サウロはヘブライ語で、ギリシア語ではパウロです。サウロはユダヤ教徒で、イエスの弟子たちを殺害しようと意気込んでいました。サウロはキリスト教の人々を縛り上げ、エルサレムに連行する事に熱心でした。
4~5節に、天からの声が「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか…私は、あなたが迫害しているイエスである」と言われました。サウロはずっと自分が正しいと思っていましたが、この時、自分が間違っていた事に気づきました。これは旧約聖書の出エジプト記の中で、神がモーセに燃え尽きない柴で、自分を現されている場面と重なります。モーセはその過程で、主の道具として使われます。主の霊の働きは、別の所でも続きます。11節に、聖霊はアナニアに「立って~サウロと言う名の者を訪ねよ。彼は今祈っている」と言われます。アナニアの考えでは、サウロは大勢の人々に言われた事が引っ掛かりました。しかし、15節に聖霊はサウロが「私が選んだ器である」と言われ、アナニアはサウロに行って、手を置き祈りました。そしてサウロの目が見えるようになったのは、サウロの考えがカラッと変わったことを意味します。サウロは以前は自分が主人であったが、人生の主はイエスだと言うことを悟りました。サウロはあらゆるバイアスが取り除かれて、主イエスの弟子となりました。
主の霊はサウロとアナニアに働きました。現代では、聖霊の導きはどのように起きるのでしょうか。私たち一人ひとりが祈り、聖書を読み、また話し合い、共に祈りをして行きます。主を信頼して、歩みを起こして行きましょう。 〔牧師 魯 孝錬〕