2007年メッセージ・アーカイブ

主の道を歩く幸い

詩編1:1-6

2007年12月30日

わたしたちの人生には二つの道があります。一つは神さまに逆らう道、もう一つは神さまに従う道です。一年の最後の週を迎えて、詩編1編を通して「主の道を歩む幸い」について考えてみたいと思います。

皆さんは今幸せでしょうか。「はい」とうなずく方もいれば、「いいえ」と否定する方もいるでしょう。その幸せの基準は何でしょうかと聞かれると答えはそれぞれでありましょう。1編1節で詩人は「いかに幸いなことか」と叫んでいます。幸いな人は誰でしょうか。それは神さまに逆らう道に歩まず、とどまらず、座らず、御言葉を喜び、いつも口ずさむ人です。このような人は流れのほとりに植えられた木に例えられ、御言葉にしっかり根をおろして、常に神さまの配慮を受けている人です。時が巡り来れば実を結び、すべてが繁栄する人です。それに対して、神さまに逆らう者は風に吹き飛ばされるもみ殻に例えられ、神さまの裁きに堪えず、神さまに従う人の集いに堪えないのです。いかなる状況に置かれていても神さまに希望を置く詩編の詩人たちは、神さまに従う人の道を主が知っていて下さるが故に幸いであり、神さまに逆らう人の道は滅びに至ると告白しています。

たとえこの一年辛いことや苦しいことに遭ったとしても神さまがご自分に従っていく者の道を知っていて下さることは変わりありません。牧師・副牧師が与えられて、新しいスタートを切ることがゆるされたこの2007年を振り返ってみる年末となることを祈ります。

人間になられた神

ヨハネによる福音書1:1-14

2007年12月23日

クリスマス、おめでとうございます。今日はヨハネによる福音書1章からクリスマスの意味を考えてみたいと思います。

イエスさまは、永遠なる神であり、創造者であり、命と光であります。クリスマスは、永遠なる神さまが、限界だらけの人間となられて自ら人間のところへ来られた出来事です。それによりイエスさまの光がこの世の暗闇を照らしました。しかし、人間はイエスさまを受け入れませんでした。ルカ福音書によると、二千年前、ユダヤのベツレヘムでのイエスさまの誕生が「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。神さまがご自分を低くされましたが、人々はその方を受け入れませんでした。一方、野原の羊飼いたちは救い主の誕生を告げ知らされ、イエスさまの誕生の場所へと急いで行きました。彼らはイエスさまを受け入れました。12節でイエスさを受け入れた人には神の子となる特権を与えたとあるように、わたしたちも救い主イエスさまの誕生を心から受け入れたいと思います。飼い葉桶に寝ているみどりごを探し当てた羊飼いたちは大きな喜びを人々に知らせて、神さまに賛美をささげます。14節は羊飼いたちの賛美と響き合えます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

今日、わたしたちがイエス・キリストの恵みと真理とに満ちている栄光を見て、喜びに溢れるクリスマスとなることを願います。

人を救う神の恵み

テトスへの手紙2:11-15

2007年12月16日

今日の箇所は一言で言えば、「神さまの恵みが現れて、わたしたちを教えています。」です。はたしてどのような恵みであって、何を教えているのでしょうか。ここで「現れる」とは光が照らすという意味であり、「教える」とは「養育する」という意味であります。

まず、神さまの恵みとはわたしたちを救ってくださるためにこの世にイエス・キリストを送ってくださった出来事です。また各個人をイエスさまと出会わせて下さったことです。すなわち、神さまの恵みとはすべての人に救いをもたらす恵みなのです。次に、神さまの恵みはわたしたちに二つのことを教えています。一つは、不信仰と欲望を捨ててこの世で思慮深く、正しく、信心深く生活することです。もう一つは、イエス・キリストの栄光の完成と現れを待ち望んで生活することです。栄光とはイエス・キリストの十字架の死により我々を罪から贖い出し、その赦しによって我々を神の民とされたことです。そして、現れとはイエス・キリストがこの世に再び来られることを意味しています。従って、今日の箇所は神さまの恵みによって救いはすべての人々に開かれており、その恵みは救われた者を聖化の道へと歩ませてくださることを説いているのです。

本日はアドベント3週目です。2000年前、ベツレヘムでのイエスさまの誕生は神の恵みが全人類を照らした出来事でした。クリスマスを待ち望む心の中で、神さまの恵みを思い起こし、また将来の希望を持ちつつ、神さまに導かれていきたいと思います。

苦悩の只中の望み

エレミア書31:15-17

2007年12月9日

エレミヤはユダ王国の破滅と捕囚を警告した預言者です。涙の預言者と言われるエレミヤのもだえる姿は、神さまが人間を愛するが故に、またご自分の真実さの故に、イスラエルの人々と共に苦しみ続ける姿であります。

今日の箇所は苦悩に満ちて泣くラケルの涙の中に神さまの希望が約束される内容です。目に付くのは、「主は言われる」という言葉です。神さまは民の苦悩の只中で沈黙せずに語られています。そこから大きな希望を見出せます。それでは、ラケルの涙とは何を意味しているのでしょうか。ラケルが葬られた地で、イスラエルの民がバビロンへと連れ去られる出来事が起きました。墓の中でラケルは泣いています。ラケルは死ぬ時、産みの苦しみの余りに生まれた子を「わたしの苦しみ」と名づけますが、ヤコブは「幸いの子」と呼び直します。捕囚に連れ去られる苦悩の只中で、神さまは「泣き止むがよい…あなたの未来には希望がある、息子たちは自分の国に帰って来る」と宣言しています。エレミヤは民の苦悩の中に共におられて希望を与える神さまを見ていました。

イエスさまが誕生した時、ベツレヘムで幼児虐殺事件が起こります。そこには苦悩に満ちた人々の叫びがありました。マタイはエレミヤの預言を通して神さまの希望を見出しました。アドベント2週目を迎えますが、今日も多くの人々が苦悩の只中で苦しみもだえています。わたしたち教会が神さまの御言葉から希望を見出し、人々に伝えていくクリスマスになりたいと願います。

イエス・キリストの系図

マタイによる福音書1:1-17

2007年12月2日

今日はアドベント1週目です。教会はこのアドベントの期間、2000年前に来られたみどりごイエスさまを待つと共に、再びこの世に来られるイエスさまの再臨を待ち望むのです。

マタイは1章1節を「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と語り始めています。これは旧約聖書から神さまによって約束されてきた神さまの救いがこの人に実現されたというマタイ自身の信仰告白です。神さまの救い、メシア到来の宣言です。アブラハムは神さまに選ばれ子孫への祝福の約束を与えられました。ダビデは神さまに選ばれ王となり、メシヤ到来の約束を与えられました。神さまの一方的な恵みによる約束は族長物語やイスラエル王国の歴史の中で守られてきました。それはいつも神さまの約束を忘れる人間の背反と、それにもかかわらず、その約束を実現させる神さまの誠実によって歴史に刻み込まれてきました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫であることだけを誇りとしていた人々にとってこの系図は、自分たちの信仰の無さや偶像礼拝を強調するだけだったでしょう。系図を読めば読むほど浮かび上がるのは、人間の歴史を支配される神さまと、神さまの約束がとうとうイエス・キリストを通して実現されたということです。

アドベントを迎えて、救い主であるイエス・キリストにわたしたちの心の目を向けていきたいと思います。クリスマスを待ち望むこと、イエス・キリストに集中すること、それがわたしたちの信仰の本質ではないでしょうか。

平和を実現する人々

マタイによる福音書5:9

2007年11月25日

「平和」とはヘブライ語で「シャローム」です。それは単に戦争がない状態だけでなく、神さまから与えられた平和を守り抜く積極的意味です。とりわけ、神さまがご自分に背を向けた人間に和解を成し遂げられたことは最大の平和です。イエスさまは生涯神さまの平和を貫かれて生きました。

今日の箇所の「平和を実現する人々」とはどのような人々でしょうか。それは3-10節の八つの祝福の全体的展望から明らかになります。その祝福の対象は相互につながっています。心の貧しい人が悲しむのであり、自分の弱さを悲しむ人が柔和な人であり、自分の弱さを痛感する謙遜な人が神さまの義(恵み=救い)に飢え渇くのです。自分の弱さを痛感して謙遜に神さまの義を祈り求める人が憐れみ深い人であり、心の清い人であり、神さまとの出会いが与えられます。神さまとの和解を経験した人こそが「平和を実現する人」なのです。言い換えると、「平和」を実現する人は「義」のために迫害される人です。この義とは「神さまとの正しい関係」という意味ですから、神さまから与えられる平和であり、それはイエスさまの生涯そのものです。従って、イエスさまは10節で「わたしのために迫害され…あなたがたは幸いである」と宣言しているのです。

