です。

イエスさまが、十字架の死に至るまで従順に仕えられたのは、弟子たちもまた、永遠の命が「わがためなり」と信じ、幸いに生きることが出来るためです。十字架と復活なしにはペトロも「だめ」なままです。けれども、キリストという着物を着せていただく中で、神さまから初めて「これは良い」とされ、永遠の命を受け取るようになりました。

十字架のイエスさまを見上げる時、わたしたちは、美しくなくていい。ということを思い出すことが出来ます。初代教会、弟子たちを考えると、どう考えてもすべてスムーズに進んだとは思えません。それでもなお、神さまの福音は山を越えて海を越えて、私たちのところまで不思議なことに届きました。

イエスさまが地上におられた間に出会った全ての人が、信じ従うようになった訳ではありません。しかし確実にイエスさまは目の前にいる人たちに神の国の豊かさを分かち合われたのでした。

   

わたしたちは、喜びと感謝をもって「ワンダー フル!」この世界は神さまの不思議な、くすしき御業に満ちている。と証する者とされたいと思います。今日私たちが吐く一つひとつの息が、主をたたえ、神さまが造られた、私たちの周りにいる一人ひとりの命を輝かせ、励まし、力づける、そのように用いられますように。 

〔エイカーズ愛〕

「隅の石を土台に」」

2020年6月28日

マルコによる福音書12章1〜12節

   

イエスさまのたとえ話から、ぶどう園の主人は神さま、農夫たちはイスラエルの民、そして、ぶどう園の主人から農夫たちのもとに送られる僕たちは、イスラエルの歴史の中で、人々から無視され迫害されてきた預言者たちであると連想させられます。そして、ぶどう園主の愛する息子が殺される場面は、イエスさまが、祭司長たちに捕らえられて、死に引き渡されることと重なります。

イエスさまは、たとえ話の最後に詩編の118篇を引用します。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える」。 人々から悪人とみなされ、十字架にかけられて亡くなったイエスさまは、まさに家を建てる者により捨てられた石のようですが、そのようなイエスさまに、神さまは力を与えて死者の中から復活させられます。

神さまは、人々から虐げられ倒された存在を、見捨てたままにはされません。助け出し、重要な存在として用いてくださるのです。琉球処分の時代から、常に日本の利益のために犠牲を強いられ、文字通り「捨て石」とされてきた沖縄を、神さまがもっとも重要なものとしてくださる時が必ずくるでしょう。私たちの教会の土台は、イエスさまです。イエスさまが、捨てられた隅の石であったことを心に刻み、社会の中で周縁に追いやられている人々とともに歩む教会を目指していくことができればと思います。  

   

〔細井留美〕

「神の言葉に生きる」」

2020年6月21日

イザヤ書40章1〜11節

   

バビロンに連れていかれ、「土地、王、神殿」の全てを失ったユダヤ人にとって、残っているものは「神のことば」だけだった。登れ!声を上げよ!声を上げよ!恐れるな!見よ!ひるみ、あきらめ腰を下ろしている民に向かい、神ははっぱをかけます。黙っているな、恐れるな、「見よ、あなたたちの神。」 神以外に目を移し、恐れる必要はない。まず、見えない神を見ること、知ること。

行く手は、起伏激しく、険しいものに見える。その道は、まるでモーセとイスラエルの民が、追い迫る軍隊から逃げて、葦の海を渡る時のように、海が真っ二つに分かれその真中を、神と共に進んでいくようなもの。救い主、解放者である神のわざを見ることになる。神とともに進む険しい道のりが身を沈めるバプテスマ、恵みの時となる。

人は、限界がある。どれほど権力、財力、能力、力・武力を誇っても永遠ではない。弱い人間に頼るのではなく、永遠に生きて働く「神の言葉」に頼れ、と声は告げる

神の言葉に生きるとは、福音に生きること。それは、単にキリストを述べ伝えるということだけではなく、この世界に目を開き、この世界に生きて、神の国を指し示すこと。神は何を語ろうとしているのか、神は何を願っておられるのか、イエスならどのように生きるのかを、探し求め続け、それを表していくことではないか。

   

