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先週のメッセージ

「神の救出と背後の祈り」

2021年5月30日

使徒言行録12章6~12節

   

ペテロは、牢に縛られていました。ぼんやりとこれまでの人生を思い巡らしいたかもしれません。イエスに必死についていった人生を。まさに同じころ、ペトロの解放を願って多くの人々が集まって祈り続けていました。

突然、神の使いがペテロの傍に立ち牢に光がさしたのです。「急いで、起き上がりなさい!」み使いは、ペテロをぐいっと抱き起すように引き上げました。「帯を締め、草履をはきなさい」「上着を着なさい」かつてイエスに出会った時に招かれた言葉が聞こえます。

「わたしについてきなさい」ペテロは、幻を見ているのかと思いながら、行先もわからないまま、み使いの言う通りに、必死についていきます。鉄の門が開き難局から解放された瞬間、み使いは離れ去りました。そのときペテロは我に返り、真実を理解し確信しました。

「神が…私を救い出してくださったのだ」。その頃、大勢の仲間たちがペテロの解放を願って、熱心に祈り続けていたのです。どうなるのかわからないまま、それでも祈り続けていたのです。

   

この世界には沢山の不条理ばかりが目につきますが、同時にこの世界には、無数の祈りが縦横無尽に交差しわたしたちを覆っています。八方ふさがりに思われるような、目の前の状況や、繰り返される困難に、圧倒され心が折れそうになります。祈ることさえできない時もあります。

しかし、私たちの背後にはたくさんの祈りがささげられ積まれています。その祈りの中で、神の時に、必ず脱出の扉は開けられます。人の願い通りではなく、神が神の最善へと導き、私たちを救出してくださる。後になって私たちはそんな神の助けを知り、賛美するのです。「わたしについてきなさい」今日も招いてくださっています。

 〔米本裕見子〕

「聖霊の自由な働き」

2021年5月23日

使徒言行録9章1~19節前半

   

五旬祭とは、十戒を受けたことを記念する日です。五旬祭は、過越祭から50日目(ペンテコステ)の日です。キリスト教はこの日に聖霊が降ってきたことをお祝いします。最初の教会は聖霊の不思議な業で始まったのです。

神への熱心のため、サウロはキリスト者を捕まえています。それに加えて、エルサレム出身者に対する劣等感が混ざっています。第一に、イエスは「起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(6節)と語られました。「なすべきこと(must)」が定められています。

すなわち、神の計画は「必然」(must)なことです。第二に、イエスは「わたしの名のために、どんなに苦しまなくては、ならないかを、わたしは彼に示そう」(16節)とあります。主は「わたしの名のために苦しまなければ、ならない(must)」という苦難の「必然」(must)を言われます。

第三に、アナニアは「聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)と言いました。イエスは神の敵という先入観が抜け落ちたのです。聖霊の自由な働きは、サウロとアナニアを出会わせて下さり、この出会いからアンティオキア教会が建てられ、福音が外国人にまで拡大されます。私たちも聖霊の働きを発見して行きましょう。

   

バプテスト連盟の有志が「ミャンマーを知ろう会」を開いています。マウマウタン先生からミャンマーの歴史を聞きました。そして祈りました。今ミャンマーで起きている暴力をただちに止み、これ以上命の犠牲がないように、と祈りました。

 〔魯孝錬〕

「神と共にある幸い」

2021年5月2日

ルカによる福音書6章20~26節

   

人々のために山を下りられたイエスさまは、驚くべき言葉を語られます。「貧しい人々は幸いである」。道で物乞いをするほどの赤貧の中にある者を、「幸い」だと言われるのは、なぜでしょうか?

貧しい者には、神さま以外に頼るものが何もないからではないでしょうか?神さまにすべてを信頼してゆだねる時にこそ、神さまの恵みを経験することができるからです。貧しい人々には、神さまと共に生きる恵みが与えられているのです。

次にイエスさまは、不幸について語られます。「富んでいるあなたがたは不幸である。」これもまたこの世の価値観とは反対です。しかし、神さまと共に生きるという視点で考えるならば、豊かな生活によって必要なものが満たされている人々は、神さまにより頼んで生きることが難しいのではないでしょうか?富んだ人々は、神さまの大きな恵みを経験することができないために、不幸だと言われるのです。

