2014年メッセージ・アーカイブ

約束を信じて

マルコによる福音書2章13-15節

2014年12月28日

12月25日が過ぎると世の中はもちろん教会の中でもクリスマスが終わった感じがします。確かにページェントでは東方の博士たちが登場して幼子イエスを礼拝する場面が醍醐味になります。しかし、本当のクリスマス(「キリスト礼拝」の意)はそこから始まるのではないでしょう。

今日の聖書箇所では東方の博士が帰った後の話が短く記されています。「その名はインマヌエルと呼ばれる」との大きな約束をいただいていたのに、夢でのお告げはヘロデに命を狙われているからエジプトへ逃げなさい、そこで待ちなさいという、約束とはかけ離れたものでした。

戸惑いや不安がたくさんあったと思いますが、ヨセフは妻と幼子を連れて見知らぬ異郷の地、エジプトに向かって旅立ったのです。約束を信じて行動を起こしたのです。なぜ、エジプトだったのでしょうか。マタイの意図は二つです。一つは、イエスさまがモーセのように虐殺を免れて民族を導き出す者であるという点です。もう一つは、イエスさまはユダヤの人々のディアスポラの歴史をエジプトで寄留者(移住者、難民)として生きられ、その痛みと苦しみを知っているという点です。

私たちはイエス・キリストを通して「神が我々と共におられる」という約束をいただいています。この約束を信じて本当のクリスマスを生きていきたいと願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

救い主は飼い葉桶の中に

ルカによる福音書2章1-20節

2014年12月21日
クリスマス

救い主が、弱い立場の赤ん坊として、家畜小屋という貧しさを象徴する場所に、社会的弱者のヨセフとマリアの子どもとして、生まれてきたことには、神さまの意図が秘められていました。

救い主が誕生した夜、町の外で羊と共に野宿していた羊飼いたち。その姿は、社会の中で差別され排除されている彼らの立場を象徴しています。ところが、暗闇にいる彼らを、神の光は明るく照らします。そして、救い主の誕生というユダヤ人がずっと待ち望んでいた出来事が、最初に知らされたのです。そこには、貧しさ、疎外感、無力感、絶望の中にある人たちこそ、その喜びを真っ先に受ける人たちであり、救い主はそのような人たちのために生まれたという神さまのメッセージが込められていました。ローマ皇帝に代表される地上の支配者は、弱者のことなど気に掛けずに強さを誇る者ですが、家畜小屋に生まれた神の救い主は、自ら弱い者となって、弱い者たちに寄り添う方なのです。

私たちもまた弱さを抱えて、暗闇を生きる人間です。私たちは自分の愚かさ、弱さを嘆きたくなり、私たちをとりまく現実に絶望しそうになりますが、この世の価値観は、神さまの前では、崩されます。神さまは、私たちの不完全な現実の中で、私たちの弱さの中に働いてくださるからです。私たちの弱さを担ってくださるキリストの誕生を心から喜び、この救いの出来事に、信頼して私たちの現実を歩むことができればと思います。〔副牧師 細井 留美〕

 

主の僕の苦難と死

イザヤ53章1-12節

2014年12月14日

オ・ヘンリーの『賢者の贈り物』という作品があります。クリスマスを迎える貧しき夫婦の話です。妻は唯一の財産である長い髪の毛を売って夫の時計の鎖を買います。短くなった妻の姿に戸惑う夫。その訳を聞いてからは震えます。自分は時計を売って妻のための櫛を買って来たからです。二人とも切ないけれど嬉しかったのでしょう。

クリスマスにも愛の話が隠されています。前6世紀頃イスラエルの民はバビロンに滅ぼされ捕囚生活となりますが、神さまは回復を約束されました。50年後ペルシアの登場でイザヤが42,49,50章で「僕の歌」を歌っているように独立への期待が高まりました。しかし、帰還民たちは、エルサレムの地元の権力とサマリアの支配者に弾圧された挙句、リーダーは殺されます。一人の死によって帰還民はエルサレムの周辺に定住することが出来たと思われます。

「苦難の僕」はおそらくこのリーダーの死を歌ったものだと思われます。この挫折から500年後、イエスさまが生れました。そして弱い者の友として生き抜かれ、十字架上で死んだのです。今度も挫折でした。しかし、イエスさまの復活を経てから初代教会はこの「苦難の僕」の姿にイエスの苦難と死を重ね合わせ、神ご自身が代価を払って、神の約束の実現してくださったことを発見したのです。

神さまに背き、自己中心で生きてきた私たちの罪を主イエスが担い、背負って十字架につけられました。これによって私たちは人と共に生きる道が与えられたのです。クリスマスはその始まりなのです。〔牧師 魯 孝錬〕

 

主を待ちつつ

イザヤ書6章8-13節

2014年12月7日

落語の「松山鏡」は鏡が珍奇だった時代に、鏡に映った自分の姿を父親だと思い込む夫と、その鏡に女子を発見した奥さんの大騒ぎの話です。比丘尼の「彼女は反省して坊主になったから安心」との言葉が落ち。

さて、今日の箇所はイザヤが召命を受ける場面です。神殿に入ったイザヤは神さまに会い、「誰を遣わすべきか」という神さまの声に、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えます。勇気ある応答ですが、預かった言葉は「行け、この民に言うがよい…この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」(9-10)とあるように、民は決して聞く耳をもたないという言葉でした。救いではなく、一層頑なになって滅びるという言葉でした。

イザヤは「裸」と「裸足」で歩き回りながら主の言葉を伝えます。人々は神の言葉どおり聞く耳を持ちません。腰痛や、痙攣に苦しんだあげく、イザヤは主の言葉を封印してしまいます。弟子たちが読めないようにするためです。しかし、そのような苦しみの中でもイザヤは「切り株」の言葉に希望をかけ「わたしは待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける」(8:17)と告白します。

教会は御言葉を聞く者でもあり、語る者でもあります。御言葉は私たちを映し出す鏡かも知れません。御言葉に真剣に問われ、応答していきたいと願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

目を覚まして待つ

マタイよる福音書25章1-13節

2014年11月30日

今日からアドベント(待降節)が始まります。2000年前のクリスマスの出来事を想起すると同時に、「再臨」(世の終わり)を待つことの大切さを再確認する時期です。これが書かれていた時代は、もうすぐ主イエスの再臨によって神の国が完成されると期待されましたが、再臨の遅延に戸惑っていたと思われます。

このような時代背景が10人の娘たちが待っていた花婿の到着の遅延に重なり、遅れる花婿を待つ姿勢で一番大切なのは「油の用意」であることが強調されています。「油の用意」とは前後の段落から推測して主人を信頼して「今、ここで」与えられた命を忠実に生きることです。

私たちの「待つ」行為は、主イエスの「待ってくださる」忍耐なしには意味を持ちません。主イエスは2000年前に赤ちゃんの姿で人々を待っておられました。赤ちゃんの姿は十字架につけられたイエスの姿にも通じますが、それは静止して動かない十字架ではなく、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)の上でイエスの肩を容赦なく押さえつけていた、地面に付きそうな付かなさそうな形の斜めの十字架です。私は飼い葉桶で寝かせられた赤ちゃんにヴィア・ドロローサを歩く主イエスの姿を見ます。

主イエスの降誕を待つことは、私たちを待ってくださる主イエスに目を向けることです。そしてそれは「今、ここで」それぞれの生を精一杯生きることにほかありません。〔牧師 魯 孝錬〕

 

価値観の転覆

マルコによる福音書3章20-35節

2014年11月23日

大勢の群衆がイエスさまを追いかけます。イエスさまと弟子たちは食する暇すらありません。イエスさまに従う群れはガリラヤで渦巻きを起こしています。ローマの植民地支配下の時代でしたから、このような民衆らの動きはユダヤ人の独立運動として見られたのかも知れません。

ローマの支配強化を恐れたためか、エルサレムの律法学者たちはイエスさまの治癒や悪霊を追い出す働きを「悪霊の頭(ベルゼブル)の力で悪霊を追い出している」のだと批判します。イエスさまはご自分の働きは「サタンが内輪もめ」しているのではなく、聖霊の力でサタンを「縛り上げ」ることであると言われました。

