2010年メッセージ・アーカイブ

来て、見なさい

ヨハネによる福音書2:43-51

2010年12月26日

今年のクリスマスは、2000年前の羊飼いたちが「神をあがめ、讃美しながら帰って行った」ように、「主は豊かであったのに、貧しくなられた。私たちが主によって豊かなになるために」という讃美を身近に感じました。では、この喜びをどのように伝えることが出来るのでしょうか。

今日の箇所でフィリポはナタナエルを「来て、見なさい」と誘っています。フィリポは自分が出会ったイエスさまが旧約聖書に約束されていた救い主であるという証をしていますが、それはイエスさまを人に押し付けることではなく、ナタナエルがイエスさまと出会う一つのきっかけをつくったことを意味しています。

ナタナエルはフィリポの言葉に対して「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑問を抱きながらも、イエスさまのもとに来ました。そこで彼はフィリポに声をかけられる前から自分を知っておられたイエスさまに出会い、イエスさまとのやり取りを通して、イエスさまが「神の子」であることを告白しています。ナタナエルは自分の目でイエスさまを見、自分の言葉でイエスさまが誰であるかを言い表しています。

私たちが主にあって豊かになるために、人となられたイエス・キリストは私たち一人ひとりと出会ってくださるお方です。「来て、見なさい」と自分が出会ったイエスさまを伝えていきましょう。

主は待っています

ルカによる福音書2:4-8

2010年12月19日

2000年前、イスラエルを支配していたローマ帝国はすべての人々に生まれ故郷に戻って住民登録をするようにと勅令を出しました。これは支配者たちが自分たちの力を確かめて税金を集めるためでした。

この勅令によってヨセフは身ごもったマリアを連れてベツレヘムへ旅立ちました。ベツレヘムに着いたマリアは産気づきましたが、泊まる宿屋が見つかりません。やっと見つかった馬小屋でマリアは初めての子を産み、赤ちゃんを飼い葉桶に寝かせました。

イスラエルの人々が支配者ローマ帝国に抑圧され呻いている中や、身ごもったマリアが困難な状況で赤ちゃんを産む中に、神さまはまるで存在しないかのように見えます。神さまは何をしておられたのでしょうか。実は、神さまの救いの計画は隠された形で実現しつつあったのです。神さまは泊まる場所がないヨセフとマリアをはじめ、すべての苦しめられている人々を担いつつ、ご自分の独り子を与えられた出来事、すなわち「最初のクリスマス」を成し遂げてくださったのです。

神さまの救いは飼い葉桶に寝かせられたみどりごイエスの姿に示されています。そこには人々の弱さや苦しみをすべて引き受けた神さまの愛が込められています。このクリスマス、飼い葉桶に寝ているみどりごイエスは私たち一人ひとりを待っておられます。ご一緒に町外れの、小さい馬小屋の飼い葉桶に行ってみませんか。

 

住みたまえイエスよ

コリントの信徒への手紙二 12:7-10

2010年12月12日

クリスマスアドベントの時です。主なる神が起こしてくださった豊かな奇蹟、飼い葉おけの赤ん坊の元に帰ってくる私たちの一年が終わろうとしています。

どんな一年だったでしょうか。うれしいこと、楽しかったこともあると思いますが、苦しいこと、悲しかったこともあったことでしょう。しかし、それらの出来事にいつも伴ってくださり、支えてくださったイエスさまに感謝を捧げたいと思います。

伝道者のパウロは、自分の「とげ」を前にして、行き詰まりを感じています。自分の力ではどうにもならない部分、それを抱えて生きるしかないという人生を歩んでいます。どんなにそれから解放されたいと神に願っても解放されない苦しみの中で、弱り果ててしまう自分を感じています。しかし、まさにそこに主なる神の奇蹟は起こされていくのです。

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

彼パウロはこの言葉によって、新しい地平に置かれ、新しい生き方に目覚めさせられました。そして、そのように人間を生かしてくださるイエス・キリストの素晴らしさをもう一人の人と分かち合わねばと願い、伝道していきました。私たちキリスト者はそのように召されて、出かけていくのです。イエスはすべての人の人生に住んでくださるのです。

 

お言葉どおり、この身になりますように

ルカによる福音書1:26-38

2010年12月5日

「主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産む。」これはマリアが主の天使から受けた知らせです。これに対してマリアは非常に戸惑い、恐れました。しかし、神さまの御言葉に支えられて「お言葉どおり、この身になりますように」と答えたのです。

主の天使は主がマリアと共におられる、そしてイエス・キリストがお生まれになる、という「恵み」を伝えたのです。主が共におられることは、何にもかもが順風満帆というよりは、むしろ、あらゆる困難の中で主のみ言葉に支えられて、主と共にその困難を乗り越えていくという意味だと思います。

マリアの「この身になりますように」という応答は、「御心のままに行ってください」というイエスさまの祈りを思い出させます。福音書はイエスさまが死なれてから数十年後に書かれていますから、実はマリアの応答はイエスさまに従って歩んでいた初代教会の信仰であったと思われます。

私たちの信仰の歩みも御言葉に支えられて、またイエスさまの祈りに支えられて、「お言葉どおり、この身になりますように」と応答していくものではないかと思います。

主により頼む

エフェソの信徒への手紙6:10-20

2010年11月28日

「主により頼む」とは、「主に信頼する」という一言に尽きます。

私たちはただ主に信頼して神さまの力によって強くされます。自分の頑張りでは強くなれません。パウロも同胞のユダヤ人や、異邦人からの非難や、迫害にめげない力を神さまから与えられたと告白しています。囚人となっている今、パウロはエフェソにある教会の兄弟姉妹を励ますと同時に、自分のことをも祈って欲しいと願っています。

主により頼んで強くされた者は「真理、正義、信仰、救い、御言葉」を身近なものにして生きます。パウロはこれを鎧を着けるのと同じく、主にある兄弟姉妹が「神の武具を身に着ける」ようにと願っています。

旧約聖書物語の中でダビデとゴリアトの戦いを思い出します。ダビデは兜や鎧ではなく、石投げ紐と石を持って巨人ゴリアトを倒します。ゴリアトに立ち向かうダビデが「お前は剣や槍でわたしに向かってくるが、私はお前が挑戦した主の名によってお前に立ち向かう」と叫んだ言葉には、主をより頼むことがどうことなのかがはっきりと示されています。

ダビデが日々守ってくださった主に信頼してゴリアトに立ち向かったように、私たちは「霊」に助けられて主にある兄弟姉妹と共に、祈り続けながら、主により頼んで歩みたいと思います。

 

光の子として歩む

エフェソの信徒への手紙5:6-20

2010年11月21日

「光の子として歩みなさい」パウロはエフェソにある教会の兄弟姉妹が闇から光へとのその生き方を変えることをこのように書いています。

光の子として歩むとは、自分が欠けの多い人間であり、罪深い人間であることを深く認識した上で、にもかかわらずキリストによって神さまに赦され、日々生かされているのだと信じる生活です。倫理的な高潔さを保って人に模範を示さねばならない、という重圧ではありません。

キリストはわたしたちのためにご自分を神さまに献げてくださり、「闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1:77-79)お方です。キリストに照らされてはじめて、私たちは自分の罪深さと同時に神さまの愛を知ることが出来ます。

神さまは私たちを高価で尊い存在として見てくださり、愛してくださっています。この神さまの目を通して自分のことを見ることは、「Doing」ばかり注目する時代に対して、「Being」に注目する大切さを訴えることにつながるのはないでしょうか。

神さまにとって私たちは「尊い存在」、「極めて良い存在」、「愛される存在」です。自分のことを神さまの目で見て生活することこそ、光の子としての歩みの第一歩だと信じます。

人知を超えるキリストの愛

エフェソへの信徒への手紙4:17-24

2010年11月14日

パウロは「古い人を脱ぎ去り、心の底から新たにされて、新しい人を身に着け」るようにと勧めています。この勧めには、人々が「生きる」ことを真剣に考えてほしい、というパウロの願い込められています。

今の時代は「生きる」ことを自己責任とする傾向がありますが、今日の箇所では「心の底から新しくされて」とあるように、「生きる」ことはキリストが共におられることからはじまることが示されています。

私たちは聖書の御言葉をただの理想のテキストとして読みがちですが、キリストが人となられたように、御言葉はテキストという型を大胆に破って、「今、ここに」私たちを問い、突き動かすのです。