現在私たちは、潤沢なお金が無い中で会堂建築に臨んでいます。しかし、もしも建築のために十分なお金があらかじめあったとしたら、私たちは神さまに頼らずに自分たちの力で進んでいったのではないでしょうか。私たちは、神さまに信頼して共に歩む機会を与えられています。これからの歩みの中で、神さまの恵みを経験し、まことの幸いを知ることができればと願います。

   

 〔細井留美〕

「ソドムのための執り成し」

2021年4月25日

創世記18章16~33節

   

神さまが直接降って、確かめると言われます。それと同時に「その人たちは更にソドムの方へ向かったが」と、御使いの行動が記されています。これは旧約聖書の特色で神さまと御使いの区別が明確ではありません。

第一に、アブラハムは進み出て「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(22節)と言いました。正しい者(義人)とは、神さまの御心を行う人のことです。アブラハムは義人と悪い者が一緒に滅ぼされることを納得できませんが、ソドムには義人がいなかったです。

第二に、アブラハムは、謙虚にしかし執拗に神さまに問いかけています。アブラハムは50人から、45人、40人、30人、20人、最後には10人まで交渉します。しかし、この問題は、歴史的には特に国が滅亡し、捕囚の出来事が背景にあります。この悲劇を経験して民は滅亡と捕囚を受け入れるようになりました。

第三に、イザヤ書53章11節に「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)とあります。その人が、滅亡して捕囚に連れて行かれた人たちの代わりに「死んだ」のです。この人を私たちは、イエス・キリストと見るのです。私たちの罪を痛いほど知らされると共に、イエスを私の救い主と告白させます。

   

会堂が建った時、会堂に導かれるまだ見ぬ一人ひとりとの出会いを期待して行きたいです。主に尋ねながら、信仰を確かめて行きましょう。

 〔魯孝錬〕

「キリストの体を形作る」

2021年4月18日

エフェソの信徒への手紙4章1~16節

   

今日の聖書箇所では、多種多様な人々が集うエフェソの教会に、キリストによる一致が勧められます。多様な人々が集まれば、価値観や習慣の違いにより、摩擦や衝突があったでしょう。

しかし、キリストによって一致する希望が与えられている、だから、その招きにふさわしく歩もう、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持とう、愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めよう、と勧めるのです。 

一致の希望が語られた直後に、「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と語られます。わたしたち一人一人に、それぞれ賜物や働きが託されています。キリストの体である教会は、そこに集められた様々な人々が、互いに働きを補い合い、助け合うことによって、しっかり組み合わされ、結びあわされます。そして、それぞれが分に応じて働いて教会を成長させ、愛によって造り上げられてゆきます。多種多様な人々がいるからこそ成長していくことができるのです。

「多文化共生」「開かれた教会」を宣教テーマに掲げる私たちは、今よりも多様な人々と共に教会を形作っていくことになるでしょう。

   

価値観、考え方、習慣等、異なることが多々あると思いますが、キリストにあって一致していけることに希望をおいて、一人一人に与えられた様々な賜物や働きを分け合いながら、キリストの体を形作っていくならば、東京北教会は誰もに開かれた教会へと成長して行くことでしょう。

 〔細井留美〕

「主がいつもあなたがたと共にいる」

2021年4月11日

マタイによる福音書28章16~20節

   

一、疑いを持った弟子たち(16―17節)

聖書には疑う者がいたと書かれています。マタイは自分を含めた弟子たちの弱さ、不信仰を隠すことなく記しています。実は、弟子たちの疑い、迷い、不信仰などは私たちの日々の生活中もよくある姿ですが、それにしても、私たちが抱いている恐れや迷いや疑いを分かち合い、私たちが受け取っている慰めと約束も分かち合う相手を、この世の中に、見出しなさい、とイエス様は私たちに、呼びかけておられるのです。 

二、使命を頂いた弟子たち(18―19節)

イエスを裏切った弟子たち、今復活のイエスに会っているのにそれを信じきることが出来ない弟子たちに、宣教の使命が与えられます。「全ての民を私の弟子にしなさい」、これが弟子たちに与えられた使命でした。しかも、福音宣教の最大の目的は、人々をキリストの弟子にすることです。

   

三、約束を受けた弟子たち(20節)

最後に、イエスが疑う弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束が与えられました。しかも、それがすでに実現している事実です。この約束は、福音を伝える弟子たちに向けられていますが、伝道者だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。そして、世の救いのために、常に共にいてくださり、教会の働きを助けると約束されているのです。

