2012年メッセージ・アーカイブ

2012年のメッセージ

神に従う道

マタイによる福音書2章13-23節

2012年12月30日

神に従う道は、苦しみが伴う道です。私たちのために十字架の道を歩まれた主イエス・キリストに従って、自分の十字架を背負って歩む、十字架の道です。決して楽な道ではありません。ヨセフ一家の逃亡や、エジプトでの定着は神に従う道でした。先が見えない、生き残った者の苦しみを想像すれば胸が詰まります。

私たちはヘロデによるベツレヘム一帯の幼児虐殺をどのように理解すればよいのでしょうか。「神さまの御心だ」「万事が益となるように働くのだ」という答えもできます。しかし、注目したいのは、この不可解さはむしろ理不尽な現実をそのまま映し出していることと、その中には自分を守るために虐殺までも平気で行い、正当化する人の罪の本質が横たわっていることです。

マタイはヨセフ一家の逃亡の出来事を「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言の実現と捉えています。預言の実現とは、人間の罪によって絡んでしまった毛糸の塊を神さまご自身が「神の救いの歴史」のために、丁寧に紐解いていかれる過程です。いわば、神さまの産みの苦しみです。

神に従う道は、十字架の道です。花道ではありません。神さまが産みの苦しみをもってわたしたちを命へと導いてくださるのです。2012年の私たちの歩みに伴ってくださった神様に感謝します。

 

荒れ野で叫ぶ声

ヨハネによる福音書1章25-32節

2012年12月16日

この福音書はバプテスマのヨハネを「光について証をするために」「神から遣わされた」者と記しています。毛衣を着て野蜜といなごを食べる生活や、間近な神の審判のメッセージもありません。ただイエス・キリストの証人であることに焦点を当てています。

当時の宗教指導者たちは人々を遣わして、バプテスマのヨハネの正体を探っています。「メシアなのか」「メシアではない」、「エリヤなのか、あの預言者なのか」「違う」と。彼は自分自身を「私は荒れ野で叫ぶ声」であるとはっきりと言い、「主の道をまっすぐに」する使命をしっかり持っています。彼はキリストを証する者であり、キリストを指し示す働きをしたのです。

荒れ野とは、人間的に頼れるものが一切なくなる状況だと言えます。換言すれば、唯一の望みは神さましかいない環境です。イスラエルの民が神さまにより頼むことを学んだ場所は、40年間の荒れ野でした。バプテスマのヨハネは民を神さまが約束されたメシアに向かわせ、「イエス・キリスト」においてその約束が実現されたことを証したのです。

私たち教会は彼の証を聞き続ける者でありたい、そして彼の証のように、命さえ惜しまず献げてくださったイエス・キリストを指し示し続ける者でありたい、と切に祈ります。このような願いからミッションステートメントを共有して実践していきましょう。

 

神の賜物と招き

ローマへの信徒への手紙11章26-32

2012年12月9日

異邦人教会が広がりつつあった時代、人々はキリストを十字架上で殺したユダヤ人たちが神さまの救いから遠ざかってしまったと思っていたようです。しかし、パウロはユダヤ人たちの不従順を、異邦人全体の救いのための過程として捉え、異邦人の救いが果たされたらユダヤ人たちも救われる、と信じています。

ユダヤ人たちは福音を拒んだことからすれば、神さまと敵対しています。しかし彼らの先祖と約束を立てその約束は神さまご自身が果たされることからすれば、神さまに愛されているのです。この逆説は、かつて不従順であった異邦人たちが神の憐れみによって今は救われていることにも言えます。今不従順であるユダヤ人たちも実は救いの過程にあるという意味では「今」憐れみを受けているのです。

このような神さまの救いの「秘められた計画」とは、「神の賜物と招きとは取り消されない」(29)と言い換えられています。神さまは一人で故郷から逃れるヤコブの傍らで「わたしはあなたと共にいる」と約束されました。神さまはヤコブを選び、とことん神の救いへと導かれるお方なのです。これは神の一方的な「憐れみ」に基づくものです。神さまはいまも憐れまぬ者を憐れみ、わが民でない者を我が民として名づけておられ、招いておられるのです。

イエスさまがお生まれになった出来事を待ち望むアドベントを過ごしています。神さまの賜物と招きに目を向けましょう、誰も気づかない町外れの馬小屋で救いは静かに訪れました。

 

星に導かれて

マタイによる福音書 2章1-12節

2012年12月2日

今日からアドベントです。待降節とも言います。救い主(キリスト)の誕生を待つときです。東方の博士たちの物語から教えられるのは、救い主を待つことが実は「旅立つ」ことでもある、とうことです。

彼らの旅路は星に導かれました。星の導きとは、神さまが先だって導いてくださることを意味します。彼らは星に促されて旅立ったものの、途中でその星を見失ったようです。エルサレムのヘロデのところでイエスさまを求めているからです。新しい王を拝むという彼らの善意は、一瞬その王を危険に遭わせそうになりました。ヘロデの陰謀を手助けることになりかねなかったからです。

しかし、彼らは東方で見た星が「先だって進み」ゆくことを見つけました。彼らはその星に導かれてイエスさまがいるところに無事に辿り着きました。そして幼子に贈り物を献げ、救い主に出会った喜びに満たされました。そして、イエスさまが彼らを待っていたことに気づいたでしょう。

私たちの信仰の歩みもまた神さまの導きを見失う時がしばしばあります。その都度、私たちは自分の道が正しい方向なのだろうかと祈りながら、戸惑いながら歩いています。しかし、今日の聖書箇所には、そのような不確かさが多い信仰の歩みの中に、神さまが必要な時に確かに導いてくださるという希望が示されています。この希望を抱いてアドベントを歩みましょう。

 

神の国の成長

マルコによる福音書4章26-29節

2012年11月25日

神の国とは、神さまの平和と救いがこの世を支配することです。ある人が土に種を蒔くと、その人が知らない間に、種は芽を出し成長する。神の国はそういうものだとイエスさまは言います。神の国の成長に私たちは直接関与できないけれど、神さまご自身が神の国を成長させてくださるのです。

ヨハネの福音書に「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(12:24)」というイエスさまの言葉があります。ご自身の十字架の死によって、すべての人に救いが与えられることを語った言葉です。マルコ12:26に出てくる種もまた、一粒の種、直訳するならば、「その一粒の種」であり、イエスさまのことを指すと思われます。

ならば、種はすでにイエスさまによって蒔かれたのです。イエスさまの十字架によって神の国の種が蒔かれたならば、私たちは神の国が、やがて芽を出し成長し、豊かに実って収穫の時が来ることを確信することができます。