4つの福音書が書かれた70~90年代の初代教会の中には今とは比べられないぐらいもっと生き生きとしたイエスさまの話が溢れていて、人々は迫害や、失敗なども含めてもっとダイナミックに信仰生活をしていたのではないでしょうか。

私たちもまた共に教会の中で聞いていく中で、信仰的な想像力を発揮して生き生きとしたイエスさまの話を実際に「生き」、そしてそれを共に分かち合って歩みたいと思います。

 

人知を超えるキリストの愛

エフェソへの信徒への手紙4:11-16

2010年11月7日

親が子どもの成長を願うように、また農夫が作物の成長を願うように、神さまはわたしたち教会が主の招きにふさわしく歩み、霊による一致を保ちつつ、成長していくことを望んでおられます。

教会の成長は神さまが私たちと共におられ、私たちの成長を望んでおられるからこそ、期待できるのです。神さまはイエス・キリストの十字架の死を通して、「イエス・キリストは主である」と告白するすべてのものを救ってくださいます。

このように告白する群れとして神さまに呼び出されたものが教会であり、だからこそキリストは教会の頭なのです。キリストは体である教会の一人ひとりに恵みとして賜物を与えてくださいました。そして教会が愛に根ざして真理を語り、「キリストの満ちあふれる豊かさにまで」成長するように働かれます。

書道の際、一画だけでは「字」になりません。一画が他の画と組み合わされてはじめて「字」となります。また一画の不足は次の画によって補われ、一字の不足は次の字によって補われて一つの意味のある単語、あるいは文章になります。教会の一人ひとりは一画だとすれば、その一画がキリストによってお互いに補われ、組み合わされていく中で、キリストの愛を伝える共同体へと成長していくのです。

 

人知を超えるキリストの愛

エフェソへの信徒への手紙3:14-21

2010年10月31日

パウロは苦境の中で、手紙の読者たちがキリストの愛を知ることが出来るようにと、そのために、聖霊の助けとキリストの内住、神の愛(アガペ)に触れられる恵みが与えられるようにと祈っています。

「十字架につけられたキリスト」の姿から「愛」を見出すことは出来るのでしょうか。当時の人々にとってこれは「神さまから呪い」、あるいは「失敗」以外の何ものでもありませんでした。しかし、神さまはこのキリストの苦難を旧約聖書に記されたメシアの苦しみとして実現され、そしてキリストを死者の中から復活させられました。

ここで注目したいのは、このような神さまの救いのご計画(御心)は、十字架の死に至るまで従順であったキリストの「服従」によって成し遂げられたことです。これをキリストは神の子だから、あるいは結局は復活されるから、十字架の苦難が担えたと考えると、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた絶望のどん底にまで落ちた人間としてのキリストの「服従」を見落とすことになるでしょう。キリストのこの「服従」にこそ愛があるのです。

このような人々の知恵をはるかに超えるキリストの愛は、聖なる者たち、すなわちキリストの体である教会の一人ひとりと歩みを共にする時に知ることが出来ます。共に福音宣教の業を進める中で祈り合い、また励まし合う中で知ることが出来るのです。

 

神の永遠の計画

エフェソへの信徒への手紙3:1-13

2010年10月24日

神さまの永遠の計画とは、恵み深い神さまの「御心」とも言えるのでしょう。神さまは御心によって、万事を益となるように働かれるお方です(ローマ8:28)。パウロは苦難におかれてもなお神さまの永遠の計画に人々を向かわせようとしています(13)。

このパウロの試みのように、秘められた計画(ミステリオン)が教会によって全宇宙に宣べ伝えられることこそ、神さまの永遠の計画(プロテシス)ではないでしょうか。では、秘められた計画とは何でしょうか。言葉通りミステリーですが、「イエス・キリストによる救いのみ業」を意味しています。

イエスさまの十字架の死と復活を信じるすべての者に永遠の命を与えられる、という神さまの秘められた計画(ミステリオン)は、神さまの啓示によって知らされるのです。パウロのダマスコ途上でのキリストとの出会いのように、イエス・キリストは突然の光としてパウロの人生に差し込まれたのです。これが啓示です。ここに教会の働きの希望があるのではないでしょうか。

神さまの秘められた計画は私たちにとって常にミステリーのようなものかも知れません。しかし、教会はイエス・キリストに目を向けつつ、繰り返してイエス・キリストを宣べ伝えていくのです。なぜなら、啓示によってこのミステリーの霧が一瞬でひかれる奇跡が起きることを信じているからです。

 

十字架による和解

エフェソへの信徒への手紙2:11-22

2010年10月17日

キリストは両者の隔ての壁を取り壊して一つに結びつけたから、私たちの平和です。両者の隔ての壁とは、一次的には初代教会のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間にあった摩擦を、二次的には人間の根底にある「自分が正しい、相手が悪い」という思いです。

イエス・キリストは十字架を通してこの隔ての壁を取り壊しました。十字架は縦軸と横軸がクロスして、神さまとの和解、そして人と和解を象徴的に示しています。神さまはこの十字架のキリストを通して、人の罪を赦し、私たちを良しとしてくださいました。また、神さまが良しとしてくださった人を私たちも受け入れて生きるように招いてくださっています。

このように神さまはキリストにおいて私たちを「神の家族」として造られました。これが教会です。教会は建物が組み合わされていくように成長し、神さまを礼拝する群れとして成熟していきます。教会はキリストと一体となってキリストと共に生きる群れなのです。

今日は召天者記念礼拝です。先に主に召された二人の姉妹は神さまに良しとされ、また人を受け入れようと生きていたことを思い出します。お二人の生き様、あるいは死に様を思い起こし、キリストの十字架により和解させられた者として歩みましょう。

 

憐れみ豊かな神

エフェソへの信徒への手紙2:1-10

2010年10月10日

憐れみとは英語でcompassionと言います。comは「共に」で、passionは「苦難」ですから、「苦難を共にする」という、行動が伴う積極的な言葉です。ヘブライ語では「子宮」という言葉に由来しますから、まさに憐れみとは、新しい命を生み出す産みの苦しみそのものです。

このような憐れみに富んだ神さまは、罪のために死んでいた私たちを愛してくださいました。聖書の言う罪とは、神さまに創造された者として神さまにより頼んで生きることを拒んだ「不従順」を意味します。人は目に見えない神さまより、目に見えるものを信頼して生きようとします。「どこにいるのか」という御言葉に聞きたいものです。

この私たちの不従順に対する神さまの怒りと裁きを、イエス・キリストが私たちに代わって受け、ご自分の命を献げたことによって、私たちの罪は赦されました。そして、私たちを神さまとの豊かな交わりに生きる者にしてくださったのです。神さまの豊かな憐れみは、キリストを十字架に死なせるという産みの苦しみによって、私たちを神さまにより頼んで生きる者に新しく造ってくださったのです。

教会は神さまが私たちを憐れんでくださったこと、そして私たちに成してくださったことを告げ知らせるために立てられています。キリストにしっかり結ばれて歩んでいきましょう。

 

神の豊かな恵み

エフェソへの信徒への手紙1:3-14

2010年10月3日

神の豊かな恵みとは何でしょうか。

一つは、神さまが天地創造の前から私たちを選んでくださったことです。私たちが神さまを選んだわけではありません。もう一つは、神さまが私たちをご自分の子と定められたことです。

このような豊かな恵みは、人としてこの世に来られた主イエス・キリストにおいて確証されています。この人を見、この人に聞き、この人に従うことによってのみ、私たちはこの恵みにあずかります。

なぜなら、主イエス・キリストの血によって私たちは「贖われ、罪を赦された」からです(7)。贖うとは、奴隷の身代金を支払って自由にしてあげるという意味です。神さまはイエス・キリストをこの世に引き渡され、その命という代価を払って、私たちの罪を赦されました。これによって私たちは神さまにより頼んで生きることが出来ます。

この神さまの救いの御業はやがて完成され、「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」とあるように(10)、キリストのもとに全被造物世界が和解と一致、秩序と統合されるのです。まるで天地創造の時に神さまが混沌と闇の中で「光あれ」と秩序を生み出されたのと同じ出来事が起きることを意味します。

神さまの救いの御業がキリストにおいて完成されるという希望の中で、主をほめたたえて歩みつづけましょう。

 

主がお入り用なのです

マタイによる福音書21:1-11

2010年9月26日

イエスさまのエルサレム入城の出来事は、救い主が来られるという神さまの約束が実現することを示しています。人々は革命や、転覆を熱望していましたが、イエスさまはへりくだって子ろばに乗って現れ、十字架の道を歩まれます。この時イエスさまは、向こうの村につないであるろばを引いてくるようにと、二人の弟子を遣わされました。