 〔郭 修岩〕

「復活の主との出会い」

2021年4月4日

ヨハネによる福音書20章11~18節

   

マリアは、名前を呼ばれるまで、目の前に立つイエスさまをイエスさまだと認識することができませんでした。3日前に起こった出来事が、あまりに衝撃的であったために、悲しみと絶望に心をふさがれたマリアや弟子たちは、イエスさまが復活されることなど想像することもできなかったでしょう。

しかし、イエスさまが十字架に架けられて死ぬという最悪の結末の中で、神さまの救いの出来事はすでに始まっていました。イエスさまの死という絶望的な状況にもかかわらず、神さまは、そこから復活という新たな道を始めてくださったのです。「光は暗闇の中で輝いている」というみ言葉の通り、神さまは、絶望の中に希望を与えてくださるのです。

 イエスさまの復活は、たとえ私たちが困難の中に置かれても、神さまはそこから救いの道を作り出すことができるという確信を与えてくれます。イエスさまの復活は、困難に直面した私たちに、起き上がる力、再び歩みだす力を与えてくれます。これこそが、イエスさまの復活が私たちに与えてくれる希望です。

 マリアが復活のイエスさまと出会ったことを、弟子たちに伝えたように、私たちも復活の希望の証人になることができるでしょう。   

   

 〔細井留美〕

「この人は神の子」

2021年3月28日

マタイによる福音書27章45~56節

   

 弟子たちはイエスさまを捨てて逃げました。イエスさまは神さまに希望をかけて、最後まで望みました。しかし、神さまは返事がなく、イエスさまは一人で十字架に架けられました。 

第1に、イエスさまは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)と叫ばれます。詩編22編と一緒で神さまを讃美する解釈もありますが、これは途方に暮れているイエスさまの叫びです。絶望のどん底に狼狽えてしまう、イエスさまの必死の思いです。あらゆる理不尽さをすべて身に背負っています。

第2に、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(51節)と、あります。大祭司のみが年1回入って、すべての人の罪を動物に移して許してもらうのです。垂れ幕は大祭司と民を徹底的に区分します。しかし、外国人たちがイエスさまを通して、神さまに礼拝するようになったのです。イエスさまは死んで、救いが世界に広がったのです。

第3に、百人隊長や、一緒に見張りをしていた人々は「本当に、この人は神の子だった」(54節)と言われました。この間には断絶や、隔たりがあります。イエスさまの死が、時と場を超えて「今」私に迫ってくるのです。十字架上の無惨な死と、垂れ幕が二つに裂けたことを通して、この人は神の子だったと告白します。これが私たちの信仰告白です。

   

 イエスさまの十字架は、私の罪であり、その救いの恵みです。この罪と恵みを吟味しながら、受難週を過ごしましょう。

〔魯孝錬〕〕

「主に倣う救い主を見る」

2021年3月21日

ヨハネによる福音書13章1~17節

   

ご自分の死が近いことを悟ったイエスさまは、食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めます。体の中で一番汚れる足を洗うのは奴隷の仕事です。イエスさまの行動に弟子たちはとても驚いたでしょう。「わたしの足など、決して洗わないでほしい」と、拒否するペトロにイエスさまは言われます「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。 

イエスさまが、弟子たちの足を洗われたのには、二つの意味があると思います。ひとつは、私たちは皆、自分の弱さ、罪をイエスさまの前に出し、それをイエスさまにゆるしてもらう必要があるということです。もしも、私たちが、自分の弱さをイエスさまの前に出さないのであれば、それは、イエスさまを救い主として受け入れていないということです。

イエスさまは、弟子たちの弱さを良くご存じだからこそ、前もって、弟子たちの足を洗い、その弱さをゆるされたのでしょう。

 弟子たちの足を洗い終わったイエスさまは、再び食事の席に着かれ、言われます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。ここに、もう一つの意味があります。イエスさまが弟子たちを愛されたように、弟子たちも互いに愛し合わねばならないのです。その「愛」は、相手を自分よりも優れた方だと考え、仕える愛、相手の弱さを受け入れ、ゆるす愛です。イエスさまは愛の模範を弟子たちに示されたのです。イエスさまの言葉を、受け止め、互いに愛し合う生き方へと押し出されていきましょう。  

   