大国に囲まれた、小さな国、イスラエルの弱さゆえに、神は彼らを選び、その罪をゆるし、憐れまれた。神は、弱く虐げられた者たちの、慰めの神であり、苦しみから解放してくださる方。それをイエスは体現した。神の愛の深さを、神の示す場所から、声を上げていきたい。神の言葉に頼るなら、神の言葉に生きるなら、その道はすでにそなえられている。  

〔米本裕見子〕

「「広がる神の働き」」

2020年6月14日

使徒言行録11章19~26節

   

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩きます。迫害という大きな困難がきっかけとなって、キリストがユダヤの外へと伝えられる新たな展開が始まります。

散らされた人たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きますが、ユダヤ人以外には、み言葉を語りませんでした。ところが、彼らの中の数名がアンティオキアでギリシャ語を話す人たちにイエス・キリストを伝え始めます。すると、大勢の人々が信じて神に立ち返ります。「主がこの人々を助けた」すなわち聖霊の働きがあったからだと聖書は記します。中央から周縁に追いやられた人々を通して、イエスさまの「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という言葉が実現していったのです。

アンティオキアでの福音の広がりがエルサレムの教会に伝わり、バルナバが派遣されます。バルナバがサウロ(パウロ)をアンティオキアに呼びよせ、アンティオキアの教会はますます大きくされ、やがてこの地でキリストの弟子たちが「キリスト者」と呼ばれるようになります。

聖霊(=神さまの働き)は、わたしたちの想像をはるかに超えて働かれます。私たちは、今年、新型コロナウイルスという大きな災害に見舞われました。一見マイナスに見える、これらの出来事の中にあって、聖霊が教会を導き、わたしたちの考えを新たにして、新しい教会が生み出されていくことに信頼して歩みたいと思います。

   

〔細井留美〕

「この最後の者にも」

2020年6月7日

マタイによる福音書 20 章 1〜16 節

   

本日はペンテコステの礼拝です。創世記2章7節は、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」 「命の息」は「神の息吹・聖霊」です。「聖霊」が宿るとき、人は生きる者となったのです。「聖霊」は分裂ではなく建て上げる。教会を建て上げ、一人一人を信仰告白へと導かれます。

天国とはどんなところか。ぶどう園の労働者のたとえです。主人(神さま)は夜が明けると同時に労働者の寄せ場に人を雇いに出かけます。1 日1デナリオンの約束で雇います。9時・12時・3時に出かけて行って雇います。夕方の5時にも出かけて行くとまだ人が立っています。「だれも雇ってくれないのです。」と今にも泣きだしそうです。主人はぶどう園に送り込みます。

夕方になって賃金を支払いました。主人は不思議なことをしました。一つは最後に来た労働者から先に賃金を支払いました。これは不安な人への配慮です。朝早くから仕事のあった人は安心しています。保証された人生を歩んでいます。しかし夕方まで立ち続けた人は、不安な人生を生きています。その人への配慮です。

二つ目は、朝早くから働いた人も5時から働いた人も同じ1デナリオンが支払われました。この1デナリオンは「命の価」です。命の価に差別がないことを示しています。働いた時間や量ではなく、明日への生きる希望をつなぐ必要な額を支払いました。あなたがここに居る。あなたはあなたらしく生きていい。そのことを神さまが喜ばれるのです。

   

後にいる者が先になる。神さまは「この最後の者にも」同じように支払ってやりたいのです。私たちは既に神の国に入れらています。

〔岡田有右〕

2020年のメッセージ

「イエスの死を記念して」

2020年5月3日

マタイによる福音書14章22〜26節

   

死を前にしたイエスさまは、弟子たちと共にした過越の食事の席で、パンを取り「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒の杯を取り「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。

イエスさまの体であるパンを裂いて与えることは、イエスさまの死によってもたらされる「救い」がそれぞれに与えられること、またイエスさまという一つの体に与る共同体の形成を意味するでしょう。杯は、イエスさまの血すなわちイエスさまの死を意味し、さらにそれが新たな神との和解の契約の血であることを示しています。

しかも、マルコによる福音書では、それは、弟子たちに限定されずに、多くの人々のために流される血であるとされています。さらに、イエスさまは「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と言われます。神の国での宴という「救いの完成」が必ずくることを約束されたのです。