イエスさまは二人の弟子に「主がお入り用なのです」という言葉をゆだねました。二人の弟子はイエスさまの言葉をふに落ちないと思ったかもしれませんが、行ってみてはじめてこのイエスさまの言葉を体で実感できたと思います。ここに信仰者の姿が示されています。

ろばたちはこのように遣わされた者の従順によって、イエスさまの十字架への道、すなわち神さまの救いが実現する道に、イエスさまと共に歩むことが出来ました。ろばはイエスさまに呼び出され、つながれていた人生から、使命に生きる人生へと変えられたのです。

教会はろばのように、イエスさまの言葉に呼び出されて使命に生きるように招かれていると同時に、二人の弟子のように、イエスさまの言葉を携えて家族や、職場、この世へと遣わされていく者なのです。

 

祈りの輪は広がる

マタイによる福音書6:9-13

2010年9月19日

イエスさまが弟子たちに教えられた「主の祈り」を共に祈ることで、私たちの祈りの輪が広がることを願います。

まず、イエスさまは神さまを「父よ」と呼ばれています。これは当時の宗教的な常識をはるかに超える衝撃な呼び方です。このように神さまは遠くにおられるのではなく、私たちのことを見守ってくださり、答えてくださるお方であることを教えられます。

また、イエスさまが教えて下さった祈りは常に「わたしたち」の祈りです。イエスさまは6節で「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」て祈りなさいと命じましたが、たとえ極めて個人的な祈りの時でさえ、祈る者はこの世界と主にある兄弟姉妹とを覚えねばなりません。

主に結ばれているこの世界、そして兄弟姉妹を覚えて祈っているからこそ、私たちは祈るたびに自分が赦された者であると同時に、人を赦していく生き方が開かれていることを教えられます。自分を悔い改めへと導かれる神さまの支えがここにあるのではないでしょうか。

イエスさまに教えられたこの祈りのように、一人ひとりイエス・キリストに結ばれている兄弟姉妹を覚えて、共に祈りの輪を広げていきたいと切に祈ります。

 

わたしはあなたと共にいる

創世記28:10-15

2010年9月12日

ヤコブは兄の祝福を横取りしたことで兄に殺されそうになり、故郷から逃げて旅に出ました。疲れ果ててある場所に横たわったヤコブは、自分の行動への悔いや、未来への不安などでひどい孤独感を感じていました。何と心細い旅だったのでしょうか。

ヤコブはこのように苦しみが浮き彫りにされた場所から夢を見ましたが、夢の中で神さまに「見よ、わたしはあなたと共にいる」と声をかけられました。孤独や不安の中で心細かったヤコブの傍らに、神さまが共におられたことは大きな慰めだったに違いありません。

神さまはヤコブがどこへ行っても、彼を守り導き、この場所へと必ず連れ帰ると、また決して彼を見捨てないと、約束されました。眠りから目覚めたヤコブは「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白し、また旅を続ける力を得たのでしょう。

私たちは十字架につけられたイエス・キリストに目を向ける時、自分の孤独や、不安、恐れの只中に共におられる神さまを見出せるのではないでしょうか。そこではじめて神さまと共に歩む新しい生活を歩むことが出来ると信じます。

 

喜びの礼拝へ

詩編100:1-5

2010年9月5日

詩編100編は礼拝への招きの歌です。それも、全被造物に対する喜びの礼拝への招きです。

日常生活に目を向ける時、喜べない状況のほうが多いのは、私たちも当時のイスラエルの人々も同じだと思いますが、「喜びの叫びをあげる」ほどに喜びの礼拝を捧げることができるのはなぜでしょうか?

「知れ、主こそ神であると」あるように、主が誰であるかを知ることが、喜びの根源ではないでしょうか。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる(出エジプト6:7)」と語られた方を知ることは、自分たちが誰であるかを知ることです。「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」であることを思い起こし、告白する中で神さまへの信頼と希望が沸き起こり、喜びの叫びがあがるのでしょう。

私たちも、私たちを罪から救い出し、新しい生き方へと導いてくださる主イエス・キリストを与えてくださった神の恵みを思い起こす時、日常の喜べない状況から解放され、主への信頼と希望が湧き上がり、喜びと感謝が溢れ出すのではないでしょうか。

私たちが礼拝を捧げることは、全被造物に主を証することです。その礼拝が喜びと感謝で満たされる時、それは詩編100編と同様、「全地よ、よろこべ」という力強い呼びかけになるのではないでしょうか。(副牧師 細井 留美)

語り合い、満たされる

コリントの信徒への手紙一 11:23-26

2010年8月29日

申し上げたいことの一つは、主の晩餐についてです。毎月行われる主の晩餐を、あの過ぎ越しの祭りの騒がしさの中で、しかし、一人ご自分の身に起こることを見据えて祈られたイエスのまなざしを感じて、私たちは受けたいということです。アナムネーシス(想起する)という言葉が持つ、過去の出来事の現在化という意味を深く捉えたいと思います。あの時の出来事が今、この場で起こっているという切迫感やイエスの鼓動や息遣いを感じながら、主の晩餐にあずかりたいと思います。

さらにもう一つは、やはり、私たちはイエスさまの出来事を語り合うことを通して、満たされるという出来事を経験していきたいと思います。自分の一週間の中で、うれしい時、喜びの時があったことでしょう。共に主が喜んでくださったはずです。また、あるいは悲しい時、苦しい時もあったことでしょう。しかし、そのような時にも、主が共にいてくださった、その出来事を語り合うことで、私たちは豊かに満たされる。そして、同時に、そのあり方は、私たちが満たされるだけではなく、私たちの新しい働きに気が付かされるということでもあります。すなわち、十字架の救いを告げ知らせる働きがあるということに気が付き、もう一人の人と福音を分かち合う生き方へと押し出されていくということです。

最初期の教会において、語り合われたイエスの福音は、多くの人々を豊かに満たし、あふれ出していきました。(協力牧師 野口哲哉)

 

十字架につけられたキリスト

コリントの信徒への手紙一 2:1-5

2010年8月22日

パウロが宣べ伝えた福音は、十字架につけられたキリストでした。優れた言葉や、知恵といった見映えではありません。十字架につけられたキリストは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、」信仰者にとっては、神の力と神の知恵にほかなりませんでした。

パウロはコリント教会が始まる時のことを、肉体的にも、精神的にも参っていた状況だったと回顧しています。宣教の働きが人々に反抗されたからです。しかし、パウロは十字架につけられたキリストから励ましと慰めを受けて、あきらめずに宣教したこの時、人は神の力によってのみ信じるようになることに気づかされたのです。

教会の歩みや、一人ひとりの信仰の歩みの中でも様々な困難が立ちはだかる時があります。しかし、その困難な状況の中でこそ、私たちに深い理解を示される十字架につけられたキリストに目を向けたいものです。それは私たち一人ひとりがすでにキリストによって捕えられているからです。

十字架につけられたキリストに目を向けて、自己を主張して神に逆らおうとする自分の罪を悔い改めて生きる、そしてその赦しのために罪なきキリストがわたしの身代わりとなって十字架上で死んでくださった恵みを喜んで生きる、という生き方が私たちに示されているのです。隣の兄弟姉妹と共にこの道を歩みませんか。

新しく造られた者

コリントの信徒への手紙二 5:11-21

2010年8月15日

コリント教会宛てに送ったパウロの最初の手紙は、コリント教会の問題に真剣に向き合ったパウロの努力とは裏腹に人々に不信感ばかりを抱かせたようです。彼らはパウロが高みに立って自分たちを操ろうとしていると感じていたことでしょう。

このような状況の中で、パウロは怯むことなく、なおコリント教会の人々と関わり続けようと、さらに手紙を書いています。パウロはキリストの愛が自分を駆り立ててこのようにさせていると証しています。パウロはこのキリストの愛に心を強く打たれ、また突き動かされて福音を伝えていると分かち合っています。

キリストはすべての人の罪のために十字架の上で死なれました。また、私たちが新しく生きるようになるために復活されたのです。パウロはこのイエス・キリストの死と復活によってこそ、信じるすべての者がキリストに固く結ばれ、新しく造られた者となったことを訴えています。

すなわち、新しく造られた者とは、キリストによって神さまと和解させられた者です。さらに、キリストによる神さまとの和解の言葉を委ねられている者です。

広島や長崎に原爆が落とされて敗戦となって65周年、「韓国強制併合」から100周年を迎える節目の年です。だからこそ、今一度自分たちの歩みを悔い改め、キリストに固く結ばれた新しく造られた者として歩み出したいと願ってやみません。