〔細井留美〕〕

「主に遣わされて」

2021年3月14日

マルコによる福音書5章1~20節

   

私たちクリスチャンはそれぞれ宣教の使命が与えられています。主の導きによって一人ひとり異なる道が用意されています。このゲラサの男のように実は私たちもまた神様から遣わされた者の一人です。時には、神様に懇願しても思い通りに神様の道を歩むことができないことがあるかもしれません。

しかし、そのような時神様は決して私たちに悪意を持ってそのようなことをしているわけではありません。ゲラサの男は一人孤独に、決して容易ではない伝道の使命に召されましたが、イエスがその地で宣べ伝えるよりも最善だと考えられた結果そのようにされました。

神様はご自身の目から見て、私たち一人一人に相応しい、良いとされる時と場所に遣わされています。それは他の人には担えない、あなただから出来る宣教です。

 私たちはそれぞれの思いを持ち、主の導きによって何かしらの形で神様に仕えています。神様は一人ひとりに相応しい場へ遣わされますが、もしかしたら自分が歩もうと思っていた道でなく、困難に思えるような道に導かれるかもしれません。

   

しかし神様は、他の誰でもない私たちだからこそ成し遂げられる使命を与えられるのです。受難節にあたり、主イエスに罪を赦されたものとして、愛されているものであることを思い巡らした上で、主イエスがなしてくださったことが身をもって証することができればと思います

〔郭修岩〕

「救い主を見る」

2021年3月7日

マルコによる福音書10章46~52節

   

イエスさまがエリコの町を出ると、道端に座っていた盲人の物乞い、バルティマイが大声で叫び始めます。バルティマイは、町の中ではなく、町の城壁の外側にいました。エリコの共同体に加わえられることなく、周縁で暮らしていたのでしょう。城壁の外で物乞いをしながら、町の外からの情報に接していたでしょう。

その中には、イエスさまの噂もあり、イエスさまがどういう方であるのかを思いめぐらす中で、彼こそは救い主「ダビデの子」であるという確信に至ったのでしょう。バルティマイは、イエスさまと出会う日を、待ち望んでいたはずです。そのイエスさまが目の前にいると知り、彼は大声で叫びます。「ダビデの子イエスよ」。これは、主告白です。バルティマイには、イエスさまが救い主であることが見えていたのです。

バルティマイは、様々な苦しみや悔しさを抱えながら生きていたのでしょう。彼は「憐れんでください」と叫び、助けて欲しいという気持ちを、率直にイエスさまにぶつけます。すると、イエスさまはバルティマイに尋ねます「何をしてほしいのか」。バルティマイは迷わず答えます「目が見えるようになりたいのです」。イエスさまに願うことを、決めていたのかもしれません。彼のイエスを救い主と信じて揺るがない信仰が、彼を救います。

目が見えるようになったバルティマイは、イエスさまに従います。彼が見えることを願ったのは、イエスさまに従って行くためであったのかもしれません。恵みへの応答です。私たちは、いただいた恵みに応えて、どのように生きることができるでしょうか。

   

〔細井留美〕〕

「しるしを付けられた」

2021年2月28日

創世記4章1~16節

   

神さまにカインは土の実りを、弟アベルは羊の中で肥えた初子を献げました。二人の献げ物は差異がありません。しかし、神さまはアベルの献げ物だけを受け取りました。なぜでしょうか?

第一に、神さまはカインに「お前はそれを支配せねばならない」と言われました。カインは自分が何を求めているか考えました。そしてカインは弟アベルを殺しました。これには当時農耕民が牧羊民より優位に立っていましたが、これが何かの拍子に逆転し、そのことに腹を立てた農耕民カインが、牧羊民アベルを殺しました。

第二に、神さまは「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言われます。カインはそうなると、わたしを殺されると言います。神さまはカインが「さまよい、さすらう者」となることを通して、自分の罪と向き合うことを願いました。カインは殺されることを怖がりますす。

第三に、神さまは「カインを殺す者は、だれであれ、七倍の復讐を受けるであろう」 と言います。神さまはカインを生かしました。カインの恐れを遙かに超えて「命」が続けられます。神さまはカインに「しるし」を与えられましたが、その意味は、①カインが弟の殺人を、心から反省することです。②カインの命が守られることです。

   

