今日の聖書の内容にはアブラハムは息子イサクのことで難しい決断をしました。それは自分の愛する息子を犠牲として山でささげるように、神に命じられたからです。アブラハムは75歳に、故郷を離れ、神さまの召しに応え、知らない土地に旅立ったのは、自分の子孫が大いなる国民となり、神さまの祝福の源になり、地上の氏族は全てあなたによって、祝福に入るという約束によってでした。イサクはアブラハムが信じ、頼ってきた神さまの約束が現実へと向かう唯一の道であったのです。イサクを失うなら、彼のこれまでの歩みも現在の生活も将来の希望も、全てが崩れ去ってしまうのです。
それに対して、アブラハムは、「はい」、また「私はここにいる」という言葉を3回も繰り返し語ったのです。この試練の中で、逃げ隠れずに神さまの前に立ち続けようとしています。イサクが「捧げ物の小羊はどこにいるのですか」と尋ねると「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えました。ここで、「備えてくださる」という言葉のヘブライ語の意味は見るという意味です。これは、神様ご自身が見ていて下さる、そのまなざしの中で全てのことを備えていて下さる、ということです。アブラハムがイサクを殺して献げようとした最後の瞬間に、神様は彼の行動を止めたのです。「主の山に備えあり」と信じて生きる者は、試練に負けることはないのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに、神さまは御子と一緒にすべてのものを私たちのために備え、与えて下さることを私たちは信じることができるのです。 〔郭 修岩〕