イエスさまは宗教指導者の批判は赦されない「聖霊を冒涜する」行為であると憤ります。イエスさまは当時のユダヤ教の中でどれほど多くの人々が疎外され、苦しめられているのかをご存じだったからです。イエスさまは当時のユダヤ教の共同体や家族から切り捨てられた人々を、「わたしの母、わたしの兄弟」として抱きかかえました。血縁関係の家族ではなく、神さまの支配下の新しい家族関係を示されました。

これは価値観の転換です。教会はイエスさまと共に、関係を失い、孤立している人々に、このような新しい家族として歩むために存在しているのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

 

12人の選び

マルコによる福音書3章7-19節

2014年11月16日

ファリサイ派とヘロデ派は、ローマ帝国で代表されるヘレニズムを受け入れるべきか否かで対立していたグループでしたが、イエスさまを殺すために肩を組みました。イエスさまは海辺に立ち去りますが、四方から大勢の人々が集まってきます。当時の宗教指導者とは違った教えと奇跡に群衆は熱狂していたのでしょう。

一方でイエスさまは、山に登ってこれと思う人々を呼びよせて12人を任命し、「使徒」と名付けられました。使徒と聞けば、使節として派遣されるイメージが強いですが、イエスさまが12人を選んだ理由はまず「自分のそばに置くため」でした。12という数字は、イスラエルの12部族を表すもので、神の民を回復する意味が隠れています。任命された人々はイエスさまと一緒に食べ、一緒にまと歩き、一緒に寝るという生活の共同体を示すことができたのではないでしょうか。彼らはイエスさまとの生活を通して、律法が厳しい現実を生きる人のために存在すること知り、目が開いたのではないでしょうか。

今日の教会もまた、主イエスに呼び出された群れです。私たちが御言葉を聞き、分かち合うのは、イエスさまと一緒に生活をすることだと言えます。そして私たちは主イエスの言動を見聞きする中で、少しずつ主の弟子として変えられていくのではないでしょうか。〔牧師 魯孝錬〕

 

わたしを憐れんでください

マルコ10:46-52

2014年11月2日

バルティマイは、自分の力ではどうにもできない状況の中で苦しんでいた人です。目が不自由というハンディに加えて、当時のイスラエル社会にあった「目が不自由なのは、その人の罪の結果」という常識によって、彼は社会から差別され排除されていたのです。

エリコの町にやってきたイエスさまに、バルティマイは大声で叫び始めます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。これを、「わたしの苦しみをわかってくれ」と訳している聖書があります。「憐れんでください」は、彼の魂の叫びなのです。バルティマイにイエスさまは尋ねます。「何をしてほしいのか」。この問いは、「あなたの苦しみは何か?」という問いかけです。自分の苦しみに目を向けてもらったバルティマイの心は、癒されたことでしょう。そして、「目が見えるようになりたい」という答えには、差別や偏見から自由になりたい、ひとりの人間として自立して生きたい、という願いが込められていたのです。

すると、イエスさまは言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。見えるようにしたのはイエスさまなのに、「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは不思議です。これは、私たちが自分の限界に気づき、神さまに信頼して「救ってほしい」という切実な願いを打ち明けた時に、神さまの力がはたらき、救いがおこされることを示しているのでしょう。〔副牧師 細井 留美〕

 

 

一緒に生きる

マルコによる福音書2章1-10節

2014年10月19日

イエスさまが家で御言葉を教えていました。四人の男が中風の人を運んできたのでが、大勢の群衆のために入ることができず、屋上の屋根をはがして病人を床ごとにつり下ろしました。何とかしてベッドの人をイエスさまのもとに連れてこようとする熱意が伝わります。

イエスさまはご自分に対する信頼に満ちたこの4人のふるまいを見て、ベッドの上の人に罪の赦しを宣言された上で、床を担いで歩くように命じられました。中風の人は4人の男たちのイエスさまへの信頼に頼って来たのかも知れませんが、イエスさまの実際の出会いはそれまでの価値観がひっくり返される出会いだったに違いありません。

当時はすべての病気やもろもろの不幸、災いはいずれ本人や親の悪行が原因で、その結果だと信じられていました。イエスさまは呪縛のような力を持つ社会的価値観に埋没されて、生きる力を喪失している一人の命に解放を与えられたのです。このような意味では、「赦しの宣言」と「いやし」は本質的には一つの問題です。

今の時代は資本主義が人間を操り、排除させていくシステムが急ピッチで進んでいます。教会はこの構造の中で苦しんでいる人々を、主イエスに担いでいく使命があります。主の解放の宣言を通して一緒に生きる喜びを味わっていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

深い憐れみ

マルコによる福音書1章35-45節

2014年10月12日

イエスさまは朝早く人里離れたところで祈っています。イエスさまの働きは祈りから始まり、祈ってからガリラヤという「周辺」「辺境」に宣教されました。誰も注目しないところで神さまの喜びの福音を宣べ伝えたのです。当時の群衆や弟子たちはこのイエスさまの祈りに支えられていたのでした。

5000人の給食の出来事でイエスさまは5つのパンと2匹の魚を取って「賛美の祈りを唱え」ましたし、弟子たちが逆風のために漕ぎ悩んでいた時も山で祈っておられたのです。ゲッセマネの祈りの場面では、どうしても眠ってしまう弟子たちの傍らで「御心」を祈っておられました。

この祈りの源泉はイエスさまの「深い憐れみ」でした。この憐れみとは、ヘブライ語の「レヘム(子宮)」にさかのぼりますが、子宮の中で命を産み出す神さまの働きを思い出させます。重い皮膚病を患う人は羊飼いである神さまとの豊かな交わりを奪われ、身体の病気に加えて、罪の結果として病気だという周りからの罵りに耐え、窒息の日常を強いられていたのが当時の雰囲気でした。イエスさまはこの人の痛みを腸が千切れる思いで受け止めてくださって、いやしを与えられたのです。

教会は、イエスさまの憐れみと祈りに支えられ、突き動かされるところではないでしょうか。弱い自分たちが主イエスの祈りに支えられているからこそ、主が今も先立って働かれているであろう「周辺」「辺境」へと出かけていきたい、そう切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

ありのままの姿を

ヨハネによる福音書11章1-13節

2014年10月5日

『アナと雪の女王』の主題歌にあるように「ありのままの自分で、輝いて生きたい」という願いを誰しも持ちます。しかし、現実には「ありのままの自分」の中に、人に見られたくないマイナスの部分を、私たちはたくさん抱えています。自分の弱さを受け入れた時、私たちは本当の意味で「ありのままの自分」として生きることができるでしょう。

自分の死が近いことを悟ったイエスさまは、突然食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めます。弟子たちは仰天します。足を洗うのは、奴隷の仕事だからです。「私の足なんか、絶対に洗わないでください」と言い張るペトロに、イエスさまは「私があなたを洗わないならば、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われます。

「あなたの人に見せたくはない負の部分を、私に委ねるのでなければ、私とあなたは何も関係がないのと一緒だ」、とイエスさまは言うのです。自分の中の罪深さに目を向け、神さまに憐れみを求めることを、イエスさまは望みます。

イエスさまが弟子の足を洗う行為は、あなたのどんな罪深さも、私が十字架の死によって引き受ける、という象徴です。私たちが信頼しすべてを委ねるならば、イエスさまは私たちをまるごと受け入れ支えてくださいます。イエスさまに支えられて歩む時、私たちは「ありのままの自分で、輝いて生きる」ことができるのです。〔副牧師 細井 留美〕

 

教会-キリストの体

コリントの信徒への手紙Ⅰ12章12-27節

2014年9月28日

コリント教会にはユダヤ人と異邦人、奴隷の身分の者と自由な身分の者、貧しい者と裕福な者がいて、さらにはパウロ派、アポロ派、ケファ派などの派閥にも分かれていました。教会が抱えていた様々な問題に答えるために手紙を書き送ったパウロは、今日の聖書の箇所で、教会の一致を勧めています。

パウロは、一人ひとりの多様性を認めつつ、こういいます。私たちの体が様々な部位が合わさって一つの体を作っているのと同様に、キリストの体である教会も様々な違いを持つ人々が、同じ霊によってバプテスマを受けて一つの体に属している。体に必要でない部分がないように、教会の一部として必要ない人などいないのだと。