今まで見えなかったことを見て行きたい、分かち合いたいと思います。カインにも生きることが与えられたように、私にも生きることが求められています。私の人生を通して、神さまの愛を証して生きます。

〔魯 孝錬〕〕

「神に信頼して歩みだす」

2021年2月21日

創世記12章1~9節

   

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」これまで、父テラに従って生きてきたアブラムに、神さまは、新たな生き方を示されます。アブラムは、自分の生きる意味を神さまに問うていたのかもしれません。自分は何者なのですかと問うアブラムに神さまは、わたしが示す地に行きなさい、と呼びかけます。私と一緒に歩んでいこうという招きです。

さらに神さまは言われます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神さまは、彼の生きる意味も示されたのです。一人の外国人に過ぎないアブラムを通して地上のすべての氏族を神さまの祝福に導くことを神さまは約束されたのです。神さまに従って生きる時、人生には新たな意味が与えられます。神さまの呼びかけを受けて、アブラムはハランを出発します。アブラムが、歩みだすことを決断できたのは、神さまの言葉に信頼することができたからでしょう。

神さまを信頼して歩みだしたアブラムに、「あなたの子孫にこの土地を与える」と神さまは約束されます。約束はアブラムでなく、アブラムの子孫に成就します。アブラムの歩みを見る時、私たち信仰者も一人一人神さまと共に歩む旅の途上にあることを教えられます。

私たちが約束の成就をはるか先に見ながら、新たな場所でも、あなたを礼拝し、その地域の人々の祝福の源となっていくことができることを心から願います。

   

〔細井留美〕〕

「キリストにおいて」

2021年2月14日

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

   

キリストにおいて、結ばれて、隔ての壁が壊され、分断が解かれる。・キリストにおいて、キリストの平和に結ばれて、二つのものが一つとなる。キリストにおいて、キリストの平和に結ばれて、一つとなった私たちは、神との和解が与えられる。

このことが、日々、繰り返し、繰り返し、出会いと交わりの中で起こされ、わたしたち、教会は建てあげられていきます。敵対や排除ではなく、関心を寄せあい、支え合うものとなるのです。時に忍耐を伴う経験を通して、平和を知らされて、神に近づき、神と和解し、平和を実現するものとなります。 キリストご自身が、その伴いが、すべての土台であり、出発点です。

神は分け隔てをなさらない。教会と教会の外という、区別はない。世界中どこでも神の恩寵が支配している。クリスチャンだけが、聖ではありません。すべてが聖であり、すべてが俗であり、すべてが聖となる場所であり、すべてが俗といえる場所となる。

教会も、弱い人の集まり。時には、傷つけ合う場ともなってしまう。だからといって、それで良しとしていては、教会は誰の居場所にもなれません。 安心な場所になれません。教会は、最も低みにある場所の一つ。その低みにイエスさまがとことん付き合っていてくださっています。キリストにおいて、やっと教会はイエスの一つ体となっていくことができます。

   

教会という、その低くされた場所で、与えられる出会い。キリストにおいて、痛み、悲しみ、喜びを共に感じ分け合うことができます。その体験の中で、教会は日々新たにされ、教会となっていくことができるのではなでしょうか。

〔米本裕見子〕

「キリストの体として」

2021年2月7日

コリントの信徒への手紙1 12章12~26節

   

パウロは教会に様々な人がいることを否定的にはとらえず、むしろそのことを積極的にとらえているように思います。パウロは、教会をキリストの体にたとえます。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っている」(14)とは、教会には同じ価値観の人々だけがあつめられているのではなく、神さまによって様々な賜物を授けられた、多種多様な人々がいるということです。体に必要のない部分がないように、教会に集められた一人一人も、キリストの体にとってかけがえのない存在です。

しかし、多種多様な人々が体として一致することは、簡単なことではありません。体として一致するとは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26)ことでしょう。他者の痛みを自分の痛みとし、他者の喜びを自分の喜びとすることです。

パウロはもっとも大きな賜物は「愛」だと語ります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4-7)。教会がキリストの体として一つになるためには、愛の賜物が必要なのです。

教会が体として一致するためには、相手を自分のように大切に思う必要があるでしょう。そして、相手のことを知ろうとすること、その人が置かれている状況、考え方、習慣などを理解することが大切です。それが難しい場合でも、排除しないこと、価値観が違っても一緒にいるということが大切だと思います。私たちは、キリストを救い主として告白し、バプテスマを受けたその点において一致することができるのです。

