2020年のメッセージ

先週のメッセージ

「私たちの目指す教会」

2020年3月15日

エフェソの信徒への手紙4章12〜16節

   

パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、教会の目指すべき姿として「キリストの体を造り上げる」ことをあげています。そのためには、教会員一人ひとりの「成熟」が不可欠であると言います。「成熟した人間」とは、「キリストに対する信仰と知識において一つのものとなる」という言葉にその意味が示されています。

今日において「信仰と知識において一つのものとなる」ことは、世の中に飛び交っている種々の情報や流行思想に振り回されることなく、信仰に照らし合わせて、しっかりと物事を把握していくこと、また常に独善に陥ったり自分を絶対化したりせず、相手の立場に立って、相手を尊重する生き方を保つこと。それこそ成熟した人間の姿であると思います。

パウロは、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェソ4:16)と、「体」を用いて教会形成に関する二つの事柄を示しています。その一つは、「肢体意識」です。

 

人間の体が「あらゆる節々が補い合うことによって」成り立っているように、互いの存在を尊重し、それぞれの賜物が生かされることが大切なのです。もう一つは、「連帯意識」です。教会形成のために、それぞれの役割を「競い合う」のではなく、「組み合わされ、結び合わされて」、キリストの体なる教会を形成していくことができるのです。

〔朴思郁〕

「主に望みを置く人」

2020年3月8日

イザヤ書40章27〜31節

   

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。紀元前6世紀頃、イスラエルの民はバビロンに捕囚となって苦難の生活を強いられ、自分たちは神から見捨てられたのだと絶望していました。しかし神はイザヤを通して、捕囚のただ中で望みなく嘆いている人々にイスラエルの民の解放を預言し、神のみ言葉に信頼して生きることこそが本当の希望であると語られました。元気のある若者も疲れますし、勇者であっても時には倒れてしまいますが、「主に望みをおく人」は神から日々新たな力をいただいて生きることができるという約束です。

主に望みをおくならば、有限の人間の中に限りない神の力が注ぎ込まれます。神が確かに導いてくださることを信じて生きる事こそが真の希望です。聖書の言葉は何千年も前に語られた言葉ですが、信じる者に日々新しく語りかけ、希望を与え、新しい力を与えてくれます。私たちが信じるのは希望の神です。

 

主に望みをおいた人としてイエスの母マリアを思います。イエスの最初の奇跡は水をぶどう酒に変えたことでしたが、それは喜びの婚宴の最中に起きた危機を知ったマリアが、主に望みをおいて、召し使いに託した言葉があったからです。どんな時も、主なる神に望みをおいて生きるならば、その希望が失望に終わることはありません。なぜなら主のみ言葉はいつまでも変わらずに存続するからです。 

〔常廣澄子〕


「神に信頼して生きる」

2020年3月1日

マタイによる福音書6章25〜34節

 

貧しい放浪生活の中で、食べ物、飲み物、着る物に困り、悩んでいた弟子たちに、イエスさまは言われます。「思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」これは、本当に大切ではない事に、心をふさがれてしまっている弟子たちへのイエスさまの呼びかけであり、励ましだと思います。「思い悩むな」とは、すなわち神に信頼して生きなさい、ということでしょう。

   

2月23日に連盟宣教部の松藤部長が、東京北教会が全国支援地域協働プロジェクトを進めていくうえで、まずは、「多文化共生」を自分たちの課題としていくこと、祈りと献身をもってこのテーマと向き合っていくことが大切だ、と仰ってくださいました。

地域協働プロジェクトの1年目、私たちは常に諸教会に発信するに足る何かを形にしていかなければならないというプレッシャーを感じ、時には「何にも形にできていない」と、自己批判をすることもありました。しかし、今大切なのは、他の教会からどう見えるのかということよりも、私たちが「多文化共生」という正解のないこのテーマに向き合い、悩みながら取り組んでいくことなのでしょう。その中で、教会として取り組むべきことを神さまに示されていくことに信頼したいと思います。

〔細井留美〕

「あなたがあきらめても」

2020年2月23日

使徒言行録3章1〜10節

 

ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時間に神殿に上っていくと、生まれつき足の不自由な男性と出会います。二人は、彼をじっと見つめると言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。

   

子どもの頃には、自分の足で立って歩きたいと願っていただろう彼は、いつしか現実を受け入れ、あきらめていったのでしょう。そんな彼にペトロたちは「君が欲しているのは、本当にお金なのかい?自分の足で立ち上がり歩くことではないのかい?たとえあなたがあきらめても、イエス・キリストは決してあきらめない」という招きを行ったのです。すると、たちまちその人は躍り上がって立ち、歩きだします。

私たちの周りでこのような出来事はなかなか起きません。しかし、自分の人生をあきらめ、神に祈ることさえ忘れていた彼が、神を賛美し、神に信頼する者に変えられたことが、この物語の一番大きな奇跡であり、このように人生そのものを変えるような人間解放の出来事は、私たちにも起こる可能性があるでしょう。  

自分らしく生きることが難しく、何かをあきらめなければならない生きづらい世の中にあって、キリスト者は、私たちに期待し、歩むべき道を示し、再び立ち上がらせてくださるイエス・キリストを信じて希望をもって歩むことと、「あなたの欲しいものは、本当にそれですか?何かあきらめていることはないですか?」とキリストの招きを人々を伝えていくペトロたちの働きを求められています。  

〔連盟宣教部長 松藤一作〕


「他者を愛する」

2020年2月16日

ルカによる福音書10章25−37節

 




「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」という律法学者の答えは、まさに律法の真髄でした。ところが、なお隣人とは誰かということを論じようとする彼に、イエスさまは一つの話をされます.   