今日から2週間「世界祈祷週間」を覚えて礼拝を献げます。シンガポール、タイ、ルワンダなどに派遣された宣教師たちが「平和を実現する人々」として生きられることを共に祈っていきましょう。

希望と共に生きる

詩編126:1-6

2007年11月18日

詩編126編は神殿もうでの時、イスラエルの人々によって口ずさまれた歌です。1-4節は、新共同訳聖書では主がこれから行なってくださる大いなる出来事を待ち望む歌、口語訳聖書では主が行なわれた過去の大きな恵みを根拠に希望を持つ歌として読む事ができます。どちらも、私たちの信仰生活において希望をもつことの大切さを教えてくれます。過去の恵みを思い起こすことと、未来の出来事に希望を置くことは私たちに大きな力を与えてくれます。

5-6節には、苦難が必ず歓喜に変えられるという信仰が歌われています。苦しみが喜びに変るという逆転の思想は、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」というイエスさまの言葉に受け継がれており、「イエスさまの十字架の死が、復活の喜びに変えられた」というわたしたちの信仰と希望へとつながっていくものです。また、伝道のことを良く言い表している言葉でもあります。伝道の種まきは決して楽ではありませんが、収穫の喜びを味わうために、涙の種まきを続けることの必要を教えてくれます。

次週から世界バプテスト祈祷週間がはじまります。この働きは、現在のわたしたちが想像する以上に、沢山の実を実らせていく働きです。神さまが将来豊かな実りを与えてくださることを期待して、祈り、献金していくことができればと思います。

主は唯一の主

申命記6:4-9

2007年11月11日

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」は、イスラエルの民を選ばれ契約を結ばれた神さまに対する信仰告白であります。原典で、この節の最初と最後の文字は大きい太文字になっていて、その二文字を合わせると「証、証人」という意味の単語となります。

イスラエルの人々は自分たちが唯一の主に生かされている証として「主は唯一の主」という告白を礼拝毎に朗唱し続けてきました。この告白はイスラエルの歴史において2つの史実、出エジプトと十戒の授与に基づいています。今日の箇所は、モーセがヨルダン川を渡ってカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に語りました。モーセは自分を呼び寄せ、エジプトに遣わされたお方、約束通りにイスラエルの民を導き出されたお方を、身をもって経験したからこそ、そう告白できたのでしょう。「主は唯一の主」とは、神さまに対する人間の応答の言葉であります。また、「十戒」に記されている主の恵みに対する応答は、一言で言うならば「神さまを心、魂、力を尽くして愛する」ことです。そして、神さまを愛する行為は、人を愛することによって表れます。守り切れない十戒を前にため息が出るかも知れませんが、この世に人間として生まれ、神を愛し、また隣人を愛する生き方を貫かれたイエスさまがいるからこそ希望があるのです。

今年私たちの教会は伝道開始20周年を迎えています。モーセのように自分たちを誠実に導かれた神さまを告白すると同時に、後の世代にその信仰告白を証として受け継いでいきたいと願います。

わたしはある

出エジプト記3:4-14

2007年11月4日

今日の箇所は神さまがモーセを呼び寄せ、エジプトからイスラエルの民を救い出し、乳と蜜が流れる土地へ導くという召命を与えられる場面です。そこで神さまは「わたしはある。わたしはあるというものだ」とご自分の名前を教えられます。

その御名の意味を、モーセに接して下さる神さまのご性質から考えてみましょう。第一に、神さまは聖なる方であります。神さまは、モーセに聖なる土地故に履物を脱ぐように言われます。聖なる方だからこそ、私たちにご自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。第二に、神さまは万物の主であります。過去にイスラエルの先祖の神としてご自分の約束を誠実に守られたお方であります。今現在イスラエルの苦しみをご覧になり、叫び声を聞き、痛みをご存知であるお方であります。また将来、イスラエルの民を救い出し、乳と蜜が流れる約束の地へと導きのぼる方であります。過去、現在、未来、私たちの全てを支配されるお方であります。第三に、インマヌエルの主として人を遣わすお方であります。急な召命に躊躇うモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と励まし、「今、見よ」(9)、「今、行け」(10)と命じられるのです。そこにはモーセの過去の挫折をも乗り越えるインマヌエルの主の約束が示されています。

聖なる方、万物の主がインマヌエルの約束を持ってご自分の宣教の業に私たちの教会を遣わされました。わたしたちはこの赤羽の地において苦しんでいる方々へ神さまの救いの希望を伝えましょう。

主の派遣

イザヤ書 61:1-4

2007年10月28日

今日の箇所は預言者の召命に関する箇所です。彼は、捕囚後のエルサレムで、失意の人々に、神さまの約束を思い起こすように呼び掛け、希望を持つように繰り返し励まします。捕囚から解放され喜びに満ちていたイスラエルの人々は、なかなか再興されない祖国の状況と生活の困難の中で徐々に希望を失っていきました。廃墟、荒廃がエルサレムの現実です。その中で預言者は人々を励まし続け、希望を語り続ける使命を神さまから受けました。

苦しい状況の中で低くされている人々、希望を失っている人々、嘆いている人々を、慰め、励まし、希望を語る彼の姿に牧会者の働きをみます。わたしは、ここから自分自身の召命を再確認すると同時に、教会に与えられた使命をみます。教会もまた、この世の人々に対して、慰めと励ましと希望を語る使命をもっています。そのためには、私たちがこの預言者のように、神さまの希望と約束の上にしっかりと立つ必要があります。そのようなことが弱い存在である私たちにできるのでしょうか?しかし、私たちに召命を与えられた神さまは、誠実な方です。いかに、私たちがダメな人間であろうと、失敗を繰り返そうと、神さまの約束は変りません。

私たちの教会は、神さまによって立てられました。私たちの力の弱さ強さに関係なく、神さまは私たちに与えられた約束・使命のために、私たちの教会を用いてくださいます。たとえ厳しい状況の中にあっても、神さまの約束に希望をおき、人々に希望と慰めを語っていくことができればと思います。

香油の香りいっぱい

ヨハネによる福音書 12:1-8

2007年10月21日

今日の箇所は、過越祭とラザロの生き返りを通して、教会が過越祭の小羊のように献げられたイエスさまの十字架の死と復活の中で生きることを教えられます。

マリアは香油をイエスさまの足に注ぎ、髪の毛でイエスさまの足を拭いました。マリアは自分を低くしてイエスさまに仕えました。この行為により家中は香油の香りでいっぱいになりました。「いっぱいになる」とは、「成就する、実現する」という意味で、イエスさまの葬りとメシアとしての油注ぎとの二つの事柄が成し遂げられようとしていることを意味します。すなわち、イエスさまが栄光を受ける時が来たことを暗示しています。一方、ユダはマリアの行動を非難します。マリアの行動は無駄であり、もっと大切なことがあるように聞こえますが、実は自分の利益のための発言でした。我々の信仰生活はマリアとユダとの間でゆれているのかも知れません。イエスさまはこの二人の対立を前にして、マリアの行為は自分の葬りのためだからそのままにさせなさいと命じられます。イエスさまは人に理解してもらえなかったマリアを受け入れて、マリアの心から涙を拭い取られたのです。わたしたちは、このマリアの行為の中で、我々の罪を贖われるために十字架に架けられたイエスさまの従順な姿を見ることが出来ます。

本日の午後には、牧師・副牧師就任按手式が行われます。イエス・キリストの体である教会の委託と牧師・副牧師の召命とを再確認される場となれば幸いです。イエスさまに倣ってお互いに仕え合い、この赤羽の地にイエス・キリストの香りをいっぱいに放っていきましょう。

互いに赦し合う

マタイによる福音書 18:21-35

2007年10月14日

キリスト者とは神さまとの交わりから恵みを受けて、隣人との交わりの中で平和を実現する人です。今日の箇所で、ペトロは七回まで赦せば良いのかと聞きます。しかし、イエスさまは七の七十倍まで赦しなさいと答えられました。

続いて、イエスさまは天の国の譬え話を話されます。王が家来たちと決済を始めた時、一万タラントン(※)借金している家来を憐れまれ、彼の借金を帳消しにしてあげます。だが、この家来は自分に百デナリオン借金している仲間を容赦なく牢に入れます。事の次第を告げられた王は、その家来を呼びつけて私がお前を憐れんでやったようにお前も仲間に憐れんでやるべきだったと怒り、借金を返すまで牢に入れます。借金とは人間の罪を意味しますから、決済とは神さまによって自分の罪に気付かされることを意味します。それと同時に神さまの一方的恵みによってのみ赦されることをこの譬えは告げます。巨額の借金を帳消しにしてもらったものの、仲間を赦せなかったこの家来の姿は私たちの自画像かも知れません。この天の国の譬え話はイエスさまがこの世に来られて天の国が「すでに」到来しましたが、「まだ」完成していないことを暗示しています。巨額の借金を帳消しにしてもらったことは神さまの一方的恵みによる救いです。仲間を赦さなかった現実はこの世を生きる人間の限界です。しかし、この世の終わりまでいつもわたしたちと共にいて下さるとのイエスさまの約束が唯一の希望であります。わたしたちは主の祈りの中で人を赦すことを祈るようにとイエスさまに命じられています。イエスさまの約束を信じ、祈り続けることが求められています。

