2016年メッセージ・アーカイブ

大いなる喜びの知らせ

ルカによる福音書2章8-21節

2016年12月25日

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。羊飼いたちは、突然もたらされたこの「大いなる喜びの知らせ」を受け取り、急いで出かけていき、救い主イエスを見いだしました。そして、喜びに溢れ、神を賛美し、人々にあかしする人生に変えられました。それから、福音は2000年以上、世界中で宣べ伝えられています。

いのちは人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 神さまは、弱い人間を見放さず、神ご自身の意志・決断(言)として、救い主イエスをこの世界に投入しました。「イエス」と言う名の意味は「主は救う」です。イエスさまは神話の神ではありません。彼は、両親の苦境の中で限界ある人間として生まれました。小さくされ、貧しさに苦しむ人々を癒し、励まし、生きる力といのちを与え、生き抜いたナザレのイエスです。その生涯が、忍耐強く憐れみ深い神の愛・本質を体現しています。神さまから与えられた真実の贈り物、イエスさまは、わたしたちに与えられた希望、「いのち」です。

羊飼いたちのように、「大いなる喜びの知らせ」を、真に受けとり信頼して、日々、今も生きて働かれる救い主イエスを求め、出会い直し、賛美する、クリスマスのような毎日を生きたい。新たな年、ますます混迷を深めるであろうこの世界、格差社会にあって、自分自身も含め、隣人の痛みや弱さに向き合いながら、開かれた東京北キリスト教会として、「大いなる喜びの知らせ」を多くの方々とともに分かち合っていきたいと願います。

闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。イザヤ書9章 1節 〔協力牧師 米本 裕見子〕

虐げられている者の救い主

ルカによる福音書1章39-56節

2016年12月18日

マリアは、女性=「産む性」という価値観の社会の中で、婚前に「非処女」となったために、「恥」であり、「価値のない」存在になります。不安を抱えて、マリアは親類のエリザベトのもとに向かいます。エリサベトも、女性=「産む性」という価値観によって苦しんできた人です。しかし、神によって、年老いた女性=「価値のない」存在というこの世の価値観が逆転されることを経験します。エリサベトは、マリアの苦しみを理解することのできる者、また、この世の価値観を逆転される神の恵みを経験した者として、マリアを励ますことの出来る唯一の存在でした。エリサベトはマリアに「あなたは、女の中で祝福された方です」と言います。世間から白眼視されるマリアにとって、エリサベトの言葉は最大の慰めであり、励ましでした。

そのことが、マリアの賛歌に表れています。マリアは、神さまが「はしための悲惨さ」(岩波訳聖書)を、「幸い」に変えてくださったと告白します。51~53節には、高い者が低くされ、低い者が高くされるというルカによる福音書の一つのテーマが見られます。それは、当時の世界において、格差が深刻であったことを示しています。ここで述べられているのは、マリア個人の想いであり、同時に虐げられている民衆全体の想いです。マリアの賛歌は、やがて到来する神の国の希望を、悲惨な状況にあるすべての人に指し示します。マリアが「幸いな人」と呼ばれるのは、神の偉大な業を経験し、苦しむ人々を救う神の支配を、まっ先に見たことにあるのです。〔副牧師 細井留美〕

 

主の道を備える

マタイによる福音書3章1-12節

2016年12月11日

バプテスマのヨハネはローマの植民地支配下で苦しめられていた多くの人々に、神の愛の支配が到来したと告げます。バプテスマのヨハネは、かつてバビロニア捕囚の時代に神による解放を告げた預言者イザヤの姿に重ねられているのでしょう。

彼の言葉は心に刺さり自らの信仰を反省させられます。しかし、同時に彼の言葉はローマ帝国の支配に協力する見返りとして一定の宗教の自由を保障されていた当時の社会構造に対する神の審判の言葉であることを考えると、彼の悔い改めの要求は「個人の信仰」の範疇を超えて、当時の宗教と社会のあり方が厳しく問われていたことに注目すべきです。

そうすると、当時の宗教の名の下で「不条理な抑圧を受けていた、弱くされていた人々」にとってこの厳しい言葉がむしろ神の正義の実現として「救いの言葉」であることに気づかされます。これはまさにイエスさまの生涯を通して示された価値でもあります。「信仰」とは神と「自分」との関係の回復から出発しますが、その和解は「隣人」との和解や、「歴史」との和解へと広がっていくものだと信じています。

イエスさまの誕生を待ち望むとは、わたしたちが生きているこの社会に神の愛の支配が実現することを願うことです。私たちは主に従う群れであるからこそ、弱くされている方々と共に生きられる社会の実現のために、主の道を整えていきたいと思います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

神の支配

創世記22章1-14節

2016年12月4日

アブラハムは100歳の時に得た息子のイサクを神さまの命令に従って焼き尽くす献げ物として献げようとしました。篤い信仰です。様々な場面において私たちの信仰はアブラハムのようにできるかどうかで判断されることもしばしばありますが、この話は信仰の「模範」として読むよりは、沈黙する神、または理不尽に見える神を少し知るようになった信仰者の証として読むべきではないでしょうか。

カルデアのウルから旅立って以来、アブラハムは寄留者として生きてきます。寄留者とは、誰の保護も期待できない立場です。時には妻を妹だとウソを付いたり、掘った井戸を地元の人々に奪われたりして、命の危険にさらされる生活です。神の約束はなかなか実現しません。古代中近東の宗教では人身御供の習慣があり、アブラハムもヤハウェの神が理解できず、イサクを献げようとしたのかも知れません。

しかし、今日の物語で私は息子に手を下そうとするアブラハムを必死に止めるヤハウェの神を発見します。神は人の血に飢えたり、人の命を欲したりする神ではありません。むしろ、イサクのように信仰の名の下で犠牲になっていく命を救い、生かしてくださる神なのです。さらには、礼拝の献げ物をご自分で準備される神の姿が示されています。アブラハムはここで一つ、命を生かしてくださる神を体験したのだと思います。その神がイエス・キリストを備えて下さいました。〔牧師 魯 孝錬〕

 

救い主に先立っていくヨハネ

ルカによる福音書1章57-80節

2016年11月27日

年老いたエリサベトとザカリアに与えられた子どもは、ヨハネ(ヤハウェは憐れみ深い)と名付けられます。父ザカリアが、神の救いとヨハネの働きを預言します。

神の救いとは、社会の中の最も弱い者が、搾取や抑圧、差別や偏見から救われて、恐れなく神を礼拝することであり、「暗闇と死の陰」であるこの世に心痛める神さまが、あけぼのの光(救い主)を送り、人々の歩みを平和へと導いていくことです。

その救いを人々に告げ知らせるために、主に先立って行き、その道を整えるのが、ヨハネの働きです。他の預言者に比べると、物足りない働きかも知れませんが、救いの業を行なうのは、キリストなのであり、ヨハネが大きな業を行なう必要はなく、大切なのは救い主を指し示し、人々に準備を促すことなのです。

ヨハネの働きは、教会の働きに重なります。教会は、なにか大きなことができるわけではありません。しかし、そのことを悲観する必要はありません。人々に真の救いをもたらすのは、教会ではなく、キリストだからです。教会の最大の役割は、主の救いを人々に知らせていくこと、この「暗闇と死の陰」の世界に希望の光があると、指し示していくことです。それは、イエス・キリストがされたように、弱くされた人々に寄り添い、共に生きようとすることでしょう。それが、たとえ不十分な歩みであっても、主に先立っていくならば、主がそこに救いの出来事を起こしてくださるでしょう。〔副牧師 細井留美〕

 

救いの歴史

申命記26章5-9節

2016年11月20日

申命記はイスラエルの民が40年の荒れ野を経てカナンの地を見渡しながら、モーセによる告別説教の形で書かれています。申命記が最終的に編集されたのは、バビロン捕囚後のことですから、申命記の読者たちは自分たちの先祖がすでにカナンの地で神さまの御言葉から離れて破局を経験した反省を踏まえて、今度こそ御言葉に忠実に従うとの決断を、最初にカナン地に入る場面に重ねているのです。

そしてこのような覚悟は、礼拝の場面において今日の聖書箇所の信仰告白に基づいています。告白の内容は、神さまが自分たちの先祖をエジプトでの苦しみから救い出してくださったことと、導きの中でカナンの地を与えられたことです。歴史の中に神さまは救いの出来事を起こしてくださるとの告白です。これが厳しい現実の中で人々を励ましたことでしょう。また注目したいのは、同じ告白が6章20-23節で、子どもたちに語るべき言葉として記されている点です。人々は礼拝と家庭の中で神さまが共におられ、そこに救いがあることを告白し続けていたのです。

今日は子ども祝福式です。確かに今日において子どもたちの未来がどうなるか不安がありますが、願わくは、神さまが今私たちと共におられ、救いの道を与えられることを信じて、歩み続けていきたいと思います。子どもたちは私たちの信仰の生き方を通して大事なものを受け取ってくれると信じています。〔牧師 魯 孝錬〕

 

神の真実

詩編100編1-5節

2016年11月13日

今日の詩編は、礼拝への招きの歌です。招きの対象は「全地」ですから、民族主義を克服しただけでなく、すべての「被造物」と共に礼拝に与るという豊かな視点に立っているのです。

