死んで生きる 田代兄奨励

おはようございます。今日は梶井先生がお休みです。拙いものですが、私がみ言につかえる役割を仰せつかりました。
といって、いきなり変わったことができるわけもないので、普段、教会学校のユースクラスで学んでいる聖書研究から、おわかちしたいと思います。ユースクラスとは、少し、だいぶかな、口調が異なりますが、おおもとは1月10日の聖書研究のために勉強したことを下敷きにしてお話しいたします。
今朝あたえられた聖書箇所は、イエス様の奇跡物語のなかでも最も有名な部類に入るのではないでしょうか。ヨハネ福音書のなかでもイエス様の行われた最後のもっとも重要な奇跡として、まるまる一章が割かれています。そしてこの後につづく記事を読んでいくと明らかになるのですが、この奇跡が、最終的に十字架への引き金をひく事件となっていくのです。このことからも、ヨハネ福音書が、この奇跡をもっとも重要なものとして、もっとも読者に伝えたい出来事としてとらえていることは確実です。
では、ヨハネ福音書は、ここで何を伝えようとしているのでしょうか。
この記事には、3つの印象的なイエスさまの姿が描かれています。第一に「涙を流すイエス様」、第二に「大声で祈るイエス様」そして最後に「死者を復活させるイエス様」です。

Jesus Wept
全体として、情感、声、においなどの描写にあふれた、質感あふれる記事ですが、なかでもこの「イエスは涙を流された」—ギリシャ語でエダクリュセン・ホ・イエスースだそうです—英語ですと Jesus Wept というたった2語の、有名な節があります。
イエスはここでラザロの死を悲しんでおられるのではありません。なぜなら、ラザロが病気と聞いてから二日もたってから、さらに「ラザロは死んだのだ」と弟子たちに告げたうえで、出発されたのです。死に目にあえないのを自覚しながら、ベタニヤ村に赴かれたわけですから、死んでしまったこと自体を悲しんでいるわけではないでしょう。
にも関わらず、マリアが泣き、一緒に来た弔問客たちも泣いているのをみて、イエスは涙を流されました。どのような気持ちで、イエス様は涙をながされたのでしょうか。
ヨハネは、イエスが「深く心を動かされた」と書いていますが、新共同訳では「憤りをおぼえて」とより強い言葉をつかっています。原語では「エンブリマオマイという憤りに近いような強い心の動き」をあらわす言葉が使われているそうですから、この「憤り」ということばがより近いのかもしれません。ついでにお断りしておきますが、今日のメッセージの中ではすべて新共同訳をつかわせていただきます。
もう一度繰り返しますが、イエスは泣いているマリアや弔問客をみて、憤りを覚えて涙を流されたというのです。
みなさんはお葬式で涙を流されたことがあるでしょうか。それはどのような涙だったでしょうか。「別れの寂しさ」「病や怪我で命を失った故人に対する同情」「残された家族の悲しみへの共感」いろいろな思いが、そこにあると思います。
しかし自分の経験を振り返ってみると、確かに「憤り」というのがふさわしい感情が、わき上がったのを憶えています。
死という絶対的な形で、別れなければならないことへの「不満」「怒り」「やるせなさ」そして「憤り」です。人はひとりで死ななければならない、という事実をつきつけられ、うけいれられずに、自分の無力さに、背筋の寒くなるほどの怒りさえ覚えるのです。
みなさんに、そんな経験はないでしょうか。私などは家族を失うことを想像しただけで、そのような感情に流されそうになります。戦争や災害、あるいは虐殺などのニュースを聞いても、ときに憤りと涙がこみ上げることもあります。
イエス様は、柔和な方かもしれませんが、受け身な平和主義者ではありません。死の前に無力な人間の姿に、涙を流され、憤られ、そして死を克服されようとして、ご自身の十字架の死をかけて戦う方なのです。その激しい思いと、人に対する深い共感が、この短い聖句「イエスは涙をながされた」にきわまっているのです。

父よ
イエスは再び心に憤りを覚えて、墓に向かわれます。
「その石を取りのけなさい」
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」
マルタとのそのようなやりとりの後、何事かと見守る人々の面前で天を仰いで祈ります。
イエス様にしては芝居がかったお祈りだったかもしれません。しかしそれも、わざとだったのではないでしょうか。
「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」
神がイエスを遣わされたこと。神がこれから起こるできごとをなさること。これは神の出来事であること。このことをまちがいなく見ている人々に伝えるための、祈りでした。
祈りののち、「ラザロ、出てきなさい」と大声で命じられると、死んでいたラザロが出てきます。
神に対して「父よ」と呼びかけ「わたしの言うことにいつも耳を傾けておられる」との全面的な信頼を示すイエス様。そして即座にその信頼に応答される神。リアルで触れられそうな神の存在が、人々の前に立ち現れた瞬間です。
いまここで働かれる神の支配のリアルさが、いきいきとしたヨハネ福音書の描写の中から立ち上がってきます。