私たちにできることは、神の国、イエス・キリストによる平和と救いの実現に希望を置いていくこと、そして、その希望を証していくことです。私たちが誰を信頼し、何に希望をおくのかを確信するならば、私たちは暗い世にあっても、神の国の成長を待ちつづけることができるし、その希望を人々に証していくことができます。

 

安息日の主、イエス

マタイによる福音書12章1-8節

2012年11月18日

安息日は、天地創造後7日目に神が休まれたことから、人間や家畜の過重労働を避ける規定ですが、バビロン捕囚期以後ユダヤ人のアイデンティティ保持のために割礼と一緒に強調されてきた歴史があります。イエスさまの時代には違反した者は処刑されることもあったようです。

弟子たちが麦の穂を摘んだのは、当時の社会では安息日の規定を破った行為です。ファリサイ派の人々はただちに弟子たちの「律法を破った罪」を告発します。彼らは人のために定められている安息日の精神より、麦の穂を摘んだか否かという細かい細則に縛られていたように思われます。イエスさまはまさにこの律法の本末転倒を正そうとしています。

イエスさまは旧約聖書に親しんでいた人々に対して、①ダビデが空腹だったときに、神殿の供えのパンをたべたこと(サムエル記上21:4-7)、②安息日に祭司たちが働くことが許されたこと(民数記28:9-10)、③神が求めるのは憐れみ(本質)であっていけにえ(形式)ではないこと(ホセア6:6)などの箇所を引用されました。イエスさまの弁論は、安息日が人のためにあるということ、そしてイエスさまご自身がその安息日の主として来られていることを示しています。

私たちにとって安息日とは、キリストの復活の日である「主の日(日曜日)」です。この日を主は「聖別する(献げる)」ように命じられています。私たちはキリストによって訪れた神の支配を宣言し、解放と自由の福音を宣べ伝えるようにと招かれているのです。

 

我々を導きだされた神

申命記6章20~25節

2012年11月11日

教会の幼児祝福式とは、日本で行われる「七五三」に対する教会のカウンターカルチャーです。かつて初代教会がローマ皇帝の太陽神の祭りに対して、クリスマス(キリストの誕生)を祝ったことに似ています。教会が地域と時代の文化を取り入れつつ、福音宣教に励む証です。

子どもたちの成長を祝うなかで、イスラエルの民が子どもたちに何を伝えていたのかに目が留まります。モーセはいよいよカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に、エジプトの奴隷の状態から自分たちを導き出された神さまを伝えています。

導き出し(ヤツァ)とは、「産み出す」という意味で、イスラエルの民は出エジプトの出来事を神さまが産みの苦しみをもって新しい命を与えられたこととして受け止め、語り続けてきました。機会がある度に子どもたちは「定め、掟、法」(=律法、十戒)が何のためにあるのか、あるいはなぜ守るのかと質問し、そして大人たちは十戒を守る前提となる神さまの導き出しを答えました。教会の信仰はこの神さまの救いの喜びからの応答でしょう。

ミッションステートメントに「子どもを愛し、受け入れ、ともに成長する教会になります」という項目があります。私たちに先立って神さまが子どもを愛して、受け入れてくださったことを語り合って、喜びの応答として主に従って教会の歩みを続けましょう。

 

賜物の共同体~

Ⅰコリントの信徒への手紙14章26-33節

2012年11月4日

去る10月はチャリティバザーや、愛餐会、青年会主催のバーベキュー、召天者記念礼拝と行事が立て続きました。神さまから与えられたそれぞれの「賜物」が大きく用いられたことを感謝しています。

この1ケ月の教会の歩みを通して、教会は神さまからいただいた賜物が生かされる「賜物の共同体」であることを改めて実感しました。今日の聖書箇所のコリント教会でも「詩編の歌をうたい」、「教え」、「啓示を語り」、「異言を語り」、「それを解釈」する、「教会(エクレシア)―神に召し出されて集められた群れ」の様子が記されています。

みんなで全体の曲を歌いながら、となりのパートの音を聴き合い、自分たちのパートの音を調和させていく聖歌隊練習をしたことがあります。まずパート練習を徹底するやり方に慣れていた私は最初とても難しく感じましたが、次第に全体の調和を楽しみながら、練習できた経験があります。

教会も神様によって呼び集められた聖歌隊に似ているのではないでしょうか。私たちは神さまの指揮に従って「神の国を待ち望む」というテーマ曲を、各自の音を出し合い、ハーモニーを奏でていく群れです。神さまは「無秩序の神ではなく、平和の神」です。教会のそれぞれの働きが「教会を造り上げる」ために、そして「皆が共に学び、皆が共に励まされるように」行われることを祈ります。

 

主はわたしたちの宿るところ

詩編90編1節、ローマの信徒への手紙8章38-39節

2012年10月28日

ご遺族やご友人と共に召天者記念礼拝にあずかる恵みを心から感謝します。召天者礼拝は、わたしたちより先に神さまの御もとへ赴かれた方々の「死」を悼むと同時に、その悲しみを超えて響いてくる生ける神さまの御言葉に聞く時間でもあります。

詩人は人生を「苦労と災いに過ぎない、瞬く間に時は過ぎ、飛び去る」ものであると嘆いています。絶望の深淵に陥っている様子です。召天者の死を思い起こす時に、私たちも解き明かすことの出来ない「死」を前に途方に暮れたり、苦しんだりするでしょう。

しかし、詩人はその中で「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と祈っています。「宿るところ」は絶大絶命の窮地に立たされた者の唯一の「避けどころ」を意味します。80歳ほどの年月を数える限りのある人にとって最後の避けるところがあるならば、それは「この世が生み出される前から永遠から永遠まで」存在して、暗闇の深淵にたたずんでいる人に御心を留めてくださる神さまのほかありません。

神さまはイエス・キリストを与えてくださり、その誕生や、生涯、そして死と復活を通して、神さまご自身がわたしたちの避けどころであることを示してくださいました。この世のいかなるものであっても「主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」とパウロの確信が、自分たちに与えられることを祈ります。

 

イエス・キリストの登場

マルコによる福音書1章1-15節

2012年10月21日

マルコによる福音書は、イエス・キリストという真に神に従う者によってもたらされた救いの知らせの根源に、真摯に目を向けるようにと呼びかけます。

バプテスマのヨハネやイエスさまの時代、人びとは二重三重の苦しみにあえいでいました。反乱や紛争がおこり、多くの血が流されました。人びとの間には、今の苦難に耐え忍び、神さまに忠実であることで、新しい世界での祝福に与ろうという意識が広まっていきました。罪の告白と悔い改めのバプテスマを促すヨハネの活動は、終末の裁きへの備えでした。

