神の愛に生かされ
ヨハネによる福音書3:16-21
2011年12月25日
神さまがその独り子をお与えになったほどにこの世を愛されたのは、「御子によって世が救われるため」です(17)。この神さまのご計画はイエスさまの降誕から実現し始めました。著者のヨハネはイエスさまの死と復活を経験したため、イエスさまのことを「光が世に来た」と言い表すことができたのだと思います。
「救われる」、「永遠の命を得る」とは、人も自分も愛することのできない私たちが十字架につけられたイエスさまによって、そして復活され天に昇られたイエスさまによって、神さまの愛を実践する者へと変えられていく、ということです。ここには「主と共に」という視点が欠かせません。まさに暗闇に住んでいた罪深い私たちに主イエスの光が照らされ、その光に導かれることだと思います。
私はこの一年を振り返ってみるとき、牧会と説教において常に自己中心であったし、天災と人災のため苦しんでいる人に付き添えられない自分をいやというほど実感させられています。しかし、今日のクリスマスの出来事を通して、このような自分の暗闇に気づかされ、そして「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」主イエスが共におられることを知りました。
一人ひとりが対外的混沌に加え、課題を抱えながら歩んできた一年だったと思います。失敗や挫折もありましたが、しかし「クリスマスの出来事」は私たちが神さまの愛に生かされていることに目を向けさせてくれます。メリークリスマス!
主が成し遂げてくださる
詩編138:1-6
2011年12月18日
3月11日の東日本大震災という出来事の中で、私たちは大きな悲しみ苦しみの中に置かれた人々と出会っていくこととなりました。12月12日現在の数字で、亡くなられた方1万5841人。行方不明の方3490人という途方もない大災害でした。また、東京電力福島第一原子力発電所の放射能事故による被害は、現在も続いています。この出来事で、私たちは皆、胸が引き裂かれるような痛みを感じました。いったい神さまはどこにおられるのだろうか、なぜこのような出来事が起こるのだろうか。神さまへの問いが浮かびました。私たちもまた、広い意味での被災者だったということを思い返しています。
そのような数カ月間、私を支えた聖書の言葉、私の耳の奥で響いていた聖書の言葉、それが使徒言行録27:21~26節です。ローマに連行されていく途中でした。乗っていた船が嵐に会って、もはや沈没寸前ということになってしまう。300人近い人が乗った船です。漂流しはじめて13日。もはや食糧もなくなり、希望も見えない。命のともしびが消えそうになっていた時、彼はこう言った。「我々は、必ず、どこかの島に打ち上げられるはずです」と。何の科学的根拠もなく、合理的な裏付けもなく、彼は言う。ただ、ただ、主なる神がおっしゃる。それを根拠にして、そう言うのです。教会につながり、聖書の御ことばで生かされているということは、絶望的な出来事を経験しながら、そこで、元気を出しなさいという言葉を聞くことができるということです。
詩篇136編の信仰、それは私たちの信仰でもあります。主がすべてを成し遂げてくださる。そのことを確信し、そのことに向かって歩みつつ、祈って乞い求めることを大切にしながら、歩んでいます。それは、何よりも自分たちの内部には、義がないこと、力が無いことを知っているからです。そして、そのことが最も象徴的に、最も豊かに表わされていくのが、クリスマスの出来事です。私たちは、大災害を経験することを通して、いやというほど無力さを突きつけられた一年でした。今もなお、なしうることの小ささに愕然としますし、これからもそうでしょう。しかし、すべては主が成し遂げてくださる。私たちの思いや私たちの能力を超えて、主が成し遂げてくださる。飼い葉おけの御子を主が私たちに見せてくださり、また再び、そこから主が我々を出発させてくださる、そのことを喜びながら、クリスマスを迎えていくことといたしましょう。〔協力牧師 野口哲哉〕
確かな神の約束
ヘブライ人への手紙6:13-20
2011年12月11日
神さまはアブラハムが愛する息子を神に献げるという命令に応えた際、ご自分にかけて彼に祝福を約束されました。それは信仰の先達や、私たちに「御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え」たからです。
「アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」とありますが、その約束を実現してくださるのは神さまご自身です。アブラハムは約束の実現を見ることなく葬られたからです。これは不確かな時代、神さまの約束が実現していないかのように見える現代において、なお神さまの約束を待ち望む私たちに力強い励ましになっています。
神さまはイエス・キリストを通してご自分の救いの計画をはっきりと示されました。イエス・キリストは動物の「血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(9:12)大祭司となってくださったからです。
イエス・キリストを惜しまなく与えてくださった神さまを信頼しきって、真心から神さまに近づいていきましょう。神さまは約束されたことを、人間の思惑をはるかに超えて世代を超えて歴史の中で必ず実現されるお方なのですから。
主に養われる群れ
ミカ書5:1-3
2011年11月27日
ミカは紀元前8世紀末南王国(ユダ)で活動した預言者です。彼は神により頼まず、隣国の軍事力に頼った北王国(イスラエル)の滅亡から教訓を得ないと、自分たちも神の裁きを免れないと語ります。民の「陣痛に取りつかれている」(4:10)産婦のような苦しみは真の王の不在のためだと嘆く一方、神が自ら立てる王を待望しています。
この王とは、「立って群れを養う」(3)王です。「養う」とは自分の羊の群れを命がけで守る「羊飼い」のイメージです。当時の王は力強い軍事力や政治力を背景に国を治めるのが普通でしたが、神さまは民一人ひとりを「牧する」王を立てると約束されました。彼は捕囚からの解放をもたらし、帰還した者を養うのです。
この神さまの約束は、700年が過ぎてイエスさまが生まれたことによって実現されたのです。この約束を語った預言者も、聞いた人々もその実現を見ることはできませんでしたが、神の約束は歴史の中に確かに成就されました。飼い葉桶にお生まれになった主イエスは、自らを「わたしは良い羊飼いである」と言われ、抑圧されている人々を命がけで愛して養う生き方を貫かれました。
今日からアドベントに入ります。イエスさまの誕生の物語を分かち合う中で、私たちを養ってくださる主イエスに出会うことを待ち望んで過ごしましょう。
イエスに従うこと
ルカによる福音書9:57-62
2011年11月20日
イエスさまはご自分に従う覚悟を決めた人には、弟子の生き方は生半可ではないと言わんばかりに「人の子は枕するところもない」と言われました。他の人びとには人生の優先順位は伝道だと言わんばかりに「葬儀より神の国を言い広めなさい」、あるいは「鋤を手にかけて後ろを顧みる人は神の国にふさわしくない」と言われました。本人たちを含め周りの人々はこの言葉に非常に戸惑ったと思います。おそらく今日の私たちも同じ戸惑いを感じているのでしょう。
最終的に彼らがイエスさまに従っていたかどうかは記されておりません。しかし、少なくてもこの箇所を読んでいた初代教会はこの人たちの姿に師の十字架上での死を前にして逃げてしまった自分たちの失敗と挫折を重ねて読んだのではないでしょうか。そして主イエスがそれをも背負って死んでくださったことに目を向けていたのでしょう。そして復活の主イエスが自分たちを叱責する代わりに、もう一度「わたしに従いなさい」と招いてくださり、この世に遣わしてくださったことの恵みを深く感じていたのだと思います。