教会は罪赦された者同士の共同体です。イエス・キリストの十字架において神さまの限りない恵みに気付かされて互いに赦し合う喜びを味わっていきましょう。

(※)一タラントン=六千デナリオン。
一デナリオン:大人の一日の賃金。

わたしは誰なのか

マタイによる福音書 5:13-16

2007年10月7日

イエスさまに従おうと心を決めた弟子たちに、イエスさまは「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と言われます。これは平和を実現する弟子の共同体に向けての言葉です。

「あなたがたは地の塩である」とは、あなたがたこそこの地において神さまに祝された存在であるという意味です。これは、弟子たちのアイデンティティーの宣言でもあれば、山上の説教の最初に語られた八つの祝福の再確認でもあります。そこで大切なのはその塩気を無くさないこと、すなわち、天の国を所有しているという祝福を無くさないことです。次に、「あなたがたは世の光である」とは、あなたがたこそこの世の光として、その光を輝かしなさいという意味です。地の塩として神さまに祝された存在である弟子たちが、どのように生きていくかを示して下さる言葉です。この光は隠れられないし、すべてを照らすために存在します(14)。「光を輝かしなさい」とは、弟子たちの立派な行いによって神さまがあがめられるようにすることです。ここで「立派な行い」とは人間的かつ道徳的善ではなく、イエスさまの十字架を負うことでしょう。イエスさまご自身が、迫害の中でも神への愛と隣人への愛とを成し遂げられたからです。平和を実現するためにはイエスさまが歩まれた道を歩むほかはありません。

イエスさまを主と告白しているわたしたちの教会は、地の塩であり、世の光であるのです。天の国の民として、世の中の苦難の中でもイエスさまに従い、平和を実現していきましょう。

創造、堕落、救い

ルカによる福音書 15:8-10

2007年9月30日

今日の箇所は、罪人と一緒に食事をしているイエスさまに対して不平を言い出す宗教指導者たちに向けて話された三つの譬え話(失われた羊・銀貨・息子)の一つです。前の二つの譬え話から浮き彫りにされる神さまの情熱は、三つ目の話で息子が帰ってくるまで待つ神さまの忍耐の前提です。

内容は、銀貨10枚を持っている女性がその内1枚を無くしたとすれば、家中を掃きながら念入りに探すに違いない、また見つけたら人々を呼び集めて共に喜ぶに違いないという話です。この譬え話から創造、堕落、救いを考えて見ると、第一に、愛のしるしだったとも言われる10枚の銀貨が、女性にとって大切であると同様に、神さまにかたどられて創造された人間は神さまにとって欠けがえのない大切な存在であることを表しています。第二に、その内の1枚の銀貨が失われてしまった状態は、神さまを離れている人間の現実を表しています。第三に、ともし火をつけ、見つけるまで念入りに銀貨を探す女性の姿は、人間を救うために独り子をお与えになった神さまの愛を示しています。

自分の創造主に背いて堕落した人間は、神さまの愛に気付かされてはじめて「悔い改める(立ち返る)」ことが出来ます。そこで大事なのは、人間の悔い改めが神さまの「見つかるまで探し出す」愛によってのみ可能であることです。一人が悔い改める度に湧き上がるこの上ない神さまの喜びに、わたしたち教会も共に喜んでいきましょう。

イエスさまの焼印

ガラテヤの信徒への手紙 6:14-18

2007年9月23日

パウロはガラテヤの信徒への手紙を「イエスの焼き印を身に受けている」という言葉で結んでいます。イエスさまに属している証拠である「イエスの焼き印」を押された人生とはどのようなものでしょうか。

第一に、イエス・キリストの十字架だけを誇る人生です(14)。十字架だけを喜ぶ人生です。パウロは、ダマスコの出来事以来、自分に有利であったすべてのことを、キリストの故に損失と見做すようになりました。これは、キリストに出会ったことにより起きた価値観の変化です。第二に、新しく創造される人生です(15)。イエス・キリストと共に十字架で死んだ人間が、復活されたイエス・キリストによって生きる人生です。パウロは自分の中にキリストが生きておられると新しい自分のアイデンティティーを告白しています(ガラテヤ2:20)。従って、「イエスの焼き印」を押された人生とは、イエス・キリストの死と復活によって与えられた新しい命を生きる人生です。

創世記に出て来るヤコブは、ペヌエル(神と対面する)で神と闘います。そこで、ヤコブはイスラエルという名を新しく与えられます。イスラエルとは、「神は闘う、神は支配する」という意味です。そこには20年間ヤコブが抱えていた問題のために共に闘って下さる神さまの憐れみと愛が溢れています。腿の関節が外れるという「焼き印」を押されたヤコブのように、わたしたちは十字架に示された神さまの愛の「イエスの焼き印」を持ちつつ生きていきたいです。

人生の原点

詩編 127:1-5

2007年9月16日

詩編127編は、巡礼者の詩(120-134編)、あるいは知恵の詩とも言われています。巡礼者が神殿にいたる道のりは、天国にいたる人生の旅路に似ています。巡礼者たちの「人生の原点」からわたしたちは今日を生きる知恵を教えられます。

1節の「家」と「町」は、それぞれ「家庭」と「神殿を中心とする社会」を意味しますので、一言で言えば、人間の生活の全領域を表しています。だから、人生の全領域を神さまが建てて下さらなければ、また守ってくださらなければ、人の労苦や努力はむなしいということです。詩人は、朝から晩まで働いてもそれはむなしいことだと言っています。これは、人間の努力が無駄だという意味よりも、神さま無しで自分の力だけを信じる人に対しての言葉です。人は自分の限界や弱さに気付かされてはじめて、神さまの働きを認め、神さまに信頼を置くことが出来ます。しかし、その時に、わたしたちを戸惑わせるのは、現実の中で目に見える「義人の苦難」と「悪人の繁栄」ではないかと思います。義人の苦難に関しては、ヨブ記から人知を超える神さまの働きを、また悪人の繁栄に関しては、詩編73編から神さまに逆らう者が滅びに到ることが示されます。神さまは、ソロモンの夢の中で自分を啓示されたように、今も愛されている者たちにご自分を啓示され続けておられます。

神さまの働きを認めかつ信頼する「人生の原点」にしっかり立ち、イエス・キリストを通して神さまのご自身の語りかけに心の耳を傾けて生きることが出来れば幸いです。

神さまの栄光を見よ

ヨハネによる福音書 11:38-44

2007年9月9日

死んだラザロを生き返らせた今日の箇所は、神さまの栄光のために用意された出来事でした。神さまの栄光とは、罪人を救うために独り子をこの世に与えられた「神さまのアガペー(※)の完成」と言えます。

二人の姉妹をはじめ、ラザロの死を悲しんでいる人々、ラザロが死なないように出来なかったのかとイエスさまを非難している人々、彼らの姿は、死の力の前の人間の無力をよく表しています。それは洞穴をふさいでいる石のように動かぬことでした。イエスさまは人間の無力な姿を憐れまれ、動かぬ石として人間の心を支配している死に対して憤りを覚えました。イエスさまは「石を取りのけなさい」と言われますが、マルタは死んで四日も過ぎ、もう臭うとイエスさまを止めようとします。イエスさまは、もし信じるなら、神の栄光が見られると言われます。石は取りのけられ、イエスさまは「ラザロ、出てきなさい」と叫びます。この叫びの中には「行きなさい」と送り出す神さまのインマヌエルの約束と、「私に従いなさい」と促すイエスさまの模範が含まれています。これはイエスさまがこれから歩まれる十字架の死と復活の先取りであり、神さまのアガペーが完成されることのしるしであります。

私たちの人生をふさいでいる石を大胆に取りのけてみてはいかがでしょうか。イエスさまはその場に立っておられます。「○○○○よ、出てきなさい」という叫びに私を呼ぶ声を聞きましょう。