イエスさまの出身地ガリラヤは、宗教的には差別され、経済的には搾取されている場所でした。イエスさまは、人びとと苦しみを共有されていたでしょう。ヨハネの下でバプテスマを受けられたイエスさまに、霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえます。これは、神さまに従う者として召命を受けたことを意味します。

ヨハネが捕らえられると、イエスさまは抑圧され苦しむ人々がいるガリラヤへもどり、その人たちの傍らで神さまの福音を宣べ伝え始めます。私たちは抑圧される人びとと一緒に歩み始めたイエスさまの活動を通して、神の国の福音を鮮明に受け取ります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。イエスさまの言葉が響きます。

 

神が立て、遣わした僕

使徒言行録3章22-26節

2012年10月14日

ペンテコステの出来事後、ペトロとヨハネは生まれつきの足の不自由な人を癒しました。我を忘れるほど驚く人々に対して、ペトロはこの出来事がイエスの名を信じる信仰によるものであることを証しして説教をはじめます。

ペトロはモーセの「主は…わたしのような預言者を…立てられる」という旧約聖書の箇所を引用して、この預言者がイエスさまであることに注目しています。神さまは人生の黄昏の時期にあったモーセを立てて、「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉を与えられ、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を導き出されたのです。

出エジプトの解放の出来事は、神さまがアブラハムと約束されたことの確実な実現のしるしです。アブラハムが神の約束を信じて救われたように、私たちは神さまが「ご自分の僕を立て…遣わしてくださった」ことを信じて救われるのです。これは神さまが独り子をこの世に遣わしてくださった意味でもあれば、ギリシア語では「立て」と「復活」とが同じ言葉であることから、神さまがイエスを復活させてわたしたちに遣わしてくださった意味でもあるのです。

私たちはイエスさまの死と復活の出来事が神さまの救いの働きであることを信じて歩む群れです。生まれつきの足の不自由な人がイエスの名によって癒されたように、私たちもこのイエス・キリストによって真の解放、真の救いにつながるのではないでしょうか。

 

奉仕の働き

Ⅱコリントの信徒への手紙 9章6-15節

2012年10月7日

今日の聖書箇所でパウロの言う「奉仕の働き」とは、エルサレム教会の貧しい者のために異邦人教会に集めている献金のことです。施しの募金です。パウロにとってはこの働きは、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者と地中海沿岸の異邦人キリスト者との間に根強くあった葛藤や摩擦を無くすための、和解の努めです。

この奉仕の働きの出発点は、神さまから与えられたすべての恵みへの感謝です。神さまはあらゆる恵みを満ち溢れさせるお方です。また種を与え、増やして成長させてくださるお方です。かつてモーセはカナンに入ろうとするイスラエルの民に、エジプトで虐げられていた自分たちを導き出してこの土地に導きいれられた神さまの恵みを思い起こして、初物を主に献げて、与えられた全ての祝福を、レビ人と寄留者と共に喜び祝うように勧めました。それは神さまからの恵みを弱い者や貧しい者と分かつことです。神さまの恵みへの感謝は和解へと自然に繋がるのです。

私たちにとって究極な恵みとは、私たちが豊かになるために、主イエス・キリストが貧しくなられたことです。キリストは人となられて人の罪を十字架上で背負って死なれました。ミッションステートメントにも「わたしたちが受けている恵みを分かち合っていきます。」とありますが、私たちはこのキリストの十字架の恵みを分かち合う群れです。明日行なわれるバザーを通して、地域の方々とよき交わりが持てることを、そしてこの恵みを分かち合うことが出来ればと思います。

主と共に生きる

Ⅱテサロニケの信徒への手紙5章1-11節

2012年9月30日

パウロはテサロニケ教会の人々と再臨のことを分かち合う必要を感じていたようです。イエス・キリストが再び来られることを「再臨」といいますが、「主の日」、あるいは「終末」とも言います。終末と聞けば別世界の話のようですが、自分の死に置き換えて考えてみるといかがでしょうか。人の死が「突然」やって来るのと同様に、主の日も「盗人が夜やってくるように」、「妊婦に産みの苦しみが訪れるように」「突然」やってくるものです。突然起きるのに、その時は全く隠されています。パウロは知らない未来への不安を煽るためではなく、主の日を正しく受け止め、今この時を大事に生きることに注目しています。

キリスト者が「主の日」(主のヘーメラ)に対して「昼の子」(ヘーメラの子)として生きるようにと、主に招かれています。そのためには「信仰」と「愛」、「救いの希望」という武具を身にまとわなければなりません。救いは自分たちの努力に左右されるものではない、「主イエス・キリストによる救いにあずからせる」神さまの意志に根拠づけられるものです。だからこそパウロは救いの希望を強調しています。

「主はわたしたちのために死なれました」とあるように、1回限りの決定的な出来事を通して、神さまは私たちに対するご自分の愛と救いへの意志を示されました。キリストの十字架の死と復活には、主の日に完成される「救い」が先取りして示されています。私たちは一人ひとりを救おうとする、主と共に今を生きているのです。

 

どこにいるのか

創世記3章1-13節

2012年9月23日

善悪の知識の木の実とは、人間が自分たちに与えられているすべてのものが神さまの恵みであることを気づくためのしるしであったと思います。人間は園の中央にあるその木を見るたびに、自分たちが神さまから造られ、神さまに守られて生きることを実感していたのではないでしょうか。

ある日、人間は善悪の知識の木から実を取って食べました。これは「神が主である」ことを打ち消して、自分で神となろうとした「人間の根源の罪」です。人間はこの罪の結果「神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」てしまい、神さまとの交わりが持てなくなり、深い断絶を味わうのです。この断絶は人と人との間に、そして人と自然との間にも広がりました。

しかし、神さまは罪を犯したアダムを呼び出して「どこにいるのか」と語りかけてくださいます。この言葉には、人と交わりが持てなくなったことを悲しむ神さまの苦悩が現れていると思われます。神さまは「食べると必ず死ぬ」と言われましたが、人間が命令に背いた時には、むしろご自分の言葉をひっくり返して、皮の衣さえ着せて生かしました。罪深い者と関わり続ける神さまの憐れみがここに表されているのだと思います。

私たちもまた日々の歩みの中で、神でないものに神の座を与えることをしています。このような私の罪に苦悩する神さまは、罪ある人間に関わりつづけ、交わりの回復に誠実に働きかけてくださるお方です。主イエス・キリストの生涯、死と復活を通して神さまはご自分の愛と憐れみをはっきりと示されたからです。