教会は体と同様に、相互に助け合い、補い合う共同体として神さまに立てられているのであり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26)。パウロのいう教会の一致とは、他者と助け合って生きることであり、他者の痛みを自分の痛みとし、他者の喜びを自分の喜びとすることなのです。

私たちは誰かのために生きる時、自分の存在意義を知り、生きる喜びを感じることができるのではないでしょうか?世間の価値観とは違う、他者と共に生きる生き方、他者のために生きる生き方を、教会は示していく使命があるのではないでしょうか。   〔副牧師 細井留美〕

 

自由に生かす

マルコによる福音書1章21-34節

2014年9月21日

今日の聖書箇所の前半は、ローマの植民支配下で自分たちの既得権を守ることに汲々していたユダヤ教に対する批判です。後半は、それに代わるイエスさまの新しい共同体のスタートです。悪霊追放とは、当時の人々を硬く捕えていた「軍事力とお金への崇拝」から自由にすることを意味します。ユダヤ教が自分たちの宗教活動の保障に代わって、苦しんでいる人々の痛みに目をつぶったのに対して、イエスさまは人々のうめきを聞き入れ、自由を宣言したのです。

会堂を出た一行はシモンの家に入ります。会堂に代わる新しい共同体のスタートです。シモンのしゅうとめは仕事と家庭を顧みずイエスに従っていった婿にも呆れた上で、娘の家庭をめちゃくちゃにしたイエスを憎んでいたのでしょう。熱はそのストレスだったのかも。イエスさまは彼女に近づき、手を取って起こされます。そして彼女は、イエスの共同体に仕える(もてなす)者になるのです。

教会は何として、どこを目指せばよいのでしょうか。今日の日本社会は戦後経済成長にオールインした時のように、フクシマ以降新自由主義を信奉するファシズムの台頭で、弱者に犠牲を強いています。そこで教会は神さまにかたどられて造られた命の大切のために生きられたイエス・キリストを指さしていく群れです。教会はそのようにして地域に仕えていくのでしょう。〔魯 孝錬牧師〕

 

人と一緒に歩む

マルコによる福音書1章12-20節

2014年9月14日

イエスさまは欠乏と孤独の荒れ野でサタンの誘惑を受けられます。しかし、その只中に神さまは共におられました。聖書では40という数字は、ノアの洪水や出エジプト後の荒れ野の旅などのように神さまの救いを意味だからです。13節では「野獣と天使」が対立のニュアンスで訳されていますが、岩波聖書は「彼は野獣たちと共におり、御使いたちが彼に仕えていた」と並列に訳しています。そうだとすれば、荒れ野で誘惑を受ける場面は、旧約聖書のイザヤ書11章6-9節で語られていた「神の平和」な世界の実現であり、イエスさまの十字架の死と復活の青写真であったのでしょう。聖書をどう読んでいくかと、私たちは常に問われています。

平和の主イエスは、真っ先にガリラヤへ行かれ、神の国の福音を宣べ伝えました。ガリラヤという地柄はまさに「辺境」です。「中心」ではありません。中心のエルサレムから異邦人どもと蔑視されつづけてきた歴史を痛みと傷として抱えているところです。その痛みを知って、受け入れてくださったイエスさまは、悔い改めと神の国の福音を信じるようにと招かれます。「わたしに従いなさい」という招きに4人の漁師は家族や職業を「捨てて」、イエスさまに「従い」ました。そしてイエスさまは彼ら一緒に歩む決断をされました。教会もまた主イエスの招きに「断念」と「服従」を持って応答していく、そしてそれを伝えていく群れなのです。  〔魯 孝錬牧師〕

 

イエスの現れ

マルコによる福音書1章1-11節

2014年9月7日

今日の聖書箇所は、緊迫した時代に「イエス・キリスト」への主告白なのです。キリスト教の福音が歴史の中で消されてしまいそうな危機感が高まった時代、ローマの皇帝が神の子とされていく時代、イエスさまの十字架の従順と謙遜よりはローマの軍事力にあこがれる時代、人の命よりお金が大事にされていた時代に対して、イエス・キリストに目を向けて「イエスこそ私たちの救い主」だと教会に呼び集められた者たちが自分たちの信仰を告白しているのです。

バプテスマのヨハネの証しと神さまの証しとは本質的には一つです。旧約聖書が指差していた救い主が来られた、現れたということです。まさに神がわれわれと共におられることが実現された出来事なのです。イエスが受けたバプテスマと霊がはとのように降ってきた意味は、まさに神さまによって「立てられた」ことを強調する場面です。旧約聖書時代に王や預言者たちが立てられる時に頭に油をを注いで、神の霊が共にいると信じていたからです。

今日教会は「戦争に向かっていくこの時代、資本が人の命をモノ化して飲み込んでしまうこの時代」に、この声を聞くことができるのでしょうか。そして、この声を預言者のようにこの時代に向けて叫ぶことができるのでしょうか。岐路に立たされているのです。〔魯 孝錬牧師〕

 

わが命、キリスト

コロサイの信徒への手紙3章1-4節

2014年8月31日

キリスト者のアイデンティティとは、「キリストと共に復活させられた」者です。これはキリストを復活させた神さまの働きです。決して自分の力ではありません。裏切り続ける人間に忍耐し、愛し続ける神さまの一方的な恵みなのです。

このようにして私たちは新しく生きることがゆるされています。わがままに自分勝手に生きるわけにはいきません。神さまの御心を求めて生きることに、真の喜びがあるのです。わたしたちはキリストの言動を通して、目に見えない神さまがまさに私たちと共におられることを実感しています。キリストに従う者はインマヌエルの主を知ります。福音の秘密です。

『こいぬのうんち』という童話があります。こいぬのシロのうんちが、雨に打たれ粉々になって土に沁み込み、タンポポの花を咲かせる内容です。3日間の雨で完全に死に、花を咲かせて復活したのです。臭いうんちが花の香りに変えられたのです。この話は著者のクォン・ジョンセン氏の生き方と重なって感動します。ホームレスだった著者や田舎の教会に拾われキリストを信じるようになり、童話作家としてタンポポの花のように香る話を死ぬまで作りました。

キリストの中にわたしたちが生きる道があります。〔魯 孝錬牧師〕

 

救いの訪れ

ルカによる福音書19編1-10節

2014年8月24日

イエスさまは十字架の道を歩まれます。苦難の道です。花道ではありません。しかし、群衆はイエスさまを通してローマの圧制からの独立を夢見ています。同床異夢です。いよいよエルサレム入城が迫ってきた時、イエスさまは海水面より250メートルも低いエリコの町に下っていきます。下へ下へと。

徴税人の頭であるザアカイは群衆に遮られてイエスさまを見ることができません。当時の徴税人は罪人だと蔑視されていました。ローマの手先として同胞から多くの税金を集めて懐を肥やしていたからです。イエスさまが見えなかったのは、人からの蔑視や自らの呵責などが原因だったのかも知れません。

先回りして大きな木の上に上ったザアカイをイエスさまが呼ばれます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。ザアカイはイエスさまの無条件の受容に胸が躍ったのでしょう。急いで降りてきて喜んでイエスさまを迎えます。ザアカイの名前の意味はいみじくも「純粋」です。主との出会いを通して清められた者を意味するのでしょう。

社会の差別と蔑視に苦しみ、お金により頼んできたザアカイは悔い改めて新しい生き方を決断します。失われたものを探したイエスさまがいること自体が救いの訪れだったのです。教会はこのような救いの訪れを心から喜んでいきたいです。〔魯 孝錬牧師〕

 

約束を信じて

詩編126編1-6節

2014年8月17日

バビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、自分たちの神さまは死んでしまったのだろうか?と問う中で、自分たちが神さまから離れるという罪を犯したために、神さまがイスラエルの民を敵に引き渡されたのだという信仰に至ります。厳しい試練の時は、自分たちの罪の認識と悔い改めの時に変えられたのです。そして、エルサレムの回復が告げられると、人々は新しいエルサレムの幻を見ます。人々に笑顔と歌声があふれるという素朴な幻です。