よみがえりと十字架
イエスは、多くの癒しをなさいました。病気であるために人から疎外され、隔離され、差別され、生活を脅かされている人々のところに出かけていき、触れ、「目を開け」「立て、歩け」「手を伸ばせ」と命じられ癒されました。
ヨハネ福音書は、その癒しの奇跡の頂点として、ラザロのよみがえりを描いています。
この「よみがえり=復活」はなにを意味するのでしょうか。
旧約聖書には死後の世界について、天国と地獄といったような私たちのなじんでいるような、世界観がみられないそうです。どうも、旧約時代のユダヤ人たちは、死ぬとただ死者の世界、陰府の世界へうつされると考えていたようです。イエス様の時代になるとそれが、終わりの日に復活させられ、ふたたび生きるようになるという信仰が生まれていました。それを認めないサドカイ派のような人々のいたわけですから、まだユダヤ教としての統一見解ではなかったのでしょうが、死ねばそれで神の祝福とみちびきのある生者の世界から、暗い何も起こらない死者の世界へ移される。それが終わりの日に神によって生者の世界へと救い出される。それが当時の一般的な考えだったようです。
「あなたの兄弟は復活する」とイエスが言われたとき、マルタが「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と応えたのは、そのような信仰に基づくものであったわけです。
ところが、イエスはこの信仰告白に対して「そのとおり」とは応えておられないのです。
「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
これは奇妙な言葉です。「死んでも生きる」とは日本語になっているでしょうか? 死んでいるのでしょうか生きているのでしょうか。それに「決して死ぬことはない」などということがあるでしょうか?
ヨハネ福音書が書かれた時代は、すでに紀元100年になろうとしていた頃とされています。著者と想定されたヨハネはもとより、おもだった弟子たちは、すでに死んでいたのじゃないでしょうか。ヨハネ福音書をまとめた人たちや、ヨハネ福音書の最初の読者たちの中には、その死に立ち会った人たちもいたかもしれません。そのような人々の中で、このイエスの言葉はどう響いたのでしょうか?
私には、とうてい、文字通りの意味—死なない体になる—という意味で伝えられ、受け止められたとは、信じられません。
注意してほしいのですが、ラザロやイエス様ご自身の復活について、それがなにかの言葉のあやだったと言っているのではありません。イエスのこの言葉を伝え、伝えられた人々が、自分たちのこと自分たちの教師たちのことについて、もっとひろいあるいは深い意味で受け止めたはずだと、私は言っているのです。
ここでこの謎を解く手がかりとして、パウロの手紙を読みます。いきなりパウロを持ち出すのはルール違反かもしれませんが、ともかく、読みます。

ローマ人への手紙6:1
「では、どういうことになるなのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたかがたは知らないのですか。イエスキリストに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

ここでは「罪と死」が重ね合わせられています。さらに後の方では、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて生きているのだと考えなさい。」とまで述べています。私たちは「罪に死んで」おり「キリストであるイエスに結ばれて生きている」のだ。「死んで生きる」ということばは、ヨハネ福音書の書かれた初代教会で、このように理解されていたのではないでしょうか。
罪、すなわち、神から遠く離れた状態が「死」であり、ふたたび神に結びつけられることが、復活という意味としてです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」
罪の中に失われた命。神の支配から離れ、永遠の別離のように思われた死が、神の恵みの中に、回復される。イエスキリストのメッセージはここにきわまる。ヨハネ福音書は、ラザロの復活という奇跡をとおして高らかに、そう宣言しているのではないでしょうか。
そしてそれは、ただの思いこみや心の持ちようというのではなく、「あのときベタニアで、みんなの目の前で起こったリアルなこと」だと、伝えようとしているのに違いありません。
イエスは、涙を流すほどの熱い思いと、死にゆく人への共感とをもって、「いまここで神が働いている」ことを示しました。私たちは、イエスの祈りの中に「神の働きの存在感を、リアルさ」を見ます。
そしてそのあまりにリアルな神の支配を、ときの権力者は無視できませんでした。とおい復活の日を待ち望むユダヤ教を、圧倒的に凌駕する力とリアリティが示されたのですから。
こうしてイエスの最大の奇跡物語は、イエス自身の死と復活による、わたしたち自身のよみがえりの出来事へとすすんでいくのです。

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