(※)神の無条件的かつ献身的愛

まことの自由

ヨハネによる福音書 8:1-11

2007年9月2日

映画『ミッション』(ローランド・ジョフィ監督、86年)の中で、弟を殺した自分を赦せない奴隷商人が、重荷を担いで山を登り続けるシーンがあります。かつて奴隷ハンティングをしていた村に着いた時、村人は彼の重荷を無条件で下ろしてあげます。まことの自由を得る場面です。

今日の箇所では、宗教指導者たちが姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、イエスさまの考えを聞きます。石を投げなさいという答えはローマ法律を破り、生かしなさいという答えは律法を破る罠でした。イエスさまは答えずに屈み込んで、地面に書かれた後、身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい」と言われます。イエスさまはその言葉を通して、人々に自分たちの罪に目を向かせました。人々はそれ以上女を裁けなくなり、みなその場を立ち去ってしまいます。イエスさまはその女に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」と言われました。これは、女の罪をいい加減にあしらったのではなく、イエスさまご自身がその女の罪の代価を支払おうとしておられたからこそ言える言葉でした。イエスさまは女の不安や恐怖の場までご自分を下げて、女の深い傷を癒されたのです。まことの自由を与えたのです。

神の子であるイエスさまの受肉を通して、神さまは私たちのすべての罪をご自分の身において背負われました。人間はイエスさまに赦されて初めて、虚無や死の問題を克服してまことの自由を得ることが出来ます。

用いられる喜び

ヨハネによる福音書 6:1-15

2007年8月26日

5,000人の給食の出来事は、イエスさまがこの世の救い主であることを伝える象徴的しるしであります。イエスさまが人々の肉体の飢えだけでなく、魂の飢えをも満腹できるお方であることを教えられます。そして群衆と弟子たち、またわたしたちをその場に招かれています。

イエスさまが共にいるのに、フィリポは群衆の給食に否定的でした。だが、アンデレは役に立たないと思いながらも、小さなお弁当を持っている一人の少年をイエスさまのもとに連れてきました。イエスさまは少年がささげた大麦のパン五つと魚二匹を取り、感謝の祈りを唱えて、人々に分け与えられました。人は「何の役にも立たない」(9)と言いますが、イエスさまは「欲しいだけ」(11)分け与えることがお出来になります。イエスさまは人を用いられることを望んでおられます。イエスさまは少年がささげた小さな食べ物を豊かに用いられました。わたしたちが持っているものをささげる時、また自分に出来ることをする時、わたしたちはイエスさまに用いられる喜びを味わえます。用いられる喜びは用いて下さる方に信頼を置くことから生れます。少年は自分の予想をはるかに超えてイエスさまに用いられた喜びで満たされました。

韓国の伝道隊とわたしたちの教会が主に用いられることが出来ました。また日曜日の一人の姉妹の証が用いられて、必要な人々を励まし、悲しみの涙を拭い取って下さる道具となりました。私たちは用いられる喜びを味わいました。東京北教会を豊かに用いて下さる神さまに希望を置きましょう。

キリストの平和

エフェソの信徒への手紙 2:14-22

2007年8月19日

キリストが私たちに与えてくれた平和は、力によるのでも知恵によるのでもなく、ご自身が十字架に掛けられることによって、実現されました。力や知恵とは無関係な十字架の死という敗北が神さまに用いられたことにより、この世の人間の道理はすべて無力にされました。

また、イエス・キリストは十字架によって新しい人間の姿を私たちに示されました。それは、神さまの御心に従う姿であり、隣人のために生きる姿です。この2つの姿勢が、私たちに平和をもたらしたのです。キリストがもたらした平和は、人間が人間らしく生きることのできる平和です。戦争がないだけではなく、すべての人が安心して生活できる平和です。神を愛し、隣人を愛することこそ、人間が人間らしくあるために必要なことであり、真の平和をもたらすのです。

教会は、キリストの体にたとえられます。キリストの体とは、キリストのみ心をキリストの手足となって行なっていく器のことです。従って、キリストの体である私たちが、まずキリストの平和の実現のために仕えて行く必要があります。私たちは、この世を支配する人間の道理でなく、一見愚かにみえる神さまの御心に従っていきます。そして、すべてのものが共に生きるために、どうしたらよいかを考え続けていく責任があります。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」

神さまの御心

ヨナ書 4:1-11

2007年8月12日

ヨナの神さまへの怒りは、ニネベの人々が神さまの宣言を受け悔い改めたことにより、迫った滅びから救われたことから来ています。ヨナにとってイスラエルの敵国の首都であるニネベは滅んで当然でした。神さまはヨナの怒りに対して、とうごまの木を生えさせて一旦日陰を与えると、翌日にはそれを虫に食わせ枯らせました。神さまはヨナのとうごまの木を惜しむ心から、ご自分の被造物であるニネベの人々への御心をヨナに教えられます。神さまの御心は11節の「惜しまずにいられるだろうか」という問いかけによく表れています。

実は、ヨナ書はイスラエルのペルシア捕囚以降に起こった国粋主義や民族主義への反抗として書かれた書物だと言われています。今日、世界中で民族主義、国粋主義、宗教の原理主義による戦争や紛争が、増えています。多くの人々がマスコミや国の政策によって「悪い人々」と決め付けられ、攻撃たれています。しかし、今日の箇所は、他の国々や他民族も「神さまの愛する被造物」であることを教えられます。また自分の嫌いな人々の救いのために祈ることを教えられます。

かつてわたしは日本人が救われることを願っていませんでした。しかし、神さまは2001年度に初めての日本への旅を機にその考えを正して下さいました。神さまはわたしに日本の教会の現実を見せて下さり、神学校にまで導かれました。そして日本人の妻との結婚を与えられました。かつての日本への抵抗感は打ち砕かれて一人の牧師として日本での歩み方を祈り求めています。

尽きない喜び

ヨハネによる福音書 2:1-11

2007年8月5日

カナの婚礼で「水をぶどう酒に変えられた」イエスさまの最初のしるしには、この世に来られたイエスさまの栄光が示されています。それは恵みと真理とに満ちた神さまの独り子としての栄光です。

水がぶどう酒に変わったということはその性質が全く新しくされることを言います。水とは、律法主義化された習慣や律法を指しています。当時のユダヤ教は律法の大切な意味をなくしつつ、形だけを固く守っていました。厳格に律法を守る人がいる一方で、律法を守ることのできない徴税人や、やもめ、病人などは差別されて苦しめられていました。イエスさまが水をぶどう酒に変えられたしるしは、律法主義に縛られている人々や、差別で罪人というレッテルが貼られていた多くの人々を解放させたことの象徴です。ぶどう酒とは、罪を赦すために流されるイエスさまの血であり、その働きが成し遂げられる新しい時代を意味しています。その喜ばしい知らせがわたしたちには福音であり、尽きない喜びなのです。イエスさまに出会った多くの人々はイエスさまの中で神さまの独り子としての栄光を見て、そこから新しい生き方を示されました。今も全世界でイエスさまの働きは続けられています。

ぶどう酒が尽きてしまった結婚式を、上質のぶどう酒で満たして下さった出来事は、十字架上で息を引き取られる直前のイエスさまの「成し遂げられた」との言葉で成就されています。みなさま、イエス・キリストの栄光に見て、尽きない喜びの日々を歩みましょう。

パウロの回心

使徒言行録 22:1-16

2007年7月29日

イエスさまはタマスコ途上でパウロに出会って下さり、パウロの人生を変えて下さいました。イエスさまに出会ってから、パウロは迫害者から熱心な伝道者へと変えられました。

パウロにとってイエスさまとの出会いは「突然」のことでしたが、神さまにとってはご計画の中での出来事でした。わたしたちの人生の中でも突然と思われることが、実は神さまの導きかもしれません。イエスさまは光と声としてパウロに来て下さり、出会って下さいました。第一に、イエスさまは光としてパウロに現されました。創世記の天地創造の時、神さまは「光あれ」という言葉で混沌と闇の地上に神さまの秩序を与えられました。ヨハネ福音書で受肉したイエスさまが光として、罪の人間を照らしています。パウロはそのような光に照らされていたのです。第二に、イエスさまは「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声としてパウロに現されました。イエスさまはサウルという人を、またサウルの行為をすべてご存知でした。しかし、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」、「主よ、どうすればよいでしょうか」と言い、十字架上でのイエスさまを正しく知っていませんでした。パウロはイエスさまの御声を聞かされたのです。

イエスさまは今も私たちに光として、また御声として来てくださるのです。パウロはこの出来事が神さまのご計画であり、自分がキリストの証人として立てられていることを知らされます。私たちもまたイエス・キリストの証人として呼び集められています。

わたしなど何者でしょう

歴代誌上 29:10-19

2007年7月22日

歴代誌は捕囚から帰還して来たイスラエルの民に対して自分たちが神さまの前で礼拝者であることを確認させる意図で書かれたと言われる。29章でダビデの祈りを考えてみよう。