3節で「知れ…主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」とあるとおりです。この創造信仰は、国が滅ぼされ、ヤハウェの神の敗北としか受け止められない、バビロン捕囚という絶望的な状況が背景にあります。バビロンの貪欲なイデオロギーの支配下にいながらも、しかし自分たちは神に造られ、神に養われる、神のものであることを告白しているのです。この告白は決してすべてが満ち足りた時の歌ではありません。天地を創造された神はご自分の被造物に対して「良かった(トーブ)」と言われました。被造物一つひとつの命を生かして、養われる「恵み深い(トーブ)」お方なのです。

私たちを取り巻く現実は広がる格差の中で、命より経済優先が謳われ、弱い者に犠牲を強いる社会へと加速度が増しています。簡単に止められそうにもありません。次の世代を生きる子どもたちのことを考えると実に混沌の暗闇に先が見えません。しかし創造主の神さまは、わたしたちを尊く造られ、被造物の世界と共に生きるように望んでおられます。またそのように私たちを養ってくださいます。〔牧師 魯 孝錬〕

 

主の食卓

マタイによる福音書9章9-13節

2016年11月6日

収税所にいたマタイはその前を通り過ぎたイエスさまに「わたしに従いなさい」と言われ、すぐに立ち上がり従いました。当時の徴税人は罪人だと決めつけられていました。同胞から税金を多く集め、懐を肥やしているローマの手先だと思われていたからです。人々に嫌われ、のけ者とされ、関係を絶たれており、病者や娼婦同様に当時の律法によって汚れた者だと決めつけられていました。

イエスさまはマタイの家を訪ね、一緒に食事をされました。マタイはそれまで宗教によって罪人と決めつけられ、すべての関係から絶たされていましたが、イエスさまとの食卓によってはじめて無条件で自分の存在がそのまま受け入れられる経験をしたのだと思います。そこでマタイは関係の回復を宣言され、仲間たちとその喜びを味わい、また分かち合うことが出来たのだと思うのです。

しかし、これらの出来事に不平を言う人々がいました。律法をよく知っているファリサイ派の人々です。彼らは徴税人たちの痛みを知ることより、汚れた人と食事を共にするイエスさまが律法を破ったことが気になって仕方ありません。イエスさまはご自分は罪人と言われる者のために来たと言われ、神さまが望んでおられるのは「憐れみ」だ、つまり他者の痛みを共感することであると言われました。

教会はこのようなイエスさまの食卓で起きた回復の出来事を示していく群れだと信じています。神さまの愛に答えていく生き方を試行錯誤しながらも歩んでいきたいと祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

復活の希望

使徒言行録2章22-29節

2016年10月30日

今日は召天者記念礼拝です。私たちより先立たれた方々を偲び、ご家族と共に礼拝を献げます。ペンテコステの直後のペトロの説教を通して「復活の希望」を共に考えたいと思います。

イエスさまが十字架につけられる前の晩、イエスを3度知らないと言っていたペトロですが、聖霊が降ったペンテコステの出来事を通して、他の弟子たちと一緒に途方に暮れていた姿から一変して、今度はユダヤ人に向かって主イエスの復活を力強く伝えています(24,32,36)。聖霊によって主イエスの甦りを信じるようになったからでしょう。

ペトロは旧約聖書を引用してダビデも主イエスの復活の希望を見たと証しています。十字架上で無残に殺されたイエスの死は、無価値に見えるが、神はそのイエスをご自分の右の座に着かせたのです。このような復活の希望は死後の世界の話ではありません。「いま」「ここで」様々な抑圧と不条理の中で、「生と死」をはるかに超えて主が共におられるとの信仰をもって、与えられた生を精いっぱいに生きることではないでしょうか。

ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです」(36)と証ししています。失敗と絶望を克服して生きるペトロの信仰告白です。復活にある生き生きとした希望を持って私たちも歩みつづけたいと祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

恐れと憎しみを乗り越えるカギ

Ⅰヨハネの手紙4章16-21節

2016年10月23日
佐々木和之氏の説教から

先主日(10 月23日)は佐々木和之をお迎えして礼拝と報告会を行いました。たくさんの恵みとチャレンジをいただきました。

22年前に起きたジェノサイド後を生きているルワンダの方々は、今なお不安と憎しみを抱えて歩んでいます。佐々木さんは「完全な愛は恐れを締め出します」(18)という言葉を強調されました。なぜなら、現地の方々が神の愛をもって加害者と被害者が歩みよって和解を選び取っていくくところに、本当の恐れと憎しみを乗り越えるカギがあるからです。今後ジェノサイドのようなことが起きたら、自分はルワンダに留まりたいと願いながら「そこにはすでに私が愛する人々がいるからです。しかしいざとなった時に自分は国外に出てしまうかも知れません」と自分の中にある不安をも率直に打ち明けて、神の愛にすがりついていこうとする生き方に感銘を受けました。本当は分からないけれど、そうあり続けたいと願いつつ、今与えられた課題と向き合い、精いっぱい働いていく覚悟に、まさに現実の厳しさと共に本当の希望を抱きつづけていく勇気を見せていただきました。決してバラ色の希望ではありません。

説教や報告会の話をお聞きしながら、ルワンダで外国人として彼らの一番しんどいところと向き合っていて、なお出会う人々とキリストの愛を分かち合っていく佐々木さんの歩みに大きな励ましと勇気をいただきました。佐々木さんのお働きを祈っていくと共に、貴重な学びを自分たちの歩みに生かしていきたいと切に祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

あなたと一緒にいきたい

ルツ記1章1-19節

2016年10月16日

ユダ地方に飢饉が起こり、ナオミの家族は、ベツレヘムから異邦の地モアブの野に移住します。しかし、そこでナオミは夫と2人の息子に先立たれ、年老いて生活の基盤を失います。飢饉が終わったことを知り、ナオミは故郷に帰ることを決めますが、息子たちの嫁オルパとルツはナオミと一緒に行こうとします。

結婚こそが女性に安定を与えると考えるナオミは、2人に実家に帰り再婚することを勧めますが、ルツは、何もかも失ったナオミを一人で故郷に旅立たせることができません。それは、自分よりも弱い立場に置かれた者を見放すことができないルツの憐れみの気持ちから起きたのでしょう。「あなたと一緒に行く。あなたの民はわたしの民。あなたの神はわたしの神。」という言葉は、ナオミと生涯を共に生きていく、というルツの強い決意です。ルツは再婚という安定を捨て、寄留者になることを恐れず、ナオミと生きていくことを選びました。神さまは、ルツを通してナオミにヘセド(慈愛)を示されたかのようです。

憐れみに突き動かされて、自分も弱い者であるにもかかわらず、社会の中の弱い立場の者に寄り添って生きようとするルツの生き方には、教会の歩むべき道が示されています。教会は、神さまのヘセド(慈愛)を体現していく群です。これこそが、東京北教会の今年度の主題目標「小さい者と一緒に歩もう」であり、これから目指していく福音宣教のビジョンに欠かせないものでしょう。〔副牧師 細井留美〕

 

神の声を聞く

列王記上19章9-18節

2016年10月9日

預言者エリヤが神の山ホレブへと導かれて、そこで使命を受けた話です。時は北イスラエル王国のオムリ王朝の全盛期、アハブ王が支配していた時代です。軍事力を背景に経済は潤っていましたが、内実は格差の加速化とバアル(豊穣の神)崇拝です。

カルメル山でバアルとアシェラの預言者たちとの手に汗を握るような戦いに勇ましく勝利したエリヤでしたが、今はその姿は影もなく、イゼベルの殺気を怖じて、荒れ野に逃亡して死を待つだけです。主の御使いに何とか養われてやっとホレブ山にたどり着きました。

エリヤは「何をしているのか」という声を聞きます。山を裂き岩を砕く非常に激しい風や、地震、火を追いかけまわりますが、神はどこにもおられなく、静かにささやく声を聞きます。そして人と出会い、つながりなさいという使命を受けました。疲れ切った預言者に「起きて食べよ」と励ました声のようです。

人も環境もすぐに変えられるものではありません。周りを見渡す限り、希望などどこにも見出せないような時代です。しかし、仲間と共に聖書を読んでいく中で、ささやく神の声を聞き、人に出会い、つながっていきたいと願います。神の備えてくださる仲間とは、そのような働きの中で引き起こされていくのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

 

福音の広がり

ローマの信徒への手紙15章22-29節

2016年10月2日

パウロの念願はローマの教会訪問です。その理由は、互いの信仰によって励まし合って共に喜び、そして自分をイスパニアへ送り出してもらうためです。かつてアンティオキア教会から派遣されたパウロは、祈りをもって送り出される大事さを誰よりもよく知っていたからでしょう。

その一方、パウロはまずはエルサレム教会に行くと言います。実は初代教会は、エルサレム教会を中心とするユダヤ教からキリスト者になったユダヤ人と、各地に広がりつつある異邦の地域からキリスト者になった異邦人やユダヤ人が通う教会との間に、律法遵守を巡って葛藤を抱えてきました。両者の和解のために、パウロは異邦人教会から募金を集めてエルサレム教会を助けることを計画しました。果たしてエルサレム教会の人々がこの募金を素直に受け取ってくれるのかが気がかりです。

