2024年1月14日メッセージ「主の道を備える」ルカによる福音書3章1~18節

 バプテスマのヨハネは、預言の通りにイエス・キリストが宣教を始めるのに先立って、ヨルダン川沿いで人々に罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。ヨハネのもとには、バプテスマを授けてもらうために群衆が集まってきましたが、そんな群衆にヨハネは言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるとだれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」厳しい言葉です。しかし、バプテスマを受ければ罪が赦されると、安易な気持ちでやってきた人々に、悔い改めること、すなわち、これまでの生き方を方向転換して、神に立ち返るのでなければ、バプテスマの意味はないことをヨハネは伝えたのです。そして、人々は、ヨハネの言葉によって、悔い改めることの必要を知ったのです。
 福音書がバプテスマのヨハネに触れるのはごくわずかです。そのため、ともすれば、ヨハネの働きは大したことがないように錯覚するかもしれません。ですが、大勢の人々が彼の呼びかけによって、悔い改めのバプテスマを受けました。また、ヨハネによる福音書では、ヨハネの弟子がイエスの最初の弟子になったことが記されています。ヨハネは人々を確実にイエスのもとへと導いたのです。これが「主の道を備える」働きでした。
 この「主の道を備える働き」は、教会の働きではないかと思います。私たちは、イエスさまのように病を癒したり、罪を赦したりすることはできません。しかし、人々に神に立ち返るように呼びかけること、人々をイエス・キリストに導くことができます。人々の魂を救うこと、人々に信仰を与えることは、イエス・キリストにしかできませんが、私たちは暗闇を照らす光であるイエスさまを指し示し、ここにイエスさまがおられると人々を招くことができます。それが、「主の道を備える」働きであり、教会の役目であると思います。 〔牧師 細井留美〕

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