今日の箇所はダビデが神殿建築のすべての準備を終えて神さまに献げた祈りである。祈りの内容は第一に、神さまへの讃美である。ダビデは先祖たちをご自分の約束に基づいて導かれる神さまの主権を認めて讃美と栄光を神さまに帰している。イスラエルの民の歴史をとこしえに支配しておられることを称えている。第二に、神さまの前で自分がどんな存在であるかの告白である。ダビデと民が神殿建築のためにささげたものはすべて神さまから受けたものと捉えている。またダビデ自身は神さまの前で「寄留民、移住者」だと実感している。イスラエルの先祖は神さまの前で常に寄留民として生きることを求められてきた。寄留者である時にこそ、神さまだけに信頼し、神さまの約束に希望を持つことが出来るからであろう。それと同じように、私たちもまたこの世に対して神さまを信頼し、神さまの約束から希望へと生きる力を見出すことが求められている。第三に、民と息子のための求めである。ダビデは彼らが二つの心ではなく、神さまだけを見上げて御言葉を守り、また実行することを祈り求めている。

神さまの主権を認めて全き心を持って神さまの御言葉に従って生きていこう。わたしたちの国籍は天国にあるからである。

ダビデの祈り

歴代誌上 21:1,7,17

2007年7月15日

歴代誌は捕囚から帰還して来たイスラエルの民に対して自分たちが神さまの前で礼拝者であることを確認させる意図で書かれたと言われる。21章でダビデの礼拝を考えてみよう。

1節でダビデは人口調査を行なう。7節で神さまはこの行為を悪と見なされ、イスラエルの民を打たれる。ダビデの人口調査は神さまよりも目に見える力を信頼しようとした罪である。エルサレムにふりかかる滅亡の直前に神さまはその災いを思い返される。それからダビデは神の前で自分の罪を悔い改め、民のために執り成しの祈りを献げる。裁きを思い返されたのは神さまの憐れみの故であり、それはダビデの悔い改めより先行する。ダビデはこの出来事が起きた場所で神さまに礼拝を献げるように言われる。ダビデはオルナンの麦打ち場を十分な代価を支払って買い取る。オルナンの麦打ち場はアブラハムが「ヤーウェ・イルエ(主が備えて下さる)」と呼んだモリヤ山であり(創22:14)、ソロモンが主の神殿の建築を始める場所である(歴代下3:1)。ダビデが礼拝を献げた場は神さまの裁きと憐れみが出会う場であり、主の備えた十分な代価が払われる場である。

私たちは礼拝の中でイエス・キリストの十字架を見なければならない。なぜならその十字架は神さまの裁きと憐れみが出会う場である。イエス・キリストは尊い命の代価で私たちは罪赦される道が与えられている。イエス・キリストの体である教会にて礼拝を続けていきたい。

常に喜びなさい

フィリピの信徒への手紙 4:1-7

2007年7月8日

軟禁状態のパウロに教会の分裂や割礼の問題で大変なフィリピ教会の状況が伝わる。パウロは一致と喜びとを勧める手紙を書く。

パウロは意見が合わない2人の婦人に「同じ思いを抱きなさい」「広い心がすべての人に知られるように」と一致を進め、教会の他の人々にはその2人を支えるように勧める。進めの根拠はイエスさまの受肉と従順とに見られるからである。次に「主において常に喜びなさい」と勧める。主において喜ぶということは自分の願いが適えられる喜び以上に深い意味がある。それはイエス・キリストの福音が伝えられていくことへの喜びである。パウロ自身が軟禁状態にいるのにも関わらず、福音が告げ知らされることを限りなく喜んでいる。フィリピ教会が宣教の業に与るためならパウロ自身は死んでも喜ぶと言う。だからこそパウロの「主において常に喜びなさい」との勧めに心打たれる。神さまの福音宣教の業に与っていくことが喜びになると教会は同労者として一つになるのだろう。この点で一致と喜びは不可分の関係にある。最後にパウロは祈って実行することを勧める。わたしたちは神さまに祈ることで、また実行することで神さまの平和を味わうことが出来るのである。

「主において常に喜びなさい」これが私たち教会の今年度の主題聖句だ。牧師・副牧師の就任按手式を機に委託と同労の関係を吟味し、また伝道開始20周年で信仰告白により思いを一つにしてリレーの走者のように、後と前をしっかり見ながら少しずつ走り始めよう。

わたしに従いなさい

マルコによる福音書 10:17-22

2007年7月1日

「永遠の命を受け継ぐには、何をすれば良いのでしょうか?」「神の掟を守りなさい」「それらは幼い頃から守りました」「行って持っている物を売り払って貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」

永遠の命を得ることは神の国に入ることであり、神の支配下で生きることである。それは人間の行為などで得られるものではなく、神さまにだけ出来る業である。彼は幼い頃から守ってきた掟以外の何かを求めて、偉大な先生から答えを得ることを願ったかも知れない。一方、イエスさまは彼が罪人として神さまの前に立つことを促し、そこから隣人に目を向かせようとした。理解出来ぬ彼をイエスさまは慈しまれた。そして彼を服従する道へと召された。彼はイエスさまと共にいて学ぶように招かれたが、悲しみながら立ち去った。わたしたちは聖書からの御言葉を通して、この「わたしに従いなさい」という招きに直面する。キリストの体である教会がこの招きに従うことは、バプテスマと主の晩餐とに示されている。バプテスマはイエスさまの死と復活に与る恵みと決断への道である。主の晩餐は、イエスさまが私たちのためにご自分の体と血を献げられたことを記念し、また罪許された人間同士の真の交わりへの道である。

礼拝や日々のディボーションを通して主の招きを聞き、バプテスマと主の晩餐を行うことにより、イエス・キリストに従っていきたいと切に願う。

わたしについて来なさい

マルコによる福音書 1:16-20

2007年6月24日

イエスさまはガリラヤ湖で漁師たちを召された。この召命の特徴は「ご覧になり…お呼びになり…二人はついて行った」ということにある。私たちにはこの召命がつまづきになるかも知れないが、その特徴を考えてみたい。

第一に、イエスさまは網を打っている漁師たちをご覧になった。イエスさまは彼らのすべてをご存知である。これは私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった神さまの愛である。第二に、イエスさまは漁師たちに「わたしについて来なさい」と言われる。彼らのためにご自分の命を与えるというイエスさまの力強い意志である。この召しは十字架への苦難を負われる神の子との関係を結ぶことへの招きであり、恵みである。第三に、彼らはすぐに仕事も肉親も捨てて従った。「従う」よりむしろ「服従」という言葉が適切だと思う。従う者は召されている方、すなわちイエスさまのみを見ることが何より大切である。漁師たちがイエスさまを理解してから従ったのではない。従ってからイエスさまとの生活を通して徐々に知るようになる。波を恐れず、まず湖に足を降ろしたペトロのように、従った者だけが味わえる信仰からの喜びはとても大きい。

今日は神学校週間である。神さまは全国の諸教会の方々の祈りと支えとを用いて神学生一人一人を養われる。神さまに用いられる教会になるように。

渇いた魂

詩篇 42:2-12

2007年6月17日

詩篇42編の詩人は、自分の魂を水に渇きあえぐ鹿にたとえています。彼は故郷を離れ、異郷の地で神さまを渇き求めているからです。それは、神さまを見失いそうになるような辛い生活だっただろうと想像します。しかし、その中にあって、彼は自分の魂を励まし続け、神を待ち望み、「御顔こそ、わたしの救い」と告白し続けます。どのようにして、それが可能なのでしょうか。それは、主の恵みを一生懸命に思い起こすことによってでした。

私たちの魂もまた神さまを求めて渇きます。辛い状況にあればなおさらですが、そうでなくとも渇きます。私たちの神さまに対する知識は不完全だからです(コリント一13:12)。従って、神さまの恵みを思い起こすこと、信仰の原点に立ち返ることは私たちにとっても欠かせないことです。それは、個人的な信仰の歩みを振り返ることにより可能です。祈りと御言葉によって可能です。しかし、もっとも良いのは教会での交わりではないでしょうか。教会で行われる讃美、祈り、宣教、交わりを通して、私たちはより多く神さまの恵みに気づかされます。そのために私たちは、毎週日曜日に教会に集うのだとも言えます。

しかし、様々な事情により、なかなか教会に集えない兄弟姉妹方がいます。その方々のためにお祈りください。また、今年は東京北教会の伝道開始20周年です。共に、これまでの神さまの恵みを思い起こして、励まされていきましょう。