 

命を受け継ぐ

マルコによる福音書10章17-25節

2012年9月16日

金持ちがイエスに問います。≪永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか≫と。イエスは≪持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい≫と答えました。男はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります。イエスの答えにはどのような意味があるのでしょうか。

いつの時代もそうですが「富」の背景には、「貧困」の犠牲が伴うものです。イエスの時代もまさにその構図の中にありました。貧しい者が土地を奪われ、豊かな者が奪った土地を用いて安い賃金でその貧しい者を雇う。豊かな者はさらに豊かに、貧しい者はいつまでも貧しいままに。そのような構図をイエスは怒りをもって見ておられるように思います。

この金持ちの財産は、人々の「永遠の命」そのものであったはずの土地を奪い、収奪の歴史の中で今があることをどれだけ考えたでしょうか。おそらくそのことは考えていないと思います。何故なら私たち自身もまた、今の豊かさの背景を考えて過ごしている者ではないからです。日本の豊かさは、他国の犠牲のもとにあることは否めないことであり、裕福な国の多くが土地を奪い、収奪の歴史の中で豊かさがあります。

ですから、イエスの言葉に「気を落とし、悲しみながら立ち去った」のではないでしょうか。私たちはこのイエスの言葉をどう聞く者でしょうか。イエスは私たちにも問うでしょう。≪持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい≫と。私たちはこの男と同じように「気を落とし、悲しむ」者かもしれません。しかしイエスのもとを去る者ではなく、イエスのところに留まり、この御言葉を深めて行く者でありたいと願います。

 

神の喜びにあずかる

ルカによる福音書15章31-32節

2012年9月9日

今日の聖書箇所では神さまの喜びが失われた息子を取り戻した父親の喜びに譬えられています。父親にとっては息子が生きていて帰ってきたことで十分です。息子の存在そのものは、家出したことや放蕩の限りを尽くした、という行為よりはるかに重要です。父親が失われていた息子との交わりの回復を喜んでいるように、神さまは私たちとの交わりを首を長くして待っています。

下の息子は自分のやったことを反省し、息子と呼ばれる資格はなく、雇い人の一人にしてくださいと申し出ますが、父親はその息子に最高の物を与えて祝宴を開き、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ」と喜びます。下の息子は息子として父親と共に心から祝宴を楽しんで父親の喜びにあずかるのです。

兄の方は畑仕事から帰り、祝宴が弟の帰宅によるものだと知って腹を立てて、父親への不満を爆発させます。実は、上の息子も下の息子と同様に父親の豊かさが分からなかったという面では失われた息子です。しかし父親は上の息子に対して、おまえの弟が戻ってきたのだから、大いに喜び祝おうではないか、お前もこの上ない喜びの祝宴を一緒に楽しもうではないか、となだめているような気がします。

この譬え話は弟と兄がそれぞれ父親の喜びにあずかって、和解の道へと招かれているように思われます。私たちが教会に呼び集められ、また共に礼拝に招かれているのは、まさに神さまの喜びにあずかるためなのです。

なすべき礼拝

ローマへの信徒への手紙12章1-8節

2012年9月2日

パウロは8章の後半でいかなるものも私たちをキリストの愛から引き離すことは出来ないと確信を述べた後、9-11章で神さまの憐れみに同胞であるユダヤ人の救いの希望をおいています。パウロが迫害者から異邦人伝道者へと変えられたのは、キリストを信じる者に救いを与えられる神さまの憐れみのためです。

この神さまの憐れみを深く経験した者として、パウロは勧めています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と。これは神さまの憐れみに応える生き方です。生の全領域において、神の前に礼拝者として生きることを意味します。これは私たちが心の底から神さまに向って生きているのかという方向性が問われる問題です。

私たちは主日礼拝に愛する兄弟姉妹と共に招かれています。キリストが私たちを愛してくださったようには到底隣の人を愛せない私たちですが、主は同じく礼拝に招いてくださっています。そしてそれぞれがキリストの体の各部分であると語りかけてくださり、赦された者として互いに受け入れ合って生きるようにと日常へ送り出してくださっています。

日々の生活の中で私たちはヨブのように思いもよらぬ出来事に遭います。神さまへの信仰が根底から揺さぶられることもあります。ヨブは友だちとの辛いやり取りの中で、神さまに叫んで嘆き訴えますが、最後には神さまの登場に服従します。私たちも日常生活で神さまの臨在の喜びに生きる者でありたいと切に願います。これこそ私たちのなすべき礼拝です。

 

折々の御心

ルカによる福音書章22章42節

2012年8月26日

もはや、戦争は二度としない。平和を祈る、そのような思いを共有する八月でありますけれども、くしくも、竹島問題や尖閣諸島問題などで、日韓、そして日中の関係、国同士の関係が、騒がしくなってしまいました。どちらが正当かなどというお話はしません。しかし、私たちが敬愛する牧師・副牧師として立ってくださっている先生お二人が、魯先生であり、細井先生であること、お二人のお子さんのことを思うと、本当に胸が痛みます。どなたにも勝って平和を願っておられるご家族の休暇が楽しく良いものでありますようにと祈り願わざるをえません。時に、主なる神は、平和を願う私たちに争う姿をくださり、喜びを願う私たちに苦しみを与えられる、楽しみではなく、悲しみを与えられるということも経験していきます。

昨年の3.11東日本大震災の出来事はまさしくそのような出来事でありましたし、そのような災害でなくとも、私たちの周囲に様々な痛みや悲しみが置かれていくという出来事があります。こちらの痛みや悲しみがそちらよりも大きいとか、こっちは小さいとかいうようにして、比較するようなことでは決してありません。

イエスさまの十字架を通して、見えてくることがあります。それは、イエスご自身が、一番、神の御心は隠されているということを経験していかれた方であるということが言えるのではないでしょうか。あるいは、求めていたことそのものは、与えられず、むしろ正反対のものが与えられるということを、イエスご自身が一番、よくご存じであり、自ら経験していかれたお方であります。ゆえに、私たちの痛みや苦しみ、悲しみが与えられる時に、いつも共にいてくださる、インマヌエルの主としておられるということが言えるのではないかと思うのです。これが本当に神の御心かと疑いたくなるような出来事が起こる時に、そのところにおいて、インマヌエルの主がおられるということそのものが、神の御心ではないかと思います。

 