追いはぎに襲われて倒れている人を見たサマリア人の旅人が、民族や宗教の違いを超えてその人に近寄り彼を手当てし介抱する話です。隣人を愛するとは、同胞を愛することだと考えていた彼は、イエスさまの話によって、民族の枠を超えて、自分の目の前にいる誰かを愛すること、その人の痛みを自分の痛みとすることが、隣人を愛することだということに気づかされたことでしょう。「隣人を自分のように愛する」とは、他者に目を向け、他者の尊厳に気づき、他者の痛みを自分の痛みとして、具体的に行動することなのだと思います。

私たちの教会は今年度から、全国支援地域協働プロジェクトを歩み出しました。このプロジェクトが目指すところは、地域の人たちに開かれた教会となり、居場所を提供することと、多様なルーツを持つ人々と共に礼拝する教会を形成をしていくことです。ここには、他者と共に生きたいという私たちの思いが込められており、それが、わたしたちの教会の「隣人を愛すること」であり、「神を愛すること」なのだと思います。 

〔細井留美〕


「よい指導をしている牧師さん、御世話さまです

2020年2月9日
テモテへの手紙5:17−20節

 先週の礼拝で、カールトン・ウォーカー先生が牧師について語られるのを聞きながら、カール・バルトの牧師論を思い起こしました。それはバルトがスイスの牧師の集まりで語った「神の言葉への奉仕」という講演で、このように始まります。

   

「牧師なるものが次のような人物であることは、当然のことながらきわめて望ましい。道徳的性格を持ち宗教的人柄たること、趣味がよく教養ある人、才気煥発な思索家であり、同時に、良識による種々の求めにも深く敬意を払う人、自分自身の内に土台を持ち、かつ自分の周囲の人々の喜びや苦しみに開かれている人、誠実な祈りの人であり、規則正しい働き手・・・・彼は、祭司・預言者。牧会者として、考え、語り、振る舞う術を心得ていなければならぬ」と2頁以上にわたって牧師像を列挙した後で、バルトはこう言います。「こういった諸要求のすべてをもってしても、御言葉への奉仕、すなわちプロテスタントの牧師職の本質については、厳密に言うならば、未だ何も言われていないのである」。

人柄や性格などよりもまず、牧師職の本質は「御言葉への奉仕」であり、牧師はイエス・キリストから召命を受けた者として、イエス・キリストを宣教する者でなくてはならず、御言葉に奉仕する者は、世の反対と反抗に苦しむ運命を担い、福音と異なるものを語らないために信仰の闘いを行なう者であるとバルトは言います。牧師の「御言葉への奉仕」のために、お祈りください。 

ウォーカー師のメッセージをうけて           〔細井留美〕

        

「安心して行きなさい」

2020年1月28日

マルコによる福音書5章25〜34節

 

 女性は一人前ではないと扱われていた当時。12年間もの出血の病を持つこの女性は、「汚い」「罪人」というレッテル張りをされ一人で生きてきました。だれも彼女をまともに心配し寄り添う人もなく、さらに治療と称して屈辱的な経験を味わい僅かな貯金さえ搾り取られてしまいました。しかし彼女は、生きることをあきらめませんでした。

   

群衆の中で、やっとイエスさまの真後ろまでたどり着き、彼の上着の裾をつかみました。イエスさまにすがったのです。すべての壁・障害を越えて、ただイエスさまにしがみついたのです。これが彼女の「ピスティス(信)」であり、彼女の生きる「希望」でした。彼女の「信」は、彼女をぐっと前に押し出しました。イエスさまに触れると一瞬にして、彼女を縛っていた病の元が消え解放されました。たしかに生きる「いのち」を取り戻したのです。イエスさまは自分の衣に触れた人を探しはじめました。とうとう彼女は、観念して前に出て、自分の身に起きた一切の真実を話しました。するとイエスさまは、恐ろしさで震える彼女の眼をみて優しく呼びかけました。「娘よ」。女性の体だけでなく心の内も一瞬にして溶かされていくような温かな安心感が流れ込んできたことでしょう。イエスさまは、彼女を周囲の視線から守り、ぴったりと寄り添うようにして語りかけました。「娘よ、あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った」

私たちは、日々の生活の中で、どれほど神を信頼をしてるでしょうか。平安を与えられているでしょうか。私も、日々、信仰と疑いの間で揺れ続ける弱さを抱えています。 しかし、神はどっしりと私たちに語られます。「安心して行きなさい」 この一週間も「信」に基づく「平安」を腹の底にいただきながら、ともに神の国の平和に向かって歩みだしていきたいと願います。身近な人から、すべての人までが、平安のうちに生きられる世界をめざして。

〔米本裕見子〕