 

神があなたを支える

イザヤ41:8-16

2010年8月8日

本日引用致しました聖句の少し前2節に「東からふさわしい人を奮い立たせ」とありますのは、ペルシャのクロス王の事であろうと思われます。

このクロス王率いるペルシャ軍がイスラエル民族を捕囚としているバビロンを打ち破り、無血入城を果たしたときイスラエル民族は解放されて、本国帰還を許されたのです。そのときクロス王を「救い主」と人々は思い、大きな期待を持つのですが、ペルシャ軍がバビロンに入ると、異教の神を奉りイスラエル民族は挫折を覚えるのです。しかも、このままイスラエルに帰還したとしても、待っているのは荒れ果てた故国であり、復興のために汗して働かなければならないのです。それよりは住み慣れたバビロンにいる方がいいと、人々の不満・呟きが聞かれる有様です。

そんな時に、神は「わたしの僕イスラエルよ」「わたしの愛する友アブラハムの末よ」と呼びかけられるのです。そして「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と約束されるのです。

あの「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き 国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。」と全ての事柄の背後には「わたし」即ち「神」が居られることを、示されるのです。

更に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える」と言われるのです。

元気を出しなさい

創世記45:1-8

2010年8月1日

ヨセフは兄たちに憎まれ、捨てられました。エジプト人のポティファルの家の奴隷となり、罪を着せられて監獄に入れられました。ヨセフの人生はこのように悪くなるばかりでした。しかし、聖書は神さまがヨセフと共におられることを繰り返し語っています。

世界が7年の飢饉に襲われた時、ヨセフの兄たちはエジプトに食料を求めに来てエジプトの宮廷の管理人の前に立ちます。相対している高官がまさか自分たちが捨てたヨセフだとは思いもしませんでした。

今日の箇所でヨセフは兄たちに自分の身を明かしますが、兄たちは弟のヨセフに復習されるかも知れないという恐れのあまりに何も答えられません。ヨセフは恐れている兄たちに対して「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(5)と言いました。これは神さまの導きがあったからこそ今があるという証です。

ヨセフは兄たちに「恐れることはありません。わたしを売ったことを後悔したり、お互いに責任を問わないでください。兄さんたち、元気を出してください。神さまは兄さんたちの悪い行動さえもはるかに超えて、救いの出来事にしてくださったのだ」と語っているのです。

自分の人生の歩みもまた悪くなっていくように見える時があるでしょう。しかし、神さまはいつも私たちと共におられ、私たちの現実を越えて働かれることを信じて歩んでいきましょう。神さまの救いが私たちの歩みに輝きます。

 

イエス・キリストの信仰

ヨハネによる福音書21:15-19

2010年7月25日

イエスさまはペトロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と聞かれ、ペトロにご自分への愛を言わせました。そして「わたしの小羊を飼いなさい」と言われ、同様の会話が2度、3度繰り返されました。

ペトロはイエスさまを知らないと3度も言ってしまい、十字架の死に追いやったという罪責感に悩んでいたと思います。それは心の傷となり、ペトロに深い絶望感を与えていたでしょう。

しかし、イエスさまはこのようなペトロのことをよく知っておられました。イエスさまは初対面でペトロをケファ(岩)と呼ばれ、ご自分を3度否認することを預言され、ペトロがどのような死に方をするのかまで知っておられました。イエスさまはペトロに変わらぬ信頼を寄せ続け、関わり続けられたのです。

このようなペトロに対するイエスさまの変わらぬ信頼は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハネ6:44)という、父である神さまへの信仰に基づいています。

イエスさまは同様に、今日の私たちにも変わらぬ信頼を向けておられます。ここに私たちは様々な失敗や不安の中で、なお信仰に留まる力と勇気をいただくのです。信頼された者として人を信頼していくことがきっと主の羊を飼うことになるのではないでしょうか。

 

キリストに満ちる教会

エフェソの信徒への手紙1:15-23

2010年7月18日

パウロは今日の箇所で、以前3年間主にある交わりを持っていたエフェソ教会の人々を思い起こしながら、祈っています。パウロは主にある兄弟姉妹が教会の頭であるキリストにしっかり結ばれてキリストに満ちる教会を夢見ていますが、具体的に何を祈ったのでしょうか。

第一に、「神が知恵と啓示との霊を与えられ、神を深く知ることが出来るように」と祈っています。イエス・キリストの十字架の死を通して示された神さまの愛を知ることは、神さまの知恵と啓示によってのみ可能です。

第二に、「神の招きによってどのような希望が与えられているのかを悟らせてくださるように」と祈っています。神さまの救いのご計画は時が満ちて必ず「救いの業が完成され」て、キリストを信じるすべての者が救われることです。ここに私たちの希望が出て来るのです。

第三に、ご自分の救いの計画を実現される「神の力がどれほど大きなものであるか、悟らせてください」と祈っています。神さまの力はキリストを死者の中から復活させ、この世のあらゆる権威に優る名を与えられたことにすでに私たちに示されています。

キリストに満ちる教会は、お互いに心からこれらの祈りをする中で、キリストによって実現されていくのです。

 

救いは神と小羊とのもの

ヨハネの黙示録7:9-12

2010年7月11日

ヨハネの黙示録は「新約聖書の中のヨブ記」と言えるかも知れません。ヨブに当たるのは教会で、神さまの沈黙や、様々な理不尽な出来事に直面して、なお神さまの救いが小羊であるイエス・キリストのもとにあるという励ましによって生きる教会の姿が示されているからです。

今日の箇所で、その励ましの言葉は「救いは、玉座に座っておられるわたしの神と、小羊とのものである」と最後に神さまに選ばれた大群衆の歌う賛美として書かれています。

この大群衆とは、紀元70年代の初代教会でもあれば、今日の教会でもあるのではないでしょうか。教会が神の国の民としてこの世に遣わされているとすれば、私たちもまた、救いが神さまと小羊のイエス・キリストから来るものであることを証していくものです。初代教会は厳しい迫害や、偽りの教えなどの課題に直面して、悩み苦しみながら、救いの唯一の希望を神さまとキリストに置いたのです。

大群衆は「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民から集まった」とあります。イエス・キリストの血によって罪赦された彼らの状態は「白い衣を身に着け」と表しています。そして神さまの前に、キリストの前に立っているのです。

教会につながっていくこと、礼拝につながっていくことによって、私たちは神さまとイエス・キリストから救いが来ることを証していく、また告白していくことになると思います。

 

わたしの口に新しい歌を

詩編40:1-5

2010年7月4日

詩編40編の詩人は乏しく貧しいがゆえに、神さまの救いに唯一の希望を置くほか何も出来ない者です。詩人は神さまへの信頼の中で忍耐し、神さまの救いを待ち望んでいます。

詩人の状況は「滅び(荒廃)の穴」や、「泥沼(瀕死の苦難)」という言葉にもよく表れていますが、暗闇の中で混沌とした現実の中で嘆き、呻いています。その中で神さまによって救いが与えられたと歌っています。

詩人は絶望の淵から神さまによって引き上げられた者を「幸いな人」とみなしています。この詩編を読むことによって、私たちは神さまの救いに感謝している詩人の喜びに招かれているのではないでしょうか。苦しむ者を聞いてくださる、引き上げてくださる、岩の上に立たせてしっかり歩ませてくださるお方を信頼して生きる生き方への招きなのです。

詩人が苦しみ、そして感謝の新しい歌を歌うことから、私たちはヨブの人生を思い浮かべます。ヨブは理由なき苦難に見舞われ、神さまの沈黙や、友だちの批判の中でうつのような状態に陥ってしまいます。しかし、ヨブは最後の最後まで主にのみ望みをおいて、まさに絶望の淵から神さまの呼びかけによって悔い改めに導かれました。さらに友だちのために執り成しの祈りをするまでに神さまに引き上げられたのです。

私たちは人生の歩みの中で、時には出口の見えないトンネルを過ぎているように思われる時があるかも知れません。主にのみ望みをおいて、詩編を口ずさみ、新しい歌を歌って歩みましょう。

人を用いられる神さま

使徒言行録16:11-15

2010年6月27日

パウロは偉大な伝道者です。劇的な回心を経て異邦人伝道へと生涯を献げました。彼の生き様は確かに凡人が真似できないところがたくさんありますが、自己紹介ではいつも「使徒に召された者」と言っています。すなわち自分は神さまに用いられた者であることにこだわっています。