「イエスさまの死」を記念する「主の晩餐」の3つの意味、私たちに与えられた「救い」、「共同体として一つ」に結び合わされていくこと、そして、やがて起こされていく救いの完成の「希望」を繰り返し思い起こすことで、私たちの歩みは力づけられていくのだと思います。 

   

〔細井留美〕

「イエスのいる風景」

2020年4月26日

マタイによる福音書11章28〜30節

   

イエスの言われる重荷とは、単純に精神的な悩みやプレッシャーという意味より、前後の文脈から、律法学者や宗教関係者たちによって課せられた律法に関する「言い伝え」を意味すると思われます。12章には、その事例として、安息日をめぐる二つの論争が記されています。弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を積んで食べたこと(1-8節)、イエスが安息日に片手の萎えた人を治したこと(9-14節)を、宗教指導者たちは「労働」とみなして、「安息日の規定違反」と定めたのです。

要するに、二つの出来事から、当時の民衆は、宗教指導者たちによって強いられている種々のノルマを抱えて、常に自分は何か間違いを犯しているのではないか、いつ叱られるかもしれないと、戦々兢々としている様子が伺えるのです。私たちの生活においても、安らぎが得られると思っていた宗教が、ときには聖書の言葉でさえも、自分の人生のための力になるどころか、いつの間にか、自分の生活を縛り付けて、身動きが取れなくなる重荷になってしまうことがあります。

大工さんとして、軛を直接つくったり修繕したりして、誰よりも軛に詳しいイエスの「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という招きは、「私とあなただけの関係性をしっかり築き上げよう。そうすればどのように生きるべきかを私に学ぶことになる」という意味なのです。言い換えれば、それは、他ならぬ、イエスの精神、生き方、ものの見方を身に着けていくことを意味すると思います(参照、フィリピ2:6-8)。主イエスとペアを組んで軛を負って歩いている、その「イエスの居る風景」を思い描きながら、未曾有のパンデミックの危機を乗り越えていきたいと思います。

   

〔朴 思郁〕

「復活のキリストとともに」

2020年4月12日

マルコによる福音書 16章1〜8節

   

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」驚き、恐れる女性たち、絶望した弟子たち、そして今を生きる私たちに、再びガリラヤへと向かわせ、イエスと共に歩き出そう!と招いています。ガリラヤ湖は、人々に豊かな恵みを与えた一方で、周囲を丘に囲まれていて、風の通り道になったため水面に吹き付ける風によってたびたび、激しい嵐に襲われました。

この世界も、自然は私たちに豊かな恵みを与えてくれます。しかし、一方で、人の傲慢に起因する災害など激しい嵐が起こります。今、私たちは想像もしていなかった、米粒の5万分の1という小さなウイルスによって、大きな脅威に向き合わされています。東日本大震災の時もそうでしたー「神はどこにいるのか」と問いたくなります。

何らかの形で弟子たちの間にイエス・キリストは現れ、弟子たちを絶望の底から再び立ち上がるような出来事が起こったでしょう。ですから2000年以上たった今も、私たちは、嵐の中に佇み翻弄されながらも、神の言葉に励まされ、ともに復活を喜び感謝の礼拝をささげる恵みに与っています。もう私たちは、ため息をつきながら、暗い墓の中で光を探す必要はありません。

この人を見よ。この復活した人を見よ。人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して復活にまで達した。…人類は、今なお古い命に生きているけれども、すでに古い命を超えている。人類は今なお、この世界に生きているけれども、すでにその死を超えている。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を超えている。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている。 (ボンヘッファー)  神の愛によって、死と闇を超え、イエスさまが起こされたこと。復活されたイエス・キリストが、今も後も永遠に、私たちとともにおられること。なんという希望、なんという喜び、なんという恵みでしょうか。

   

〔米本裕見子〕

「エルサレムの途上で」

2020年3月29日

マルコによる福音書 10章32〜45節

   

神の愛を体現したイエスさまの受難節(レント)の第5主日を迎えています。来週は第6主日(棕櫚の主日)になり、いよいよイエスはエルサレムに入場し、その木曜にはゲッセマネで捉えられるのです。本日は、そのエルサレムに向かう道の途中、「途上」での出来事です。

イエスの受難の可能性を、全く理解できない弟子たちを、イエスは突き放しません。とことん向き合います。そして、イエスの生涯を通して伝えたかった大切なことを伝えます。それは「仕える」ということです。