私たちは自分の力で主に従うことはできません。ただ従い切れない私を主イエスがありのまま受け入れてくださり、支えてくださったのです。そしてなお「わたしに従いなさい」と招いてくださっています。このイエスさまに信頼を置いて信仰の歩みを続けていきましょう。
神の国を受け入れる者
マルコによる福音書10:13-16
2011年11月13日
今日の聖書の箇所にはイエスさまの子どもへの愛情があふれています。一方弟子たちには、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と厳しく警告します。「神の国を受け入れる」とは、子どものように社会の中で軽んじられている存在を受け入れること、自分を低くし全ての人に仕えるイエスさまの生き方に倣うことであることを、マルコ9章33節以下から知ることができます。
子どもを受け入れるとは、「子どもを愛する」ことであり、教会にできる「子どもを愛する」とは、子どもたちが自分の中にキリストの土台を作り上げる手助けをすることではないでしょうか。それは、子どもたちに福音を語り伝えていくことであり、子どもたちの「ファン」「ヒーロー」「フレンド」として子どもと関わっていくことだと思います。実際私たちの教会が子どもたちを愛してきた実りを、今私たちは喜ぶことができています。
教会は子どもたちを愛すると同時に、愛する対象を広げる必要も示されています。人を愛することは、その人と関わっていくことであり、様々な面倒もあります。しかし、その面倒を背負って共に生きることこそ、その人を受け入れること、人を愛することだと思います。
神さまの与えてくださる出会いの一つひとつを大切にする教会でありたいです。〔副牧師 細井留美〕
与える幸い
使徒言行録20:32-35
2011年10月30日
今日の聖書箇所はエフェソ教会の人々へのパウロの遺言説教です。パウロは様々な試練へ経て一緒に福音宣教に励んできたことを思い出しながら、福音のためなら「命すら決して惜しいとは思いません」という決意と覚悟で語っています。
パウロは説教の最後に「神とその恵みの言葉」に教会を委ねています。御言葉にこそ、人を成長させ、信仰を継がせる力があることを改めて教えられます。そして「弱い者を助ける」ことの実践を勧めています。
パウロは自らテント造りの職人として働きながら伝道をし、貧しい人びとを助けてきました。同様にエフェソ教会の人々がぜひ「与える喜び」を知ることが出来るようにと願っていたのでしょう。
先日郡山コスモス通り教会に行って、全国の女性会からの服とお米を原発被害者の仮設住宅に届ける支援活動を手伝ってきました。大変でしたが、本当に大きな恵みを受けました。郡山コスモス通り教会は東日本大震災の直後から被災地の教会として、全国からの支援活動の最前線に立たされています。まさに支援活動に巻き込まれたと言えるでしょう。
そうするしかない状況の中で郡山教会は祈りながら支援活動に取り組んでいます。大変ですが、地域に共に生きる教会としての実感をもって、与えることを実践し、そこから神さまの恵みをたくさんいただいていたのです。主と共に与える幸いに与っていきましょう。
主の家で主と共に
詩編23:1-6
2011年10月23日
主なる神はわたしたちの羊飼いです。神さまはまどろむことなく、眠ることもなく、私たちを見守るお方です(詩編121:3)。わたしたちの人生はこの方の御手の内にあります。
たとえ死の陰の谷を歩むとも、恐れることはありません。主なる神がいつもわたしたちと共におられ、御名にふさわしくわたしたちを導いてくださるからです。
「イエス・キリスト」は神さまから遣わされた者として、生涯弱くされ小さくされた者と共に歩まれました。イエス・キリストはご自分のことを「良い羊飼い」と言われ、私たちが主なる神の御手にあることを目に見える形で示されました。そして苦しみを受けて十字架上で死に、復活させられました。
わたしたちはこのイエス・キリストに目を向ける時にはじめて、詩人の歌う「主は羊飼い」という言葉に共感を覚え、「主の家で主と共に」生きることに希望を置いて生きることが出来るのです。
天に召された兄弟姉妹の生き方を思い起こす召天者記念礼拝です。彼らの信仰を通して彼らと伴った主の恵みといつくしみが、今を生きるわたしたち一人ひとりにも豊かに注がれていることに気づかされます。
慰めをくださる神
コリント信徒への手紙二1:3-5
2011年10月16日
日本では、いろいろな神々が登場し、人間が神とされることすらあります。しかし、私たちキリスト者は、イエス・キリストにおいて啓示された神を真の神と信じ、この神に従って生きています。
神さまは、悲しんでいる者、苦しんでいる者、貧しい者、弱い立場の者、差別され疎外されている者など、弱く小さな者と共に歩まれたイエスのその生き様を通して、また十字架の出来事を通してご自身をあらわしてくださいました。
パウロは、私たちの神を「主イエス・キリストの父」、「慈愛に満ちた父」、「慰めを豊かにくださる神」であると語ります。この「慰め」は、一般的に言われる、悲しむ者の心を力づけるということだけではなく、神からの一方的な恵みによって慰めを受けた者が相互に慰め合い励まし合うことができるものとしてくださるというのです。
パウロ自身、あらゆる患難に際して、キリストにある希望を信じる信仰と、教会の交わりにおける相互の慰め、励ましの関係に支えられて生き抜いていくことができたのです。
「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」(5節)
わたしたち人間のうちには、人を慰めうるものは持ち得ていません。が、神は、キリストの福音にあずかる者を、互いに慰め合い、隣人と福音を分かち合うものとしてくださるのです。主をほめたたえます。
主の解放
ルカによる福音書4:16-19
2011年10月2日
イエスさまは安息日に会堂に入ってイザヤ書を読み上げられました。バビロン捕囚の人びとに告げられた「主の解放」の宣言の箇所です。これによってイエスさまはご自分がメシア(救い主)であり、貧しい者に福音を告げ知らせる使命を示されました。
「貧しい人」とは、経済的な困窮にある者というより、平行する「捕らわれている人」や、「目の見えない人」、「圧迫されている人」を包括する言葉で、当時の社会の中で周縁に追いやられた弱者のことです。彼らは社会から「罪人」と決めつけられましたが、イエスさまは彼らを「解放」され、「自由」にしてくださったのです。
「解放」と「自由」、両方のギリシア語は「赦し(アペセイ)」という言葉が用いられていることから、イエスさまの伝える福音とは「罪の赦しによる救い」であることが分かります。これは、神さまが荒れ野の民に言われた「ヨベルの年(=恵みの年)」*の事柄が、イエス・キリストの生において実現されたことを意味しています。
私たちは「主の解放」を実現して下さったイエスさまに支えられて日々生かされています。教会もまた孤立・無縁社会という今日の中で、「あなたは一人ではありません。主イエス・キリストが共にいます」というメッセージを伝え続けていきたいと思います。
*ヨベルの年:主が荒野の民に約束された安息年の規定(レビ25:1-12)
求め、探せ、門をたたけ
マタイによる福音書7:7-12
2011年9月18日
「求めなさい、そうすれば与えられる」これは赤ちゃんが乳を求めるような祈りの切実さの強調でしょうか。それとも諦めない祈りの継続の強調でしょうか。どっちも祈る人の熱心さに注目しています。
震災後誰もが言う「頑張ろう日本」というスローガンは「やればできる」という考え方に通じます。しかし、どうしても頑張ることができない人がいることも事実です。たとえば、車椅子の方はいくら頑張っても自ら階段は登れません。「やればできる」と語る人は周りの協力を呼びかけて階段を壊し、バリアフリーの道を作る覚悟が必要です。