内部の葛藤解消に努めながら、地の果てにまで宣教を夢見たパウロですが、周りからは冷ややかに見られていたからです。かつてキリスト者を迫害した過去は、ローマ教会からもエルサレム教会からも信用されず、常に怪しまれる状況であったのです。ですからこの手紙は、まだ見ぬローマ教会の人々への自己紹介でもあれば、エルサレム教会の人々への自己弁護でもあります。内容は「信仰によって生きる」ことに尽きます。

主イエスは、私たちの常識、時には私たちの信仰で想像できる領域をはるかに超えて、ふさわしい者を用いて福音の広がりをもたせてくださることを信じます。〔牧師 魯 孝錬〕

 

命こそ宝

ルカによる福音書 12章22-34節

2016年9月25日

イエスさまはすべてを捨ててご自分に従っていた弟子たちに「思い悩むな」と言われます。忌むべき烏や、無価値に見える野原の花でさえ、神さまは大事に養ってくださるのだから、あなたたちはなおさら神さまの養いと守りに支えられていると励ましてくださいます。

「思い悩むな」を言い換えるならば、「神の国を求めなさい」と言えます。神の国とは、イエスさまが共にいることで実現する神の愛の支配を意味します。主イエスは「癒し」と「共食」を通して当時の社会から全否定された者たちをありのままで受け入れられました。その場において神の愛の支配が具体的に示されているのです。

「小さな群れよ、恐れるな。…父は喜んで神の国をくださる」(32)とあるとおり、主イエスは神さまが小さくされた者たちを無条件に祝福されることに注目し、その一人ひとりが「神の支配」を信じて生きるようにと招いておられます。つまり無価値だ思われ、忌み嫌われる者と共に歩むことを通して「命こそ宝」だという神の御旨を示すようにと促しているのでしょう。

沖縄に「正しい道を歩みつづければ、なんくるないさ(いつか良い日が来る)」という言葉があります。「正しい道」とは「ぬちどぅ宝(命こそ宝)」に他なりません。歴史の傷から真珠のように造りだされた言葉だと思いますが、イエスさまの「思い悩むな」「神の国を求めなさい」という言葉に見事にこだましているのだと信じます。〔牧師 魯 孝錬〕

 

わたしはある

ヨハネによる福音書8章53-59節

2016年9月18日

イエスさまはご自分のことをなかなか信じないユダヤ人たちから「あなたは自分を何者だと言うのか」(53)と聞かれます。しかしこの問いは「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」(48)という結論ありきのもので、その証拠を得ようとした質問です。

サマリア人とは、ユダヤ人にとって自分たちの宗教を変質かつ分断させた憎むべき人たちで、歴史の中ではずっと差別の的でした。ユダヤ人たちはイエスさまをもサマリア人にしてしまうことによって、イエスさまを簡単に公共の敵に回せたのでしょう。

ここで大事なのは、主イエスが嫌悪される側に立たされた点です。これはユダヤ人たちの自分たちだけが正統で正しいのだという考えに対する抵抗に見えるからです。イエスさまの「わたしはある」という言い方は、出エジプト記でモーセに対して「わたしはある」と神名を啓示された神さまとご自分が一つであることを示すものです。神が何になるのかは神ご自身が決めるのだ、というこの自由な宣言をユダヤ人たちはどのように聞いていたのでしょうか。

「ユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスに投げつけようとし」ました(58)。この緊迫した状況はまさに8章の冒頭に出てくる女性の話に重なります。こうしてイエスさまは沈黙を強いられた者の側に立ち、憎悪と嫌悪を無くし、新しい「生」を与えられているのだと思います。このようなイエスさまに聞き従っていきたいと切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

共に生き、共に学ぶ

創世記1章26-27、2章18-24節

2016年9月11日

創世記第1章では、すべての人間は、神さまにかたどって創造された尊い存在だと証言しており、王だけが神のイメージを持つ古代社会において画期的な証言です。「神にかたどり、神に似せて」ということは、人と神が同じ姿であるという意味ではなく、人は神と向き合うことのできる存在として造られたということ、人は神と共に生きる存在である、ということでしょう。

2章では人間は「塵」から作られた虚しい存在であると証言されますが、しかし、神さまが命の息を吹き入れられて生きる者となります。人は神と共にあることで生きる存在となるのです。さらに、神さまは言われます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。「彼に合う助ける者」とは、彼と共に生きる者のことです。神さまは人を他者と共に生きる存在として造られたのです。

「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」と呼ばれるイエスさまは、マルコとルカの5千人の給食の物語で、弟子たちに人々を組に分けて座らせるように命じます。イエスさまは、互いのことを知らない群集を、顔が見える関係に変えられます。この交わりが、教会の原点です。イエスさまを礼拝するために集った者が共に交わりを持つことで教会といえるのです。さらに言えば、共に生きることを目指すのが教会なのでしょう。〔副牧師 細井留美〕

 

教会を建てる約束

マタイによる福音書16章13-20節

2016年9月4日

ペトロは「あなたはメシア(キリスト=救い主)、生ける神の子です」と告白し、イエスさまは「あなたはペトロ(岩)、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と約束されます。

素晴らしい告白と約束ですが、興味深いなのは、このやり取りがなされた場所が「フィリポ・カイサリア」という点です。フィリポ・カイサリアは名前からも分かるように、ローマの皇帝アウグストウス「カエサル」を称えるために建てられた都市です。そしてその中心にはヘレニズム文化と軍事力への恐れと憧れです。

ローマ皇帝「アウグストウス」こそ、救い主であり神の子であると謳われる本拠地で、今弟子たちは命を軽んじて力に憧れる当時の価値観に対抗しています。そして一人の命を大事にして、その存在を認めて受け入れたゆえに、十字架につけられたイエスさまの歩み、その死と復活を想起し、服従を決断しています。主イエスはこの告白の上に、教会を建てて、その教会が御言葉で人を縛るのではなく、御言葉をもって命そのものを受け入れ、自由にし、生かすようにと委ねてくださるのです。

経済優先の虚像に惑わされるのではなく、一人の命を大事にして向き合って共に生きる教会を建てていきたいと思います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

手を置いて出発

使徒言行録13章1-3節

2016年8月28日
米本裕見子協力牧師就任感謝礼拝

今日の聖書箇所はアンティオキア教会がバルナバとパウロに按手して派遣する場面です。アンティオキアはユダヤ人が多く住んでいたヘレニズム的な大都市です。初代教会はステファノの事件を機に起こったユダヤ教からの迫害を逃れて、アンティオキアにも来ていましたが、ユダヤ人だけに福音を伝えました。しかし彼らの中にはキプロス島や、キレネから来た者もいて、その人たちがギリシア語を話す人々に主イエスの福音を告げ知らせて信仰に入る人が出たのです。福音がとうとうユダヤ教の垣根を超える瞬間です。

驚いたエルサレム教会はバルナバに状況を確かめさせましたが、彼はそこに神さまの恵みが与えられる有様を見て喜んで、早速パウロをタルソスから連れてきて、一緒に教会生活を共にします。回心したパウロこそ適任者だと思ったのでしょう。この一年を通してアンティオキア教会をはじめ、パウロとバルナバも福音宣教の豊かさを思い知らされたのだと想像します。ここではじめてアンティオキア教会の人々は「キリスト者」と呼ばれるようになるのです。そして彼らの思いは自然と広がり、自分たちのリーダーに手を置いて世界伝道へと出発させます。

本日私たちは協力牧師に按手を行いました。自由な聖霊の働きに従いつつ、福音宣教の豊かさを吟味して、東京北ならではのダイナミックな教会形成に励んでいきたいと切に祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

いのちの糧を分かち合う恵み

マタイによる福音書14章13-21節

2016年8月21日

群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 すべての人が食べて満腹した。

ご自分の悲しみや不安は横におき、イエス様は群衆をご覧になって「腸がよじれ、ちぎれるほど」深く悲しみ、ともに苦しまれ、「神の国」という希望を伝えて、「罪・穢れ」の当時の常識を覆すように、病の人々に手を当てていきました。群衆は自分の存在が認められ、永遠の約束の言葉に第に目を輝かせ始めたことでしょう。

「言葉」と「癒し」のあと、生前のイエスさまが大切にした「共食」が、主の晩餐と復活のイエス・キリストの姿と重なる様に、大群衆の腹を満たして表されます。「神の国」での饗宴(宴会)が示されています。「みんな」が、なんの差別もわけ隔てもなく、一緒に分かち合い満足するのです。

イエス・キリストご自身が人々の「いのちの糧」、尽きることのない人を生かす力、いのちと救いの言葉です。このよき知らせは、人々と分かち合って喜び合うときに、本当の喜びの知らせとなるのでしょう。

教会で、神の言葉、福音を分かち合って、さらに一緒にからだの糧もともにする。心も体もどちらも大切です。2つの「いのちの糧」を分かち合うために、教会は神によって建てられ、人々に開かれています。「いのちの糧」を分かち合うことは互いを認め合い、人格的に交わり、共に生きることのはじまりです。だれもが、神の懐にいるような居心地のいい「ここにいていいんだ」と感じられるような、開かれた群れとなって、一人でも多くの方々と、いのちの糧を分かち合う恵みにあずかり喜び合い、神の国と神の愛を、ご一緒に表していきたいと願います。〔協力牧師 米本裕見子〕

 