祈りを聞き入れてくださる

歴代誌上 4:1-10

2007年6月10日

歴代誌は、捕囚から帰還したイスラエルの民を励ます意図で書かれた書である。彼らは1-9章の系図が語られることから、自分たちへの神さまの憐れみと赦しの豊かさを感じることが出来た。

9-10節のヤベツの物語は、まずヤベツが兄弟の中で最も尊敬されていたことを語る。次にその理由を語る代わりに、母親が「苦しんで産んだから」とヤベツと名づけたことを語る。ヤベツの名の意味は苦しみである。それからヤベツの神さまへの祈りを語る。この短い箇所を読んだ多く人々の中には、このような利己的祈りをしても良いのかとためらう人がいれば、これこそがわたしのすべき祈りだと叫ぶ人もいるのではないか。ヤベツが生まれる時の母親の苦しみは、命がけの難産、またはや子どもを到底産めない状況を暗示している。母親の身体的、精神的苦しみはヤベツに何らかのハンディを持たせた可能性もある。もしそうだとすれば、ヤベツの人生には想像を超える逆境があったのだろう。そのヤベツの苦しみは捕囚から帰還した人々が味わった苦痛と重なる。「どうかわたしを祝福し…領土を広げ…守り、苦しみを遠ざけてください」と祈るヤベツの姿から、イスラエルの民は、神の前で生きる神の民としてのあり方を見たに違いない。ヤベツの神さまへの徹底的な信頼に基づいたこの祈りを、神は聞き入れられたとある。

祈りと結果だけに目を捕われてしまいがちだが、祈りを聞き入れてくださる神さまを信頼して現状は厳しくとも、生涯祈り続けていきたい。

恵みに満ちた神

使徒言行録 17:22-34

2007年6月3日

名門大学卒の若夫婦が安定的生活を捨てて山奥で生活する。二人は言う。「今日の幸せは明日の幸せとなる」と。歯を食い縛って幸せを獲得しようとすべてを犠牲にする現代人に警鐘を鳴らす話が最近の韓国で話題になっている。

第2次伝道旅行中、パウロが出会ったアテネの人々は「知られざる神」の祭壇を作ったほどに宗教心に篤かった。パウロは真の神さまをアテネの神々と対比させる。第一に、神さまは創造主であり、天地の主である。またすべての人間に命と息と万物を与えられたお方である。神さまは人間の枠に限られるお方でもなければ、人間に何かを要求するお方でもない。自由な存在である。第二に、神さまは歴史の支配者であり、探し求めさえすれば見出すことのできるお方である。助けを求める人を憐れまれ、主を呼ぶ人に答えられ、共におられるお方である。被造物である人間との間にたてられた約束を誠実に遂行しておられる。神さまは創造主を忘れてしまった人間に対して、放蕩息子を待つ父のように待っておられる。「アテネの人々よ、真の神さまに立ち返ろうではないか。神さまは唯一の道を与えられた。イエス・キリストを死から復活させられた。アテネの人々よ、主に立ち返れ。」

パウロの説教を聞いた大半の人々はあざ笑うか、あるいはは決断を保留した。しかし、信仰に入った者も何人かいたと記されている。恵みに満ちた神に感謝したい。

神の偉大な業

使徒言行録 2:1-13

2007年5月27日

親に覚えられて嬉しかった誕生日、逆に親のことを考えてみたらどうだろうか。教会の誕生日のペンテコステに神さまの偉大な業について考えてみたい。

「ペンテコステ」とはギリシア語で「50番目」の意味である。過越祭から50日後の小麦の収穫祭に聖霊が降る出来事から、初代教会が誕生した。ペトロはこの出来事を旧約聖書の「わたしの霊をすべての人に注ぐ・・・若者は幻を見、老人は夢を見・・・」(ヨエル3:1-5)という約束の実現であることを説いた。一方、この出来事はイエスさまの約束の実現でもあった(ルカ24:48、使徒1:8)。聖霊は神の霊であり、風が思いのままに吹くように自由さを持っている。自由な聖霊の働きはイエスを主と告白させる。また、聖霊はイエスさまがバプテスマを受ける時に降って来た。そのイエスさまは生涯、「神の国」を宣べ伝えられた。ペンテコステの出来事によって誕生した教会は「神の国」の先取りであった。教会はイエスさまの働きに倣って聖霊の助けによって御言葉を教え、互いに交わり、主の晩餐を行い、祈ることに専念していくべきである。今日の教会をも通りぬけられる聖霊の風に敏感に反応できればと思う。

ペンテコステはわたしたち教会の原点でもある。今年は東京北教会の伝道開始20周年だ。ペンテコステに示された「神の偉大な業」が教会の歴史と共に、今も、未来もずっと続けて行われる。大切なのはそれに気づくことである。

あなたがたと共にいる

マタイによる福音書28:16-20

2007年5月20日

現代人はどこか群衆の中の孤独を感じています。教会は何を語り、何をすれば良いのでしょうか。イエスさまの最後の命令から共に考えてみたいと思います。

ガリラヤに行き、山に登った弟子たちは復活させられたイエスさまに再会し、ひれ伏します。「ひれ伏した」とは礼拝をささげたということです。イエスさまは弟子たちに「すべての民を弟子にしなさい」と命じられます。これは教会の働きの中核です。イエスさまは具体的に三つのことを言われます。第一に、「行きなさい」です。福音を知らない人々に対して教会が一歩を踏み出した時、主の業は起きるのです。第二に、「バプテスマを授けなさい」ことです。人が悔い改めて主に立ち返る出来事であるバプテスマは父と子と聖霊の名によって行われます。第三に、「命じられたことを守るように教えなさい」です。イエスさまの教えとは神さまへの愛と隣人への愛とに尽きます。イエスさまご自身がそのような生き方を貫きました。これらのことを語った後、イエスさまは弟子たちに「見よ」と注意を喚起します。そしてイエスさまご自身がすべての日々を弟子たちと共におられる(インマヌエル)と言われるのです。

教会はその働きにおいてインマヌエルの主を信ずる共同体です。自分ではなく、出来事ではなく、イエスさまがこの世の終わりまで、いつも共におられることを信じ、イエスさまの命令を守っていきましょう。

道・真理・命

ヨハネによる福音書 14:1-14

2007年5月13日

ヨハネによる福音書の14~16章は、最後の晩餐の時になされたイエスさまの一つの説教で、17章は説教後の祈りと言えます。今日の箇所はその冒頭部分です。

師の死が近づきつつあり動揺する弟子たちに向かって、イエスさまは「心を騒がせるな」と命じられます。ただ命じるだけでなく、イエスさまはご自分の平和を与えると約束して下さいます(14:27)。しかs、トマスからは「その道が分からない」と聞かれ、またフィリポからは「御父をお示し下さい」と求められます。トマスの質問を機にイエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である(6節)と自分の本性を明らかにします。この言葉はイエスさまが神の子であり、救い主であるというヨハネ福音書の全体の主題と一脈相通じています。「私を知ることは父を知ることになる」と、「私を見たものは父を見たのだ」と御父と御子との一体性に気付けない弟子たちを憐れまれると同時に、彼らの信仰を促します。そしてイエスさまの御名によって祈ることはかなえられることを約束しました。

私たちは世の中の様々なことに心を騒がせますが、へりくだって十字架への道を歩まれたイエスさまの従順によって、神さまの愛が示されたのです。道であり、真理であり、命であるイエスさまに祈り求めつつ、イエスさまに従っていきたいと思います。

主の言葉は真実

列王記上 17:17-24

2007年5月6日

今日の箇所は、神さまの働きにより干ばつの中でやっと食べていけるようになった時、突然息子に死なれたやもめと預言者のエリヤの物語です。

やもめは息子の死を自分の罪への神の裁きだと自分を責める一方で、その苦しさをエリヤにぶつけています。エリヤは何も言えず、やもめのふところから息子を受け取り、自分の部屋に入って主に向かって祈ります。エリヤは息子と共にやもめの苦しみを、自分の苦しみとして受け取り神さまに取り成しの祈りをしました。2回も「主に向かって祈った」とあるとおりです。エリヤの人の痛みを自分の痛みとする祈りに神さまが耳を傾けてくださり、適えて下さったことに驚きます。この出来事によって最後にやもめは「主の言葉は真実」と告白するのです。新約聖書のイエスさまは人々の苦しみをご覧になり、憐れまれました。イエスさまは内臓がねじれ千切れるほどの痛みをもって相手の苦しみを感じられました。イエスさまもまた歩まれた十字架への道はわたしたちの罪の故に自分の命さえも惜しまずに投げ捨てたイエスさまの憐れみそのものです。そのような十字架の道を歩まれたイエスさまに出会ってこそ、人々には、信仰が与えられ、救われるのです。