人の上に立つことを人生の目的にしていては、心から隣人に仕えることはできないでしょう。そのような野心、自己承認欲求を手放す(自分に死ぬ=イエスのバプテスマをこうむる)者たちが、自分では気が付かないうちに、イエスに倣う「人に仕える僕となる」道を歩みだし始めるのではないでしょうか。

イエスの生涯、それは弟子たちの足を洗う僕のように仕え続ける生涯でした。多くの苦しむ人々をその痛みから解放し希望をもたらし、弟子たちに身をもって「仕えきる」ことを示しました。その終着点であり、出発点に、十字架の死と復活があります。

   

私たち教会はエルサレムへの途上を、この世界・この時代に、イエスとともに歩んでいます。だから、私たちは倒れても引き上げられ、イエスの生と死に日々繰り返し向き合い、出会いなおしています。一人ひとりが、教会のからだとなって、様々な隣人に本当に「仕える」とは、どういうことなのかを探し求め、教えられながら。

〔米本裕見子〕

「弱さの中に働く神の力」

2020年3月22日

コリントの信徒への手紙二12章1〜10節

   

推薦状をもってコリント教会に入り込んできた人々に対して、パウロは自分は彼ら以上にキリストに仕える者であると、経験した数えきれないほどの苦労を語り始めます。さらに、素晴らしい啓示を経験したものの、一つのとげ(苦しみ)が与えられたことを語ります。パウロはその苦しみが取り去られるように何度も祈りましたが、神さまの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。

その言葉を受け入れることは簡単ではなかったでしょう。しかし、パウロは、さまざまな困難を経験する中で、自分の弱さや状況の悪さにもかかわらず、その中で働かれる神の力を経験したのでしょう。そしてそれこそが、十字架に掛けられて死んだイエスが、3日目に神によってよみがらされたという福音を、自分の身に経験することであると理解したのです。したがって、パウロにとって、キリストの福音とはキリストの死を身にまとうことであり、死をまとう身にイエスの命が現れることでした。

「わたしは弱い時にこそ、強い」という逆説は、普段、強いことや優秀なことに価値を見ている私たちにも、受け入れることは難しいことです。しかし、ひとたび自分の力でどうすることもできなくなった時に、私たちは、私たちの弱さの中で働いてくださる神の力に気づかされるのです。そして、「弱い時にこそ強い」ということが、本当の希望になっていくのだと思います。

〔細井留美〕

        

「私たちの目指す教会」

2020年3月15日

エフェソの信徒への手紙4章12〜16節

   

パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、教会の目指すべき姿として「キリストの体を造り上げる」ことをあげています。そのためには、教会員一人ひとりの「成熟」が不可欠であると言います。「成熟した人間」とは、「キリストに対する信仰と知識において一つのものとなる」という言葉にその意味が示されています。

今日において「信仰と知識において一つのものとなる」ことは、世の中に飛び交っている種々の情報や流行思想に振り回されることなく、信仰に照らし合わせて、しっかりと物事を把握していくこと、また常に独善に陥ったり自分を絶対化したりせず、相手の立場に立って、相手を尊重する生き方を保つこと。それこそ成熟した人間の姿であると思います。

パウロは、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェソ4:16)と、「体」を用いて教会形成に関する二つの事柄を示しています。その一つは、「肢体意識」です。

 

人間の体が「あらゆる節々が補い合うことによって」成り立っているように、互いの存在を尊重し、それぞれの賜物が生かされることが大切なのです。もう一つは、「連帯意識」です。教会形成のために、それぞれの役割を「競い合う」のではなく、「組み合わされ、結び合わされて」、キリストの体なる教会を形成していくことができるのです。

〔朴思郁〕

「主に望みを置く人」

2020年3月8日

イザヤ書40章27〜31節

   

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。紀元前6世紀頃、イスラエルの民はバビロンに捕囚となって苦難の生活を強いられ、自分たちは神から見捨てられたのだと絶望していました。しかし神はイザヤを通して、捕囚のただ中で望みなく嘆いている人々にイスラエルの民の解放を預言し、神のみ言葉に信頼して生きることこそが本当の希望であると語られました。元気のある若者も疲れますし、勇者であっても時には倒れてしまいますが、「主に望みをおく人」は神から日々新たな力をいただいて生きることができるという約束です。