「いかにして平和は成るか」

~ボンヘッファーの講話「教会と諸民族の世界」から~

2016年8月14日

いかにして平和は成るか。政治的な条約の体系によってか。様々な国に国際資本を投資することによってか。すなわち、大銀行や金によってか。あるいは、平和の保障〔確保〕を目的として全面的に平和的に軍備を増強することによってか。否、これらすべてによっては一つの理由で平和は成らない。なぜなら、ここで平和と安全について取り違えられているからだ。安全の道を通って平和に至る道は存在しない。というのは平和は冒険〔的に敢行〕されねばならず、それは大いなる冒険であって、決して保障することができないからだ。平和は〔安全〕保障の反対である。〔安全〕保障を求めるということは不信感を持つことを意味し、この不信感がふたたび戦争を生み出す。〔安全〕保障を追求するということは自分自身を守ろうとすることを意味する。平和とは自らを完全に神の掟に明け渡し、何ら〔安全の〕保障を望まず、信仰と服従において全能の神の手に諸民族の歴史を委ねて、諸民族を利己的に思いのままに動かそうとしないことを意味する。戦いは武器によってではなく、神と共に勝ち取られる。諸々の戦いは、その道が十字架へと至るところにおいてもなお勝ち取られる。もし仮にひとつの民族が――武器を手に取ってではなく――祈りつつ、防衛手段なしで、そしてそれゆえまさに唯一善き防御と武器をもって、攻めてくる相手を迎えたなら、それが世界にとって何を意味するか、私たちのうち誰が一体知っていると言うことができるだろうか。(ギデオン〔への神の言葉、士師記7,2〕…「あなたと共にいる民は多すぎる」…神ご自身がここで軍備縮小を行っておられる!)。  〔須藤伊知郎訳〕

 

福音に共にあずかる者

Ⅰコリントの信徒への手紙9章19-27節

2016年8月7日

パウロは分断されているコリント教会に対して、教会は「福音に共にあずかる者」となるために存在するのだと語っています。

福音とは何でしょうか。聖書には福音が宣言されています。不親切かも知れませんが、説明されてはいません。キリストの十字架上での死という絶望の中で、3日目に復活という希望を与えた神さまの業です。天地創造で言えば、混沌として暗闇を打ち破る「光あれ」との神さまの言葉です。この福音が旧約聖書の中に一番貧弱なイスラエルの民を選び導かれた出来事の中に現れますし、新約聖書では受肉の事柄に具体的に現れています。あえて一言で言えば「インマヌエル(神は我々と共におられる)」でしょう。人をあきらめることなく、最後まで愛し続ける神さまの決断、支配こそが福音だと信じます。

「共にあずかる(シュンコイノノス)」とは、「シュン」(共に)と「コイノニア」(交わり)との合成語で、神さまの御業に共に参与することを通して豊かな恵みを受ける「教会の交わり」を意味しています。教会は神さまの福音と神さまの支配を生きることを通して示す群れだと思います。それぞれキリストを通して結ばれた者同士が、励まし合い、支え合い、祈り合って生き続ける群れだと信じます。

取るに足りない一人ひとりを教会として呼び集めてくださった恵みに感謝して、一人ひとりを救ってくださる神さまの業を共に体験し、共に証していきたいと切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

~使命を喜ぶ教会~

マルコ10章41-45節

2016年7月31日
田口昭典師の説教を聞いて

先主日(7月31日)は田口昭典牧師をお招きして礼拝と懇談会を行いました。たくさんの恵みとチャレンジを受けました。礼拝説教の恵みを分かち合いたいと思います。

イエスさまがこの世に来られたのは「仕えるため」です。「身代金として自分の命を献げるため」です。「身代金」とは、誰かを自由にするために、束縛から解放を与えるために、引き換えに差し出すものです。

「イエスさまのように仕えることは到底できません。せめてイエスさまが命を差し出して救われた者として、仕えるために頑張っていきたい」という先生の飾りのない言い方に共感を覚えました。「仕える」言葉を中心に、灰谷健次郎さんや、林竹二さん、ジャン・バニエさんのエピソードを通して、「仕える」生き方がもたらす恵みを紹介してくれました。

中でもフランスの知的障がい者の共同体「ラルシュ」で働くジャンバニャンさんの言葉が心に残っています。人々が彼に「どうして仕えることが出来るのか?」と質問した際に、彼は「神の祝福は自分が仕えていきいたいと思っている、その相手から喜びと共にやって来る」と答えたそうです。仕えていくその道の中に豊かなものがあるというのです。

先生の説教から、隣人や他者に向かって「仕える」生き方を通して、神に出会い、神の祝福を得ることが示されたことを感謝します。私たちも教会も「仕える」という業を担っていく中で、本当に救いを喜ぶことができるのだと信じています。〔牧師 魯 孝錬〕

 

命のパン

ヨハネによる福音書6章26-51節

2016年7月24日

イエスさまは、パンを求めて自分のもとに来た人々に言われます。「朽ちる食べ物のためでなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と。

「永遠の命にいたる食べ物」「世に命を与えるパン」は、人間が活き活きと生きることを支えるものであり、神さまの救いそのものです。そして、永遠の命に至る食べ物すなわち命のパンとは、イエスさまご自身のこと。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」(40)と述べられている通り、命のパンは、わたしたちの命を今現在活き活きと生かすものであると同時に、復活の命の希望へとつながっているものです。

「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」イエスさまを信じることは、自分の固定観念や先入観を捨てて、イエスさまの言葉を聞くこと。自分の全存在をイエスさまに委ねること。「食べる」という言葉で表現されているように、イエスさまの肉を自分の肉とすること。それは、イエスさまのように人々の尊厳を回復するために、この世の格差や差別、不条理に向き合い、人々と分け合い共に生きる者となることでしょう。イエスさまに従って歩む者は、神さまからの活き活きと生きる力と復活の命が約束されています。〔細井 留美副牧師〕

 

平和と正義の口づけ

詩編85編1-14節

2016年7月17日

詩人はバビロン捕囚から帰還された救いの体験を思い起こしつつ(1-3節)、神の民の厳しい現実、おそらく帰還後も続いた戦争や大国の支配下での苦しみを嘆き(5-7節)、神さまの約束を信頼しそこに希望を置いています(8-14)。換言すれば、過去の救いを思い起こし、現在の困難の中で、未来に起こる救いを確信し信頼する構成です。

南北王国の末期(前722)から、マカベア戦争(前168)まで、イスラエルはアッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、シリア、エジプト、シリアと、バビロン捕囚からの帰還できたわずかな期間を除くと、常に近隣諸国に台頭した強い国に支配されてきました。力で抑圧されるという本質は、支配される人々に否応なく分断や対立を強制し、互いに敵意をもっていがみ合う構造を作り出します。

このような歴史の中で詩人は「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」(11)と遠大な希望を見ています。神さまご自身が、失敗しない愛(慈しみ)をもって誠実(まこと)に働かれるビジョンです。そして結局、神の正義と平和がもたらされることへの希望です。平和(シャローム)とは、神の正義の完全な実現を意味します。いわゆる貧困や抑圧、差別などの暴力がない、命が無条件に尊ばれる世界です。

様々な困難の中で神の平和が約束されたことを信じて、神さまの慈しみに忠実に生きる群れでありたいと切に祈ります。 〔魯 孝錬牧師〕

 

イエスは先にガリラヤへ

マルコによる福音書16章1-8節

2016年7月10日

イエスの墓で復活を告げられた女性たちは、喜ぶどころか、震え上がり、正気を失って逃げ去り、誰にも何も言わなかった、恐ろしかったからである、とマルコは語ります。イエスの死後も忠実であろうとした女性たち。でも結局は逃げ出して誰にも何も言わず、12人の男の弟子たち同様、石地に落ちて実を結びませんでした。

「彼はあなたたちより先にガリラヤへ行く。そこでこそ、あなたたちは彼に出会うだろう」(岩波訳、下線村上)。ガリラヤは、貧困、病、差別など、悩み、苦しみ、悲しむ大勢の人が救いを必要としている所でした。弟子たちにとって原点と言える場所に、イエスが先に行き再び会ってくださるというのです。イエスを裏切り、情けない自分に絶望し、失意のどん底にあった弟子たちへの十字架のゆるしと関係の回復の約束です。そしてこの約束は、今を生きる私たちへのものでもあるのです。

今日の世界の状況は聖書の時代とそれほど変わらず、私たちの周りに、世界中に、ガリラヤと同様の現実があり、ガリラヤに先立つイエスが、私たちを招いておられるのです。とはいえ、力の弱い私たち。イエスと私たちの間にたちはだかる大きな石に落胆します。しかし、「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」という神のわざに信頼し、イエスは既に世に勝っているという希望を仰ぎつつ、共に主のわざに仕えていきたいと思います。〔村上千代〕

 

神に仕える者

コリントの信徒への手紙6章1-10節

2016年7月3日

私たちは神の宣教に与る群れであり、そのために力を合わせて働く者です。自分たちの力ではなく、神さまがキリストにあって一人ひとりとご自分と和解させてくださるという恵みがあるから可能なことです。カナの婚礼で仲間と一緒に水を組み続けていく僕たちや、成長させてくださる神さまを信じて植えたり水を注いだりしていく群れだと言えます。

パウロが引用したイザヤ49章8節の続きには「捕われ人には、出でよと闇に住む者には身を現せ、と命じる」とあります。アダムとエバが主の言葉に背いて木の陰に隠れていた時に、神は「どこにいるのか」と問われたことに通じていると思います。神ご自身が人間とのかかわりを修復するために近寄り、対話してくださっている姿だからです。