滅亡前のイスラエルやユダは、国の繁栄と領土を守るために、軍事力に頼り、戦争に戦争を重ねていました。しかし、戦争によって、多くの人々の命が奪われ、生活が破壊されて国は滅びました。戦火によって日常生活を失った人々にとって、人々に笑顔と歌声のあふれる生活こそが回復であり平和であるという気づきが与えられたのかもしれません。

5節6節は農業に根ざした言葉です。厳しい労苦が、収穫によって報われることを、農業に従事する者は知っています。弱くて自分勝手で罪深い私たちの心から平和が生れてくるためには、神さまの御言葉に聴き、御言葉に従うしかありません。それは大変なことでしょう。しかし、今の嘆きがかならず喜びに変えられるという確信が大切ではないでしょうか。教会だけの収穫でなく、世のための収穫につながることを信じて、御言葉に従っていけたらと思います。〔細井 留美副牧師〕

 

剣をさやに納めなさい

マタイによる福音書16章46-57節

2014年8月10日

ユダの接吻を機にイエスさまは力ずくで捕まえられます。主イエスはご自分を裏切るユダに対して「友よ」と呼びかけます。人間の裏切りに対する主の憐れみです。

一人の弟子が剣や棒を持っている者の一人の片方の耳を剣で切り落としました。力ずくでやられる状況だから正当防衛です。正当な怒りと抵抗だったのかも知れません。しかし、イエスさまは「剣をさやに納めなさい」と言われました。ここには武力の正当化への断固たる「NO」が示されています。

十戒の「殺してはならない」という言葉に通じます。十戒とは出エジプトの神さまの一方的な恵みに対する、神の民の応答としての生き方が示されています。単純に禁止というよりは、「神の民となったあなたがたは人を殺すはずがない」という神さまの信頼の戒めです。今日の聖書箇所でのイエスさまの言葉は、まさにこのような神さまの信頼への応答とも言えます。

十戒からイエス・キリストに従う信仰を吟味したのが「平和宣言(平和に関する信仰的宣言)」です。12年前に連盟の総会で採択した文章の中に、今私たちが置かれている状況がよりリアルに表現されていることに驚きます。一ヶ月の交読を通して「剣をさやに納めなさい」というイエスさまの言葉に、武力の正当化に否を唱え、神さまへの信頼を確認していきましょう。〔魯 孝錬牧師〕

 

救いの言葉

使徒言行録13章24-32節

2014年8月3日

今日の聖書箇所はパウロの宣教旅行で最初に行なった説教です。パウロは語る言葉を準備していたのです。救いの言葉、つまり福音を大胆に語りました。

神さまは歴史の主です。イスラエルの民をエジプトから救い出し、神の民とされました。荒野で民の不信仰を耐え忍び、カナンの地を与えられました。王であるご自分を拒む民の要求どおり目に見える王を与えられました。イスラエルの歴史を通して分かるのは、神さまの忍耐と憐れみです。神さまは約束どおりダビデの子孫から、救い主イエスを送ってくれました。

救い主の姿は民の期待とは違って、貧しく弱くされた者でした。神さまは究極的な救いのために主イエスを送りましたが、ユダヤの人々は神さまへのあやまった熱心さのゆえにイエスさまを十字架につけてしまったのです。しかし、神さまは死者の中からイエスを復活させたのです。そしてこれを信じるすべての人に救いを与えられました。神さまはご自分の民の不信仰さえも、すべての人類への救いを切り開くきっかけとして用いられたのです。

神さまの救いは、いかなる人間の行為をはるかに超えて成し遂げられます。その証拠がほかならぬ「死からの復活」です。このイエスの死と復活こそが教会の持つ普遍的な福音です。〔魯 孝錬牧師〕

 

人間の尊厳

創世記1章26-27節

2014年7月27日

聖書は、神の創造物語で、「人」は神にかたどり(神のかたちに)、神に似せてつくられた、と語ります。人間は被造物の中でも最もすばらしい存在、「神の呼びかけに応答する存在」「創造主との間に責任をもつ存在」としてつくられ、神の祝福のうちに置かれているのだというのです(26節)。神につくられた人間の尊厳は、人の良し悪しや、地位や権力によって決定されるものではなく、1人ひとりに神から与えられているものです。それゆえ人間は、誰ひとりとしてその命が軽んじられたり、奪われたり、差別されてはならないのです。

原発事故から3年4ヵ月。原発被災地の状況は良くなるどころか深刻さを増しています。福島の苦悩も、沖縄の基地問題も、その背景にあるものは構造的差別と言われるものです。そして私たちの無関心という罪がそのような問題を温存させているのです。

沖縄の学習ツアーで講師の先生が言われました。「イエスは地上の歩みにおいて、徹底的に人の命を大切になさった。イエスに従う者は、人の命を大切にしなければならない。それゆえ社会におこるあらゆる問題をわがこととしなければならないのだ。福音は社会の事柄を含んでいる。人の命を大切にするために働くことが教会の使命である」、と。主イエスの命と引き換えに命をいただいている私たち。無関心であってはならないことを神から問われます。主よ、弱い私たちを助けてください。〔協力牧師 村上 千代〕

 

うめきの執り成し

ローマ信徒への手紙8章26-27節

2014年7月20日
サマーキャンプでの礼拝

聖霊は言葉に言い表せないうめきを持ってわたしたちのために執り成してくださいます。聖霊のうめきの執り成しは産みの苦しみに似ています。妊婦が陣痛に耐えられるのは、命の誕生への喜びがあるからです。

興味深いのは、聖霊のうめきの執り成しを受けるわたしたちが26節では「弱い」と言われる一方で、27節では「聖なる者たち」と言われることです。弱い者を助けるという表現は、旧約聖書のイザヤ書に出てくる「苦難の僕」がわたしたちの病と痛みを担ってくださったことを思い出させます。苦難の僕とはほかならぬ十字架を背負ったキリストで、ここに神さまのアガペの愛が示されています。

また「聖なる者たち」とは旧約聖書の考え方の中では、「神の慈しみ(ヘセド)に生きる者たち」を表すのです。罪深い人間とかかわってくださり、その罪をあがなってくださる、神さまの一方的な愛(ヘセド)があるからこそ、民は生きられるのです。弱い者たちはキリストの十字架を通して神さまの愛に気づかされ、そこに希望を置いて生きるようになるのです。

聖霊のうめきの執り成しは、神さまご自身がわたしたちの痛みを抱きかかえてくださる姿です。神さまの救いが完成されることを待ち望んで、現在の苦しみを忍耐していきましょう。〔魯 孝錬牧師〕

 

 

神の宣教

使徒言行録11章1-18節

2014年7月13日

神さまは人間に先だってご自分の救いを成し遂げられます。しかも神さまは人間と一緒にその業をなさろうとしています。

最初の教会はユダヤ教の一分派のように思われましたが、神さまの宣教は異邦人の救いをも計画していたのです。ペトロの見た幻は、「神が清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない」とあるように、神さまが異邦人を救おうとなさったのを人間が妨げてはならない、というものだったからです。慣習と伝統を超えた神さまの招きに戸惑うペトロの姿は私たちの姿にも見えます。

神さまは人を分け隔てることはありませんが、これを担うように呼び集められた教会や人間は頑なの場合が多いようです。初代教会がなかなか神さまの異邦人伝道を受け入れられなかったのはまさに人間の限界かも知れません。それは自分たちだけを選び取って祝福してくださるそれまでのヤハウェの神観の大転換を意味するからです。神さまがなさったのなら自分が妨げることなどできないと報告しているペトロさえも、この直後に異邦人伝道の拠点だったアンティオキア教会で異邦人キリスト者との交わりからしりぞきます。

自分たちの価値観をなかなか変えない教会ですが、様々な出来事を通して神さまは御自分の宣教に仕える者へと導いてくださいます。神の宣教を担うのに相応しい群れとなりますように。〔魯 孝錬牧師〕

 

イエスの励まし

使徒言行録8章32-40節

2014年7月6日

今日の聖書箇所では教会と宗教に傷つけられた二人が出てきます。一人は初代教会の執事のフィリポです。彼はエルサレム教会にユダヤ教からの大迫害が起きた際、使徒たちがディアスポラ出身の人々が迫害されるのを知らんぷりした代償に迫害を免れていたことに傷つきました。フィリポは教会の兄弟姉妹に裏切られたことがユダヤ教からの迫害の何倍もの心の傷となっていたでしょう。

