神のみこころ -The Heart of God- シャロン・ベネット師

エフェソの信徒への手紙3:1〜9

今朝こうして、世界宣教についてお話しできますことを嬉しく思います。私は決して、宣教に関する専門家というわけではありませんが、神学校で宣教について学びました。私はいつでも、文化や異なった人々や言語について、話したり考えたりするのが好きなのです。私はかつて、宣教師というものを、人間を超えた、超人的な存在のように考えていました。バプテスト教会では、神様が第一、次がイエス様、その次にくるのが宣教師、というふうに考えていたのです。今では、それがまったくの間違いであることがわかります。

宣教師は、主を愛する普通の人々です
宣教師は、異なる文化、異なる言語、異なる土地の人々を牧会するために、神様に召された人々です。私たちには、まったく特別なところはありません。ただ、たくさん失敗をしても、自分を笑い飛ばしてしまう力がある、という点をのぞいては、ですが。私が子供の頃、宣教は、教会生活のとても重要な部分を占めていました。毎月の第一日曜に、宣教師のために祈る、特別な時を持っていたことを覚えています。
私たちは、宣教のために二度目の献金をしました。そして、世界各地に住んでいる宣教師について、誰かが読んで聞かせるのでした。私は、宣教を愛して育ちました。子供の頃、いとこと私はよく近所を歩き回って、クーポンを集めました。 クーポンは、食べ物が割引になるものや、なかには台所用品(たとえば、お鍋や、いろいろな道具や、お皿など)がもらえるものまでありました。私たちは、クーポンを入れる箱に飾り付けをしました。 そして、年間を通じてクーポンを集め、クリスマスの時期に、教会に寄付しました。私たちの教会はそれを、孤児院に寄付しました。

ロティ・ムーン クリスマス献金
というわけで、とても小さい頃から、私は世界宣教に関わっていたのでした。こんにち、ほとんどのアメリカの教会で、宣教のためにささげる、特別なクリスマス献金がおこなわれています。バプテスト教会では、その献金は、中国に遣わされたあの有名なアメリカ人宣教師を記念して「ロティ・ムーン クリスマス献金」と呼ばれています。ロティ・ムーンは、世話をしていた子供たちのために、飢え死にしそうになるほど、自分を犠牲にしてつくしたのでした。毎年この時期に、私たちは、年間を通じてしている通常の献金に加えて、特別な献げものをするようにとおすすめするために、ロティ・ムーンや他の宣教師たちの話をするのです。クリスマスは、私たちの救い主の誕生を思い起こす、すばらしい時です。ですから、宣教に心を向けるのはごく自然なことです。なぜなら、まさに宣教のためにこそ、キリストはこの世に来られたからです。

国外宣教のはじまり
近代の国外宣教活動は、ウィリアム・ケアリーという宣教師とともに始まったと考えられています。ケアリーは聖書を読んで、大宣教命令を本気で受け止めた若者でした。大宣教命令とは、「あなた方は行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施しなさい」というキリストのご命令のことです。彼は、牧師のグループに対して議論を挑み、大宣教命令はどうしてあなたがたには適用されないのか、と問いかけたのです。牧師たちは、ケアリーを非難して、こう言いました。「神が異教徒に勝利しようとなさるときには、おまえや私たちの助けなどなくとも、ちゃんと勝利なさるにきまっているんだ」ケアリーは、もう一度牧師たちと議論することはできなかったので、質問状を書きました。その質問状は、後に小さな本になりました。
それから、ケアリーがインドへ行くのを支えるために、友人の何人かが、小さな宣教団体を設立しました。その組織は弱く、ケアリーは最小限の食べ物しか得られませんでした。しかしケアリーは、本国と相手国、双方の人々に大きな影響を与えました。信仰の覚醒運動とともに、ほかの宣教団体もうまれてきました。ケアリーは、初のプロテスタントの宣教師ではないのですが、彼は前例として、多くの教会や人々に影響を与え、それによって、宣教師派遣のための団体がいくつも設立されることとなったのです。
1993年には、世界中に2,500を超す宣教団体がありました。しかし、世界人口は急速に増加しているので、百万人のノンクリスチャンに対して、プロテスタントの宣教師はたったの24人しかいないのです。世界中には、およそ6528の言語があります。しかし、聖書が翻訳されている言語は1964だけです。そのうち、276の言語では聖書全体が訳されていますが、676の言語では新約聖書だけ、そして1012の言語では、部分的にしか聖書が訳されていないのです。こうした国々の人々に神様の愛を届けるために、様々な手法や戦術が研究され、開発されています。