コリントの人々はパウロが伝道活動の中で体験した様々な困難や大変さを見て、どうしても神が共に働くとは思えないと疑い深い目で見ていました。しかし、パウロはそれらの苦難はむしろ神の奉仕者であることが示すものだと主張しています。「主イエスを起こした方は、イエスと共に私たちをも起こされるであろう」という復活信仰によるものです。

教会の歩みもまた様々な困難に遭遇する時がありますが、気を落とすことなく、互いに神に仕える者として励まし合って、恵を分かち合って歩んでいきたいと思います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

神の憐れみ

Ⅰテモテへの手紙1章12-17節

2016年6月26日

パウロが霊的な息子であるテモテに宛てた手紙ですが、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のは、ただ神の憐れみによるものであると伝えています。神の憐れみは、つまり神は限りない忍耐をもって「罪人の中で最たる者」と共に歩まれ、新しく生かしてくださったという恵みを思い起こしています。

パウロはタルソス出身です。エルサレムの人々からディアスポラの者が律法をきちんと知っているはずがないだろう、という差別に苦しんでいたと思われます。パウロがキリスト教を迫害した理由には、もちろん神への冒涜を放っておけないという思いもあったと思いますが、自分の出自を克服したいという気持ちもあったのでしょう。

このようなコンプレックスがひどい暴力へとエスカレートしていた時、パウロはダマスコ途上で復活されたイエスに出会わされます。迫害していたイエスが自分を知っており、自分を探しておられたという、「目からうろこ」の経験を通して、彼は全く新しい使命へと召されたのです。中心と周縁との葛藤がむしろ生かされていく、思いもよらぬ展開です。

神の憐れみは傷ついたパウロを包み、造り直してくださった子宮のように感じます。彼の存在を肯定して生かしてくださったからです。この恵みの分かち合いは、ギリシア人を父親にユダヤ人を母親に持つテモテを励まし、テモテをまた狭間に生きる人々と共に生きるようにと力強く送り出してくださったと信じます。〔牧師 魯 孝錬〕

 

希望、神の愛

ローマの信徒への手紙5章1-11節

2016年6月19日

パウロにとって揺るがない希望とは、イエス・キリストです。パウロはアブラハムの信仰が神に義とされたように、イエスの信仰によって「神との間に平和を得ている」と確信しているからです。私たちは自分の信仰が篤いか否かに関係なく、ただイエス・キリストの神に対する全き信仰によって救われているのです。「キリストは…不信心な者のために死んでくださった」(6)とあるからです。神は人間の罪をすべてキリストに背負わせ、十字架においてその罪を処断され、私たちに対する愛を示されました。私たちの信仰が救いの基準ではありません。ただこのイエス・キリストの信仰によって私たちは神の怒りから救われているのです。

パウロはこのような神の愛に確かな希望を見ています。同時に様々な苦難をも神の愛の内で捉えようとします。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(3-4)とあるとおりです。もちろんこれはパウロ自身の経験から得た言葉ではありますが、キリストの十字架の苦しみの先に復活の希望が与えられていることは、確かに希望につながるのではないでしょうか。そして苦難と排斥を身に受けられたイエス・キリストがいまも苦難の中にいる人々の痛みをご存知で共におられます。

神の愛を最後まで信じたイエス・キリストに、そしてキリストを死から復活させた神の愛にこそ、真の希望があります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

人の心を強める神

創世記21章9-21節

2016年6月12日

サライの女奴隷であったハガルは、アブラムの妻になり子を宿すことで、初めて自分を尊重する気持ちを持ちますが、そんなハガルにサライはつらくあたります。自分の心と体を守るために「逃亡(ハガル)」したハガルが、途方に暮れている時、神さまがハガルに呼びかけ、大きな祝福を約束します。ハガルは驚くと同時に、自分という存在がどれほど大切なのかに気づかされます。自分を大切な存在だと信じる心は、ハガルに強く生きる力を与えました。母子ともに生き延びるため、サライの下に戻ることを選び取ったハガルは、子どもを産み、その子は「イシュマエル」(神は聞かれる)と名付けられます。

時が流れて、サラに約束の子が生まれると、ハガルとイシュマエルはアブラハムの家から追放されます。荒野で水がなくなり死を覚悟したハガルに、主が「恐れるな」と呼びかけます。二人の荒野での厳しい生活がスタートしました。しかし、「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒野に住んで弓をいる者とな」ります。イシュマエルは、イスラエルの歴史の中で、名前を消され、周縁に追いやられた者です。しかし、彼が強い者によって追い出された弱き者だからこそ、神さまは「恐れるな」と呼びかけ、共にいてくださり、その成長を見守ってくださったのです。〔副牧師 細井 留美〕

 

主イエスの支え

マタイによる福音書4章1-11節

2016年6月5日

エスさまが霊に押し出されて荒れ野で誘惑を受ける場面です。誘惑の本質は「神の不在」の訴えです。「神の子なら~この石がパンになるように命じたらどうだ」、「飛び降りて、神が支えてくれると言ったろう」、「俺を伏し拝め」と試しているからです。神がいることを見せて、イエスさまが神の愛する子であることを証明するようにと催促しています。これは、十字架のイエスをののしった言葉、つまり「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ、『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」というののしりと実は同じです。

イエスさまは詩編と申命記を引用して誘惑する者を退けますが、聞き手や読み手は申命記にある「あなたの知らない他の神々に仕えようではないか」というカナン地に住んでいる人々からの誘いや誘惑、惑わしに自分たちの先祖は完全に敗れたことを思い出したことでしょう。そして荒れ野の旅をしていた先祖がマサで飲み水を求め、モーセと争ったことの本質は「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」を試したものだという指摘を思わされたでしょう。

マタイはこのようにして、申命記の戒めを守り切れなかったユダヤ人の負の歴史を、イエスさまがまさにその申命記の言葉をもって誘惑する者を退けることによって、このイエス・キリストこそ律法を全うされた方であると強調しているのです。また神の子として十字架の道を歩むという決断でもあると思います。教会も、一人ひとりの歩みも、共に誘惑に遭われる主イエスによって支えられています。〔牧師 魯 孝錬〕

 

和解への道

ヨハネによる福音書4章16-26節

2016年5月29日

今日の聖書箇所はイエスさまが一人のサマリアの女性と出会う話です。彼女はイエスさまとの対話を通してイエスさまを信じるようになります。素敵な出会いですが、この出会いは「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」(9)という歴史の南北の対立と分断を超えて「和解」をもたらす話でもあります。

イスラエルの歴史においての南北の対立は、南のエルサレムの聖所に対抗して北のべテルとダンに聖所が建てられた南北王国時代から始まっています。前721年北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアは混血して純粋さを失ったとさげすまれるようになりました。しかし、サマリア人たちは自分たちこそ「律法を守る人々(ショメロニーム)」と主張し、モーセ五書のみを用いる独自の宗教を確立させます。激しい対立が続く中、前128年に南のハスモン家出身の大祭司ヒルカノス1世がゲリジム山の聖所を破壊して、サマリア人を殺戮する事件が起きます。サマリアの女性が礼拝の場所として「北のゲリジム山と南のエルサレムと」とどちらが正しいのか、という質問はまさに歴史の対立と分断の溝を問う叫びでした。

このような歴史的な背景を考えますと、この出会いの場が「井戸」であることに大きな意味があることに気づかされます。創世記でイサクが井戸を掘り続けることによって争いと敵意を乗り越える場でもあるからです。対立・分断を乗り超えて、神の業によって、和解の礼拝が完成されることを、信じて歩みましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

弱者に目を留められる神

創世記16章1-16節

2016年5月22日

エジプト人女奴隷ハガルの女主人サライには、子どもがいませんでした。そのことに、深い苦しみを持つサライは、夫アブラムにハガルを妻として与えることで、子どもを得ようとします。

奴隷から妻という立場に変化したハガルは、子どもを身ごもります。そして、それまでサライよりも下に見ていた自分を、サライと同等、あるいは上に見るようになります。物同然だった自分に誇りを持つようになったからであり、人間としての尊厳を取り戻したのです。

しかし、サライとアブラムの意識は以前と変わりません。サライがハガルにつらくあたったので、ハガルはサライのもとから逃亡します。前に進めずに泉のほとりでたたずむハガルを、神さまは見つけ出すと、呼びかけ「必ずあなたの子孫を多くする」とアブラムとの契約に匹敵する約束をされます。

ハガルは、神さまに向かって「あなたこそエル・ロイ(私をご覧くださる神)です」と信仰告白します。神さまが外国人であり奴隷であった小さな自分に目を留めてくださり、大きな約束をしてくださったことは、ハガルにとって大きな驚きであり、大きな喜びでした。ハガルは、厳しい現実の中に、希望があることを知り、また痛みに寄り添い助けてくださる活ける神が共に居てくださることを知って、アブラムの家に戻ります。ハガルは厳しい現実に立ち向かう勇気を得たのです。〔副牧師 細井 留美〕

 

共に喜び、泣きなさい

ローマの信徒への手紙12章9-21節

2016年5月15日

ペンテコステ礼拝です。初代教会は自由な聖霊の働きに支えられて、バベル塔の分断と断絶の壁を克服して福音に仕えていきました。今日の聖書箇所には一つに集められた教会のあり方が記されています。