同様に祈る人の熱心さには限界があります。この山上の説教を聞いていた聴衆の中には、孤児や、寡婦、娼婦、徴税人のように虐げられて祈ることすら出来ない人がほとんどだったのではないかと思います。イエスさまの「求める者は与えられる」という言葉は、熱心に祈り続けることももちろんですが、その祈りを聞き入れ下さる神さまが親心を持って人の祈りに必ず答えて下さる方であることを強調しているのです。
教会の様々な働きは、限界のある不完全な求めですが、神さまは私たちの祈り求めを聞いてくださり、イエスさまを遣わして十字架を負わせ、抑圧された人々を解放し、自由を得させたのです。私たちの求めは神さまの方法ですでに与えられているかも知れません。
気落ちした者を励ます神
コリント信徒への手紙二7:5-7
2011年9月11日
使徒パウロでさえ、「全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました」と愚痴をこぼしたことがありました。精一杯やっているつもりなのに何もかもうまくいかない時は、誰でも気落ちするでしょう。
当時、キリスト教はローマ帝国とユダヤ教徒からの迫害に加えて、異邦人出身のキリスト者たちとユダヤ人出身のキリスト者たちとの間の律法遵守を巡る葛藤でギクシャクしていて、パウロは両者の和解に懸命でした。そして何かのことでコリント教会宛にきびしい戒めの手紙を出したようですが、人々がそれをどのように受け止めたのかを心配していました。その返事を携えてくるはずのテトスがなかなか来ないために、パウロはかなり気落ちしていたようです。
しかし、テトスが到着して、コリント教会の人々がパウロのことを慕い、パウロのために嘆き悲しみ、一生懸命に祈っていることを知りました。パウロはこの出来事を通して、神さまがテトスを到着させ、気落ちしている自分を慰めたのだと受け止めています。「慰め」のギリシア語「パラクレオ」とは、「傍らで呼ぶ」という意味です。神さまはテトスを用いてパウロと一緒にいることを示してくださったのではないでしょうか。
私たちが気落ちして「もうダメだ」と叫びたくなる時に、神さまが人や出来事を用いられて傍らで私たちを呼んでおられることは大きな慰めになります。気づくと神さまは隣におられるのです。
ペトロの信仰告白
マルコによる福音書8:27-30
2011年9月4日
イエスさまは弟子たちと一緒に出かけた道すがら、人々がご自分のことを何者だと言っているのかを弟子たちに聞かれます。弟子たちは洗礼者ヨハネ、エリヤ、そして預言者の一人だと自分たちが聞いたことを言います。伝道と聞けば、まず「語る」イメージですが、むしろ「聞く」ことが大切です。教会の福音伝道においてまず聞く姿勢が必要です。
心を開いて「聞く」ことから私たちは様々な課題に出会うのでしょう。そしてその課題を主に祈ります。その時私たちはイエスさまがペトロに言われた、イエスさまを何者だと言うのかという問いに立つのです。主イエスこそ私たちを救ってくださる「メシア」であること、すなわち救い主であることが告白できることを切に祈ります。
ペトロの告白はすばらしいですが、忘れてはならないのは人間の告白は常に限界を持った告白であるということです。ペトロの主告白はイエスさまの十字架の苦難と死を含まない不完全な告白です。しかし、主イエスはその告白を大切にしながら、ペトロが十字架の死と復活による救いを信じるようになるまで働いてくださいました。
一人ひとりの主告白に限界があることを知りつつ、主によって完全な告白へと変えられていくことを信じて歩みましょう。
主による豊かさ
コリントの信徒への手紙二8:9
2011年8月28日
異邦人伝道に励んでいたパウロは異邦人キリスト者の諸教会から募金をつのり、エルサレム教会の貧しい者たちを助けることによって、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者との和解を試みたと思われます。
パウロはマケドニア州の諸教会の積極的な募金を紹介しながら、コリント教会でもすでに始まっていた募金をやりとげるようにと勧めています。イエス・キリストの恵みを受けて、民族の枠を超えて貧しい兄弟姉妹を助ける生き方が促されていたのです。
主イエスは神の子としてのすべての栄光を捨てて、人となられ、へりくだって十字架の死に至るまで従順でありました。このように主が貧しくなられたことによって、弱くされ、虐げられた人は励まされるのです。絶望の中に苦しむ人は、主が負われた十字架にこそ主イエスが共におられる希望にあずかれるのです。これこそ主イエスが貧しくなられたことによって与えられる真の豊かさではないでしょうか。
初代教会は、この主イエスの恵み(カリス)を抽象的に捉えるのではなく、貧しい兄弟姉妹を助ける慈善の業(カリス)という形で実践していたのでしょう。私たち教会も主イエスの恵みを知りつつ、具体的に恵みを形作っていくことに励んでいきたいと願っています。
平和の主と共に
ヨハネによる福音書20:19-23
2011年8月14日
弟子たちの心はイエスさまが死んだ直後、不安と恐怖で混沌としていました。復活のイエスさまは彼らの真ん中に来られ、「あなたがたに平和があるように」と宣言されます。かつて激しい突風を叱って静めたように、イエスさまは弟子たちの混沌に解放を宣言されたのです。
イエスさまはこの平和を十字架上でご自分をいけにえとして献げられて成し遂げ、「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える・・・心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)という言葉を実現されたのです。
イエスさまは「平和」の宣言に続いて父がそうであったように「わたしもあなたがたを遣わす」と弟子たちを「派遣」されます。ご自分の「平和」を弟子たちの生き方に託され、ゆだねられたのです。そしてイエスさまは派遣されていく弟子たちに息を吹きかけて聖霊を与えられました。天地創造の時、人が神の霊を受けて生き物となったように、弟子たちは主イエスの息を受けて平和をつくり出すものへと変えられていくのです。
戦後66年が経ちました。戦争を起こしたのは、私たちと同じ普通の人たちです。私たちもまたいつでも戦争を起こす可能性が十分にある罪深い人間です。ご自分の死を持って「平和」をもたらしてくださった主イエスと共に、歩みつづけましょう。
信仰の母ハンナ
サムエル記上1:1-28
2011年8月7日
子がない故の負い目を負ったハンナは、もう一人の妻から屈辱を受け、激しく泣きながら主に祈ります。祈った後のハンナは、祈る前のハンナとは全く別人のようでした。苦しみ、悲しみ、疑いの全てをぶつけて神に祈ることによって、「望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認する(ヘブライ人への手紙11章1節)」者へと変えられたかのようです。祈りが、神への信頼、希望を生む力であることを教えられます。
幼いサムエルをハンナは、誓いどおり主に捧げます。やっと授かったわが子を主にゆだねることは、簡単なことではなかったはずです。大きな痛みがそこにはありました。しかし、ハンナはサムエルを主に捧げ、主を礼拝して祈ります。その祈りは、悲しむ者に喜びを与え、高ぶるものを低くし、弱き者、貧しきものを高くあげられる神の支配への信頼を歌い上げたものです。長い苦しみから救われたハンナは、神の恵みの支配が、この世に広くいきわたることを願い、また確信し、わが子サムエルを主にゆだねることができたのではないでしょうか。
主に信頼してゆだねることは、元来痛みを伴うものでしょう。しかし、主の恵み、主の裁きに希望を置き、神の国を熱望する私たちは、「望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認」しつつ、主に信頼して歩みを起こすことができればと思います。
神はわが力
フィリピの信徒への手紙4:10-14
2011年7月31日