主のみこころに従う
宣教団体は戦術を立て、計画し、祈りますが、神様こそ、そういう私たちの働きを始められたお方なのだということを、私たちは知っています。宣教は、神様の「ハート」(つまり、みこころ)なのです。英語で、「ハート」という言葉は、自分自身や自分の愛するもの、自分の大切にするものすべての中心、という意味でつかわれます。たとえば、マークと私が恋に落ちたときには、こんな言い方をしました。「マークは私のハートをつかんでいる」子供が生まれた今は、こんな言い方をします。「ジョンマークが私のハートを盗んだわ」私が思うには、「人類は神様のハートをつかんでいる」のです。神様は私たちを創造されました。そして私たちを愛し、私たちすべてと清い関係を結ぶことを熱望しておられます。ですから、宣教というものはじつは、ずっとずっと昔にアダムとエバが神様にそむいたときに始まったのだということができると思います。
アダムとエバは神様のハートを踏みにじりました。神様は、その壊れた関係を修復することを切望されたのです。神様のご計画は、イスラエルの民を用いるものでした。神様は、アブラハムを通して全世界を祝福すると、約束なさいました。アブラハムの子孫から、神様はイスラエルの民を造り出し、祭司にしようとなさいました。祭司は仲介者、神様のメッセージの代弁者になるはずでした。イスラエルは世界を神様の方に向けさせる役目をするはずでした。不幸なことに、イスラエルは、神様に与えられた自分たちの役割を、ゆがめて受け取るようになってしまったのです。自分たちは神様にとって特別な存在なのだ、だから世界の他の国々からは分離していなくてはならないのだ、と考えたのです。
キリストが来てからようやく、ユダヤ人たちは神様のご計画がどんなものなのか、理解し始めました。そのときでさえ、信じたのはほんの少数にすぎませんでした。最後に、パウロが、神様のご計画はすべての人々のためのものなのだ、と繰り返し説いて聞かせました。神様が、キリストを通して救いの奥義を明らかにされたとき、神様はそれを世界中の人々と分かち合うようにと望んでおられたのです。キリストが教会を建てられたとき、教会が世界中の人々に手をさしのべることを望んでおられたのです。
エフェソの信徒への手紙第3章で、パウロは、自分がどのようにして、キリストの奥義を異邦人にのべ伝えるために働くしもべとなったのか、ということを語っています。パウロは自分を、すべての人々の中でもっとも小さいものであると感じていましたが、それでも、神様は自分のようなものを通して、大きなことがおできになるのだ、と知っていました。コリントの信徒への手紙一1章26節から31節を読んでみましょう。この箇所を見ると、神様は愚かな人々、弱い人々、軽んじられている人々を用いて、ご自身の栄光をあらわすようにされたのだ、ということを教えられます。神様の目的は、非凡なお方である神様を信じてお仕えする、平凡な人々によって実現されるのです。

アジアにおけるキリスト教の状況
現代は、とてもわくわくするような時代です。世界はとても急速に変化しており、これまでのいつの時代にもまして、多くの人々がキリストを知るようになってきています。私たちが、ヴァージニア州のミッショナリー・ラーニング・センターにいたとき、宣教師の派遣団体のうち、最大の5つの団体のリーダーたちが一堂に会して祈りを合わせました。彼らは二日間祈って、宣教のわざをひとつにするための方法を探りました。これは、新たな仕事を始める準備をしていた、新人宣教師の私たちすべてにとって、とても励まされる出来事でした。
キリスト教は、アジアとアフリカ各地で急速に伸びています。すぐに、世界のクリスチャンの大多数は、もはや西洋ではなく、この東洋に存在するようになるでしょう!この、新しい情報化時代にあって、福音が新しいわくわくするような方法で世界中に広まっていくありさまを知ることができるのは、楽しいことではありませんか。私たちはみんな、この動きに参加すべきです!年間を通じて、常に宣教のために祈るようにすべきです。お金の面でも、できるかぎりささげるべきです。私たちはこの世界に対して、神様が望まれたような、キリスト教の模範を示すべきです。
前にも言ったとおり、宣教師というのは、力ある神様に仕える、ごく普通の人々にすぎません。私たちがすることはすべて、神様から出ているのです。神様のおかげで、私たちはここにいて、学び、語り、教えることができるのです。宣教師は、世界に福音を伝える役目を、他の人に代わって担う代理人ではありません。私たちはみな、それぞれが宣教の働きにあずかる役目を持っているのです。私たちはみな、この世界に遣わされる神様のメッセンジャーとして召されているのです。
聖書全体が語っているメッセージとは、神様が、ご自身の創造された人間との間に関係を回復させようと熱望していらっしゃる、ということです。これこそ、神様というお方のハート、みこころなのです。これはまさに、私たち自身のハートでもあるはずではないでしょうか。

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