主に望みをおくならば、有限の人間の中に限りない神の力が注ぎ込まれます。神が確かに導いてくださることを信じて生きる事こそが真の希望です。聖書の言葉は何千年も前に語られた言葉ですが、信じる者に日々新しく語りかけ、希望を与え、新しい力を与えてくれます。私たちが信じるのは希望の神です。

 

主に望みをおいた人としてイエスの母マリアを思います。イエスの最初の奇跡は水をぶどう酒に変えたことでしたが、それは喜びの婚宴の最中に起きた危機を知ったマリアが、主に望みをおいて、召し使いに託した言葉があったからです。どんな時も、主なる神に望みをおいて生きるならば、その希望が失望に終わることはありません。なぜなら主のみ言葉はいつまでも変わらずに存続するからです。 

〔常廣澄子〕


「神に信頼して生きる」

2020年3月1日

マタイによる福音書6章25〜34節

 

貧しい放浪生活の中で、食べ物、飲み物、着る物に困り、悩んでいた弟子たちに、イエスさまは言われます。「思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」これは、本当に大切ではない事に、心をふさがれてしまっている弟子たちへのイエスさまの呼びかけであり、励ましだと思います。「思い悩むな」とは、すなわち神に信頼して生きなさい、ということでしょう。

   

2月23日に連盟宣教部の松藤部長が、東京北教会が全国支援地域協働プロジェクトを進めていくうえで、まずは、「多文化共生」を自分たちの課題としていくこと、祈りと献身をもってこのテーマと向き合っていくことが大切だ、と仰ってくださいました。

地域協働プロジェクトの1年目、私たちは常に諸教会に発信するに足る何かを形にしていかなければならないというプレッシャーを感じ、時には「何にも形にできていない」と、自己批判をすることもありました。しかし、今大切なのは、他の教会からどう見えるのかということよりも、私たちが「多文化共生」という正解のないこのテーマに向き合い、悩みながら取り組んでいくことなのでしょう。その中で、教会として取り組むべきことを神さまに示されていくことに信頼したいと思います。

〔細井留美〕

「あなたがあきらめても」

2020年2月23日

使徒言行録3章1〜10節

 

ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時間に神殿に上っていくと、生まれつき足の不自由な男性と出会います。二人は、彼をじっと見つめると言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。

   

子どもの頃には、自分の足で立って歩きたいと願っていただろう彼は、いつしか現実を受け入れ、あきらめていったのでしょう。そんな彼にペトロたちは「君が欲しているのは、本当にお金なのかい?自分の足で立ち上がり歩くことではないのかい?たとえあなたがあきらめても、イエス・キリストは決してあきらめない」という招きを行ったのです。すると、たちまちその人は躍り上がって立ち、歩きだします。

私たちの周りでこのような出来事はなかなか起きません。しかし、自分の人生をあきらめ、神に祈ることさえ忘れていた彼が、神を賛美し、神に信頼する者に変えられたことが、この物語の一番大きな奇跡であり、このように人生そのものを変えるような人間解放の出来事は、私たちにも起こる可能性があるでしょう。  

自分らしく生きることが難しく、何かをあきらめなければならない生きづらい世の中にあって、キリスト者は、私たちに期待し、歩むべき道を示し、再び立ち上がらせてくださるイエス・キリストを信じて希望をもって歩むことと、「あなたの欲しいものは、本当にそれですか?何かあきらめていることはないですか?」とキリストの招きを人々を伝えていくペトロたちの働きを求められています。  

〔連盟宣教部長 松藤一作〕


「他者を愛する」

2020年2月16日

ルカによる福音書10章25−37節

 




「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」という律法学者の答えは、まさに律法の真髄でした。ところが、なお隣人とは誰かということを論じようとする彼に、イエスさまは一つの話をされます.   