パウロはキリストを通して 示された神の愛を告白した上で(8章)、隣人を「愛」するようにと、つまり「尊敬し合い」「希望をもって喜び」「苦難に耐え忍び」「祈り合う」ようにと勧めています。これは律法というよりは、目の前の一人との出会いが連帯へと広がるプロセスです。主ご自身が出会われる人に目を向けることから出会いは始まります。

そしてこの愛のプロセスは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というより具体的な指針として胸に迫ります。倫理があって人を仕分けする前に、目の前の一人と出会わされていく、そしてそこから与えられた課題に自分が問われながら、主に求めて歩んでいきたいと祈ります。神さまが造られた人間の尊厳が損なわれないようと働いていく中で様々な連帯の形が生まれてくるのだと信じます。

赤羽の地に建てられて来年で30周年を迎えます。様々な出会いが与えられ、多くの課題をいただいています。弱くされている人々と共に生きるために、一緒に考えていきたいと思います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

恵みを分かち合い

出エジプト18章1-12節

2016年5月8日

荒れ野の旅の途中のことです。異邦の神々に仕えるミディアンの祭詞でモーセのしゅうとであるエトロが、モーセを尋ねてきました。エジプトからイスラエルの人々を救い出したヤハウェの神のすべての業を聞いたからです。「モーセが先に帰していた」妻子と一緒に。

4章で神さまの召命に躊躇していたモーセがいよいよ家族を連れてエジプトに向かって旅立つ際、モーセを殺そうとする神さまに対して妻のツィポラは息子に割礼を施して死を免れます。異邦の宗教に慣れ親しんでいた彼女はヤハウェの神のなさることが理解できなかったでしょう。彼女と二人の息子はこの出来事の直後か、あるいはエジプトでのモーセの同胞の苦しみを目の当たりにして実家に帰っていたように思われます。

帰ってしまったものですから、イスラエルの民を導き出された神さまの救いを直接体験することはできませんでした。父親のエトロにひどい報告をしていたのかも知れません。しかし、時が経ちツィポラ(「小鳥」の意)とゲルショム(「異国の寄留者」の意)とエリエゼル(「神の助け」の意)は、神さまがイスラエルの人々を顧み、エジプトから救い出され、荒れ野の旅を導かれた恵みが分かち合われる場に招かれているのです。

エトロはモーセと共に礼拝をし、共に食事をしています。その場で神さまの恵みが分かち合われたのです。その礼拝と共食の場に私たち一人ひとりも招かれていることを感謝します。〔牧師 魯 孝錬〕

 

苦しみを超えて

使徒言行録8章31-40節

2016年5月1日

今日の聖書箇所は御言葉の意味が分からず困っている異邦人の宦官がフィリポに出会い、御言葉の解き明かしを聞いてバプテスマを受ける場面です。初代教会の伝道の証ではありますが、それが人の業ではなく神さまの業であることが示されています。

なぜなら、この出会いはそれぞれ苦しみを抱えた二人が聖霊によって十字架のイエス・キリストに出会わされ、苦しみを超えて歩み続ける話だからです。フィリポはステファノの殉教を機に起きた大迫害の際に、教会の仲間から切り捨てられた上に、逃げたサマリアでの伝道はエルサレムの使徒たちに否定されました。エチオピアの宦官は神を礼拝するためにエルサレムに来ましたが、律法によって自分の存在を否定され苦しみを抱えていたのです。

フィリポはエチオピアの宦官の朗読するイザヤ書の苦難の僕の言葉に出会い、十字架を背負ってくださったイエス・キリストに改めて出会い、大きく励まされたと思います。そしてその主イエスが自分の痛みを知っておられ、人々の罪を背負ってくださったことに気づかされました。

このような励ましを受けたからこそ、フィリポは苦難の僕の箇所からイエスさまの死と復活を伝えることが出来た思います。伝道とは知っている者が知らない者に教えることではなく、主によって痛みを抱えている人々に出会わされ、そのただ中に主イエスが共におられることを互いに分かち合うことです。〔牧師 魯 孝錬〕

 

命を生かす神

出エジプト記1章15-20節

2016年4月24日

今日の聖書箇所は、エジプトのファラオ王の男児殺害命令を拒み、「命」を生かした二人の助産師の話です。エジプトの人々のイスラエルの民に対する恐れは暴力を正当化し、組織的な虐殺にまで至っています。

一方、「神を畏れていた」助産師のシフラとプアは時の権力に対抗して命を生かすことを選びとっていたのです。神さまを畏れるとは、神さまが造られた命を「よしとされた」ことを知ることであり、いかなる状況においてもその命を尊ぶことです。

二人の助産師はファラオに比べればとても弱く小さい者ですが、彼女らの決断と選び取りを通して、神さまはご自分の救いを成し遂げられました。そして神さまに救われた人々が命を大切にする生き方を選び取ることを指示しているのではないでしょうか。出エジプト1,2章にはシフラとプアを含めて懸命に命を生かす5人の女性の話が続いて出てきます。弱く無力な人々が神を信じて命のために対抗していく中で神さまの救いを体験した話として読みたいものです。

不安を煽いで暴力を正当化し、命を都合によって価値判断する今の時代だからこそ、教会は「神を畏れ」、命を生かす神さまの働きに参与していきたいと切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

まことの自由をくださる主

ヨハネによる福音書8章31-38節

2016年4月17日

わたしの言葉の通りに生きるならば、あなたたちはわたしの弟子であり、そして、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と、イエスさまは言われます。

イエスさまが言われる真理とは、イエスさま自身のこと。そして、イエスさまを知ることは、「人間のまことの生き方」を知ること。そして、「まことの生き方」を知ることが、私たちを自由にするのです。

イエスさまの生き方を知ることは、私たちを罪の奴隷状態から解放するだけでなく、律法主義や世の中の誤った価値観からも解放してくださり、さらにイエスさまと同じ新しい生き方へと押し出してくれます。

6章でイエスさまはご自分のことを、命のパンだと言われます。そして、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54)と語られます。この「食べる・飲む」という言葉は、ムシャムシャ食べること・ゴクゴク飲むことを意味します。それは、まるでイエスさまをまるごと呑み込めと言われているかのようです。イエスさまを呑み込むがごとく、イエスさまの言葉を聞き、その言葉を守る者は、明るく活き活きと生きる力を得るのだと、イエスさまは言い、そのような者に終わりの日の復活をも約束してくださいます。

このような活き活きと生きる力こそ、イエスさまのくださる真の自由なのではないでしょうか。〔副牧師 細井留美〕

 

小さい者と一緒に歩もう

マルコによる福音書10章13-16節

2016年4月10日

今日の聖書箇所は、イエスさまが「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と子どもたちを祝福されたお話です。「天真爛漫」で「無邪気」のためというよりは、むしろ誰かの保護なしには生きていけない子どもの「弱さ」や「無力さ」のためだったのでしょう。

イエスさまは前の段落で女性を勝手に物扱いしていた当時の家父長的な価値観に支配されていたファリサイ派の人々に対して、神さまは一人ひとりを尊ばれる存在として、また向き合い支え合う存在として造られた創世記の記事を引用して「命の尊厳」を示されてのです。

イエスさまはいつも弱くされ、見えなくされた人々が命の尊厳を取り戻して生きることのために働かれました。そして当時の価値観から罪人だと決めつけられ、沈黙を強いられた人々が、立ち上がってイエスさまに向かって集まっています。神の国が「いま、ここに」実現したのです。

弱い者を真ん中に招かれたイエスさまは逆に徹底的に排斥され十字架につけられました。イエスさまはこのような仕方で、十字架を信じる者たちが生きている時代に傷つけられている者たちに目を向け、主の名のためにその一人を受け入れるようにと、「大きな使命」を教会に託してくださったと信じます。小さい者と一緒に歩みましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

イエスの現れ

マルコによる福音書16章9-20節

2016年10月9日

2世紀の初代教会は、マルコによる福音書が「婦人たちは墓を逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と終わっていることに疑問を抱いていたようです。そしてマタイとルカ、ヨハネの復活の記事を編集して納得のいく復活物語(9-20節)を結末として付け加えたのでしょう。

他の福音書に比べて、復活を恐ろしい出来事として受け止めているのは、マルコの共同体が紀元後50年代のローマの迫害や、ユダヤ戦争の中で、イエスさまの死後20年余りで復活の証人としてふさわしくないことを痛いほど感じていた姿が重なっているのかも知れません。

それはもう一度ガリラヤに行って、周縁に追いやられた人々と一緒に生きる時こそ、復活を生きる者へと変えられていくのだという方向を示すことでもあると思います。そして初代教会は、今日の聖書箇所で分かるように、復活させられた主イエスが途方に暮れている一人ひとりにご自身を現され、励ましと共に生きる力を与えられる、という信仰を持っていたのではないかと思うのです。

一人ひとりを見つけ出すまで、探し回る主イエスの働きに教会の歩みは支えられています。方向を失わないように、主イエスとの出会いの中で復活を生きていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

