パウロによって始まったフィリピの教会が反対者たちによって混乱していました。反対者は割礼や律法を守ることによって、すでに自分たちは完全な者になっていると考え、救済の出来事であるキリストの十字架を否定する人々でした。
自分自身、律法の義に非のうちどころの無い者であったパウロは言います。キリストに出会って、それらは塵芥に変わったと。律法をどれほど守っても、それによって救われることがないことをパウロは知っていました。キリストの十字架の死と復活が、パウロの救いになったのです。
自分たちは「完全な者」であると主張する反対者たちにパウロは言います「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。なんとか捕らえようとして努めているのです」。パウロは自分が不完全であることを知っています。だからこそ、自分のすべてを注いで、キリストを捕らえようと、キリストという目標に向かってひたすら走っているのです。
自分たちを「完全な者」と考える反対者たちは、何をしても許される、もう救われていると勘違いしています。神ではなく、自分の欲望に従ってこの世の幸せを生きています。彼らに目指すべき目標はありません。しかし、パウロは「わたしたちの本国は天にある」と言います。目指すべき目標はこの世にはありません。キリストの十字架の苦しみに与って生きる時、キリストの恵みにも与ることができるのです。そして、キリストを目指す歩みの中でキリストが、不完全な者たちをご自分と同じ形に変えてくださるのです。パウロは私たちにもキリストという目標を目指して歩むことを勧めています。
〔細井留美〕