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です」(13節)
これは戦いなどで勝利をおさめて帰還した者の自信たっぷりの言葉ではありません。自分の弱さを痛いほど知らされた一人の伝道者の告白です。パウロは今監獄に収容されていながらも、キリストを通して示された神の愛によって自分が支えられているのだと確信しています。
パウロは元来自分の力で強くなろうと頑張って来た人でしたが、タマスコの途上で十字架につけられたイエス・キリストに出会ってはじめて、自分の力で生きようとする自分の罪に気づかされ、主イエスがその罪を担って十字架につけられたことを信じるようになったのです。
パウロの伝道の日々はいついかなる場合にあってもこのキリストの愛に支えられたのです。貧しい時も、富んでいる時も、満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、主イエスが共におられることこそがパウロの福音宣教の原動力であったと思います。他の教会に当てた手紙の中で「神の恵みによって今のわたしがあるのです」と言っているとおりです。
パウロはフィリピ教会の人々の祈りと支えを感謝すると同時に、その交わりが主に用いられて福音宣教が進められていくことを伝えようとしていたのではないでしょうか。私たちは教会という交わりの中で、「神はわが力」と告白して歩んでいけるのではないでしょうか。
共にいる主
マタイによる福音書18:18-20
2011年7月24日
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20)
この言葉は「罪を犯した兄弟」に対する教会の対応の締めくくりに書かれています。「裁くな」と言われたイエスさまの教えに従おうとした教会は、実践する際に、二人だけで忠告し、2~3人での話し合い、教会の検討、最終的に除名するなどのマニュアルを作ったのだと思われます。
このように教会は人を裁いてしまう、限界をもつ不完全な群れです。しかし、主はその教会に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18)と言われました。イエスさまは不完全な教会に、神さまのみの権限とされていた「赦し」をゆだねられたのではないでしょうか。それほどイエスさまは人を、そして教会を信頼されたのでしょう。
人間が主語となる「赦し」とは、完了形ではなくいつも進行形です。もうゆるしたから大丈夫ではなく、後悔や憎しみ、時にはゆるせていない自分に気づきながらも「ゆるす勇気を与えてください」という祈りが伴うからです。
イエスさまは教会の限界をご存知でありながら、二人または三人がイエスさまの名によって集まって兄弟を赦すために祈っていく時に、ご自分はすでにその中におられると私たちを励ましてくださっています。
主にゆだねられた赦しの業を一緒に祈り求めて歩んでいきましょう。そこにこそ主が共におられ、働かれます。
時を支えてくださる主
イザヤ書33:5-6
2011年7月10日
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、 富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くしてあなたの伴侶を愛すことを誓いますか?」 教会の結婚式の時に、牧師が新郎新婦に尋ねる言葉であります。おそらく、この言葉の中で重要だと思われますのは、健やかなる時も、病める時も、というように、健康で順調な時も、病気で伏せっている時も、というように相反する言葉が登場していて、そのような相反するような時にも、そのような折にも、あなたは伴侶を愛し、敬い、慰め、助け、心を尽くしていくことをしますかということです。
さらに言えば、我々は、イエスさまを信じる信仰に入る時に、これくらいのことをハイ、そうしますと言うくらいの気持ちが必要なのではないかと思います。すなわち、病める時も、貧しい時も、悲しみの時も、災いの時も、主なる神を愛しますという思いでバプテスマを受けていく必要があるように思います。
私たちの聖書がしばしば問題にします、時という概念それは、カイロスという言葉で表わされています。イエスさまも、(神の)時は満ちた、神の国は近付いた。悔い改めて神の国の福音を信じなさいとおっしゃいました。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、幸いなる時も、わざわいが襲う時も、我々は、神さまがこれらの時を支えてくださるという信仰に立ちたいと思います。そして、いつか、必ず、神さまが約束の地へと迎え入れてくださる。やがて、必ず、我々は、どこかの港に着くことが出来る。そういう信頼の中に、一日一日を歩んでいくものでありたいと思います。
散らされた伝道者
使徒言行録8:1b-8
2011年6月26日
エルサレム教会に対するユダヤ教からの圧力が増してくるにつれて、使徒たちのグループ(ヘブライスト、パレスチナ出身、ユダヤ教の伝統を重視)は、ステファノのグループ(ヘレニスト、ディアスポラ出身、ユダヤ教の伝統から自由)を抱えきれず、ステファノとそのグループを切り捨てて、自分たちの身を守りました。
ですから「使徒たちのほか皆、・・・散って行った」(1節)という言葉の裏には、同じ教会の仲間から切り捨てられたヘレニストたちの痛みが背後にあるわけです。最初の教会の歩みは順風満帆ではありませんでした。教会は生身の人間の集まりゆえの葛藤や、摩擦など様々な課題を抱えていたのです。しかし、聖霊の働きはこれらを遥かに超えて自由に福音宣教のわざを広げていったのです。両者が負っていたであろう「心の傷」は聖霊の働きによって福音宣教の「推進力」に変えられたと思うのです。
ペンテコステの出来事を通して聖霊に導かれたエルサレムの教会がそうであったように、今日の教会の歩みもまた人間の弱さゆえに起きる様々な課題を抱えていますが、私たちは聖霊によって福音宣教へと送り出されているのだと改めて感じさせられます。
わたしたち一人ひとりが人生の歩みの中で経験した「傷」は、聖霊によって解放され、そして自由にされて、傷ついた人をいやす「力」へと変えられていくことを心から願っています。
わが内に宿る聖霊
テモテへの手紙二1:13-14
2011年6月12日
「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」(1:14)。これは使徒パウロが息子のように愛しているテモテに書き送った言葉です。「ゆだねられている良いもの」とは、神さまの救いの恵みを意味しているのでしょう。パウロはテモテがこの恵みに答えて生きることを切に願っていたのです。
そのような生き方は、自分の力に頼るのではなく、「わが内に宿る聖霊によって」歩むことです。神さまがイスラエルの民をエジプトの国から導き出したのは「彼らのただ中に宿るため」とあるように、聖霊が私たちの内に住まわれるのは、神さまが共におられることの証ではないかと思うのです。
小羊の血による出エジプトの救いを覚える過越祭、そして十戒授与を感謝する五旬祭はキリスト教においても重要です。なぜなら、イエス・キリストの死と復活によって神さまの救いはユダヤ人の枠を超えたからです。また聖霊が降った事によって主は福音を伝える人々を呼び出され、彼らと共におられることが示されたからです。
「わが内に住まわれる聖霊」という言葉は、神が既にわたしたちを捕らえて下さったしるしでもあり、ペンテコステは「神の臨在」によって、不安と恐れの中の教会を元気付け、力づけてくださった出来事なのです。ここから教会が歩み出していますから、わたしたちもわたしたちのただ中にいたもう方から力と勇気をいただいて歩んでいきたいと思います。
働きかけて実現させる神
フィリピの信徒への手紙2:12-17
2011年5月29日