パウロを使徒に用いられた神さまは、彼の伝道旅行の先々でも多くの人々を用いられ、教会を立てて下さいました。今日の箇所でフィリピという町で紫布を商う婦人のリディアもその一人です。リディアはパウロの伝える福音を聞いて家の者と共にバプテスマを受けます。おそらく彼女はフィリピ教会の出発に大きな働きを担っていたと考えられます。

神さまはまず、パウロに幻を与えられてフィリピに導かれます。さらに、リディアの心を開かれてパウロの伝える福音を注意深く聞くように導かれたのです。パウロもリディアも神さまに用いられた人であり、換言すれば、神さまに捉えられた人々だったのです。

リディアはパウロとその一行を無理に自分の家に泊めましたが、これは御言葉を聞くためであると同時に、ユダヤ人と外国人、男性と女性、旅人と居住者などの当時の差別を乗り越えて造り上げられていく教会の姿が示されたとも言えると思います。

初代教会の福音は神さまに用いられる者たちの服従によってますます広がっていったのです。私たち一人ひとりを用いられる神さまを信頼して教会の歩みを続けましょう。

平和を実現する人々

マタイによる福音書5:9

2010年6月20日

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

イエスさまは十字架を通して神と人、人と人、自分自身との間にある隔ての壁を取り壊し、平和を実現しました。山上の説教の場面は、まさにその平和に向かう道への第一歩と言えます。イエスさまはご自分の話を聞いている人々に対して「平和を実現する人々」と祝福しました。

イエスさまは何ゆえ人々を「平和を実現する人々」と祝福したのでしょうか。聴衆のほとんどは当時の宗教的な価値観によって社会や、家族から疎外された生活を強いられていました。律法を守れない人々、例えば病人や、やもめ、孤児などは罪人だと決め付けられていたからです。その中でイエスさまは神さまが支配する、「神の国」を宣べ伝えていて、人々はそのイエスさまに唯一の希望をかけていたのでしょう。

イエスさまはこのようにすべての関係から断ち切られた人々を「神の子と呼ばれる」と祝福しています。これは当時の常識からは考えられないほど革命的な考え方ですが、イエスさまは伝統や常識を超えて神さまとの関係を親子として再解釈し、聴衆に生きる勇気を与えたのです。

神さまはこのようなイエスの名を信じる人々に神の子となる特権を与えられるのです。私たちはこのイエスさまによって神との間に平和を得ているからこそ、なおイエスさまに唯一の希望をかけ、神の国と神の義を求める教会として歩み続けましょう。

新しくされて生きる

使徒言行録10:9-16

2010年6月13日

ペトロは祈っているうちに、お腹が空き我を忘れて幻を見ました。天から布の入れ物が四隅でつるされて降りてきましたが、そこには律法で食べることが禁じられていた生き物でいっぱいでした。「屠って食べなさい」という天からの声に、ペトロは「とんでもないことです」と答えると、「神が清めた物を清くないと言ってはならない」と言われます。同じことが3度繰り返され、目を覚ましました。

この幻が意味することを思い巡らしていたところ、ペトロは外国人のコルネリウスから遣わされて自分を迎えにきた人々と一緒にコルネリウスの家に行って、彼の親戚や親友たちに出会いました。ペトロは彼らに福音を伝えてバプテスマを施しました。この不思議な出会いを通じて、ペトロは外国人をも救う神さまを知り、幻の意味が分ったのです。

この出来事はエルサレム教会にとっては大きなチャレンジでした。エルサレム教会はあくまでもユダヤ教の一分派で、外国人への布教はあり得ないことだと思われていたからです。しかし、聖霊はそのような人の思いや、民族の枠を超えて「地の果てに至るまでわたしの証人となる」(使徒1:8)第一歩を踏み出させたのです。

私たちが聖書を神さまの声として聞こうとする時に、ペトロのような大きな戸惑いもあるでしょう。しかし、ペトロが新たにされて外国人への伝道に踏み切ったように、私たちも御言葉に揺さぶられながら、様々な出会いに導かれ、日々新たに変えられていくのです。

開かれてわかること

マルコによる福音書7:31-37

2010年6月6日

しばらくお待ちください。

平和を保つ教会

使徒言行録9:26-31

2010年5月30日

ペンテコステの出来事から始まった初代教会は、順風満帆の歩みだったわけではありません。内外的に様々な課題を抱えていました。外部的にはローマ帝国とユダヤ教徒からの厳しい迫害があり、また内部的にも海外派(ヘレニスト)と国内派(ヘブライスト)との間に律法や習慣に対しての立場の違いから来る摩擦が常にありました。

私たちは「平和」と聞けば、何事も起こらない、あるいは戦争がないというような状態を思い浮かべがちですが、初代教会の姿から教えられる「平和を保つ教会」の姿は、様々な課題や突発的な出来事に直面して激しく揺れ動きながら「主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31)共同体の姿です。

今日の箇所には回心後どこにも属することのできないパウロの辛さがよく表れています。ユダヤ人から殺されそうになるばかりか、教会の皆に弟子だとは信じてもらえなかったからです。その中でバルナバの働きによってエルサレムで使徒たちとの交わりを持てるようになりました。聖霊はバルナバを通してパウロを慰めたのだと思います。

私たちの教会の歩み、あるいはそれぞれの日々の歩みも、様々な課題を抱えているし、時折思わぬ出来事に直面します。激しく揺れ動く中で、なお礼拝につながり、聖霊に慰められながら、福音宣教の御業にあずかることが出来ればと思います。

聖霊によって芽生えた教会

イザヤ書44:1-8

2010年5月23日

私たちは自分のおかれた状況に様々な不安を感じていると思います。

イエスさまが天に上られた後、残された人々は「これからどうなっていくのか」という不安にかられていました。また紀元前6世紀自分たちの国が滅ぼされ、バビロニア帝国で捕囚の生活を余儀なくされたイスラエルの民も「いつ故郷に戻られるのか」という不安を抱えて生活していたでしょう。不安とは将来への展望が見えないことかも知れません。

今日の箇所で預言者は、このように不安と絶望の中にいる民に対して、神さまからの回復を宣べています。預言者は「捕囚からの解放」を乾いている地に水が注がれるイメージで、また「回復した民の姿」を萌え茂って芽生え、柳が育つイメージで生き生きと伝えています。これは神さまの霊が注がれて起きる、死から命への「新しい事」です。

ペンテコステの出来事もまた、神の霊が一人ひとりに注がれて起きた「新しい事」です。集められた群れは「キリストは救い主だ」と告白し、そこから教会が芽生えたのです。ルカは聖霊によって芽生えた教会の様子を「使徒の教え、相互の交わり、パンをさくこと、祈ることに熱心であった」(使徒2:42)と記しています。

だからと言って初代教会がパラダイスだったわけではなく、むしろ生身の人間の欠けなどがたくさんありました。しかし、そのような人間の限界を超えて聖霊の働きがあったのです。私たちも様々な不安の中にあっても、聖霊の働きに期待して歩みたいものです。

復活の証人として

ルカによる福音書24:44-53

2010年5月16日

「目からうろこ」という諺があります。あることをきっかけに物事の本質が分かるようになるという意味です。復活されたイエスさまを前にして、弟子たちはイエスさまに聖書の言葉を解き明かされ、「目からうろこ」がおちるようにイエスさまの復活を信じるようになりました。

イエスさまは旧約聖書が救い主(キリスト=メシア)の死と復活、またその救い主の名によって悔い改めを証していることを言われました。そしてその旧約聖書の言葉がイエスさまの十字架の死と復活によって実現されたのだと語られました。

次に、イエスさまは弟子たちに「あなたがたはエルサレムから始めてこれらのことの証人となる」と言われました。エルサレムとは、弟子たちにとっては師を裏切った失敗の場所であり、新しい世界への期待が揺さぶられた戸惑いの場所でありました。イエスさまはご自分を信じきれなかった場所から、弟子たちを復活の証人に遣わされようとするのです。イエスさまは彼らの弱さを助けてくださる聖霊を約束されています。

わたしたちは弟子たちのようについ自分の至らなさや、弱さに目を向けがちです。しかし、イエスさまは私たちを知っておられますし、聖霊を与えてその弱さから新たに生きる力と勇気を与えて下さるのです。

復活の証人として生きることは、自分が欠けの多い者であることを知りつつも、教会につながり、礼拝につながってイエスさまが約束してくださった聖霊と共に歩むことではないでしょうか。