もう一人はエチオピアの宦官です。彼はユダヤ人に差別される異邦人であった上に、去勢されたことのゆえにユダヤ教への改宗が禁じられていました。彼はエルサレムに礼拝に来ていたのですが、ありのままの自分を受け入れられるはずの礼拝で、皮肉にも自分の存在を全否定されるような痛みと傷を確認したことでしょう。帰りの途中で彼はイザヤ書の苦難の僕の箇所に引き込まれました。

馬車に乗ったフィリポは、イザヤ書に書かれた、されるがままに黙している苦難の僕こそが、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて十字架上で殺されたイエス・キリストであること、そしてそれは多くの人が正しい者とされるために献げられた死であることを分かち合いました。傷つけられていた二人は十字架を背負ったキリストが神さまの僕であることを知って励まされ、イエスを復活させた神さまを信じて生きる者の自由と解放の喜びに満たされました。

イエスさまは今も私たちが出会う痛んだ人々を通して私たちを励ましてくださることを信じます。〔魯 孝錬牧師〕

 

ほの暗い灯心を消すことなく

イザヤ書42章1-4節

2014年6月22日

今日の教会学校の聖書は創世記のエデンの園の箇所で、「あなたはどこにいるのか」です。これは一人の人間存在そのものに問いかける神の言葉です。神は、直接一人ひとりに向かって、呼びかけておられます。

また、イザヤ書は、傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことはない、かえって力づけ、助け、世の終わりまで共にいてくださる救い主、主なる神の御子イエス・キリストの姿を、先取りするようにして描いています。

山上の説教で主イエスは、「平和を実現する人々、義のために迫害される人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれ、天の国はその人たちのものである」とおっしゃいました。経済優先の私たちの現代でも、平和を実現しようと願う人々は少数派であり、迫害されている状況でもあります。沖縄で平和を願って歩む人々も分断され、孤立させられ、ある時には対立させられていく姿があります。でも、主なる神は、傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことはなく、主イエス・キリストを通して、彼ら彼女らを今も励ましてくださっています。

ひるがえって、私たちも「あなたがたはどこにいるのか」という神の問いに応え、木の間から姿を現わして、主イエス・キリストと共に働く者でありたいと思います。政財界のクリスチャンの前での講演で、川平朝清さんは「辺野古に基地をつくるのは恥であり、罪だ」と言い抜かれました。主なる神が励ましてくださっている姿だと実感できます。〔協力牧師 野口哲哉〕

 

恐れるな

マタイによる福音書8章23-27節

2014年6月15日

この箇所について、「恐れの克服」がテーマであると、ボンヘッファーは語ります。恐れは、希望をもつことの対極にあり、そして、希望をもつことが、人間をすべての被造物から区別する点である、と彼はいいます。希望をもつことが神への信頼であれば、恐れは神への信頼を壊すものです。 恐れや不安がある時、私たちはそれから逃れたいと願います。しかし、恐れから逃れようとする時、私たちは自分自身や神以外のものに頼り、神への信頼から遠ざかるのです。

弟子たちは、嵐の船の中で、恐れに陥りました。しかし、船の中には、キリストが共にいます。キリストこそ、恐れに打ち勝ち、十字架の死を受け入れたお方であり、復活を経験されたお方です。恐怖にかられた私たちが、自分でできることをし尽くしてなすすべが無い時に、ただ一つ残されているのは、「主よ、たすけてください」とキリストに向かって請うことだけです。これは、「恐れ」という不信仰の中からの信仰です。私たちは、恐れずにはいられない不信仰な者ですが、恐れの中から主に信頼することが大切です。「恐れるな」というキリストの言葉だけが私たちを恐れから解放するからです。

キリストの言葉に聞き、その言葉を信頼するならば、私たちの中の恐れは、たちまちに、あの風と湖のように静まり、平安に満たされ、神さまの約束、希望を思い出すのです。〔副牧師 細井 留美〕

 

聖霊に満たされて

使徒言行録2章1-13節
2014年6月8日

イエスさまが昇天された後、地上に残された人々はイエスさまの不在を恐れて隠れていたのでしょう。できることは一緒に祈ることです。祈っていたその時「突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ…炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2節)のです。約束されていた聖霊が降ってきました。人々は、ユダヤ教の「過越祭(出エジプトの救い)」と「五旬節(シナイ山での十戒授与)」に示されている神さまの救いが、イエス・キリストの「死と復活」と「聖霊降臨」を通じて新しく更新されたことを知りました。ペンテコステの出来事は、厳しい現実を生きるための神さまの励ましと力づけだったのです。現実逃避ではありません。

この出来事の大きな意義は、聖霊降臨を体験した当事者たちはもちろん、五旬祭でエルサレムに来ていたディアスポラのユダヤ人や、異邦人の改宗者たちまで聖霊の和解の働きを目の当たりにしたことです。つまり、バベル塔の呪縛が断ち切られ、福音が分かち合われたのです。まだ教会が形づくられる前に、イエス・キリストの福音は聖霊を通してユダヤ人の民族の枠を超え、言語や文化、貧富の格差に縛られることなく、風のごとく自由に広がっていくことが示されたのです。聖霊の働きは人間の限界によって左右されることなく、神さまの約束と計画によってこの世の初めから終わりまで貫かれるものです。聖霊の働きを信じて歩み続ける教会でありたいと願います。〔魯 孝錬牧師〕

 

 

人間の商品化に抗いて

マタイによる福音書9章2節~13節

2014年5月25日

働いた時間に応じて賃金が支払われることを私たちは、当然だと考えますが、そこには、仕事がない者や働くことが難しい者への視点が抜け落ちています。すべての人が等しく幸せでない社会とそれを作った人間の価値観に対抗して、イエスさまは天の国の譬えを語られます。

ぶどう園の主人はぶどう園で働く者に、「ふさわしい賃金」=「公正な賃金」を約束し、労働時間に関係なく、すべての人に1デナリオンを支払います。まる一日働いた者の不平に対して、主人は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」といましめます。それは、人間の不完全な正義に対する、神さまの正義です。私たちが、人を様々な価値基準によって判断するのに対して、神さまは、その人の働きの時間の長さ、仕事の成果、努力でもなく、ただその人の存在自体に対して、あたたかい目を向けてくださるのです。

人間が人間の価値を判断する社会は、人をモノのように価値のある者・ない者と区別し、結局のところ人々の間に富める者と貧しい者、支配する者とされる者という格差を生んでいきます。しかし、神さまは人間の商品化、人間による人間の支配をいとわれます。そして、この世の価値観にとらわれている私たちに対して、神の国の価値観を示されるのです。

私たちが聖書に耳を傾け、神の国の価値観に目が開かれていく時、この世の価値観は覆されていくでしょう。〔副牧師 細井留美〕

 

主イエスの支え

マルコによる福音書14章27-31節

2014年5月18日

イエスさまは弟子たちの「つまずき」を予告されました。このようなつまずきは教会の現実です。時にはペトロのように大言壮語したり、考えたりするからです。そして今日の聖書箇所の前後の段落でも弟子たちのつまずきが指摘されています。

しかし、イエスさまがつまずく弟子たちを命がけで支えてくださっている姿に目が留まります。最後の晩餐の場面では、弟子の一人の裏切りを予告しながらも、パンとぶどう酒を与えられ、十字架上でご自分の命を献げることを示されました。そしてゲッセマネの祈りの場面では、眠っている弟子たちの傍らで神さまの御心を切に求めておられたのです。

イエスさまは弟子たちのつまずきを指摘されると同時に「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われました。ガリラヤはイエスさまが弟子たちと共に福音を伝えていた現場です。生きていても死んだと同然の生き方を強いられていた人々に、命の喜びを与えてくださったところです。そこに戻ってはじめて弟子たちは復活の主の支えによって歩み続けられる、という意味ではないでしょうか。福音書の記録自体、弟子たちが自分たちのつまずきを乗り越えて主イエスの支えによって生きた証拠なのです。