神への服従

ヤコブの手紙4章1-11節

2012年8月19日

ヤコブの手紙はイエスさまの兄弟ヤコブが、ディアスポラの教会に書いた手紙です。ディアスポラとはギリシア語で「離散」という意味ですが、これに当たるヘブライ語は「捕囚」です。両方ともにやむを得ず生まれ故郷を離れての生活を強いられた点が共通しています。イスラエルの人々にとって生まれ故郷を離れて他郷で生きるということは、頼れるあらゆるものがなくなり、神のみをより頼んで生きることにほかありません。このような生き方はアブラハムが神さまから呼ばれ(創12:1)、祝福の約束を信じて「寄留者」として歩み続けた人生によく現れています。

4節に「神に背いた者たち」とありますが、直訳すると「姦通している女どもよ」という意味です。イスラエルの民が神から離れさっていくことに伝統的に用いられた表現です。ディアスポラの各教会はあらゆる神々を拝むヘレニズム社会の中で、神さまにより頼んでいく信仰が薄れていたでしょう。ヤコブは「手を洗いなさい・・・心を清めなさい」(8)とこのような生き方から悔い改めて神さまへの服従を促しています。

神さまへの服従の第一歩は高慢な自分を捨てて、謙遜になることです。神さまの助けを希うことです。主の前でへりくだることです。へりくだって十字架の死に至るまで従順であったキリストを、神さまは高く引き上げてくださいました。それと同様に私たちが神さまにすべてを委ねて助けを祈り求める時、神さまは私たちを高めて下さいます。

 

希望による救い

ローマの信徒への手紙8章18-25節

2012年8月12日

夏の甲子園や、ロンドン五輪が最近の話題です。一方で東日本大震災と原発事故から問われた課題に直面しています。そして67年目の敗戦記念日を迎えます。過去の出来事は見えなくされている時代です。

使徒パウロは「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と言います。様々な苦難の中で伝道者パウロは、2000年前にキリストによって「すでに」神の救いは決定的に成し遂げられたことに目を向けています。しかしその救いは「いまだ」完成されていないが、必ず完成することを信じています。イエス・キリストの死と復活は、この希望の保障です。

被造物は虚無に服し、滅びに隷属され、うめいています。私たちは今回の原発事故を通して、アダムの罪のゆえに呪われてきた被造物のうめきに気づかされました。被造物だけでなく、私たちもまた世の中の不条理や理不尽な出来事を目の当たりにしながら、その理由が分からないといううめきを持っています。そして神の子とされること(救いの完成)を待ち望んでいます。パウロはこれらの被造物と人間のうめきを、新しい命を生み出すための産みの苦しみとして捉えています。

そして、神さまも霊を通して共にうめきながら、執り成しの祈りをしてくださると言っています。救いの確かさは、キリストによって示されたこの希望の中に日々生きることではないでしょうか。完全な救いを待ち望んで歩みつづけましょう。

見えるようになりたい

マルコによる福音書10章46-52節

2012年8月5日

目の不自由なバルティマイは必死の覚悟で人々が叱るのにも屈せず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」とイエスさまの憐れみを叫び求めます。

イエスさまは彼を呼ばれ「何をしてほしいのか」と聞きます。彼が求めたのは、財産や、社会的な名声、地位ではありませんでした。「目が見えるようになりたい」という願いです。これは目の不自由な者の当然の願いであると同時に、イエスさまを正しく知ろうとする教会の願いでもあったのではないでしょうか。

なぜなら、彼の応えは前の段落でイエスさまに同じことを聞かれた二人の弟子の地位や権力への願いと対照的だからです。弟子たちはイエスさまの歩まれる十字架の道が理解できていないのに対して、バルティマイはその無知から出発しています。これは目が見える者と見えない者との逆転で、私たちが何を願うべきかが示されているのです。イエスさまはご自分が来た理由は、すべての人に仕えるためであり、多くの人の身代金としてご自分の命を献げるためだと言われています。

目が見えるようになることは、イエスさまご自身がイザヤ書の中で「主がわたしを遣わされたのは…目の見えない人に視力の回復を告げ」るためだと言われたように、神さまの救いに直結します。バルティマイはほかならぬ私たち自身です。イエスさまに自分たちの野望を託すのではなく、正しく見て従っていきたいと願います。

 

神の業が現れる

ヨハネによる福音書9章1-12節

2012年7月29日

イエスさまは、生まれつき目の見えない人がそうなったのは、神の業が現れるためだと言われました。そして唾でこねた土を目に塗り、シロアム池で洗うようにと言われました。彼はことばどおり行なって目が見えるようになりました。

この上ない出来事を前に、人々の喜びが感じ取れないのは不思議です。まさに「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)時代を明白に表していると思われます。今を生きる我々もまたいつの間にか日々の生活で喜びを失い、渇き切っているのではないでしょうか。これは私たちが実は目の見えない人であることを意味するでしょう。

神の業とは、病をいやす奇跡そのものというよりは、病が罪の結果だという因果応報の信仰に否を唱え、当時の価値観のために苦しめられていた者たちを解放し、自由にして、救ってくださるイエスさまの言葉や行動を意味します。そしてそのイエスさまを信じさせる、神さまのすべてのお働きこそが神の業なのです。イエスさまは生まれつき見えない人をシロアム池に行かせました。ご自身が神さまから遣わされた者であることを人々が信じるようになるためでしょう。

私たちは主イエスこそが光として暗闇の世に遣わされ、十字架上で死ぬまで我々を愛しぬかれ、真の喜びを回復させてくださるお方であることを信じています。神の業を奇跡だけに制限せず、イエスさまを信じさせる神の働きとして受け止めて歩んでいきましょう。

 

命と平和への道

ローマの信徒への手紙8章1-6節

2012年7月22日

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)

自分の願望と行いとが一致せず、自分の中で分裂を起こし、人間の弱さを徹底的に知らされているパウロの叫びは、現代に生きる私たちの叫びでもあります。キリスト者は、神の深い愛を知るゆえに、自分が神の前に何者であるのかを知らされ、自分のうちなる罪の現実を知らされるのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と語るパウロ。

しかし、パウロは、罪の支配の下にあって苦悩するただ中に、キリストの希望を語ります。罪人の側に立ち、罪人の赦しを願う主イエスが、人間の罪を負って十字架で死んでくださった。それゆえに、イエス・キリストに結ばれた者は、もはや罪に定められることはないと、深い慰めを語るのです。そして私たちは、キリストの救いにあずかる者だからこそ、霊に従って歩むことが求められています。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6)。霊に従って歩む者は神のいのちに招かれ、神との間に平和が実現する時に、人と人との平和、被造物との平和も実現します。

福島で原発避難者と出会いながら、なお電力に依存した便利な生活を求め続ける私たち。自分の思いと行いとが一致せず、自分の弱さを徹底的に思い知らされる私たちを憐れんでくださる主に助けを求めつつ、主の愛に応答していきたいと願います。