共にある神の恵み

コリントの信徒への手紙一15:1-11

2010年5月9日

コリント教会はパウロが紀元49年頃開拓に関わり、1年半滞在した教会です。パウロがコリント教会を立ち去ってから、「人の復活などはない」という主張が教会に広まっていたようです。パウロはこれに答える際に、もう一度最も大切なものとして福音を宣べ伝えています。

その福音の内容はキリストが十字架で死んで確かに葬られたこと、そして三日目に復活されて多くの人々に現れたことです。パウロはこの福音を知識や経験ではなく、自分も「受けたもの」だと言っています。

パウロは最初このような初代教会の信仰を受け入れられませんでした。神を冒涜しているように見えたからです。しかし、ダマスコ途上で復活されたキリストに出会ってから、それまで持っていた神のイメージが180度変わりました。すなわち「神像の転換」が起きたのです。十字架で殺されたイエスさまを通して、弱者や失われた者の側に立つ神さまを新たに発見したのです。

それからのパウロは異邦人に対する伝道に励んできたのですが、それらの歩みをパウロは「神の恵みによって今日のわたしがある・・・働いたのは…共にある神の恵みなのです」と告白しています。パウロはこのような神の恵みが自分の人生に共にあったことを実感しています。

私たちも聖書の言葉や出来事によってそれまで持っていた神像が揺さぶられ、崩れる時があるかも知れません。しかし、神の恵みはそれらを乗り越えられる力と勇気を与えてくださるのです。

命の光を持とう

ヨハネによる福音書8:12-20

2010年5月2日

イエスさまはご自分を「世の光」と証されています。神さまは天地創造の際、最初に「光あれ」と言われ、その光の下にすべてを造られました。神さまはイエスさまをこの世に光として与えられ、その光の下にこの世を新しく造られる計画を持っておられます。

イエスさまは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)と言われました。命の光を持つとは、どのような生き方を言うのでしょうか。それは前の段落に出て来る、姦通の現場で捕えられ、イエスさまの前に立たされた一人の女性の姿に示されています。

彼女を取り囲んでいた群衆はもういません。そこにはイエスさまと彼女二人しかいません。彼女は何もかもイエスさまの前でさらけ出され、裸になったのと同様に、恥ずかしく感じていたことでしょう。どうすることも出来なく、ただ立ちすくんでいたのかもしれません。

しかし、イエスさまは彼女に対して「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)と言われました。イエスさまは彼女に主に赦された者としてもう一度やり直す機会を与えられました。これこそ、命の光ではないでしょうか。

私たちは本当に欠けの多い存在です。しかし、イエスさまは尊い命を献げて、私たちを赦してくださったのです。この赦しの恵み、すなわち命の光を持って日々歩みましょう。

天からパンを降らせる

出エジプト記16:4-16

2010年4月25日

イスラエルの民は荒れ野で飢え死にさせられると不平を言い、神さまはその不平を聞かれて天からパンを降らせました。これが「これは何だろう」という意味のマナです。マナは厳しい荒れ野でご自分の民を守られた神さまの恵みを表しています。

マナは神さまからの恵みでもあれば試しでもあります。神さまは民が毎日必要な分だけを集めること、そして安息日の前日は毎日集める分の2倍となることを言われました。この神さまの指示に聞き従った者がその恵みを体験したことになります。

イスラエルの民は夕暮れごとにうずらを食べ、朝ごとにマナを食べて40年間生き続けられました。荒れ野の旅をくぐりぬけてイスラエルの民はマナの出来事を「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」(申命記8:3)の神さまの導きとして受け止めているのです。

教会の歩みや、教会につらなる一人ひとりの生活は、荒れ野のように厳しく、保障されていないように思える時があるかも知れません。しかし、神さまは私たちの必要を誰よりも知っておられ、タイムリーに満たしてくださいます。それだけではなく、神さまはイエス・キリストを命のパンとしてこの世に与えられ、十字架に引き渡されました。キリストによってわたしたちに新しい命を与えられるためです。

日用の糧を与えられる神さまを賛美し、キリストを通して与えられた神さまの恵みを感謝しつつ、歩んでいきましょう。

群れを牧せよ

ペトロの手紙一5:1-11

2010年4月18日

これは使徒ペトロが迫害を受けている初代教会を励ますために書いた手紙です。今日、私たちは迫害に遭ってはいませんが、周りの理解を得られない点は変わらないでしょう。教会は別世界なのでしょうか。私たちはどのように教会を造り上げていけばよいのでしょうか。

ペトロは「牧する」に注目しています。牧するとは「羊の番をする、世話をする」という意味です。ペトロは牧する者は献身的かつ模範を示すように、また牧される者は従順と謙遜を身に着けるようにと勧めています。牧師や執事、教師など牧する者と、教会員や新来者、求道者など牧される者がいます。この区別は役割として理解すべきでしょう。

大切なのは、牧する者も牧される者も大牧者であるキリストによって愛され、支えられていることです。イエスさまはご自分を良い羊飼いであり、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたとおり、十字架につけられました。それによってイエスさまは私たちを赦しました。

私たちはバプテストの群れです。お互いの違いを認め合い、その一人ひとりの話を聞きながら、イエスさまが私たちの群れに何を望んでいるのかを探し求めています。牧する者も牧される者も決まっているわけではなく、時には牧する者として、時には牧される者としてお互いに関わり続けること、そして話し合っていくことが重要なのです。

神さまは欠けだらけの私たちをやがて完全な者にし、強め、力づけて下さると約束されました。この約束を信じましょう。

真ん中に立たれた主

ヨハネによる福音書20:19-31

2010年4月11日

イエスさまの復活は、聞いたから信じられるとか、見たから信じられるなどと言った出来事ではありません。暗闇の中に光が差し込むように、神さまの介入によってはじめて信じられるのです。

弟子たちにとってイエスさまの死は恐れでした。それは信頼していた対象がいなくなった喪失感です。弟子たちは暗礁に乗り上げた船のような断絶と孤立に閉じこもってしまいました。

復活させられたイエスさまは恐れている弟子たちに来て、真ん中に立たれ、「あなたがたに平安があるように」と言われました。真ん中に立たれたことは、これからの人生に悲しみや、悩みなどがなくなることではなく、むしろ悲しみや悩みのただ中で、信頼できるイエスさまが一緒にいてくださることを意味します。それは弟子たちという新しい共同体、すなわち教会の中に与えられた希望でもあるのです。

復活の主は失われた羊を探し回る良き羊飼いのように、トマスを見つけ出して信仰へと導かれました。復活の主は時空を超える存在でありながら、依然として手の釘跡とわき腹の傷を持って一人ひとりに出かけられるのです。それは主が私たちの苦しみや恐れを既にご存知であり、私たちの傍らで歩んでくださることの証ではないでしょうか。

教会の真ん中に立たれる復活の主は私たちを励ましてくださいます。そして週日の生活へと遣わされるのです。

イエスさまは復活なさった

マルコによる福音書16:1-8

2010年4月4日

イエスさまの復活は十字架上での死をなくして起こりえません。無残な十字架の死は誰もが避けたいものです。イエスさまの死は神さまにとっても、人々にとっても深い痛みでした。

しかし、イエスさまの死をしっかり見届けた女性たちにとっては、悲しみを超えた何かがあったのでしょう。それは生前のイエスさまの言葉や行動に改めて見えてくるものがあったと思います。またそのような思いが彼女らを墓へと向かわせたのでしょう。

墓に入った女性たちは、イエスさまの復活という驚くべきお知らせを聞きます。当時女性たちは数にも入らぬ、子どもと一緒で無力な存在でした。彼女らに復活が告げられたのは、無力な者と共におられるイエスさまの憐れみにほかありません。またこの復活の出来事が人間側の力に依存せず、神さまの力によって起きた出来事であることを表します。

女性たちは「行って弟子たちに告げよ」と言われましたが、恐れのあまりに気が動転して逃げ去り、閉じこもってしまいました。彼女らの混乱にもかかわらず、主は先立ってガリラヤへ行かれました。

復活の出来事は直接見て、あるいは聞いたから信じられるものではありません。自分たちの弱さや、無力さに閉じこもっている状態から立ち上がり、「主は復活ささった」と伝える時に、先立って人々に出会ってくださる復活の主に出会えるのです。

パンを食べ、杯を飲みなさい

マルコによる福音書14:22-26

2010年3月28日

今日は棕櫚の主日です。この日はイエスさまがエルサレム入城の際、棕櫚の枝を手にした人々に迎えられたことに由来します。古くから教会は「戦争の勝利」を象徴する棕櫚(ナツメヤシ)を用いながら、イエスさまの死によって与えられる新しい命を「信仰の勝利」として読み替えて祝ってきたのです。