パウロはフィリピの教会の人々に宛てた手紙の中で「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。これは神さまが主イエスの十字架の死と復活を通して成し遂げてくださった「救い」の恵みに答えて生きるようにという勧告です。
恵みに答えて生きることは,「従順」という言葉に尽きます。この「従順」とは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」(8)キリストの生き方を指しています。
「救いを達成する」、あるいは「福音にふさわしく生活する」というパウロの言い方は、わたしたちの「内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられる」(13)神さまに目を向けているからこそ、その神さまの働きに信頼をおいているからこそ、可能なのです。
神さまは十字架の上で苦しみ、捨てられたイエス・キリストをよみがえらせて、すべての者に「イエスは主である」と告白させるお方です。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」 (1:6) のです。神さまは「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)お方なのです。
1年間私たちのうちに働きかけてくださり、御心のままに実現させてくださった神さまの働きを心から感謝します。与えられた恵みを数えつつ、課題のために祈っていきましょう。
主と顔と顔を合わせて
申命記5:1-6
2011年5月22日
モーセはイスラエルの民を呼び集めて、ホレブの山で神さまから十戒を授けられたことを思い起こさせて言います。「主は山で・・・あなたがたと顔と顔を合わせて語られた」と。神さまの側から民に近づいて来られ、顔を合わせてくださり、語ってくださったのです。
十戒は救われた者の応答としての生き方です。救われるための条件ではありません。だからこそ、十戒は神さまの祝福であり、恵みなのです。出エジプトの出来事が神さまの憐れみと愛による一方的な恵みだとすれば、十戒の授与は神さまの救い業に人間をぐんと引きつけ、そこに参与させるという意味での招きです。
実際、主の民が十戒をいかに守ったのかに注目すればするほど、浮き彫りにされるのは、40年間十戒をことごとく破り続けてきた主の民の罪です。しかし、十戒の出来事の想起はあくまでも神さまの憐れみと愛による救いの恵みに目を向かわせ、その恵みが「今ここに生きている」(荒れ野での生活を終え、カナンの地での生活を目前にしている)自分たちに依然として有効であることへの再確認なのです。
来週は2010年度報告総会が行なわれます。一年間の歩みをふり返りながら、東京北教会を建ててくださった神さまの恵みを思い出しましょう。また一貫して教会の歩みを導かれてきた神さまが私たちと顔と顔を合わせて語られることを聞き、恵みへの感謝と課題を分かち合って今後の歩みに活かしましょう。
タリタ、クム(起きなさい)
マルコによる福音書5:35-43
2011年5月15日
ヤイロは死と生の境にいる娘の癒しをイエスさまに求め、イエスさまと一緒に自宅へと向かいます。時を争う途上で、重い病気の女性がイエスさまの後ろから服に触れて癒されました。イエスさまと彼女との対話の途中、ヤイロは愛する娘が死んだとの知らせを受けます。娘が癒されるという希望はもうなくなりました。「死んだのか。もう終わったのか」という諦めと同時に、目の前でイエスさまに癒され、元気になった彼女を妬んだかも知れません。
イエスさまはヤイロに「恐れることはない、ただ信じなさい」と、死に支配されている人間の限界の中で信仰を命じられています。これは「ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」女性がイエスさまの後ろから服に触れる時の信仰に重なります。
ヤイロを支えてくださったイエスさまは前を進んでヤイロの家に行かれ、ヤイロの娘の手を取って「タリタ、クム」(起きなさい)と言われました。これこそ人間の限界に縛られていない力強い主イエスの解放の宣言であり、復活の宣言なのです。
3月11日起きた東日本大震災から2ヶ月が経ちました。大勢の命が一瞬で亡くなった出来事を前に、教会は語ってきた「福音」「命」「信仰」を改めて問われています。このような時だからこそ、私たちの手を取って「タリタ、クム」(起きなさい)と言われる主イエスに信頼して歩んでまいりましょう。
主の約束に信頼して
ヨハネによる福音書15:16-17
2011年5月8日
主イエスは、十字架を前に最後の晩餐において弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い仕え合う共同体を形成するようにとお命じになりました。ともすれば神よりも上になろうとする人間の傲慢や、人間の弱さ愚かさをご存知の主が、わたしたちに罪赦された者として互いに仕え合うことの模範を示されたのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」
イエス・キリストへの信仰は、自分の判断、自分の選びではあっても、実は神の導きであり、神の愛のわざなのであることをみ言葉は伝えます。信仰者として生きることは、神に知られていることを知り、その選びに服従していくことなのであると。
ヨハネ15章には「実を結ぶ」という言葉が繰り返し出てきます。弟子たちを選び立てたのは神であり、それゆえ神が実を結ばせてくださるのだとの約束が語られますが、イエスにつながり実を結ぶというのは具体的にどういうことなのでしょうか。
今日、わたしたちの社会は多くの問題を抱えています。そして、このたびの東日本大震災、原発の問題です。痛みがあり、苦しみがあり、悩みや不安があり、絶望的な状況がある中、キリストの十字架の死と復活の希望を信じる群れである教会は、キリストの福音の何を伝え、どのような教会をつくっていくのでしょうか。
わたしたちの弱さを共に担ってくださる主を信じ、キリストの希望を仰ぎつつ、すでに働いておられるキリストのわざに参与してまいりましょう。
主の食卓で語り合う
ルカによる福音書24:28-35
2011年5月1日
エルサレムを離れてエマオに向かって歩いている二人の弟子。望みをかけていた師は十字架上で殺され葬られたのに、墓に行ってきた仲間の婦人たちから「主が復活された」と告げられ混乱しています。この二人にイエスさまが近づいてきて、話をかけてくださいました。
しかし、二人の目は「遮られて」いて、イエスさまだと分かりません。二人は夕方イエスさまがパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて渡してくださった時、「二人の目が開き」イエスさまだと分かったのです。そしてとたんにイエスさまの姿は見えなくなりました。
イエスさまはご自分を信じる者に永遠の命を与えられる導き手ですが、私たちの目は遮られていてそれが分っていません。これが私たちの弱さであり、罪なのです。しかし、神さまは私たちの罪をイエスさまに背負わせました。それはイエスを信じる者は誰でもその名によって罪の赦しを与えられるためなのです。
イエスさまは強引に復活を押し付ける方ではなく、わたしたちが気づくまでとことん付き合ってくださるお方です。忍耐をもって待ってくださるお方なのです。復活を信じることは、復活された主イエスが今私たちと共におられることにふっと気づくことではないでしょうか。
墓に差し込んだ光
ルカによる福音書24:1-12
2011年4月24日
イエスさまの死と葬りを最後まで見届けていた女性たちは3日後、空きの墓で輝く衣を着た二人の男から「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」と言われました。
彼女たちにとってイエスさまの死は「太陽は光を失った」(45)とあるような「闇」そのものであり、絶望そのものであったのでしょう。彼女らが墓に行ったのは、ただ師の死を悼むためでした。そこには希望を失い、悲しんでいる人間がいるだけです。
