2020年のメッセージ

先週のメッセージ

「よい指導をしている牧師さん、御世話さまです」

2020年2月9日
テモテへの手紙5:17−20節

 先週の礼拝で、カールトン・ウォーカー先生が牧師について語られるのを聞きながら、カール・バルトの牧師論を思い起こしました。それはバルトがスイスの牧師の集まりで語った「神の言葉への奉仕」という講演で、このように始まります。

   

「牧師なるものが次のような人物であることは、当然のことながらきわめて望ましい。道徳的性格を持ち宗教的人柄たること、趣味がよく教養ある人、才気煥発な思索家であり、同時に、良識による種々の求めにも深く敬意を払う人、自分自身の内に土台を持ち、かつ自分の周囲の人々の喜びや苦しみに開かれている人、誠実な祈りの人であり、規則正しい働き手・・・・彼は、祭司・預言者。牧会者として、考え、語り、振る舞う術を心得ていなければならぬ」と2頁以上にわたって牧師像を列挙した後で、バルトはこう言います。「こういった諸要求のすべてをもってしても、御言葉への奉仕、すなわちプロテスタントの牧師職の本質については、厳密に言うならば、未だ何も言われていないのである」。

人柄や性格などよりもまず、牧師職の本質は「御言葉への奉仕」であり、牧師はイエス・キリストから召命を受けた者として、イエス・キリストを宣教する者でなくてはならず、御言葉に奉仕する者は、世の反対と反抗に苦しむ運命を担い、福音と異なるものを語らないために信仰の闘いを行なう者であるとバルトは言います。牧師の「御言葉への奉仕」のために、お祈りください。 

ウォーカー師のメッセージをうけて           〔細井留美〕

        

「安心して行きなさい」

2020年1月28日

マルコによる福音書5章25〜34節

 

 女性は一人前ではないと扱われていた当時。12年間もの出血の病を持つこの女性は、「汚い」「罪人」というレッテル張りをされ一人で生きてきました。だれも彼女をまともに心配し寄り添う人もなく、さらに治療と称して屈辱的な経験を味わい僅かな貯金さえ搾り取られてしまいました。しかし彼女は、生きることをあきらめませんでした。

   

群衆の中で、やっとイエスさまの真後ろまでたどり着き、彼の上着の裾をつかみました。イエスさまにすがったのです。すべての壁・障害を越えて、ただイエスさまにしがみついたのです。これが彼女の「ピスティス(信)」であり、彼女の生きる「希望」でした。彼女の「信」は、彼女をぐっと前に押し出しました。イエスさまに触れると一瞬にして、彼女を縛っていた病の元が消え解放されました。たしかに生きる「いのち」を取り戻したのです。イエスさまは自分の衣に触れた人を探しはじめました。とうとう彼女は、観念して前に出て、自分の身に起きた一切の真実を話しました。するとイエスさまは、恐ろしさで震える彼女の眼をみて優しく呼びかけました。「娘よ」。女性の体だけでなく心の内も一瞬にして溶かされていくような温かな安心感が流れ込んできたことでしょう。イエスさまは、彼女を周囲の視線から守り、ぴったりと寄り添うようにして語りかけました。「娘よ、あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った」

私たちは、日々の生活の中で、どれほど神を信頼をしてるでしょうか。平安を与えられているでしょうか。私も、日々、信仰と疑いの間で揺れ続ける弱さを抱えています。 しかし、神はどっしりと私たちに語られます。「安心して行きなさい」 この一週間も「信」に基づく「平安」を腹の底にいただきながら、ともに神の国の平和に向かって歩みだしていきたいと願います。身近な人から、すべての人までが、平安のうちに生きられる世界をめざして。

〔米本裕見子〕