イエスさまはご自分の死が差し迫った夜、弟子たちと過越祭*の食事をされました。イエスさまは祝福と感謝の祈りをしてから、パンとぶどう酒をご自分の体と血として弟子たちに与えられました。弟子たちはイエスさまから差し出されたパンを食べ、ぶどう酒を飲みました。

この主の晩餐には二つの意味があります。一つは、イエスさまの死を意味します。愛する弟子たちに裏切られ、苦難を受けて十字架につけられることです。イエスさまはこれから起きる恐ろしい出来事を神さまの救いの出来事として捉えて、弟子たちがご自分の死の中に神さまの愛を見出すことを願っていたと思います。もう一つは、神の国の祝宴の先取りです。イエスさまはご自分の死を通して成し遂げられた神さまの救いの御業が最後の日に成就することを確信していたのです。

私たちは主の晩餐を行う度に、これらのことを想い起こすのです。過去を想起することによって、私たちは現在と未来を変革していくための霊的な力と勇気をいただくのです。

(注)過越祭:神ヤハウェによるエジプトからの救い出しを記念する祭り

ユダの接吻

マルコによる福音書14:43-50

2010年3月21日

イエスさまの苦難と十字架の死を前にして、私たちはイエスさまに香油を注ぎかけた女性の「献身」とイエスさまを宗教指導者たちに引き渡したユダの「裏切り」の間に立たされています。

ユダは「接吻」という親しみを表す行為をもって、「裏切り」という期待に反する行為をしました。ここにユダの人間的な弱さがあります。この弱さはイエスさまを信頼できなかったことから出たものでしょう。またこれはユダに限られたものではなく、イエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちの弱さでもあれば、私たちの姿でもあります。

イエスさまはこのユダの接吻を何の抵抗もなくそのまま受けられました。このイエスさまの行動にはユダの弱さを引き受けて、そして担ってくださろうとするイエスさまの決断があったのではないでしょうか。すでにイエスさまは過越祭の食事の時にはユダの裏切りをご存知で、「人の子を裏切るその者は不幸だ」と神の子メシアを裏切らなければならないユダへの深い憐れみを表わしているからです。

イエスさまがユダと弟子たちの弱さを担えたのは、「聖書の言葉が実現する」ことへの揺るがない信仰があったからだと思います。このイエスさまの信仰の土台に教会は建てられて、イエスさまは私たちの弱さをも担ってくださいます。四旬節にこのイエスさまの支えを覚えて歩みましょう。

香油を注いだ女性

マルコによる福音書14:3-9

2010年3月14日

時はイエスさまの十字架の死が迫ってきています。宗教指導者たちはイエスさまを捕らえて殺そうとしていたし、弟子のユダはイエスさまを引き渡そうと宗教指導者たちのところへ出かけて行きました。

このような緊迫した時に、イエスさまはベタニアのシモンの家で人々と食事をしています。一人の女性が高価な香油をイエスさまの頭に注ぎかけます。居合わせていた人々は無駄遣いだと女性を咎めますが、イエスさまは女性の行動を受け入れてくださり、ご自分の埋葬を準備したこととして評価してくださいます。そして福音が伝えられるところで女性のしたことが記念として語られると言われました。

「記念」という言葉に関わるもう一つの出来事は主の晩さんです。主の晩さんはパンを食べ、ぶどう酒を飲むことによって一緒にいた者たちがイエスさまの死にあずかることを意味しています。この主の晩さんはイエスさま体と血によって与えられた恵みです。だとすれば、今日の女性の行動はその恵みに対する応答ではないでしょうか。また、イエスさまは無言で名も知られていない一人の女性の決断を大きく用いてご自分の死にあずかる者の姿を語っているのだと思います。

私たちが主のためにすることは時には無駄のように見えたり、小さなことだったりするかも知れませんが、イエスさまは私たちの決断を大切に受け入れて下さり、また用いて下さいます。

目の見えない男の癒し

ヨハネによる福音書9:1-12

2010年3月7日

イエスさまは生まれつき目の見えない人を見かけられて、土をこねて彼の目に塗り、シロアムで洗うようにと言われます。言われたとおりにして彼は癒されますが、イエスさまがどこにいるのかは知りませんでした。

イエスさまは彼の苦しみや辛さをすべてご存知で、憐れみをもって彼を癒されました。これは世の光として来られたイエスさまの姿です。これに対して癒された彼はイエスさまのいるところを知りませんでした。これは暗闇にあるこの世ではないでしょうか。

この話では生まれつき目の見えない人が癒された出来事自体より、その出来事を通してイエスさまは誰なのか、そしてイエスさまを信じる信仰へと導かれることが最も大切にされています。彼は癒された直後にはイエスさまのことを「知りません」と言いますが、ファリサイ派の人々との対話や、イエスさまとの再会というプロセスを経たあげく「主よ、信じます」という告白へと導かれるのです。

イエスさまは私たち一人ひとりをこのような信仰へと導かれるお方です。また、イエスさまは私たちをこの世に遣わされるお方です。私たちが出会う御言葉や、人々、そして出来事の中には神さまの豊かな恵みが溢れているのです。

同労者と歩む

ローマの信徒への手紙16:1-16

2010年2月28日

パウロはまだ訪問したことのないローマ教会の中で多くの人々を知っていたようです。25人以上の名前をあげながら丁寧に「よろしく」と言っているからです。おそらく彼らはパウロの伝道活動の中で何らかの関わりのあった人々だったのでしょう。名前から推測できるのは、ユダヤ人もいれば異邦人もいる、身分の高い者もいれば解放奴隷もいる、男性もいれば女性もいたことです。これは当時のローマ教会が本当に多様な人々に支えられていたことの証なのです。

パウロは彼らを「キリストに結ばれた者」だと言っています。キリストの死と復活にあずかり、身分や性別、貧富などの差を克服してキリストの体である教会につながっていたからです。また、彼らはキリストにあって「同労者」でした。中でもプリスカとアキラはユダヤ人追放令によってローマからコリントに逃れた時、パウロと出会って生活を共にしますが(使徒18:1-2)、二人は命がけでパウロを守ってくれたとあります。パウロの伝道はキリストにある同労者と共に行われていたのです。

パウロはおそらくこれらの人々との出会いを思い起こしながら、その一人ひとりの課題のために祈りながらこの手紙を書いていたのでしょう。この16章を読んではじめて、このローマ書は神さまの御旨をもとめている私たち宛の手紙として受け止めることが出来るのではないでしょうか。

兄弟姉妹はキリストに結ばれた同労者です。励まし合って福音宣教に励んでいきましょう。

私たちは主のもの

ローマの信徒への手紙14:1-12

2010年2月21日

ローマ教会には、偶像に供えられた肉などをかまわず食べられる人もいれば、それらの物は律法に禁じられているから絶対に食べない人もいました。パウロは神さまがこの両者を受け入れてくださったから、お互いに受け入れ合うことを訴えています。

ある物を食べるか食べないか、あるいはある日を重んじるか重んじないか、というのは各自の信仰によって決めるべきです。より本質的なのはそれを行う時に「主のために」行っているか否かです。なぜなら、わたしたちはキリストの身代わりの死により神様に買い取られた者だからです。すなわち私たちはキリストによって「主のもの」となったのです。

パウロがこの手紙の中で繰り返し強調しているのは、信仰によって義とされるという福音は、異邦人であれ、ユダヤ人であれ、信じるすべての者に与えられる神さまの恵みです。この恵みを受けている私たちが兄弟姉妹の行動を裁くことは出来まい、と言うのです。これはローマ教会のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の壁や摩擦といった現実の中で一番必要な言葉でもあったのです。

人の信仰が自分と同じ信仰でなければならないという思いがあるかも知れません。しかし、一つになることは一色になることではなく、それぞれの信仰を受け入れて「主のために」生きることではないでしょうか。

キリストにある者の悩みと感謝

ローマの信徒への手紙7:14~8:2

2010年2月14日

パウロは「信仰によって義とされる」と語りつつも、「信仰によって律法が確立する」(3:31)、「キリストは律法の目標」(10:4)と言っています。すなわち、「律法自体は聖なるもの、善いもの、霊的なもの」とあるように、律法の存在を否定するのではなく、律法を自分の力で守り得ると考える「罪」に目を向けています。