しかし、墓の中で告げられたのは「主イエスの復活」でした。二人の男は生前のイエスさまが山の上で姿が変わったときに一緒に話し合っていた二人と重なり、復活の知らせは「これはわたしの愛する子、これに聞け」という天からの声と重なります。
復活の知らせは女性たちの目を遺体からイエスさまの言葉へと移しました。死を越えた新しい地平が開かれた瞬間です。女性たちは墓に差し込んだ光に照らされてイエスさまの言葉を思い出し、残っている他の人々にイエスさまの復活を伝えました。
復活を通してイエスさまが語られた言葉に心の耳を傾けていく一年となりますように切に祈ります。
イエスさまの祈り
ルカによる福音書22:39-46
2011年4月17日
今日の箇所はユダヤ人に捕えられて殺される直前に行なったイエスさまの祈りです。イエスさまは死にものぐるいで汗を血の滴るように流しながら「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈りました。苦悩しつつも神さまへの信頼に満ちた祈りです。
このイエスさまの祈りを囲む形で、弟子たちには2度「誘惑に陥らないように」という祈りが求められています。誘惑とは、イエスの受難と死は絶望そのものだと判断してしまう考え方です。実際弟子たちをはじめ、ほとんどの人々は無力なイエスの死に方に絶望したのです。しかし、神さまの「御心」とは、そのイエスの無力さにこそ、救いが与えられる、というものです。
当時の人々をはじめ、今日に至るまで私たちは現に起きる様々な理不尽な出来事を前にしてこのような誘惑に陥ってしまいがちです。しかし、その只中で私たちは「御心」を求め神さまを信頼して十字架への道を歩まれた主イエスに支えられていることを覚えたいものです。イエスさまの祈りと従順に希望があるのです。
私たちは主イエスが教えて下さったように「御国が来ますように・・・私たちを誘惑に遭わせないでください」と一緒に祈りながら、信仰の歩みを続けていきたいと思います。
わたしはある
ヨハネによる福音書13:12-20
2011年4月10日
今日の話は他の福音書では最後の晩餐に当たる箇所です。イエスさまは弟子たちと過越祭の食事の中で彼らの足を洗いました。これはユダの「裏切り」とそれによって引き起こされる「受難」を前にして、イエスさまが示してくださった「愛と赦し」の行為でした。
イエスさまが弟子たちの足を洗ったのは、弟子たちが互いに愛し合い、赦し合うための「模範」を示すためだけではなく、「裏切り」や「受難」という混乱の中であってもイエスさまは彼らと共におられることを弟子たちが信じるようになるためだったのです。
イエスさまは「わたしはある」(エゴー・エイミ=I am)と言われました。これは旧約聖書で言えば「神による自己表現」です。インマヌエルの神がイエス・キリストという人格の中で、「足を洗う」という具体性をもって弟子たちの中で実感されたのです。後日弟子たちはこの場面を思い起こし、初代教会の様々な出来事の中で自分たちがイエスさまとしっかりつながっていることを信じることが出来たのではないでしょうか。
教会はこのように主イエスの愛と赦しに支えられています。様々な困難な状況の中で主イエスは今も「わたしはある」と言われ、私たちの信仰を強め、歩み続ける力を与えてくださっています。
主に信頼して歩みを起こす
ヘブライ人への手紙11:1-3
2011年4月3日
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11:1)は2011年度の主題成句です。
著者は主イエスの再臨への期待が薄れてきて「気力を失い疲れ果て」そうになっている教会の現実を直視しながらも、キリストが人の弱さと苦しみを経験し、ご自分を献げて「永遠の贖いを成し遂げられた」(9:12)ことに目を向けています。著者は教会の歩みは救いが既に実現したが、今だ完成していない、という緊張の上に立っていることを自覚しています。
私たちは赤羽の地で伝道開始25期、そして東日本大震災という現実をしっかり見つつ、主イエスの再臨によって完成される新しい世界(天国)への「望み」を見出して歩んでいきたいものです。
今年度は特に村上千代協力牧師を迎えらることが出来ました。強力な伴走者と共に共感(compassion)する力を養い、主がなさろうとしている業に目を向けていきましょう。主イエスは私たちに今まさに「一緒に行こう」と語りかけてくださっています。
赤羽の地において、「礼拝と伝道」という課題をミッションステートメントにどのように表して実践できるのか。教会学校での「交わりと祈り」を通して「礼拝」と「伝道」の間を結び付けられるのか。そしてお互いの違いを認め合いながらどのように「主にある一致」をなしていけるのか。主に信頼して歩みを起こしましょう。
イエスさまと井戸端会議
ヨハネによる福音書4:16-26
2011年3月27日
人目を避けて日差しが一番強い正午をわざわざ選んで井戸に水汲みに来た女性がいました。人目を避けたのは、人からの差別に傷つかないためでしょう。イエスさまはユダヤ人が通らない道をわざわざ選んで彼女を待っていたように思われます。それは人との関係に傷ついてきた彼女を受容し、新たな出発を与えるためでした。
二人の会話はイエスさまの水を求める言葉から始まりますが、立場が変わり彼女がイエスさまに渇かない水を求めます。次第に深められていく会話を通して、イエスさまは男性の経済力に頼らずには生きていけない当時の社会のひずみから様々な傷を背負われた彼女に対して深い「共感」(Compassion)の眼差しを向けられました。
炎天下でのイエスさまとの井戸端会議は、深い傷を持ったまま日常に忙殺されていた彼女を解放したのでしょう。人を避けていたはずの彼女がその後、村の人々に自分の身に起きた出来事を伝えるために出かける場面で彼女の姿はいかにも生き生きと見えるからです。
イエスさまは当時の礼拝の場所に対する是非論争を超えて「霊と真理を持って礼拝する時」へと人々を招かれています。このイエスさまの招きは主イエスが私たちの苦しみ、痛み、傷に共感される方であることを示します。そして大変な課題に直面して苦闘している今の時代に人々の心に届けたいメッセージではないでしょうか。
主に従って旅立つ
創世記12:1-9
2011年3月20日
アブラハムは神さまから召命を受ける前に父のテラに連れられて生まれ故郷を旅立ちました。その生涯には寄留者としての苦しみが切々と流れており、イスラエルの人々はバビロン捕囚から2000余年に及ぶ自らの苦しみをアブラハムの物語に重ね合わせて語り継いできたのです。
アブラハムが寄留者の厳しい生活を送る中で、父親を亡くし途方に暮れていた時、神さまはアブラハムに祝福の源となるという約束を与えられます。神の祝福の希望に生きるように招かれたのです。
東北・関東大震災の被害規模が明らかになっていく中、たくさんの悲しみや苦しみが津波のように日本全国を飲み込もうとしています。特に被災された方々はライフラインが絶たれ、物資不足や未来への不安、原発事故などで途方に暮れています。しかし、アブラハムを捉えて生きる力と勇気を与えられた神さまが、今被災のために苦しんでいる人々を捉えてくださり、神さまの祝福を携えて「命あることを喜ぶ」生き方へ招かれているのです。
神さまの約束は十字架の苦難を受けられたイエス・キリストが今まさに被災者された方々の痛みや苦しみを理解してくださり、一人ひとりに寄り添って心と体の傷を癒してくださることに示されているのではないでしょうか。教会もそのキリストに目を向けて歩みたいと切に願ってやみません。
救いの希望に生きる
テサロニケの信徒への手紙一5:1-11
2011年3月13日
日本の地震観測史上最大規模の東北・関東大震災が起きました。10メトール以上の津波は地上のすべてを飲み込みました。私たちはこの大惨状に揺さぶられています。