 

最も小さい者を尊ぶ

2012年7月15日

マタイによる福音書25章31-46節

皆様は最後の審判をどのようにイメージしていますか。裁き主が人々を左右により分けて右側の者には救いを、左側の者には永遠の罰を与えられる、という厳しいものを思い描いていますか。あるいは最も小さい者をなぜ軽んじたのかと責められることをイメージしていますか。どっちにせよ、最後の審判には良い印象がないでしょう。

しかし、私はイエスさまが言われる「最も小さい者」が誰を指しているのかを考えることで、この場面が逆に教会を大いに力づける言葉になると信じます。「最も小さい者」とは、すくなくともマタイによる福音書においては空腹と渇きに苦しむ社会的な弱者ではなく、むしろイエスさまに従って福音を宣べ伝えている伝道者たちを指していると思います。

ですから、今日の言葉はわたしたちがとがめられる言葉というよりは、神さまがアブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」と約束を与えて励ましたように、主イエスがご自分が遣わされた教会の味方をしてくださる、という力強い励ましの言葉なのです。キリストは私たち教会が気落ちせず、福音宣教に励んでいくようにと招いてくださっています。

わたしたちをこの世に遣わされたイエスさまは、自ら最も小さい者としてこの世に来られ、最も小さい者と共に生きられ、最も小さい者として死なれました。だからこそ私たちは弱くされた者の只中におられるイエスさまを尊ぶ生き方を選び取って歩みましょう。

神の思いと私の思い

マタイによる福音書6章10節

2012年7月8日

先週は3人の若き魂がバプテスマを受けました。赤ん坊の時から見守ってきた3人のバプテスマに嬉しい反面、心配もあったでしょう。バプテスマ式で感じたのは、一人ひとりがイエスさまにしっかり捉えられていることでした。神さまの思いと私の思いとは違う時が多々あります。

私たちはダビデが立ち向かった3メートルの戦士ゴリアトや、ペトロが湖の上で見た激しい波、イエスさまの惨たらしい十字架の死を前に恐怖と絶望を抱くがちです。神さまの救いが見えないからです。イエスさまは見えない者が見えるようになるために来られました。

イエスさまは弟子たちに「御国が来ますように、御心が行われますように」という祈りを教えられました。神さまの支配がどこまでも行き届き、神さまの意思が完全に行われることを願う祈りです。今日もイエスさまの時代と同様、神さまの救いが見えないことが多いかも知れません。だからこそ、私たちは共に御国と御心を祈っていく必要があるのです。

イエスさまは今も教会と共に「わたしの願いとおりではなく、御心のままに」と祈られ、「彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と祈っていてくださいます。私たちはこのイエスさまの祈りに支えられて、赦されて、日々の生活の中で信仰をもって生きるようにと招かれています。

私の思いを捨て、神さまの思いを見上げて歩みましょう。

聖霊の働き

コリントの信徒への手紙一12章1-11節

2012年7月1日

パウロはコリント教会の人々がそれぞれの違いを受け入れられず、争っている状況に対して、神の霊の働きを伝えています

まず、イエスを主と告白してキリスト者となったのはそれぞれに働かれる神の霊によるものです。様々な違いがあっても、このことは教会につながっているすべての人々に共通しており、主告白の信仰を言い表して教会の一員となったはずです。教会はこのような神の霊の働きによって一つにされているのです。

神の霊は、賜物(カリスマ)、務め(ディアコニア=奉仕)、力(エネルゲマ=働き)などの多様な仕方で現れます。具体的には、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力などです。大切なのは、これらの霊の働きによって与えられた賜物は、全体に益となる、ということです。だからこそ、それぞれの違いは教会の豊かさとして、教会形成に生かされていくのではないでしょうか。

聖霊は、望むままに賜物を一人ひとりに分け与えてくださいます。これは人との比較対象ではなく、キリストの体である教会に与えられた豊さです。それぞれに与えられた賜物を十分に生かされ、一人ひとりの輝きが全体の調和へとつながることを祈ります。

 

人間の傲慢

サムエル記上13章5-15節

2012年6月24日

安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。平和とは、全く神の戒めにすべてをゆだねて、安全を求めないということである。(ボンヘッファー)

日本において、「安全」が隣国との関係を引き裂き、沖縄との関係を引き裂いています。

イスラエルの人たちが王を望んだのも、安全のためでした。隣国への不信感の中、人々は目に見えない神さまに頼るよりも、目に見える王と軍隊によって安心を得ようとしました。

王に選ばれたサウルが率いるイスラエル軍は、ペリシテの大軍を前に、士気が下がり、逃げ出すものが続出します。約束の7日間が過ぎても到着しないサムエルにしびれを切らせたサウルは、士気を高めるために自ら焼き尽くす捧げ物をささげます。しかし、それは神によって立てられた祭司の働きを侵害することであり、戦争のために神を利用することでありました。

神の言葉を度々ないがしろにするサウルにサムエルが言います「高慢は偶像礼拝に等しい」。主に従わないことは、自分を中心にすること、自分を神の座に据えることであるとの指摘です。王を求めたイスラエルの罪とサウルの罪は、神ではなく自分を中心にした罪でした。しかし、これらは、人間に共通する罪、わたしたちの誰もがもっている弱さではないでしょうか。私たちの弱さを自覚しつつ、神さまにゆだねて歩んでいけたらと思います。

主を誇れ

コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章26-31節

2012年6月17日

コリント教会の人々は「わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはケファにつく、わたしはキリストにつく」と争っていました。パウロは旧約聖書のエレミヤ記を引用して人ではなく「主を誇れ」と勧告しています。

誇るとは、ヘブライ語の「ハレル」(意味:ほめたたえる)ですから、ほめたたえる対象は神さまです。しかし、コリント教会の人々は人の知恵や力をほめたたえ、人を神の座に置いてしまいました。パウロは教会の中でこのようなことが起きていることを嘆いています。

パウロは神さまが一方的な恵みによって「無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の低い者、見下げられている者」を、ただその信仰によって救われたことに、コリント教会の人々の目を向けさせようとしています。神さまの救いは人間の知恵と力と富とによるものではないから、誰一人神の前でこれらのことを誇ることはできません。また逆にこれらのものが無くて悲しんだり、自分の救いを疑う必要もありません。

神さまはキリストの十字架においてご自分の知恵と力を示されたからです。わたしたちが誇るべきことは、自分たちの無力さや弱さの中にあっても、神によって主イエス・キリストに結ばれている救いの実現なのです。主をほめたたえます。

