2022年5月1日メッセージ「神の知恵なるキリスト」コリントの信徒への手紙一 1章18~31節

十字架の言葉は、ある人たちにとっては愚かなものであり、他の人たちにとっては神の力です。なぜこのような相反することがおこるのでしょうか。十字架につけられたイエスが救い主であることは、人間の知恵によって理解できることではないからです。賢ければ理解できるというものではなく、かえって自分の知恵に頼る者にとっては、愚かな話でしかありません。しかし知恵に頼らずに信じた者にとっては、神の力になるのです。神の力とは、人を生かす力です。

ギリシャの中心であるアテネで、パウロは十字架のイエスを伝えようと、知恵にあふれた言葉で語りましたが、それは上手くいきませんでした。

アテネからコリントに行ったパウロは、衰弱し、恐れに捉われ、不安を抱えていました。そんなパウロに神さまは「恐れるな、語り続けよ・・・わたしがあなたと共にいる」(使徒18:9-10)と励まされ、同労者であるアキラとプリスキラとの出会いを与えられます。そして、知恵にあふれた言葉を使わずに語った、コリントでは、イエスがキリストであることを多くの人々が受け入れたのです。それは、神の霊と神の力によるものであったとパウロは言います。

イエス・キリストを宣べ伝えるのに、優れた言葉、優れた知恵、優れた能力は必要ありません。イエス・キリストを証しすることは、神さまに結ばれた人であれば、誰にでもできます。なぜなら、イエス・キリストこそが神の知恵であり、その神の知恵であるイエス・キリストを宣べ伝える時、そこに神さまが働いてくださるからです。私たちがイエス・キリストによって希望をいただいて生きる時、イエス・キリストが宣べ伝えられていきます。                            〔細井留美〕

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