私たちも弟子たち以上につまずきを繰り返しますが、主イエスの支えに励まされて歩み続ける群れです。〔牧師魯孝錬〕

 

覆われる神の救い

創世記50章15-21節

2014年5月11日

ヨセフ物語と聞けば皆さまは何が思い浮かぶのでしょうか。まず「夢」です。収穫の時お兄さんたちの束が自分の束にひれ伏した夢や、太陽と月と11の星が自分にひれ伏した夢です。幼い頃よく「ヨセフのように夢を持てば、エジプトの大臣になれるよ」と聞いた覚えがありますが、ヨセフ物語を読みかえしてみると、ヨセフの夢は神さまの働きによる「和解の夢」のように思われます。成功の夢ではありません。

ヨセフは兄たちに売られて奴隷の生活から、罪を着せられて囚人の生活へとどんどん悪くなるばかりでしたが、いつも「主が共におられ」たのです。ヨセフが自分の夢を覚えていたのかは不明ですが、ヨセフは他の人の夢を説きながら、やっと自分が見た夢が、神さまの働きによる「和解の夢」であることに気づかされたのではないでしょうか。

ヤコブが亡くなった後、兄たちはヨセフが自分たちに仕返しするのではないかと恐れています。しかしヨセフは兄たちに語りかけます。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え」、多くの命を救ってくださったと。兄たちの悪を「たくらむ」と神さまがそれを善に「変える」と言う動詞は、ヘブライ語では両方共に「ハシャブ」という単語が用いられています。神さまがハシャブするのは、人がハシャブするのをはるかに超えています。人の行いがいかに悪くとも、神さまの救いはそれらをすべて覆ってくださるのです。

「覆われる神の救い」は今も我々の只中にあります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

復活を生きる

マルコによる福音書5章25-34節

2014年5月4日

現代は病気のインフレの時代だと感じます。一昔前は見聞きもしなかった病気が氾濫しているからです。難病と付き合うのは、古今東西を問わず大変なことです。今日の聖書箇所でも「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけだった」(26)という女性が出てきます。病の治療で心身ともに疲れ果てたのです。

イエスさまがいたユダヤ社会の価値観では、病気は本人や親の罪の結果でした。当時の病人たちはお金がなく焼き尽くす献げ物を買えずにいると、罪を犯して悔い改めもしないけしからんやつに見られたり、何とか工面して鳩でも買って礼拝を献げようとすれば、汚れたやつだから神殿には来るなと門前払いされたりしたと思われます。孤独を強いられ、関係を剥奪された、窒息の日常を生きていたのではないでしょうか。

この女性はイエスさまの噂を聞いて、自分が汚れた病気だと分かったら群衆に殺されるかも知れないと恐れながらも、その群衆をかき分けてイエスさまに向かって進んだのです。これは病気に苦しみ、当時の価値観に踏みにじられていた者が、生きていることを実感する感動的な場面です。川の流れに抗って泳ぐ鮭の生命力を感じます。イエスさまに縋る思いこそが彼女を奮い立たせ、当時の価値観に抗う生命力につながったのではないでしょうか。彼女の一歩に復活を生きる姿勢があります。

右に傾きつつある暗澹たる時代ですが、この世の価値観にしっかり抗って復活を生きる群れでありたいと切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

新しい扉

マルコによる福音書2章13-17節

2014年4月27日

徴税人のレビは、「罪人」と呼ばれて差別される人たちからも白い目で見られる存在だったのかもしれません。そんなレビを見たイエスさまは「わたしについて来なさい」と声を掛けます。自分も喜びの輪に加わることができると知ったレビは、イエスさまに従いました。

イエスさまはレビの家で、徴税人や「罪人」と呼ばれる大勢の人たちと食事の席につきました。そこには、既存の社会とは違う新しい共同体がありました。人々には社会のしきたりやしがらみから解放された喜び、と同時に自分自身の尊厳を取り戻した喜びがありました。イエスさまは、神の国の新しさを、自由と平等の食事会という形で表したのです。

ところが、律法学者たちにはそれは律法違反としか写りません。彼らには、神の国の新しさが目に入らないため、そこへ入ることができません。しかし、彼らが自分もまた神の前で「罪人」であることに気が付くのなら、その時には目が開かれて、喜ばしい食卓に加わることができるでしょう。

私たちにできることは、イエスさまと共にあることを喜ぶことではないでしょうか。 不自由と不平等の社会の中で小さくされている人たちは、わたしたちの喜びを見て、教会の交わりに加わり、神の国の新しい共同体は広がっていくのではないでしょうか。教会には、神の国に開かれた新しい扉となる、働きが与えられています。〔副牧師 細井留美〕

 

平和への道

ルカによる福音書19章28-45節

2014年4月13日

いよいよイエスさまはエルサレムに入られました。群衆は革命による平和を期待して「ホサナ(我らを救いたまえ)」と歓呼してイエスさまを迎えました。しかし、イエスさまは人々の期待とは違う、へりくだりの十字架の道を先に立って進まれました。

イエスさまは子ろばに乗られました。旧約聖書のゼカリア書では、「高ぶることなく(アニー)」と訳されていますが、この言葉は他の箇所では「貧しい者」「弱い者」「苦しむ者」と使われています。神の独り子は、真の平和をもたらすために自ら貧しくなられたのです。

イエスさまはローマが勝ち取った平和とはまるで違う道に向かおうとしています。それはベツレヘムの飼い葉桶からはじまり、ベタニア(貧しき者たちの家)を通り、十字架へとつながっています。理解されませんでしたが、黙々と主の平和への道を歩まれました。

戦争を通して平和が到来した試しはありません。人々は暴力に抑圧されていながらも、またも暴力による平和を願っています。イエスさまはこのようなエルサレムの状況を憐れみ、泣かれました。そしてイエスさまはこのような人々の無知と無理解、力への願望の連鎖を断ち切るために、十字架の道へと、平和への道へと歩まれました。教会もこの主イエスの平和の道を歩み続けたいものです。〔牧師 魯孝錬〕

 

涙と共に種を蒔く

詩編126章1-6節

2014年4月6日

「捕われ人(シェブー)」という言葉は「連れ帰る、戻す(シュブ)」の名詞形で、「回復」とも訳せる言葉です。捕われ人とは、回復を前提とした言葉でもあるのです。神さまの視点からすれば、捕囚時代は回復のための布石だと言えます。未来の回復を夢見た詩人は喜び、笑いと賛美を口にしているのです。

これはまるで乾季の荒れ果てた砂漠が、雨季になると水の流れができ緑豊かなオアシスに変わるのと同じです。命を回復させる神さまの力です。詩人の笑いと喜びは神さまによる回復にありますが、それは厳しい現実が確かにあることへの反証でもあります。詩人は厳しい現実を嘆き、悲しみながらも、神さまがそれらを必ず喜びへと変えてくださることを歴史の出来事から信じています。このような神さまへの信頼こそ、「涙の種まき」ではないでしょうか。

「涙と共に種を蒔く」とは、「やればできる」、あるいは「結果は自分の努力次第だ」とする解釈より、疑う者も混じっている弟子たちが復活されたイエスさまに送り出されたことを意味します。同様に私たちも毎週の礼拝を通して主イエスに送り出されることによって、種蒔きに参与しているのでしょう。そして私たちと共にいるとの主イエスの約束が、派遣された場所で小さくされた者の姿で実現されているのです。

主題目標は教会の1年の歩みの方向性を確認し合うものです。神さまのなさる業を夢見て歩んでまいりましょう。〔牧師 魯孝錬〕

 

にもかかわらず

マタイによる福音書16章13-20節

2014年3月30日

イエスさまに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれ、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。素晴らしい信仰告白です。イエスさまも「シモン・バルヨナ、あなたにこのことを現したのは神さまだ」と言われました。ペトロの告白が私たちの生涯の告白となることを祈ります。

ところが、イエスさまはペトロをなぜバルヨナ(ヨナの息子)と呼ばれたのでしょうか。旧約聖書のヨナは異邦人であるニネベの人々の罪を赦される神さまが理解でしませんでしたが、神さまはヨナが偏狭な民族主義を超えてご自分の愛を正しく知るようになることを望んでおられたのです。同様にイエスさまもまたペトロに十字架の死と復活による救いを知ってほしかったのではないでしょうか。