 

神は人を分け隔てない

使徒言行録10章34-43節

2012年6月10日

ペトロはある幻から示され、当時の律法では禁じられていた外国人のコルネリウスの家を訪れました。ペトロはコルネリウスも夢を見て、ユダヤ人の自分を招いたことを知り、ユダヤ人も外国人も神を畏れ敬い、信じる者は救われることが、神の御旨であることが確信できました。

ペトロは時を移さず、神さまがイエス・キリストを通してご自分の愛を示されたこと、そして主イエスがその生涯において歩き回りながら人びとを助け、病人を癒されたことを伝えました。そして十字架の死と復活を通してその救いを確かなものにしてくださったことを伝えました。

御言葉を受けてコルネリウスとその一家はバプテスマを受けました。聖霊によって語るペトロも、聞くコルネリウスも目が開かれ、神さまの救いの御業にあずかったのです。神さまが差別なさらないお方であることを知った者は、人を差別しない生き方へと招かれているのです。

7月9日から外国人登録法が廃止され、改定入管法が施行されます。今まで以上に外国人を徹底的に管理し、必要ない外国人を追い出すシステムの強化です。外国人を地域に共に生きる「住民」として認めて、違いをあるがままに受け止め合う、豊かな社会を目指すのは、社会的に弱い立場に置かれている人びとにも生きやすい社会を目指すことでしょう。

 

主の招きに応えて

使徒言行録2章37-42節

2012年6月3日

集まって熱心に祈っていた一人ひとりに聖霊がとどまり、違う言葉で神の業を語る不思議な出来事が起きました。それを見て不思議がっていた人々に対して、ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と大胆に語ります。

御言葉に突き動かされ、「どうすればいいのか」と聞く人々に、ペトロは三つのことを語ります。第一に悔い改めです。イエスさまを殺した張本人が自分自身である、という罪を告白することです。第二にバプテスマです。イエスさまの死と共に古い自分が死に、イエスさまの復活と共に新しい命を生きる、ということを体で告白することです。第三に罪の赦しです。私たちの罪はイエスさまが変わりに背負って十字架で処断されました。私たちはそのことを信じて赦された罪人として生きるのです。これらの三つはまさに聖霊の働きによる業なのです。

多くの人々はこの約束を信じてバプテスマを受け、教会に加わりました。最初の教会は御言葉を分かち合い、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣きました。主の晩さんをはじめ、食事を共にしました。そして祈り合い支え合いながら、キリストの体である教会を形成していったのです。

同様の約束が私たちにも与えられています。主はこの約束に生きるようにと私たちを招かれています。この招きに答えて、御言葉を中心にした主にある交わりが豊かな教会を形成していきましょう。

 

求める者に聖霊をくださる

2012年5月27日

イエスさまが弟子たちにお話を聞かせています。

「夜中ある人の家に旅行中の友人がきた。主人は何も出すものがないためパンを借りに別の友人を訪ねるが、その友達に戸を閉めたし、子どもたちも寝ているから面倒をかけないでくれと言われるに違いない。」

しかし、イエスさまはパンを借りに友人を訪ねた人がしつように求めれば友人は起きて何でも与えるだろうと言われます。そして求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると説かれました。「あ、何でも一生懸命に祈れば与えられる」と思いがちですが、イエスさまは最後に神さまは求める者に聖霊を与えてくださると言われます。

この話で食べ物を求めているのは旅人自身がではなく、夜中に旅人を迎え入れた友人なのです。ここに隣人の欠けに敏感でありつつ、神さまに熱心に求める姿勢が示されています。イエスさまが教えられた主の祈りが「われわれの祈り」であることと同じ文脈です。

ここで約束された「聖霊」は、ペンテコステの出来事を通して実現されました。求めている人々に聖霊が与えられ、すべての人々が自分たちの故郷の言葉で福音を告げ知らされる、違いが豊かさに変えられたのです。バベルの塔の一致を目指すこの世に対して、われわれは聖霊による一致を示していきましょう。

「イエスの足を見て触る」を聞いて

ルカによる福音書24章33-49節

2012年5月20日

先週の礼拝では日高龍子宣教師(タイ)に「イエスの手と足を見て触る」と題して礼拝宣教をしていただきました。十字架上で殺された主イエスがその傷跡のまま姿を現された時、弟子たちの中に何が起きたのか、また弟子たちが何をしたのか、という二点について、恵みに与りました。

弟子たちは不安を抱えていて、見ながらもなかなか信じ切れていませんでした。しかし、主イエスは弟子たちの真ん中に立って、平和を祈られ、ご自分の手と足を見て触るようにと言われました。見ているのに信じられない、これが十字架の前に立つ者の戸惑いであると気づかされました。そしてその戸惑いは私たちの中にもあるものだと思わされました。

主イエスは焼き魚を持って来させ、弟子たちと一緒に食卓に着かれました。神の国の祝宴を弟子たちに先取りして味あわせ、主イエスの復活の証人となるための「聖霊」を約束されたのです。

不思議がっていた弟子たちを復活の証人へと招かれた主イエスは、今も同様に「教会」の真ん中に立ってくださり、聖霊を与えてくださり、主と共に歩む喜びを味あわせてくださることに深く気づかされました。

タイのある教会の話からも励ましを受けました。教会の礼拝に出席することこそが一番の奉仕であると、礼拝に与る恵みを感謝して喜べる教会がとても素晴らしく思えました。私たちも日々復活の主イエスと出会い、復活の証人として歩んでいきたいと切に祈ります。

決して奪われない

ヨハネによる福音書10章22-30節

2012年5月13日

神殿奉献祭とは、バビロン捕囚からの帰還やマカバイ戦争に起源を発して、神殿を取り戻して神さまの臨在を喜び祝う祭りです。著者はこの祭りを背景に、人々が目に見える神殿を喜んでいるが、真の神殿であるイエスさまは見えていないことを皮肉っているようです。

ユダヤ人たちはイエスさまに「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言っていますが、イエスさまの言葉や行う業に目を向けてはいません。彼らは自分たちが待っていたメシア像とはまるで違うイエスさまの言動を理解できませんでした。

しかし、このような不信仰の世代に対しても、なお福音が語られています。イエスさまは善い羊飼いです。善い羊飼いは羊のために命を捨てます。羊は羊飼いの声を聞き分け、従うのです。イエスさまはわたしたちのために十字架につけられ、罪の裁きをもろに引き受けてくださると同時に、救いの道を与えられました。主の一方的な恵みなのです。