私たちの教会が、取り成しの祈りをする、また人に必死に祈られる経験をお互いにする教会になることを願います。その取り組みの中から罪ゆるされた一人の新しい命は生れてくるのではないでしょうか。

キリストに向かって

エフェソの信徒への手紙 4:1-16

2007年4月29日

エフェソの信徒に宛てられた手紙からは、教会の中のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との一致を切に願う気持ちが伝わってきます。今日の箇所では、キリストの愛によって一つの信仰、一つの希望に招かれたあなたがたは、互いに自分を誇るのをやめ一つになりなさい、と言われています。

共同体が一致するためには大変な努力が必要です。自分を誇ることなく、かえって弱くし低くすると同時に、相手の欠点をゆるし愛しつづけることを決して止めない忍耐強さが求められるからです。それは簡単なことではありませんが、そうしなさい、と私たちは呼びかけられています。なぜなら、イエスさまご自身がそうなさったからです。イエスさまは私たちのために、神の御子でありながら人間となられ、ご自分のことを誇ることなく、罪人として命までもお捧げになりました。そのような大きな愛を受け、そのことを知った私たちには、その愛に応える生き方が求められるのです。

しかし、画一的な一致が求められているのではありません。私たちには、互いの違いを尊重し合い、それぞれに与えられた賜物によって助け合い、教会を造り上げることができるように多様性が与えられているのです。違いを与えられた者たちがキリストの愛にあって一つになることが、キリストの体を造り上げることであり、キリストに向かって成長することです。それは、キリストに倣って生きること、自分を低くし弱くし、他者と共に生きることを意味します。

永遠の喜び

詩編 16:5-11

2007年4月22日

詩編はイスラエルの民の神さまに対する礼拝です。詩編を読むことにより、私たちも人生のあらゆる場面で共に歩まれる神さまを礼拝することを学ぶことが出来ると思います。私たちは何を喜びとしていますか。

詩編16編の記者は1節で「神よ、守ってください」と叫びから詩を始めて、11節で「命の道を教えて下さいます」と喜びに満ち足り讃美を持って詩を締めくくっています。詩人は神さまと深い交わりを持っています。その交わりの中で神さまを信頼しています。信頼が讃美に、讃美が喜びにつながります。そして厳しい現実にあっても喜び歌うのです。詩人は神さまとの交わりの中で、まず神さまがこの世の中で唯一の「よい方」であることを告白します。また自分の人生が神さまから与えられ、支えられていることを告白します。そして7-8節では神さまを讃美して「私は揺らぐことがありません」と確信に至り、10節では神さまに対する信頼が死を克服しています。詩篇16篇8~11節は使徒言行録2章でペトロの説教において引用されています。ペトロはこの箇所を用いて復活の預言がイエス・キリストにおいて成就されたことを宣教するのです。

わたしたちは「神さまがわたしに生きる道を知らせてくださること」を喜ぶべきです。また、その喜びが「神さまの深い交わり、御言葉との深い交わり」から来ること覚えていくことが大切です。

わたしの主、わたしの神

ヨハネによる福音書 20:24-31

2007年4月15日

無神論者だったルー・ウォーレスはキリスト教の虚構を証明するために本を執筆しますが、聖書を読むうちにイエスさまのことを否定できなくなります。そして自分の信仰告白として小説「ベン・ハー」(副題:キリストのストーリー)を書いたのです。

今日の箇所には、他の弟子たちの復活の証言を信じなかったトマスが出てきます。その場にいなかったトマスは一人でイエスさまが死んだことを悲しんでいたかもしれません。八日後イエスさまは他の弟子たちと一緒にいるトマスに姿を現されました。イエスさまは「平和があなたがたにあるように」と言われます。その「平和」とは復活されたイエスさまが共にいることから来る平和です。トマスを知り尽くしているイエスさまは、トマスにご自身の手の釘跡と、わき腹を見せながら触ることを許して下さいます。そして「信じる者になりなさい。」と促します。トマスを愛するイエスさまは、「答えて『わたしの主、わたしの神』」(28節)と告白します。これはまさに復活の信仰告白です。復活されて傷跡を持ってトマスを受け入れて下さるイエスさまの自由な恵みによって、トマスはイエス・キリストを信頼することが出来たのです。

トマスの告白はほかならぬ私たちの告白です。日々の生活の中で復活の信仰が与えられることを切に祈ります。

キリストと共なる死と生

ローマの信徒への手紙 6:3-11

2007年4月8日

私たちはキリスト共に十字架の死にあずかり、またキリストと共に復活させられて、神の前で生きる存在です。パウロは「神の恵みをたくさん受けるためには、罪にそのままとどまるのが良い」という曲解に対して断固として否と言います。なぜなら「あなたがたも罪に対して死んでいるが、キリストに結ばれて、神に対して生きている」(11節)からです。

「死に対して死んでいる」とは、古い自分がキリストと共に十字架につけられることを意味します。そして自分の欲望に支配されるのではなく、十字架の死に向かって歩まれたイエスさまの従順な姿に似ていくことであります。また、「神に対して生きているのだ」とは、「御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、新しい命に生きる」(4節)とあるように、イエス・キリストを通して与えられた新しい命として生きていくことを意味します。パウロは「キリストと共なる死と生」を、バプテスマを受ける事柄に象徴させています(4節)。水に潜る時、古い自分は死んで、水から上がる時、全く新しい存在となることを象徴します。それはイエス・キリストの死と生に似ていくこと、すなわちイエス・キリストに従うことであります。イエス・キリストの死と生に従うことが可能なのは、私たちがイエス・キリストに接ぎ木された存在だからです。

イエス・キリストの死と復活にこそ私たちの希望があることを感謝して与えられた歩みを歩きたいと思います。

十字架、神の知恵

コリントの信徒への手紙 1:18-25

2007年4月1日

自己が絶対化されたとたん、他者は対話と和解の対象ではなくなり、罰すべき敵となります。パウロが離れたコリント教会は幾つかの派に分かれ、それぞれ自分たちだけが正しいと主張していました。そこでパウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1:18)と言います。

十字架の言葉とはイエスさまの十字架の出来事を意味します。元来の十字架刑は見せしめの残酷な刑罰でしたが、神さまはその十字架につけられたイエスさまを通して、私たちに救いを与えて下さったのです。しかし、十字架の言葉はその特異さ故にある者には愚かな出来事、ある者には神の力として受け取られます。十字架の言葉によって人間は、自分のすべてが照らし出されて滅んでいく者、救われる者に分けられるのです。十字架のイエス・キリストを通して信ずる者を救うことを神さまは喜ばれました(1:21)。この世の知恵によっては神を知ることが出来ません。ユダヤ人はイエスさまにメシアであるしるしを求めましたが、十字架のイエスさまにつまずきました。ギリシア人は哲学的な知恵を求めましたが、十字架のイエスさまを理解できませんでした。しかし、十字架のイエスさまは神さまによって福音伝道に招かれた私たちには神の力であり、神の知恵であります。

全き神であるお方が全き人間として十字架につけられた出来事は、私たちが遭遇するいかなる苦難においてもイエス・キリストが共にいてくださることの確実な約束であります。

世界に贈られた言葉

使徒言行録 28:23-31

2007年3月25日

パウロの伝道は30年に及んだと言われます。それは同時にユダヤ人による妨害、迫害の歴史でもありました。それにも関わらず彼は最後に至るまで、ユダヤ人に対する宣教の業を止めなかったのです。30節に「自費で借りた家」とありますように、2年の間ユダヤ人たちを中心として「朝から晩まで・・・説明し・・・イエスについて証しに務めた」のです。

一方パウロを監視する兵士たちは、同時にその宣教から逃れることは出来なかったのです。そのことはローマから始まってヨーロッパ全土にキリスト教が拡がっていった大きな動きの始まりと見ることが出来ます。

私たちキリスト者たちは、ややもすると、キリスト教についてはよく知っているから、熱心に聴く必要はないと考えてしまいがちです。

パウロの宣教の業はまさしく、そのような私たちへの警告の言葉でもあるのです。よくよく心に留めて参りましょう。

大儀のための譲歩

使徒言行録 21:15-26

2007年3月18日

ユダヤ人たちの間で噂されていたパウロの宣教は、「『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」(21節)ということでした。しかし、パウロが言っていることは律法を義認から完全に切り離し、律法が加わることなしにも、神がイエスの十字架によって賜る義は、割礼のあるなしにかかわらず、信仰を通して与えられると言うことだったのですが。

このことの解決方法として教会の長老たちの進言したことは、4人の誓願をとくべく自ら清めを受け誓願をとくための費用を負担することでした。この事はパウロにとって気の進まないことであったと思われます。しかし、異邦人教会も、ユダヤ人教会も小事によって分裂することは望ましいことではありません。これこそパウロの譲歩という強さが、証された時といえるのではないでしょうか。