また、あの朝からはじめよう

コリントの信徒への手紙一 15:3-8、58

2016年3月27日
イースター礼拝

パウロは、コリントの信徒への 手紙でこう書いています。イエス・キリストは、聖書で書かれていたとおり、わたしたちの罪のために死んだ。そして、葬られた。しかし、聖 書に書かれているとおり、三日目に復活された。そして、弟子たちをはじめ多くの人の前に現れた。そして、取るに足らない自分にも現れた。しかし同時に、イエスの十字架と復活からわずか20年たらずの間に、コリント教会の中でいさかいが起こっていたことが分かります。復活されたイエスさま、そっちのけで、十字架で血を流され、死んで葬られ、よみがえられたイエスさま、そっちのけで、自分たちの正しさを主張し合って争い合っていく人間たちの姿が、もうこの時から始まっているのです。

だからこそ、一生懸命に手紙を書き、そして、十字架のイエスさまがよみがえられたという出来事はどういうことなのか、もう一度、皆で心に刻もうではないかと呼びかけている。もういっぺん、そこからはじめようと、呼びかけている。また、あの朝からはじめようと呼びかけている。

東京北教会の皆さん、皆さんの祈りに支えられて、この6年間を歩きとおすことができたと、本当に思っています。心からの感謝を申し上げたい と思います。同時に、今日、私は、また、聖書の言葉に励まされて申し上げます。「わたしの愛する方々よ、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

キリストの福音が、わたしたちの上に、粉雪のように舞い、どっさり降り積もっていた。あの朝から、はじめていきましょう。これから、置かれた場所は違うことになりますけれども、それぞれの場所で、主に結ばれて、主の業に励むことといたしましょう。〔協力牧師 野口哲哉〕

 

イエスの死

マルコによる福音書15章33-41節

2016年3月20日

暗闇の中でイエスさまの叫びが響き渡ります。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(34)。詩編22編1節の言葉ですから、後半の賛美につながる叫びかも知れませんが、この叫びの中には父親との断絶を悲しむ息子の痛みもにじませているように聞こえます。

ネロ皇帝のキリスト教に対する迫害(64年)とユダヤ戦争(66~70年)の中で、マルコの共同体は異邦人への伝道と、ユダヤ教との決別に踏み出さねばなりませんでした。しかしコロッセウムで飢えたライオンに立たされる現実の中で、ユダヤ戦争を止めることも、弱い者を保護することもできず、ただ逃げることしかできませんでした。完全な失敗のただ中でイエスさまの十字架の叫びを聞いているのです。

37節に「イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。ここで「息を引き取られた」とは「息」(プネオ「風=聖霊」)と「外に」という前置詞の組み合わせの単語です。天地創造の時神さまによって人は形造られ「命の息を吹き入れられ」てはじめて「生きる者」となったという言葉を想起できます。イエスさまは失敗に苦しむ人々にもう一度生きなさいとご自分の「命の息を吹き入れ」てくださったのではないでしょうか。

教会は百人隊長や女性たちのように主イエスの死の証人として召されています。主の死を告げ知らせる群れです。〔牧師 魯 孝錬〕

 

取れ、分かち合え

ルカによる福音書22章12-20節

2016年3月13日

15節の「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」という言葉からは、死の前に弟子たちと過越の食事をしたい、というイエスさまの強い想いを感じます。それは、弟子たちとの大切な関係を惜しむ気持ちと同時に、過越しの食事を通して、自分の死の意味を弟子たちに伝えたかったからでしょう。イエスさまは、ご自分を過越の時、犠牲として屠られた小羊になぞらえ、自分の死によって、すべての人々が救いに与る神さまとの新しい契約が成し遂げられることを、伝えたかったのです。

17節は、岩波聖書では、「これを取れ、そして、あなたたちの間で分かち合うのだ」と訳されます。「取れ、分かち合え」と言われているのは、過越の杯と食事であると同時に、イエスさまによってもたらされる救いの喜びです。そして、さらにはイエスさまの「十字架の苦しみ」をも分かち合うよう言われているように思います。

イエスさまの十字架の姿は、当時の社会の中で、底辺に追いやられた人々の姿に重なります。イエスさまは、十字架によってその人たちの苦しみを自らの身に負い、弟子たちにも「わたしの苦しみを、分かち合いなさい」と語られたのではないでしょうか。教会もまた、苦しむ人の小さな声を聞き、寄り添い、苦しみを分かち合うように、とイエスさまから呼びかけられているのではないでしょうか。〔副牧師 細井 留美〕

 

縛られて裁判を受ける

マルコによる福音書15章1-15節

2016年3月6日

ピラトの裁判の場面です。ピラトはイエスさまの沈黙を不思議に思い(5)、この裁判が祭司長たちの妬みのためにイエスさまが裁判を受けていると知っていて(10)、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と弁護めいた発言をしています(14)。聖書の中では、中立的な立場で裁判を行っている様子ですが、歴史の中では彼は残忍な性格でユダヤ人を弾圧していたと言われています。歴史家のヨセフスによると、在任(26-36 年)末期にはサマリア人を虐殺したとされています。

時代背景を見てみますと、マルコのピラトに対する寛大な書き方が少し理解できます。この福音書は66-70のユダヤ戦争直後に書かれています。「神殿崩壊」でも分かるように、ユダヤ教はローマの軍事力に徹底的にやられました。マルコの共同体はイエスさまのことを想起する際、ローマの監視や迫害を避けるために「ユダヤ教との決別」と「親ローマの立場」とを強調せざるを得なかったのでしょう。マルコの限界だと思いますが、ここからユダヤ人差別・虐殺が根拠づけられたことも事実です。

初代教会は裁判の中で「沈黙」を貫くイエスさまの姿に、旧約聖書のイザヤ書の「苦難の僕」を重ね合わせました。イエスさまの沈黙は歴史の中で権力や律法解釈によって弱くされ、沈黙を強いられていた者たちの傍らに立ち続けるイエスさまの姿だと信じます。

教会は今の時代においても沈黙を強いられる人々の声なき声を聞いていくように主イエスに招かれています。〔牧師 魯孝錬〕

 

あなたがたの信仰はどこにあるか

ルカによる福音書8章22-25節

2016年2月28日

湖を渡って行く途中、嵐に見舞われた弟子たちは、死の恐怖を味わいます。「イエスさまが眠ってしまって」危険な状態になったとありますが、本当のところ眠ってしまったのは、弟子たちのイエスさまへの信仰ではなかったでしょうか。しかし、弟子たちは危機に瀕して、イエスさまを起こします。危機に直面し、彼らのイエスさまへの信仰は覚醒したのです。イエスさまが起き上がり、風と荒波とを叱ると、嵐はしずまり、何事もなかったかのように凪になります。

イエスさまは、弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言います。これは、「あなたがたは誰を信じているのか」「何を信じているのか」「何に信頼をおいて生きているのか」という問いかけです。人間は限界のある存在です。だから、何かに頼って生きる必要があるのでしょう。しかし、神さまが人間を限界ある存在として造られたのは、人間が神さまを信頼して神さまと共に生きるためです。ところが、自分の限界や弱さを知った時初めて、私たちは本当に神さまに頼ることができるのでしょう。

イエスさまに頼るしかないという信仰に導かれた時、私たちはイエスさまによって支えられていたことを知るのでしょう。私たちが、弱くなり低くされた時に初めて、共におられるイエスさまの姿が見え、励ましを与えてくださるのです。〔副牧師 細井 留美〕

 

問われた裁判

マルコによる福音書14章53-65節

2016年2月21日

さっそく最高法院は逮捕したイエスさまを裁判にかけます。是非を問うための裁判ではありません。目的はイエスさまを「殺す」ためです。多くの偽証が飛び交う中で、イエスさまは沈黙しています。

もう一人黙っている人がいます。人々に混じって裁判の行方を凝視するペトロです。彼は大祭司の「あなたはメシアですか」という尋問に、かつて自分がイエスさまのことを「あなたはメシアです」(マルコ8:29)と告白したことを思い出されたのでしょう。ペトロに代わりにイエスさまは自分がメシアであることを肯き、その一言で皆は死刑を決議します。

本来ならばペトロはこの裁判の結果を打ち消すべきでしたが、逆にイエスを知らないと言い続けました。一緒に死んでもイエスを知らないとは決して言わないと言った自分の言葉を守れませんでした。実はこのペトロの失敗の背景に、マルコの共同体はユダヤ戦争(66-70)を避けて逃げ、戦争に苦しむ人々と一緒にいることができなかった自分たちの失敗を重ねていたのかも知れません。

イエスさまが不条理な裁判によって死刑を言い渡されたのは、時代を超えて権力に犠牲となっている多くの人々を支えて生かすためだと信じています。主イエスはわたしたちがたびたび失敗してしまうことを既にご存知です。にもかかわらず、一緒に行こうではないかと常に手を差し伸べておられるのです。〔牧師 魯孝錬〕

 

祈りと裏切り

マルコによる福音書14章32-52節

2016年2月14日

イエスさまのゲッセマネでの祈りはよく取り上げられます。神さまの御心にゆだねた祈りだからです。この祈りの前には弟子たちのつまずきが予告され、祈られる最中には弟子たちが居眠りをしていて、祈りの後にはユダの裏切りで逮捕されます。主イエスは徹底的に独りでした。

その祈りは、ゲッセマネのヘブライ語の意味が「油しぼり場」であることから想像できるように、重労働だったのでしょう。「死ぬばかりに悲しい」「この杯をわたしから取りのけてください」との祈りは、ご自分の苦難と死が群衆の暴動の引き金になってはならないという意味があると思うのです。十字架の死を怖がる人間的な弱さではないかも知れません。