   

〔細井留美〕〕

「イエス・キリストを土台として」

2021年1月31日

コリントの信徒への手紙1 3章10~11節

   

私は、私に与えられた神の恵みに従って、建築家たちのうちの知者のようにして、土台を据えた。他の者は、その上に建築するのである。しかし各自は、どのようにその上に建築するか、注意しなさい。なぜならば、〔すでに〕横たわっている土台以外に他の土台を据えることは、誰にもできないからである。その土台とはイエス・キリストである。

イエス・キリストの土台の上に、私たちは、それぞれの個性や賜物をいただきながら、神と自由に交わるもの・祈るものとして建てあげられていきます。イエス・キリストの土台の上に、一つの「キリストのからだ」教会が立てあげれていくのです。それは、決して完全なものではありませんが、完成を目指して成長へと導かれています。

私たちが、どれほど揺さぶられても、神はびくともしません。イエス・キリストを土台としていれば、決して吹き飛ばされることはありません。「恐れるな、わたしが共にいる」と叫ばれるイエス・キリストは、今も、最も低みで、最も惨めな姿・十字架にかかられています。この世の常識からすれば、これほどみじめで弱々しい土台はありません。しかし、苦しみと涙を引き受け、今も共に苦しんでくださるこのお方ほど、私たちの間で和解と癒しをもたらす強固な土台はありません。

境界線を越えて、蔑まれ苦しむ人々と連帯し生き抜かれ、十字架を背負われたイエス・キリストの土台の上に生かされているのならば、私たちは、神を信頼し、神のもとで出会う隣人を信頼し、神のわざの証し人として、招かれ、変えられていきます。

   

格差と貧困がより顕著になっているこの格差社会の不条理の中で、これから私たち、キリストのからだ(教会)は、神から何を託され使命とするのか。「私たち」だけのためではなく、この先に出会う人々、特に今コロナ下で苦しみ、孤独を抱えている方がたを覚え、多様な人々と共に生きるため、キリストの霊に満たされつつ導かれていきたいと願います

〔米本裕見子〕〕

「弟子たちはイエスを信じた」

2021年1月24日

ヨハネによる福音書2章1~22節

   

ヨハネ共同体は、外部的にはユダヤ教からの異端とされ、内部ではグノーシス主義(一言で言えば、霊は良い、肉は悪いという二元論)が広がっていました。

第一に、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった(6節)とあります。イエスは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われ、「さあ、それを宴会の世話役に持っていきなさい」と言われました。水はぶどう酒に変わっていました。ユダヤ教にある差別を、イエスが誰でも喜ぶ姿に変えられた話です。

第二に、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)とあります。ユダヤ教の神殿を、イエスの体と比較します。46年も掛かった神殿を、3日で建て直すと言うのです。イエスという神殿は、枠の外にいる人々を抱きしめるものです。

第三に、「弟子たちはイエスを信じた」(11節)とあり、「弟子たちは、…聖書とイエスの語られた言葉を信じた(22節)とあります。信仰は行動を伴います。一度はイエスを裏切った弟子たちですが、復活したイエスに出会い、変わらぬ信仰をいただきました。繰り返し自分の失敗を覚えて復活の主と共に大胆に歩んでいきましょう。

   

復活のイエスが自分の救い主であることを吟味します。ユダヤ教の清めの水を、ぶどう酒に変えられた主イエスを、ユダヤ教の神殿を壊して三日で建て直すと言った主イエスを信じます。私たちはまた失敗するかも知れませんが、イエスの死と復活に希望をおいて何度でも新しく歩みましょう。

〔魯孝錬〕〕

「網を捨てて従う」

2021年1月17日

マルコによる福音書1章14~20節

   

イエスさまは、ガリラヤから宣教活動を始められます。イエスさまは言われます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。ギリシャ語の「悔い改め(メタノイア)」の文字通りの意味は、「方向転換」です。「思いや心が変化」すること、またそれに伴って「行いが変化」することを意味します。「悔い改めて、福音を信じなさい」という呼びかけは、搾取され貧しさの中で、日々明日の食べ物をどうするかを悩みながら生きる人々に、生き方を変えること、すなわち神さまに信頼して生きることを呼びかけるものです。