主のみこころ

使徒言行録 21:1-14

2007年3月11日

パウロに対して「弟子たち」が、「霊に動かされ、エルサレムへ行かないようにと」(4節)言ったり、アガボという預言する者が「エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す」(11節)と告げて引き止めようとしました。

それに対してパウロの応えは「主イエスのためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13節)でした。

人々は、パウロのこの固い決意を知って「主の御心が行われますように」と言っただけで、ほかに何もいえなかったのではないでしょうか。

このときのパウロには悲壮感は全く見られませんでした。そこにはむしろ「主の御心が行われる」というよろこびをすら垣間見るようにさえ思われるのです。

与える者の幸い

使徒言行録 20:17-38

2007年3月4日

教会は「神が御子の血によって御自分のものとなさった」(28節)と記されています。そしてその教会の「世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさった」(28節)ことを今一度思い起こさせています。

それはパウロの信仰の根幹に、「主に来る者を必ず救う」という主の約束の言葉に支えられてのことであろうと思われます。そこには「受けるよりは与える方が幸いである」(35節)というイエスの言葉でありながら福音書以外で伝えられている言葉のなかに、パウロの体験に裏付けられた確信に満ちた信仰が語られています。

彼にとって、この言葉の持つ意味は、物質優先の今日の私たちに大変衝撃的な言葉です。何故ならば彼の与える「もの」とは「物質」の「もの」を超えて、彼自身の「生命」さえも含み、意味せられているからです。

唯 神とのみ歩く

使徒言行録 20:13-16

2007年2月25日

当時の船便は時間が決められているような定期便ではありませんでした。従って、その港に行って船便を探さなければならなかったし、乗り継ぎは当然でした。しかも、夜間の航行は特別な船だけで、一般の人々が利用するとしたら、大変なお金を必要としたのです。

そのような中で、パウロにとってトロアスからアソスへの一人陸路の旅は、表面上大変なことになったと見えるのですが、彼はこの時を「唯神とのみ歩く」喜びの時としたのです。

それは、エルサレムに集まってくる人々を思いそれに備える時としてよりも、「唯 神とのみ」語らい「歩く」神の与え給うた恵みの時として「唯神とのみ歩く」光栄に満ちた時と位置づけたのです。

あなたは、一人ぼっちになる時がありますか。その時は一人ぼっちなのではなく、「唯 神とのみ」ある喜びの時なのです。

神の驚くべき助け

使徒言行録 20:7-12

2007年2月18日

聖書の時代のクリスチャンたちは会堂を持っていませんでしたので、信徒の家に日曜日ごと主の甦りをおぼえて集い、愛餐と主の晩餐のときをもっていたのです。そこでは、今の礼拝プログラムとはいささか異なった礼拝のありかたがなされていたようです。

ここではパウロともう二度と逢えないであろうという思いであったとはいえ、今日的には考えられない光景と言えると思います。しかしこの状況の中で、神はパウロとトロアスの人々との別離を、痛ましいときとせずイエスが救い主であられることを表すこととし、新たな確信となるようにされたのです。

ユウティコは確かに「死んでいた」のですが、かつてエリヤがしたようにパウロが死体の上に身をかがめて祈ったとき「騒ぐな、まだ生きている」ことを確信したのです。私たちにも神は「驚くべき助け」を贈ろうとしておられるのです。信じて委ねてまいりましょう。

キリストによる自由

ガラテヤの信徒への手紙 5:13-15

2007年2月11日

信教の自由ということが人間の基本的な権利であることを主張したのはバプテスト教会でした。バプテストの人々の働きかけによって、アメリカ合衆国の憲法に信教の自由が掲げられるようになりました。

パウロは「自由は他者のために用いることが大切だ」と教えています。そして、パウロは「隣人を自分のように愛する」ためにこそ自由を用いるべきだと語りかけているのです。

隣人を愛するために自由を用いた方がいます。それは、神の御子イエス様です。イエス様は神様の救いのご計画に従って、受難の道を歩まれました。主は神の御座にとどまるのではなく、世に来てくださいました。命まで投げだしてくださったイエス様の十字架の愛に応え、自ら進んで主に仕える者でありたいと心から願っています。(中田義直)

唯一の扉

使徒言行録 20:1-6

2007年2月4日

本日の聖句は、パウロの第三次伝道旅行の折り返しの前半を記したところです。そこには幾多の妨害や事情が待ち受けておりました。

それにも関わらず、ローマへの伏線であったと知らされるとき、パウロがキリストの福音を新しい地域に伝え、ローマにまで齎したことが僅か6節の中に記されています。

私たちは、ややもすると困難なことに遭遇すると、すぐに諦めてしまいますが、パウロの場合は困難を困難と思わず、危険を危険と思わない。従って、一つの計画が不可能になったとき、彼は「どこかに必ず開かれる扉がある」と確信していたのではないでしょうか。

そうです、神は必ず私たちに「唯一の扉」を開いておられるのです。過ぎ去った時を振り返ってみると、不思議なほどに一筋の路が誰にも見える筈です。その路には神が開いて用意しておられた扉が連なって見えて来る筈です。

安全より大事なこと

使徒言行録 19:21-40

2007年1月28日

本日の聖句に三種類の人々が登場しています。第一の人々にとって、宗教は信仰の問題ではなく、キリスト教が既得の利益を妨害するものであると思いつつ、表に出さずに民衆の信仰心に怒りを齎して、キリスト教を排除しようとしているのです。

第二の者は、事の真相よりも暴動が起きると、ローマ政府によって左遷されることを恐れたのです。それに対してパウロの場合は、自己保全とか、自分の身の安全ということについては、全く無関心だったのです。従って、周りの者がパウロの身を危険から守ってやらなければならない程でした。

それは、パウロの考えや信仰には安全が第一ではなく、第一となるべきものは神の言葉が語り伝えられ、神の栄光が讃えられるべきことであったからです。即ち、自らの身の安全よりも大事なものは、神以外のなにものでもなかったのです。

大いなる決断

使徒言行録 19:13-20

2007年1月21日

昔から「金さえあれば天下に敵なし」とか「健康は富にまさる」あるいは「家内睦まじきは富貴の基」などといって、幸せの条件としていました。本日の聖句にある、エフェソでの出来事も、現代の日本社会とほとんど変わりがないように思います。

当時(約1900年前)のエフェソにおいても、お金と健康は幸せの重要条件だったのです。従って「藁にも縋る」思いをもって、呪術に頼り大金を投じていたのです。一方ではその事のゆえに、大金を手にする人々がいたのです。

そこにキリストの福音を宣べ伝えるべくやって来たパウロたちが、素晴らしい働きをするのを見聞きし、彼らはこれを利用して一儲けしようとしたのです。しかし、逆に彼らの方が大いなる展開を迫られることとなったのです。その結果「主イエスの名は大いにあがめられるようになった」(17節)と聖書は語っています。

主よ、用い給え

使徒言行録 19:8-12

2007年1月14日

ユダヤ人たちの反対運動が逆に、エフェソにおける滞在を長期化し「アジヤに住んでいる者は、・・・主の言葉を聞いた」(10節)ことになるのです。「ツラノの講堂」をパウロたちが借りたのは、昼休みの時間帯(午前11時から午後3時まで)で、この時間は人々は家庭で食事をし休息の時をもつのです。

一見、悪条件に思える時間帯が、見方を変えると誰もが仕事の合間に、参加出来キリストの福音に与ることが出来るということでした。パウロ自身「手ぬぐいや前掛け」(12節)を身につけたまま「ツラノの講堂」におもむいていたと思われます。

私たちは条件が悪いとか、能力がない、時間がないと理由をつけがちですが、主は「用いようとする手を探しておられる」のです。私たちが主の言葉を語ろうとさえすれば、私たちの舌は用いられ、主の言葉を語らせてくださるのです。

真理への案内人

使徒言行録 19:1-7

2007年1月7日

教会の場所がどこにあるかを教えることの出来る人は沢山おられることでしょう。しかし、教会がどのようなことを教え、どのようなことを信じているかを知っていて、教えられる人はそう多くはいません。

バプテスマのヨハネが行っていた活動とバプテスマは彼自身も「わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れている。わたしよりも先におられたからである」(ヨハネによる福音書1章15節)と言って、ヨハネのバプテスマは悔改めてイエスに導かれるための準備に過ぎないことを示しています。

パウロはバプテスマのヨハネの弟子たち「12人ほど」に「イエスの名によってバプテスマを」授け、更に「彼らの上に手を置」いて宣教者として立たせたのであります。

これこそ「真理への案内人」としてのあり方なのではないでしょうか。

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