今私たちは被災者の苦しみに寄り添って礼拝を献げています。神さまのみ言葉に耳を傾け、み言葉からの慰めの言葉を聞こうとしています。
今日の箇所には、主イエス・キリストが再び来られる日が泥棒や、産みの苦しみが突然やってくるように、突発的に起きるのだと記されています。当時様々な迫害を受けていたテサロニケの教会は、このような不安と恐れ、絶望という「暗闇」の中にもがいていたのです。
しかし、著者のパウロは「暗闇」の只中にいる人々に対して「救いの希望」を語っています。パウロは救いの根拠が人を「怒りに定められたのではなく・・・主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められた」神さまの憐れみにあると信じていました(9)。イエス・キリストがわたしたちのために死なれたのは、わたしたちが生きていても死んでいても「主と共に生きるようになるため」なのです(10)。
今被災者をはじめ、多くの人々が不安と恐怖の暗闇の中で脅えています。私たちは十字架上で死なれた主イエスが今私たちの只中で苦しんでいる人々と共におられることを信じます。祈りながら主イエスによる「救いの希望」に生きることを示していきましょう。
神のみ言葉、日々の糧なり
マタイによる福音書4:1-11
2011年3月6日
イエスさまは公の働きを前に荒れ野で誘惑を受けられました。この誘惑はイエスさまが本当に神の子ならその証拠を見せろという挑戦です。
サタンは繰り返し「神の子なら」と、「石をパンに変えたらどうだ」とか、「神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」などと、神の子である証拠今すぐを見せろと言わんばかりに言っています。そしてイエスさまの答えを嘲笑うかのように「私を拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑しています。これに対してイエスさまはみ言葉への信頼を貫かれました。
この誘惑(=挑戦)はイエスさまの生涯につきまといます。人々はいつもイエスさまにしるしを求め続け、十字架上のイエスさまに対してさえも「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42-43)と叫んでいるからです。イエスさまは石をパンに変えることも、神殿の屋根から飛び降りることも出来たはずです。あるいは祈って十二軍団以上の天使に助けてもらうことも出来たはずです。しかし、み言葉を信頼して旧約聖書の実現の道を進まれたのです。なぜでしょうか。
それは、現在も様々な出来事の中で主イエスを見出せないでいる私たちに、それでもみ言葉を信頼して歩むことが示されたのではないでしょうか。神さまのみ言葉は私たちの日々の糧となり、私たちの歩みを支えてくださるのです。
水がぶどう酒に変えられて
ヨハネによる福音書2:1-12
2011年2月27日
2000年前のパレスチナでは、結婚式がおおよそ7日間にわたって開かれていたそうですが、中でもぶどう酒は結婚式では欠かせない品でした。ですから結婚式にぶどう酒が尽きたことは、大切なものがない、喜びが消えてしまった危機的な状況を示していると考えられます。
これは、ユダヤ教の律法のもとで喜びが消え、苦しんでいる人々の姿に重なります。しかし、イエスさまはそのような人間の限界の只中に来られ、水をぶどう酒に変えられて、本来あるべき喜びを回復してくださったのです。同様に主イエスは様々な課題を抱えて歩んでいる私たちの日々の生活の中にも喜びを与えてくださるのです。
この場面でいつも不思議に思うのは、召し使いたちの従順さです。文句一つ言わずイエスさまの指示に黙々と従っているからです。私はつい召し使いのようにイエスさまに従わなければと思ってしまいますが、今回改めて気づかされたのは、召し使いたちの従順さは、もしかしたら私たちに喜びを与えられるために神さまに従ったイエスさまの従順な姿、しかも十字架の死に至るまで神さまに従ったイエスさまの姿かも知れないなということです。
私たち一人ひとりはこれほどキリストに支えられているのです。だからこそ、自分の様々な失敗や、挫折、あるいは絶望に目が留まる時でさえ、それらを喜びへと変えてくださるイエスさまに目を向けて歩んでいきたいものです。
この希望こそがキリストの復活の栄光なのです。
霊によってつながれる
ヨハネによる福音書14:15-21
2011年2月20日
2月10日(木)、魯先生と細井先生ご家族四人が引っ越しされた後、東浦和のバプテストハイツ(連盟職員住宅)は火が消えたように静かになってしまいました。さびしいなと思う反面、魯先生と細井先生のお二人の牧師の切なる祈りが主にあってかえりみられたという喜びも静かに迫ってきています。たしかに小さなお子さんを連れて、混み合う電車に乗って教会に通うことは並大抵のことではありません。そして、牧師として立たされた以上、教会が置かれている地域の一員となって、伝道と牧会に励みたいという気持ちが伝わってきましたので、私も応援する気持ちで一杯です。同時にそういう気持ちにも応えていこうとする役員会の気持ちも感じて、私は喜びに溢れました。信仰によって励まし合う世界がここにありました。
ヨハネ福音書でイエスさまは、あなたがたをみなしごにはしない。世はわたしを見ないが、あなたがたはわたしを看る!と言ってくださっています。看るとは、手で触れるようにリアルに見ることができるという意味です。わたしたちは主によって、呼び出された者たちとして、イエスさまのからだを教会というかたちで信仰によって見ているのです。神さまから送られてくる聖霊がそのことを可能にしている。なんて素敵なことかと思います。
苦悩の谷から希望の門へ
ホセア書2:16-25
2011年2月13日
16節に「それゆえ・・・荒れ野に導き、その心に語りかけよ」とありますが、これは神さまがご自分の民を「捕囚」という第二の「荒れ野」に導かれ、語りかけようとする、神さまの働きを強く感じさせられます。
国の滅亡、そして捕囚という荒れ野で神さまは「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」と言われます。アコルは、カナン征服の時代にアカンが取るべきでなかった分捕りを取ったため、家族と共に石で打ち殺された谷です(ヨシュア7:24-26)。神さまの言葉に従わず罪を犯した場所を「希望の門として与える」と回復を宣言されているのです。
これはまさに、主ご自身が罪の裁きが下された地を、回復させる意味を持つのです。これこそが神の力である。神の恵みである。愛する民のすべてを取り除く裁きは神の確固不動の決意である。そして失ったすべてを与える回復を経験させるのである。
この神さまの決意が新しい契約なのです。それは永遠で、忠実な契約です。この契約(結婚)を通してイスラエルの民は「主を知るようになる」のです。これはイエス・キリストの十字架を通して示してくださった愛に通じています。キリストは皆に否定されて殺されましたが、復活されて私たちと共におられるからです。
私たちの歩みは、時には苦悩の谷かも知れませんが、その苦境は「希望の門」に変えられるかも知れません。それぞれの歩みを分かち合い祈り合い「主を知る」歩みを続けましょう。
神の愛、泉のように
ホセア書2:1-3
2011年2月6日
出エジプトしたイスラエルの民は40年の荒れ野の旅を経てカナンの地で定着し、サウロ王とダビデ王の時代を経てソロモン王の時代に北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれ(前931年)ます。やがて北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ(前722年)、南王国はバビロン王国に滅ぼされます(前586年)。