追いはぎに襲われて倒れている人を見たサマリア人の旅人が、民族や宗教の違いを超えてその人に近寄り彼を手当てし介抱する話です。隣人を愛するとは、同胞を愛することだと考えていた彼は、イエスさまの話によって、民族の枠を超えて、自分の目の前にいる誰かを愛すること、その人の痛みを自分の痛みとすることが、隣人を愛することだということに気づかされたことでしょう。「隣人を自分のように愛する」とは、他者に目を向け、他者の尊厳に気づき、他者の痛みを自分の痛みとして、具体的に行動することなのだと思います。

私たちの教会は今年度から、全国支援地域協働プロジェクトを歩み出しました。このプロジェクトが目指すところは、地域の人たちに開かれた教会となり、居場所を提供することと、多様なルーツを持つ人々と共に礼拝する教会を形成をしていくことです。ここには、他者と共に生きたいという私たちの思いが込められており、それが、わたしたちの教会の「隣人を愛すること」であり、「神を愛すること」なのだと思います。 

〔細井留美〕


「よい指導をしている牧師さん、御世話さまです

2020年2月9日
テモテへの手紙5:17−20節

 先週の礼拝で、カールトン・ウォーカー先生が牧師について語られるのを聞きながら、カール・バルトの牧師論を思い起こしました。それはバルトがスイスの牧師の集まりで語った「神の言葉への奉仕」という講演で、このように始まります。

   

「牧師なるものが次のような人物であることは、当然のことながらきわめて望ましい。道徳的性格を持ち宗教的人柄たること、趣味がよく教養ある人、才気煥発な思索家であり、同時に、良識による種々の求めにも深く敬意を払う人、自分自身の内に土台を持ち、かつ自分の周囲の人々の喜びや苦しみに開かれている人、誠実な祈りの人であり、規則正しい働き手・・・・彼は、祭司・預言者。牧会者として、考え、語り、振る舞う術を心得ていなければならぬ」と2頁以上にわたって牧師像を列挙した後で、バルトはこう言います。「こういった諸要求のすべてをもってしても、御言葉への奉仕、すなわちプロテスタントの牧師職の本質については、厳密に言うならば、未だ何も言われていないのである」。

人柄や性格などよりもまず、牧師職の本質は「御言葉への奉仕」であり、牧師はイエス・キリストから召命を受けた者として、イエス・キリストを宣教する者でなくてはならず、御言葉に奉仕する者は、世の反対と反抗に苦しむ運命を担い、福音と異なるものを語らないために信仰の闘いを行なう者であるとバルトは言います。牧師の「御言葉への奉仕」のために、お祈りください。 

ウォーカー師のメッセージをうけて           〔細井留美〕

        

「安心して行きなさい」

2020年1月28日

マルコによる福音書5章25〜34節

 

 女性は一人前ではないと扱われていた当時。12年間もの出血の病を持つこの女性は、「汚い」「罪人」というレッテル張りをされ一人で生きてきました。だれも彼女をまともに心配し寄り添う人もなく、さらに治療と称して屈辱的な経験を味わい僅かな貯金さえ搾り取られてしまいました。しかし彼女は、生きることをあきらめませんでした。

   

群衆の中で、やっとイエスさまの真後ろまでたどり着き、彼の上着の裾をつかみました。イエスさまにすがったのです。すべての壁・障害を越えて、ただイエスさまにしがみついたのです。これが彼女の「ピスティス(信)」であり、彼女の生きる「希望」でした。彼女の「信」は、彼女をぐっと前に押し出しました。イエスさまに触れると一瞬にして、彼女を縛っていた病の元が消え解放されました。たしかに生きる「いのち」を取り戻したのです。イエスさまは自分の衣に触れた人を探しはじめました。とうとう彼女は、観念して前に出て、自分の身に起きた一切の真実を話しました。するとイエスさまは、恐ろしさで震える彼女の眼をみて優しく呼びかけました。「娘よ」。女性の体だけでなく心の内も一瞬にして溶かされていくような温かな安心感が流れ込んできたことでしょう。イエスさまは、彼女を周囲の視線から守り、ぴったりと寄り添うようにして語りかけました。「娘よ、あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った」

私たちは、日々の生活の中で、どれほど神を信頼をしてるでしょうか。平安を与えられているでしょうか。私も、日々、信仰と疑いの間で揺れ続ける弱さを抱えています。 しかし、神はどっしりと私たちに語られます。「安心して行きなさい」 この一週間も「信」に基づく「平安」を腹の底にいただきながら、ともに神の国の平和に向かって歩みだしていきたいと願います。身近な人から、すべての人までが、平安のうちに生きられる世界をめざして。

〔米本裕見子〕