ペトロは立派な信仰を言い表しましたが、その真意は理解できませんでした。私たちの告白の限界です。しかし不十分な信仰告白であったのにもかかわらず、主イエスはその告白の上に教会を建て、天国の鍵を授けると約束されました。主に従うと言っていますが、私たちは依然として自己中心的でなかなか人をゆるすことができません。にもかかわらず、主イエスは私たちを教会に招き、この世に送り出してくださるのです。

私たちの弱い信仰にもかかわらず、主イエスは私たちを支え、その信仰を完成へと導いてくださいます。私たちの信仰は主イエスに立っているのです。そして赦し合う生き方を示してくださいます。主イエスのビジョンであり、私たちの負うべき十字架なのです。〔牧師 魯孝錬〕

 

キリストへの信仰

ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

2014年3月23日

アンティオキアでペトロは異邦人たちと共に食事をしていましたが、エルサレムから来た人々に律法を破っていると批判されるのを恐れ、しり込みして身を引いて異邦人たちと距離を置きました。

異邦人との食卓の交わりは、ユダヤ教の伝統を超えた「キリストへの信仰」の証しそのものでした。パウロは、ペトロたちの行動は一度打ち壊した「律法の実行によって救われる」という考えを再び建てることだ、と毅然として指摘をしました。

ユダヤ教寄りの人々は救われるためには、どうしても「律法遵守」という「+α」が必要だと思っていました。しかし、パウロはこのような考え方で人々が差別を受けた出来事を前に、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」、つまり「キリストへの信仰」によってのみ救われ、そこにだけ生の根拠を置くことを決断します。

「+α」を求める信仰は、本来喜びであるはずの信仰生活を重荷と感じさせます。まるでカナの婚礼のぶどう酒がなくなったことや、神殿で両替をしている姿と同じく、喜びと本質を忘れる状態に陥るのです。しかし、その最中に主イエスは私たちと共におられ、喜びと神さまとの関係を回復してくださいます。「キリストへの信仰」を通して、自由な生き方へと導かれることを心から願います。

信仰に生きる

ハバクク書2章1-4節

2014年3月16日

東日本大震災から3年が経ちました。連盟の教会と現地の教会との間に、また被災地の教会と地域の方々との間に、「支えられて」「支える」という絆ができ、悲しみと喜びが共有できる信頼関係が築かれつつあります。引き続き現地教会の支援活動を祈りに覚えていく中で、そのような恵みに与っていきたいものです。

北王国はアッシリアに滅ぼされました。南王国のユダも風前のともしびです。「暴力」がまかり通っている現実の中で、神さまがなぜ沈黙しているのかと訴える預言者ハバククに、神さまは「神に従う人は信仰によって生きる」と生きる道を示されました。

「信仰によって生きる」とは、第一に理不尽な現実を「訴えて見張る」、つまり、現実をしっかり見極めながら神さまに訴えて神さまの言葉を読むことです。第二に「御言葉を書き記す」ことです。神さまが計画しておられる救いを伝えることです。自分たちの夢ではありません。換言すれば、キリストの十字架による裁きと赦しを語り続けていくことです。

歴史を「風化させない」ために、さらには「誤った記憶」にしないために、教会は、厳しい現実の中でハバククが言われたように「信仰によって生きる」群れでありたいと願っています。復興のイメージだけを巧みに利用する「暴力」を見張り、主に訴え、人を欺くことのない神さまの救いが、「必ず来る」ことを語っていきましょう。

 

聖霊の導き

使徒言行録16章11~15節

2014年3月9日

聖霊とは、神の霊であり、神の息です。パウロはこの聖霊によってフィリピに導かれました。パウロはアジア伝道やビティニア州へと進みたかったのですが、聖霊はそれを止めました。自由にパウロを必要な場所に導きました。

神さまは祈りの場所でリディアの心を開かれました。心が開いたリディアはパウロの話を「注意深く聞き(シェーマ、聞き従い)」、彼女も家族の者もバプテスマを受けました。ヨーロッパ伝道初の果実であり、フィリピの教会の始まりです。

パウロにとってこれは「実に、信仰は…、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)という聖霊の導きの体験でした。彼らは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じて」(ローマ10:9)バプテスマを受けたからです。聖霊は彼らを『イエスは主である』と告白するように導きました(Iコリント12:3)。人の心を開き、御言葉に聞き従わせ、イエスを主と告白させるのはほかならぬ聖霊の導きなのです。

人は私たちの言葉で変わるものではありません。自由な聖霊の導きによってのみ変えられるのだと信じます。聖霊の導きを期待して祈り続けながら、福音宣教に励んでいきたいものです。

 

パウロの監禁

使徒言行録24章24~27節

2014年3月2日

ユダヤ総督のフェリクスは裁判後パウロを監禁させました。監禁とありますが、実際はある程度の自由が許される軟禁に近い状態でした。パウロの監禁は、フェリクスのキリスト教の教えへの興味と賄賂への下心と同時に、さらに円滑なユダヤ地方の統治のためにユダヤ人指導者たちをも満足させるための苦肉の策だったと思われます。

エルサレムに登る計画では想定しなかったはずの軟禁生活。パウロにとってこの思いも寄らぬ展開は、逆に福音が広がるきっかけとなったのでしょう。エルサレム教会の指導者たちや、多くの人々とより自由に話し合いができたり、手紙も自由に書けたりしたからです。

2年間の軟禁生活の間、フェリクスは妻のドルシラと一緒にパウロの話を聞きました。腐敗管理だったと知られていたフェリクスは神さまの正義と節制する生活、来たる神さまの裁きを素直には聞けなかったでしょう。さらにそのため神さまの豊かな慈愛と寛容と忍耐が罪人を悔い改めに導くという真理を悟るまでには至らなかったようです。

私たちが置かれている状況を福音が広がるきっかけとして用いられる神さまを信じて歩みたいと願います。そして福音の言葉が人々の心に十分働かれることを切に祈ります。

 

幼な子のように

ルカによる福音書18章15~17節

2014年2月23日

「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちはこれを見て叱った。」(15節)

最も小さいものを喜ぶどころか、軽んじる弟子たち。ここでの「叱る」は、イエスが悪霊を追い出した時(4:35)、嵐を静めた時(8:24)に使われている「叱る」と同じ言葉で、弟子たちはかなり強い口調で子どもたちを怒鳴りつけたと言い換えられます。マルコでは、そのように小さい者を軽んじる弟子たちに対して「憤る」イエスが伝えられています。イエスはそれほど小さい者を愛し、どんなに多忙であってもご自分のもとに来る者のために時間を割き、またどんなに小さな者であっても、いやむしろ小さな者だからこそ受け入れ、ご自分のもとに招き入れたのです。

17節で、子どものように神の国を受け入れる人でなければ神の国に入れないとイエスは言われます。「子どものように」とはどういうことでしょうか。子どもの無罪性や無邪気さでしょうか?そうではなく、1人で生きていくことができない弱く小さい子ども、助けを必要としている子どものようにということでしょう。自分は正しいと高ぶり、自己中心的になってしまう私たちへの神からの招きの言葉です。

イエスによって砕かれ、キリストの十字架による神のゆるしと助けを必要としている1人ひとりが、地域の声を聞き、小さい者を中心に、小さい者と共に歩む中に主がおられ、私たち自身が主の恵みにあずかり、教会も成長するのです。

 

恵みの時

コリントの信徒への手紙第二6章1~10節

2014年2月16日

コリントの教会はパウロの伝道によって始まりました。パウロは1年6か月滞在した後、ユダヤ人たちの迫害がひどくなったために教会を離れました。教会にはパウロに反対する人々が増えて、「パウロの教えは怪しい」とか「神さまに仕えている人が、なぜあれほど苦しみに会うのか」などの疑いや非難が後を絶たなくなりました。

パウロは弁明をする代わりに、キリストに結ばれて新しく創り変えられた恵みにふさわしく生きることをお勧めしました。その恵みとは、旧約聖書でイザヤによってバビロン捕囚のイスラエルの民に語られた「帰還の約束」であり、まだカナンの地に入る以前に語られた「ヨベルの年(解放の宣言)」に重なっています。