パウロはこの罪の問題を悩み、「自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている」(20)ことを痛感します。そして「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう・・・だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆きます。しかし、その絶望の叫びは直ちに「わたしたちの主イエス・キリストを通して」(7:25)感謝に変えられます。これは自分の力で律法を守り切れないことを深く知った者こそが献げられる感謝だと思います。

パウロの感謝の根拠は「キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という言葉によく表れています(8:1)。「結ばれている」というのは原文では「中に」という表現です。それは、終末における救いの希望を目指している言葉です(6:11)。「キリストに結ばれている」という内容は、キリストの愛とそれに対する私たちの信頼です。

従って、私たちは立派なキリスト者になることより、惨めな自分さえも愛しつづけてくださるイエスさまに支えられて生きる者となることを祈ります。

神への服従

ローマの信徒への手紙13:1-7

2010年2月7日

今日の箇所はキリスト教の国家観や倫理観ではなく、信仰によって義とされた者の実践綱領です。前の段落では善を持って悪に勝つことが(12:9-21)、次の段落で隣人を愛することが(13:8-10)、語られているからです。権威への服従の根にあるのは愛です。パウロは当時のローマ教会が極端な二元論に基づいた武力革命運動に流されそうな中で、神さまが創造されたこの世を否定してはいけないという点と、真の権威者とは民衆と神さまに仕える者であるという点をはっきりさせています。

しかし、教会がこのような視点を失った時に、いかに神さまの権威がないがしろにされ、いかに教会が支配者の論理を聖書的に根拠づけたのかが、歴史には刻まれています。ドイツのナチ政権下の帝国教会や、太平洋戦争中の日本の教会がそうでした。当時の大半の教会がヒトラーや天皇を神さまに立てられた権威として位置づけ、信徒に服従を求めました。

私たちは今まさに平和憲法が変えられ、信教の自由が奪われようとする入り口に立っているのかも知れません。いつの時代にもまして「神への服従」が求められています。平和や、信教の自由は受身では守りきれません。神の権威に反する権威者に対して「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいか、考えてください」(使徒4:19)と言える覚悟が必要です。

十字架を背負ってカルバリの丘を登られたイエスさまが示された「神への服従」を心に刻んで歩みましょう。

慰めを豊かに

コリントの信徒への手紙二1:3-11

2010年1月31日

「慰め(パラクレーシス)」という言葉は「傍らで呼び出す」という意味です。まさに「存在していないものを呼び出して存在させる」創造主への信頼を表す言葉です。またヨハネによる福音書ではヨハネ独特の書き方ですが、「聖霊」を「弁護者(パラクレートス)」と言い、「慰め」に由来しています。傍らで私たちを助け、慰める聖霊によって私たちは神さまの愛を実感できます。

パウロにとって伝道の旅での苦難は「耐え難く圧迫されて」「生きる希望を失い」、「死の宣告を受けた思い」でした。具体的には使徒言行録19章以降の迫害ではないかと思われます。しかし、パウロはその苦難を通して一つ大切なことを教えられました。それは「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするように」変えられた自分に気付かされたことです。常に弱い自分に臨んでくださる神さまの慰めがあったからこそ、パウロはコリント教会の人々に慰めの手紙を書けたのではないでしょうか。

ヘンリ・ナウエンはイエスさまのことを「傷ついた癒し人」として捉えました。的を射た表現だと思います。イエスさまは人々に罵られ、弟子に裏切られ、十字架の上で死なれました。徹底的に傷つけられたのです。だからこそキリストは、私たちの悩みや悲しみに深く理解を示され、憐れまれるのです。

私たちはイエス・キリストによって神さまの豊かな慰めを与えられると信じます。

価なしに救う神さま

ローマの信徒への手紙3:21-31

2010年1月24日

パウロの「信仰義認論(信仰によって義とされる)」は異邦人との食事という具体的な生活の座から触発されたものです(ガラテヤ2:1-14)。

「信仰」とは、私たちの信じる行為の前に、イエス・キリストを通して示された神さまの誠実さが先行します。「信仰(ピスティス)」という言葉は、神さまの誠実さ(ローマ3:3)とそれに応答する人間の誠実さ(ガラテヤ5:22)と、両者の誠実さを表しています。

神の誠実さは、神さま御自身がイエス・キリストを十字架に引き渡されて罪の値を支払われたことと、そのイエスを信じる者の罪を見逃す(過ぎ越す=赦す)ことに表れています。これは神さまの自発的決断ですから、私たちにとっては値無しの恵みですが、神さまにとっては最も痛ましい犠牲です。

私たちが救われるのは、わたしたちが何か良い行いをするからではありません。神さまが私たちのことを愛してくださるからです。神さまは私たちのためにイエスさまをこの世に与えられて、そのイエスさまが罪人である私たちの身代わりになって十字架につけられ、死んでくださいました。そのことによって、私たちは救われるのです。

値無しに救ってくださる神さまの一方的な恵みに信頼して、日々新たにされて歩みましょう。

ありのままのあなたで

フィリピの信徒への手紙3:12-16

2010年1月17日

「甦り」を否定していたサウルが、ダマスコ途上において甦りの主に出逢い「サウル、サウルなぜわたしを迫害するのか」と問われたのです。しかも、迫害するサウルを受け入れ宣教の業に立たせるためにです。

甦りの主は、あの十字架の痛み苦しみの中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成された「彼ら」の中に自分も含められていた。否、自分の事だったのだと気付かされたとき、サウルの信仰は完全に打ち砕かれそれからのパウロの信仰の原点になっていったのです。

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙3:12~16節において「完全な者」の言葉にサウルの信仰からパウロの信仰へと変わっていったことが表されているように思います。

ヘブル語で「完全」を「シャレム」と言い、その言葉からの派生語として「シャローム」(平安)があります。ここには「有りの儘の自分を受け止めていれば、人は神の前に何も隠さずに済む、無理して自分を装う必要はなく常に安らかな心でいられる」と言うのです。

パウロは16節において「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」と言っています。「有りの儘のあなたで」主を見上げて歩んで参りましょう。(田代 敬兄)

分け隔てなさらない神さま

ローマの信徒への手紙2:1-11

2010年1月10日

ローマ教会の中ではユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との葛藤が根強くあったようです。パウロはユダヤ人たちが異邦人を裁きながら、実は自分たちを罪に定めているのだと指摘しています。

人を正しく裁くことの出来る方は神さまのみです。しかもその裁きは終末の時に行われます(3,16)。神さまの裁きはおのおのの行いに従ってお報いになり(6)、すべて悪を行う者には、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には永遠の命を与えられます。これは確かなことですが、神さまの裁きだけに目を向けることは恐ろしいことかも知れません。

しかし、憐れみ深い神さまは正しい裁きを行われるまでに、その豊かな慈愛と寛容と忍耐をもって人を悔い改めに導かれます。神さまの憐れみは「忍耐long-suffuring」という言葉によく表れています。神さまご自身が長い苦しみをもって人々を待っておられるからです。神さまの裁きと憐れみは今日の常識を覆すものかもしれません。イエスさまの「ぶどう園の労働者」のたとえ話のように、ぶどう園の主人は賃金を支払う夕方まで何回も広場に行き、労働者をぶどう園に行かせます。また一人ひとりにふさわしい賃金を支払われます。

神さまの正しい裁きに目を向けつつも、人を悔い改めに導かれる神さまの憐れみに信頼して歩んでいきましょう。

深いキリストの愛

エフェソの信徒への手紙3:14-21

2010年1月3日

「コラムデオ(Coram Deo)」という言葉があります。神さまの前に立つという信仰の表しです。この言葉から私たちが神の前にたち、神を問うことから神に問われ、答えて生きる者であることを教えられます。

パウロは2年間交わりを持っていた兄弟姉妹を心に浮かべながら祈っています。神の前にひざまずいて祈っています。パウロが祈ったのはキリストの内在と、共同体の成熟です。

まずは、キリストの内在です。パウロは神さまがエフェソ教会の一人ひとりを強めて「心の内にキリストを住まわせ・・・・愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と祈っています。これはパウロ自身も「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:20)と告白していることです。パウロは彼らがキリスト共に死んでキリストと共に生きることを切に願っていたのです。次は、共同体の成熟です。「すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」を知り、「それによって満たされるように」と祈っています。イエス・キリストは十字架の死を通してユダヤ人も異邦人も一つの体として神さまとの和解を成し遂げて下さいました。ここにキリストの愛が示されたのです。

神の恵みによって迎えられた新年です。深いキリストの愛に気づかされ、共に祈り合って歩んでいきましょう。

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