イエスさまが、ガリラヤ湖のほとりを歩いていると、漁をしている人たちに出会います。 彼ら漁師もまた、王室や大土地所有者によって搾取されている人々です。網を打つシモンとアンドレにイエスさまは言われます。「わたしについて来なさい」。これはまさにメタノイア(方向転換)の呼びかけです。今の生き方から方向転換して、わたしに信頼してついて来なさい、とイエスさまは呼びかけます。

「二人はすぐに網を捨てて従」います。彼らの人生において、もっとも大切なものの一つである網を彼らは捨てて、イエスさまに従ったのです。イエスさまに従うとは、自分が大切にしてきたもの、信頼してきたもの、仕事や生活、知識、能力、価値観に頼ることをやめて、イエスさまに信頼し、すべてをゆだねて歩むことなのです。

イエスさまは、私たちが大切だと考えていたものを、ただ「捨てなさい」、「方向転換しなさい」と言うのではありません。「わたしについて来なさい」と言うのです。それは、「わたしと一緒に生きよう。私があなたと一緒に生きる。」という呼びかけです。共に歩んでくださるイエスさまに信頼して歩む生き方への招きなのです。

   

〔細井留美〕〕

「再出発させてくださる神」

2021年1月10日

列王記上19章9~13節前半

   

私が日本にきてから現在に至るまで、ずっと頭の中を巡っているひとつの言葉があります。それは「わからない」という言葉です。今日までに、多くの「わからない」と私は出逢いました。エリヤという人物も、多くの「わからない」と向き合い、葛藤した人物でした。

複雑な心境、そしてわからないという気持ちを抱えながら、エリヤは主の山へと逃げて、主である神に自分の思いをぶつけました。しかし、エリヤがぶつけたひとつひとつの思いに対し、主は聞き心地の良い慰めの言葉や、励ましの言葉は与えませんでした。主は慰めのことばを用いて、一時的に彼を慰めることよりも、使命に就かせることによって、エリヤを「神の人」として用いて、生かしたのです。 

私たちは、「わからない」という気持ちを受けとめてくださり、そして用いてくださる主に信頼を置くことができているのでしょうか。目に見える現実ではなく、主の静かにささやく声、つまり御ことばに耳を傾けることができているのでしょうか。

「わかる、わからない」と、「できている、できていない」が問題ではないのです。大切なことは、わからないという気持ちや、逃げたいという事実すべてを用いて、再出発をさせてくださる主に注目できているかなのです。わからないことは、悪いことではありません。

   

何度でもチャレンジさせてくださる主がいてくださる、それだけが、私たちが前に進める根拠なのです。私たちの現実の全てを用いて、2021年に再出発させてくださる主の静かにささやく声、主のみことばに耳を傾けていきたいです。 

〔郭修岩〕〕

「良い知らせを告げよ」

2021年1月3日

詩編96編1~13節

   

詩編96編は、全世界の人々に「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけます。主すなわち自分たちの神に感嘆する気持ちが、そのようにさせたのでしょう。この詩編は、捕囚を経験した人々が、歌った歌だと解されています。なぜ捕囚の苦しみの只中にある人々が、このように神を賛美する歌を歌うことができたのでしょうか?

古代においては、民族間あるいは国家間の戦いは、その民族や国家の神と神の戦いだと考えられており、負けた方の神が戦いに敗れたと理解されました。したがって、ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされたことは、イスラエルの人々にとって深刻な信仰の危機でした。

人々は国が滅んだ理由を苦悩しながら考え、神さまから離れて歩んできた自分たちの歩みに思い至ります。国が滅んだのは、イスラエルの民を主に立ち返らせるために、主が諸国の民を用いてイスラエルを裁かれたのだ。主は諸国の神々を超えて世界を支配する方である。このことに気が付いたイスラエルの人々は、苦しみの先に希望を見出したのです。

異国にあって様々な抑圧を経験している人々は神の公平な裁きの実現を確信したのです。 しかも単に自分たちの回復だけでなく、世界を支配される神は、必ず真実をもって諸国の民を裁かれると確信し、その「驚くべき御業」をたたえて、新しい歌を主に向かって歌うことを全世界に呼びかけたのです。

   

神さまという揺るがない存在により頼む時、私たちは強くされます。新しい年を、「驚くべき御業」をなさる神さまに信頼して歩みましょう。神さまの公平な裁きが実現するように祈り、神さまの救いの出来事を人々に伝えていきましょう。    

〔細井留美〕〕