バビロン捕囚時代の「帰還の約束」も、荒れ野の生活中の「ヨベルの年のビジョン」も、時代こそ違いますが、聞いている人々にとっては想像すらできない、神さまのビジョンだったのでしょう。どちらの人々も厳しい現実の中でこの恵みの約束に支えられました。パウロ自身様々な苦難をキリストの十字架の苦難に重ね、復活の希望を見ているのです。

私たちもキリストの死と復活を通して与えられたこの恵みを、「いま、ここで」歩んでいきたいと願います。

 

イエスの背中

マルコによる福音書3章13~19節

2014年2月9日

イエスさまは12人を立てました。立てた(ポイエオ)とは、「人間をとる漁師にしよう」(1:17)の「しよう(ポイエオ)」と同じ言葉です。イエスさまの「創る」という意志が込められています。

そして彼らを使徒と名付けました。「自分のそばに置くため」です。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の実現です。彼らはイエスさまと衣食住を共にしながら、自然にイエスさまの背中を見て、それぞれの感性の中で多様なことを受け止めていたのでしょう。

彼らはイエスさまを通して神の国が到来したことや、神の御心を行う者こそ神の家族であることを見て感じたでしょう。墓場で住んでいた者や、死んだヤイロの娘に対するイエスさまのまなざしや働きを体験できたでしょう。後ろからそっとイエスさまの服に触れた一人の女性と大事に関わってくださったことなどを通して、それまでの価値観の転換を確信したのでしょう。

イエスさまは御自分の背中を見ていた人々を「派遣して宣教させ」「悪霊を追い出す権能を持たせ」る意志も持っておられたのです。彼らはやがてそのように遣わされていくのです。私たち教会もイエスさまの背中を見て派遣されていく群れです。

 

主に付き従う

サムエル記上12章20-25節

2014年2月2日

イスラエルは、神の支配から王の支配へと大きく変わろうとしています。最後の士師として仕えてきたサムエルが告別の辞を述べています。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後はそれることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい」と。

イスラエルの人々が「行った(アーサー)」悪とは、「王を求めた」ことでした。神さまが王であるのにもかかわらず、目に見える王をしきりに願ったのです。ご自分を退けた民に対して、神さまは人々をご自分の民と「決めた(アーサー)」ので、その民をおろそかにはなさりません。

神の民は救う力もない「むなしい(トーフー)」ものについて行きましたが、結局は王にすべてを搾取され、奴隷となってしまいます。王のために泣き叫ぶことになる人々の姿は、天地創造以前の混沌(トーフー、カオス)そのものです。神さまはその混沌に光と秩序を創られるのです。

しかし、サムエルは「良い(トーブ)」道を示しました。むなしさやカオスを恐れず、それらに光と秩序をもたらす神を畏れて生きることです。教会はイエス・キリストの死と復活を通して、「神さまがいかに偉大なことを示されたかを悟って」いく群れです。

 

神の富と知識

ローマによる福音書11章25-33節

2014年1月26日

私たちは神さまの思いを完全に理解することができません。時には振り返ってみてはじめて神さまの導きだと気づかされることがあります。毎朝目が覚めて送れる日常生活は、実は奇跡かも知れません。神さまの導きは日常にちりばめられているのです。

パウロは外国人伝道を熱心に進めていました。同胞のユダヤ人たちがキリストを拒んだからです。ユダヤ人のこのような背きは外国人信者にとっては、ユダヤ人たちが神さまから見捨てられたという確信につながったのでしょう。しかしパウロは神さまがユダヤ人たちの不信仰を遠ざけ、彼らの罪を取り除いてくださると、固く信じていたのです。

神さまの導きによって「ユダヤ人も救われるに違いない」というパウロの信仰から、神さまに委ねて生きる信仰を教えられます。教会は自分自身も含めて人の救いを判断する場所ではなく、罪人同士が一緒に復活のイエス・キリストに触れていく共同体ではないでしょうか。

そしてそこから力づけられ、弱くされている人々と共に歩むことに教会が突き動かされてはじめて、その歩み中で、神さまの救いに気づかされていくのではないでしょうか。

 

あふれだした命

ヨハネによる福音書4章1-30節

2014年1月19日

社会の底辺で苦しみ喘ぎ、心を閉ざした女性の渇きにイエスさまは、気づかれます。そして、身分や性別に関係なく、神の想いを受け入れて礼拝する、真の礼拝者が求められていることを伝えます。彼女は、イエスさまに出会い、自分がありのままで、神に真の礼拝をささげるに値する人間であると知り、自分自身の人間としての尊厳の回復をします。その喜びが、彼女が閉じていた心からあふれ出て、彼女を明るく元気に活き活きとさせ、町の人にキリストを伝えさせ、さらに町の人たちとの交わりの回復にもつながったのでしょう。

私たちもまた、平等に神の前に立ち礼拝することがゆるされています。社会の中で、私たちは様々な価値観によって区別され、劣等感や優越感を持ちます。しかし、神さまの前ではそのような価値観は無にされ、ただ真の礼拝者であることが求められるのです。世間の価値観から自由になった時、私たちは自分が不幸だと思う考えからも解放されるのではないでしょうか。この世を照らす光として、私たちの間に宿ってくださったイエスさまに目を向け、「見よ、それは極めてよかった」という神の価値観で世界を眺める時、私たちの中に明るく元気に生きる力が湧いてくるのです。

 

パン種に似た神の国

マタイによる福音書13章31~33節

2014年1月12日

「天の国はパン種に似ている」。パン種とは、粉と何ら変わりもなく混ざっていますが、「やがて全体が膨れる」働きをするものです。同様に、「神の国」も初めは存在の有無すら確認できないが、やがて全体を変えてしまいます。これがイエスさまの言われたこの譬え話の核心です。

それと同時にイエスさまは多くの病人を癒されました。当時は罪の結果(罰)として病気にかかると思われた時代です。しかしイエスさまの癒しは肉体の回復以上に、罪の赦しと家族と共同体への復帰という喜びが大きかったのです。当時の宗教観を丸ごと変えてしまう働きでした。

神さまを知っていた人々なら、このようなイエスさまの言動を通して神さまの救いに気づかされたはずなのに、多くの人々は頑なに自分たちの視点に固執して、「イエスは安息日を破った」と「イエスは悪霊に取りつかれた」と言いながら、イエスさまの「神の国」を曲げました。

彼らに対してイエスさまは「疲れたかい。行き詰っているのかい。わたしと共に散歩に出かけようじゃないか。しばらくわたしと一緒に歩いてみないか。わたしと一緒に空を見ながら、深く深呼吸してみないか。見えなかったものが見えてくるだろう。わたしと一緒なら自由に生きることをきっと学べるよ」と呼びかけました。このようにして「神の国」、神さまの支配は徐々にこの世を変えているのです。

 

マナの恵み

出エジプト記16章13-16節

2014年1月5日

「マナ」とは、神さまがエジプトの奴隷であったイスラエルの民を救い出してからカナン地に入るまで、荒れ野での40年間天から降らせた日々の糧です。葦の海を渡った人々は神さまの救いを称えたものの、早々水と食べ物が保証されない荒れ野の生活に不平をもらします。

神さまはこれらの人々に「天からパンを降らせる…毎日必要な分を集める・・・わたしは、彼らがわたしの指示とおりにするかどうかを試す」(4節)と言われました。マナは不確かな生活の中で神さまを信頼して生きるかどうかの「試し」だったのです。

明日の食べ物が保証されていない状況の中で、「必要な分だけを集める」のは相当大変だったと想像します。先着順の論理を乗り越えて神さまの救いと導きの約束を信頼して生きられるかどうか、という試しだったのでしょう。もう一つ、神さまは「それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい」(16節)と言われました。これは幼児や、病人、体の不自由な人々、高齢者など、マナを取りに出かけられない、弱い者と共に生きられるかどうかが問われたと思われます。

マナの恵みとは、何も頼るところがない荒れ野で、先着順や弱肉強食の論理に捉われることなく、神さまを信頼して「共に生きる社会」への導きなのです。

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