神さまは北王国が滅びに向かっていく極めて混乱した時代にホセアに御言葉を与えられ、列強の軍事力や経済力を頼みとし、それらの国の神々を拝んでいたご自分の民に対して、厳しい裁きの言葉を下されつつも、その裁きを超えて泉のように湧き出る神さまの愛に満ちた救いの希望を語らせます。
このような神さまの愛は、淫行の女をめとって淫行の子らを受け入れたホセアの生き方にそのまま示されています。また、イズレエル(「神が散らかす」という意から捕囚を指す)、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民ではない)と名づけられたホセアの子どもたちの名前が、「神さまが種を蒔く」、「憐れまれる者」、「わが民」と変えられるところにはっきりと示されているのです。
イスラエルの民の栄枯盛衰の歴史は、泉のように湧き出る神の救済史です。その愛が今も私たちの日々の生活に注がれているのです。私たちはこのような神さまの愛を受けた者同士です。お互いに励まし合って主をほめたたえて歩みつづけましょう。
神の子を信じます
ヨハネによる福音書3:16
2011年1月30日
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
これは聖書(旧約39巻、新約27巻)が最も伝えたいメッセージの核心です。多くの信仰の先達がこの箇所に心打たれ、新たな人生を生きました。神の愛はイエス・キリストの誕生や、生涯、そして死と復活に示されていますが、これは弱い者と共に歩まれる神さまの一方的な恵みです。
本田哲郎氏は「信じる者」を「信頼をおいて歩みを起こす者」と訳していますが、信仰の本質を見抜いた訳だと思います。イエス・キリストを信じることは、「同意する、頷く」以上のことです。まさに「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)とあるように、イエス・キリストに信頼をおいて歩みを起こすという行動が伴うものです。
先週韓国から来たJOY宣教団の大学生と伝道や、交流プログラムを持ちました。反日教育を受けた彼らはイエス・キリストに信頼して日本への短期宣教旅行を起こしました。また、私たちは駅前での賛美や、チラシ配り、ホームステイ、礼拝を共にする歩みを起こしました。不安を超えて歩みを起こしてはじめて神さまからの恵みを実感できたと思います。
神さまの愛を全生涯を持って示してくださったイエス・キリストに信頼をおいて歩んでいきましょう。
世に遣わされた教会
マタイによる福音書28:16-20
2011年1月23日
今日の聖書の箇所は復活されたイエスさまが弟子たちに命じられた大宣教命令です。ここに教会の存在目的がはっきりと示されています。
この命令を受けた十一人の弟子たちはこれにふさわしい者だったのでしょうか。答えは「否」です。むしろ、弟子たちはイエスさまに従うことに見事に失敗して、そしてその罪責に苦しんでいた者でした。その弟子たちが「主が指示された山に登って」「イエスに会い、ひれ伏した」とあるように、主の前に出てきて再びイエスさまに出会って主を礼拝した時に、福音宣教は始まったのです。弟子たちと同様に、礼拝しつつも疑う時のあるのが私たちの現実です。しかし、イエスさまはそのような不完全な私たちに近寄って来てくださり、この使命を与えられるのです。
イエスさまはまず、「行く」ようにと命じられます。すべてが整えられてからではありません。様々な課題を抱えていても、完全な信頼を持ち得なくても、教会は主に送り出されて、すべての民を弟子にしなさい、そして彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい、そして命じたことを守るように教えなさい、と命じられているのです。この命令は教会がこの世に立ち続ける限り、行うべき至上命令なのです。この言葉を行なう時に、「いつもあなたがたと共にいる」というイエスさまの言葉が体験できるのではないでしょうか。
ご一緒にこの使命に生きていきましょう。
主こそ、私の救い
詩篇42:1-6
2011年1月16日
詩編42編の著者は何かの事情で今はエルサレムを離れ、もはやかつてのように神を礼拝することが出来ない状況にあるようです。
詩人は涸れた谷で水を求める一匹の鹿のように、神さまの実在を求めています。しかし、神さまはどこにもおられないことで絶望して、苦しみの余り昼も夜も涙を流しています。さらに、周りからは「お前の神はどこにいる」と嘲笑われています。詩人はこの極めて困難な状況の中で、どのように「主こそ、私の救い」という告白へと導かれたのでしょうか。
詩人は苦しみの中でかつての礼拝を思い起こしています。ここで「思い起こす(ザカル)」とは、神さまの救いを思い起こす人の行為であり、人の叫びを聞いてご自分の約束を心に留める、神さまの行為であるのです。ですから、礼拝を思い起こすことは、まさにこの神さまのザカルに目を向け、それに支えられている人のザカルを行ったことなのです。
詩人はかつての礼拝を想起して新たな希望(ヤカル)を与えられ、「御顔こそ、わたしの救い」と告白に至ったのです。この希望によって、詩人は昼夜の苦しみから主の慈しみに目を向けるようになったのでしょう。
神さまの思い起こし(ザカル)が先行しているからこそ、私たちの礼拝が意味を持つのです。またここから新たな希望(ヤカル)を与えられ、「主こそ、私の救い」と告白して歩んでいきましょう。
私たちは主のもの
創世記2:4-9
2011年1月9日
今の時代は人を出来るか出来ないかで判断しますが、今日の聖書箇所から教えられるのは、人は神さまに造られた「命」であることです。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(7)とあるとおりです。
豊かな富と他国の神々が流入してきていたダビデ王やソロモン王の時代に書かれたこの箇所は、人が何者であるのかという問いに対して、人は神さまによって造られた存在であり、神さまの命の息を吹きいれられた尊い命であることを呼びかけていたものです。
ヘブライ語の土(アダマ)と人(アダム)とは語源が一緒です。この言葉遊びは人が土から造られた者であることを常に思い起したのでしょう。これは人を「土の塵」のように空しい存在として捉えながら、神さまの命の息を吹き入れられて「生きる者」となったことを捉えた信仰であると同時に、人が神さまとの関わりや、交わりを通して本当の人間となる、本当の命となるという信仰の現われでもあるのです。
私たちのような儚く限りのある者を、神さまはご自分の命を分け与えられて生かしてくださったのです。このように自分や人を捉え直して、生きる力と勇気を得て歩んでいきましょう。
主の備えあり
創世記22:14
2011年1月2日
新年、明けましておめでとうございます。新しい年はあなたにとってどのような年になりそうですか。どのような出来事と出会うのでしょうか。期待半分、不安半分の気持ちではないでしょうか。
アブラハムは神さまから100歳で得た息子を焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられ、翌朝すぐ旅立ちます。3日後、命じられた山に登ります。命じられた山に向うこの旅路は我々の信仰生活に似ています。
アブラハムは息子の「小羊はどこにいますか」という問いに対して「小羊はきっと神が備えてくださる」と答えています。この親子の対話にはアブラハムの葛藤と神さまの答えが暗示されているようです。そして神さまは命じられた山でイサクの代わりに羊を備えてくださったのです。
私たちは信仰生活の中で時にはとんでもない出来事に遭遇し、あるいはこれが本当に神さまの御心なのかどうか分らないこともあるでしょう。しかし、神さまはどのような状況であっても私たちと一緒に歩んでくださり、必要なすべてを主ご自身が備えてくださるのです。
「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」の神さまに信頼をおいて新しい2011年も歩んでいきましょう。