主イエスは後に弟子たちが自分たちの失敗や罪責から立ち直り、ご自分の証人として大胆に生きることを願っておられました。武力闘争の中で犠牲を強いられ、痛みつけられる人々がその中でも希望を失わず、信仰に生きることを期待しておられました。イエスさまは常に人々を「生かす」ことのために祈っておられたことを覚えていきたいものです。

私たちも弟子たちのように失敗を繰り返しているとすれば、だからこそ主イエスのゲッセマネの祈りに支えられていることを覚えて新しく生きることが大事ではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

 

光は闇の中で

マタイによる福音書5章13-16節

2016年2月7日

昨年の夏、私はしばし安保法案に反対する国会前の雑踏の中に身を置いていました。今の政治状況を見て、いてもたってもいられなかったのです。9月19日法案採決の夜も道端でその瞬間を見守りましたが、不思議とそこには敗北感はなく、さわやかな夜明けを迎えたことが不思議でなりませんでした。「ここからはじめればいいんですよ」。先頭に立つ奥田愛基くんのことばを聞き、「剣を取るものは皆、剣で滅ぶ」と諭され、「国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない」と宣言された主の言葉が実現する時が来ることを思いました。

今日は「信教の自由を守る日」の礼拝です。この日は、単に信教の自由は大切なものだ。だから守りましょうという日ではありません。国家神道の復活に反対し、政教分離を守り、神ならざるものを神とするという過ちを二度とおかさないために祈る日です。このことの問題性を気づき、発信することができるのはもはや教会くらいのものかもしれません。

キリスト者は「地の塩、世の光です」。光は闇の中でこそ役割を果たし、塩は腐敗を止めるために塩を必要としているところに行かなければ役に立ちません。たとえ、いまがどんなに悪い時代であったとしても、「アルファでありオメガ」である神の支配を信じる者として、祈りつつ歩んでまいりましょう。〔田丸 修兄〕

 

ペトロの覚悟

マルコによる福音書14章27-31節

2016年1月31日

イエスさまは弟子たちと一緒にオリーブ山に行く途中です。イエスさまは皆がご自分につまずくと言われます。ペトロが答えます。皆がつまずいても私は違います。今晩鶏が2度鳴く前にあなたはわたしを3度知らないと言うだろう。たとい一緒に死なねばならなくなっても、決してあなたを知らないなどと言いません。他の弟子も同じことを言います。

ペトロの覚悟を聞いていたイエスさまとても悲しかったのでしょう。イエスさまはペトロをはじめ、弟子たちがつまずくことを知っておられ、旧約聖書のゼカリヤ書を引用して、イスラエルのバビロン捕囚で連れていかれたことと、イエスさまにつまずく弟子たちとを重ね合わせました。その理由は、捕囚からの解放と帰還を語っているゼカリヤ書を通して、弟子たちがつまずいてしまうけれど、立ち直って復活の証人として生きるようになることを伝えたかったのではないでしょうか。ヘブライ語で「散らす」とは、ちょうどミレーの描いた「種蒔く人」という絵にある農夫の行動です。つまり「刈り入れる、集める」ための種まきです。放置ではありません。イエスさまご自身が必ず弟子たちを再び集め、復活の証人として生かすという決断だと信じます。ご自分の復活とガリラヤに行くとの話をされているからです。

イエスさまは依然としてつまずく私たちを憐れんでおられます。十字架につまずく私たちを、イエスさまはほかならぬその十字架を通して再び立たせてくださり、ご自分と一緒に神の国を生きるようにしてくださいます。アーメン。〔牧師 魯 孝錬〕

 

主の分かち合い

列王記上19章9-18節

2016年1月24日

イエスさまは十字架の道を自ら進んで行かれました。過越の小羊としてです。それは弟子たちの裏切りや宗教指導者たちの陰謀によるものではありません。弟子たちに過越祭の食事の準備をさせたのは、まさにこのことをはっきり伝えるためだったのでしょう。

弟子たちはイエスさまと一緒に過越祭の食卓を囲んでいます。昔からこの時は神さまが力強い御手で自分たちの先祖をエジプトから導き出された話を聞く場でした。しかし、弟子たちはイエスさまが予告された裏切りの話によって恐ろしくなってしまいました。

裏切るであろう弟子の一人はイエスさまから「不幸だ。生まれなかった方がよかった」と言われます。金持ちや宗教指導者に対する憤りとはニュアンスが違っていたと思います。おそらく師を裏切ったその弟子がご自分の十字架の死を前に、罪責に悩むであろう姿に対する深い憐れみの言葉ではないかと信じます。

イエスさまは動揺する弟子たちにパンとぶどう酒をご自分の体と契約の血として分け与えられます。裏切ってしまった弟子たちを回復させ、生かし、一人ひとりまた共同体の生き方をその根底から変革してくださったのだと信じています。ふさわしくないものが、こうして教会につながっていられるのは、主イエス惜しまない分かち合いのためです。

 

幸いと不幸

ルカによる福音書6章20―26節

2016年1月17日

イエスさまは、社会的な弱者である貧しい者たちに、「幸いだ!神の国はあなたがたのものだ」と励ましに満ちた言葉を語られますが、豊かな物に囲まれている私たちは「不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」という言葉を、自分への言葉として受け止めなくてはならないでしょう。

「貧しい者」が神の国に招かれているとするならば、「強者」の側に立つ私たちが、神の国の喜びに与るためには、どうしたらよいのでしょうか。それは、私たちの持っているものを、必要とする人と分け合う生き方をすることではないでしょうか(マタイ25:34)。

「分け合う」生活にも限界はあるでしょう。しかし、すべてを分け合うことができなくても、少しを分けてもらった人は元気にされていくし、分け合うことのできた私たちも嬉しくされていくと思います。

「ゴンダールのやさしい光」という絵本が語るように、人のやさしさに触れた人は、自分も同じように生きようとする勇気をもらうことでしょう。人と分け合う生き方は、そのようなプラスの力を持っているのです。人のやさしさが広がっていけば、世界から悲しみや苦しみが少なくなると絵本は伝えます。まず、誰かの痛みを心にかけていくことから始めていけばいい。物ではなく、人との関係が本当の意味で私たちを幸せにすることに気がついた時、多くを分かち合っていくことができるのではないでしょうか。〔副牧師 細井 留美〕

 

イエスの受け止め

列王記上19章9-18節

2016年1月10日

これからイエスさまの受難の話です。初代教会はイエスさまの死を、かつてエジプトから救い出された時の「小羊の死」として捉えていました。マルコも神の救いを記念する過越祭と除酵祭に合わせて今日の「香油を注がれた」話を冒頭に書くことによって、まさにイエスさまが「メシア(油注がれた者)」であることを告白しているのでしょう。

居合わせていた人々はイエスさまの頭に香油を注いだ一人の女性の行動を「無駄遣い」だと厳しく非難します。一人の労働者の一年分の賃金が台無しにされたからです。しかし、イエスさまの基準は「お金」ではなく、その女性に注目されました。彼女の気持ちを深く理解し受け止めて「ご自分に良いことをした」と肯定してくださいました。

イエスさまはさらに「わたしの埋葬の準備をしてくれた」と、彼女の行動からご自分の死をはっきりと示されました。なぜなら、香油を献げた彼女の行為は、まさにご自分が十字架上ですべてを献げる姿が啓示されていたからです。だからこそ、福音が語られるあらゆるところで彼女の話が伝えられると言われたと思います。

続くユダの話は、イエスさまが死ぬという暗示に焦ったあまり、本当かどうかを確認するために宗教指導者との密約に走ったとも考えられます。ユダはイエスさまの死を無駄だと思ったのかも知れません。

主イエスは私たちを肯定し受け止めてくださいます。〔牧師 魯孝錬〕

 

恵み深い神

詩編100編1―5節

2016年1月3日

新年明けましておめでとうございます。新年を迎えて共に主の前に招かれ、礼拝できる恵みを改めて実感します。最初の主日、詩編100編を通して神を王と告白した歌に聞き、その信仰を考えてみます。

1-4節はそれぞれ「喜びの声をあげよ」、「主に仕えよ」、「知れ」、「入れ」と命令文から始まります。神殿礼拝の招きです。すべて「あなたたち」に呼びかけられていることは、違う者同士が共に主の前に呼び集められたことを表します。その礼拝、すなわち招きと応答の中で人々は自分たちが神さまによって造られ、神さまによって養われることを実感します。

同じテーマを歌った詩編(93-99)には、二つの流れが見られます。ひとつは、ユダヤ民族主義の色が濃く出ていて、神さまはイスラエルだけを救い、ほかの民族に報復する、非常に排他的なものです。もうひとつは、この歌のように「全地」、すなわち民族の垣根を超えて神さまへの信仰を言い表したものです。天地創造の時、神さまはご自分で造られたひとつ一つを「良し(トーブ)」とされた、「恵み深い(トーブ)」お方です。

私たちの信仰は時に偏狭的になることがあります。聖書には「自分たちだけ」という枠を超えられなかった話もたくさんあります。それらを反面教師にして、自分たちの信仰が常に恵み深い神さまの「慈しみ」と「信実」に基づいたものであることを吟味しましょう。〔牧師 魯孝錬〕

 

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