私たちの救いはこのイエス・キリストの十字架の死と復活に根拠をおいています。私たちの完璧さの故ではありません。キリストが成してくださったこの救いは決して奪われません。大胆にイエス・キリストを通して神さまのもとへ進んでいきましょう。

イエスを通して神のもとへ

ヨハネによる福音書14章14-21節

2012年5月6日

イエスさまは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と言われます。これは主イエスの招きです。わたしたちは信仰の弱さのために自己嫌悪に陥ったり、「あなたのためなら命を捨てます」と強気を誇示したりする必要はありません。ただ「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と主イエスに目を向けたいものです。

イエスさまは嵐の中で「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫ぶ弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われ、弟子たちがいかなる場合でも、イエスさまが共にいてくださることから目を離さないようにと言われています。

イエスさまはご自分を「道、真理、命」であると言われていますが、わたしたちはイエスさまが十字架につけられ、死んで葬られ、復活されたことを通してのみ、神さまの愛を知ることができ、イエスさまの言葉を聞き、イエスさまの生涯に目を向けてはじめて神さまの豊かさにあずかることができるのではないでしょうか。

日々の祈りはこのイエスさまの言葉を体験する大切な場面です。イエスさまの名によって何でも祈れる恵みが与えられているからです。道であり、真理であり、命である主イエスと共に歩みつづけていきましょう。

わたしは彼らの神となる

エゼキエル書11章14-21節

2012年4月29日

エジプトを脱出後カナンに定着しはじめたイスラエルは、サウロ王、ダビデ王、ソロモン王時代を経て南北に二分されます(前931年)。そして北イスラエル王国はアッシリア帝国に(前721年)、南ユダ王国はバビロン帝国に(前587年)滅ぼされます。エゼキエルは異国で捕囚になった民に主の言葉を伝えました。彼の名前の意味は「神が強くする」で、神ご自身が捕囚の民を強くするという意味もあったのでしょう。

捕囚された民は神さまから見捨てられたのではないかと絶望していたでしょうし、エルサレムに残っていた人々からも、「この土地は我々の所有地」だと言われていたようです。しかし、エゼキエルは主が捕囚の民を憐れまれ、彼らの礼拝する聖所となって共におられ、必ず呼び集めて故郷に連れ戻す、という主からの約束の言葉を伝えたのです。

この主の言葉によってイスラエルの民は自分たちの偶像礼拝を悔い改め、「わたしは彼らの神となる」という約束を信じて生きるように変えられていったのです。教会もまた主イエス・キリストの死と復活を通して、与えられている希望に生きるように招かれています。

先の見えない暗がりを歩くような時、「わたしは彼らの神となる」という神さまの決断を通して成し遂げられた「神との関係の回復」の宣言を聞き、大胆に語っていきたいと思います。

落胆しません

Ⅱコリントの信徒への手紙4章5-18節

2012年4月22日

わたしたち教会は主イエス・キリストを宣べ伝えています。自分自身を宣べ伝えているのではありません。わたしたちはキリストが死んで葬られ、復活されたことの証人です。これが教会の使命であり、救いの恵みに応える生き方です。

教会は道徳的に素晴らしい人々の集団ではありません。自己中心的で人を愛せない弱さを抱えて、なおそのような自分たちを受け入れてくださったイエス・キリストによって生かされている群れです。弱さや欠けがある意味でわたしたちは土の器です。しかし、このような私たちを愛してくださったイエス・キリストという宝を持っているのです。

だからこそ、パウロの「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という告白は、わたしたちの告白でもあるのです。十字架の主イエス・キリストが復活されたがゆえに、キリストと共に生きる私たちには完全なる絶望はありません。この逆説は真理です。

私たちの前には突然の困難な出来事が立ちはだかることがあります。そして自分たちの力では何もできないことだけははっきりしている状況に置かれることがあります。しかし、わたしたちは「落胆しません」。キリストが共に歩んでいるからです。

キリストによる一致と成長

エフェソの信徒への手紙4章16節

2012年4月15日

人生はスピードではなく、方向です。間違った方向に向かってスピードを出せば出すほど、目的地は遠くなるばかりです。方向が大切です。

教会はどんな方向に進んでいけば良いのでしょうか。2012年度の主題目標は「キリストによる一致と成長」です。キリストによってひとつの体にされた教会は、互いの違いを認め合いながら、補い合って結び合わされていく生き方が与えられています。劣等感や優越感を捨て、弱い者を配慮し、共に苦しんで共に喜ぶ共同体を目指しましょう。

世の中でも一致がうたわれています。東日本大震災直後から「頑張ろう日本」というスローガンを誰もが使っていますが、その一方で風評被害や、がれきの受入れ拒否、無関心などの課題が浮き彫りにされました。また国歌斉唱時に起立だけではなく口の動きさえも監視される、画一化はいっそう加速化し、思想の自由が脅かされているように見えます。このような時こそ教会がバベルの塔を目指すこの世の一致に否を唱え、キリストの体としての一致を示す時ではないでしょうか。教会は共に生きる天の国の模型であるからです。ここに真の成長があると信じています。

2年に渡るミッションステートメントの作成が成文化出来たことを心から感謝しています。これは「キリストによる一致と成長」という北極を示すコンパスとなるに違いないと確信しています。

葬られて復活なさった

マルコによる福音書15章42-16章8節

2012年4月8日

イエスさまが十字架上で息を引き取られた時、「全地は暗くなり…神殿の垂れ幕が…真っ二つに裂け」ました。垂れ幕が裂けたことは、生前のイエスさまがご自分を新しい神殿に比喩されたことの実現だと言えます。世が暗闇に支配されたと思われたその時に、実は神さまの救いは成し遂げられたのです。

アリマタヤ出身のヨセフはイエスさまの遺体を十字架から降ろして墓に葬りました。このヨセフのピエタ*と葬りは覆すことの出来ないものです。そしてこれを見届けていた女性たちは悲しみの中でも、その時に自分たちに出来ることを行動に移しました。イエスさまの遺体に香料と油を塗るために墓に出かけたのです。

しかし、墓の中に遺体はなく、戸惑う女性たちは白い衣を着た若者に「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げ知らされます(6)。女性たちは恐ろしくて、墓を出て逃げ去り、震え上がり、正気を失い、黙り込んでしまいました。

この沈黙は彼女らをガリラヤで自分たちと一緒に生活をしていた主イエスに向かわせたのではないでしょうか。*ピエタ:キリスト教美術のテーマの一つ。イタリア語で「慈悲」の意味で、キリストを十字架から降ろして、遺体をひざの上に抱いて哀悼するマリアを表現。

 

父よ、彼らをお赦しください

ルカによる福音書23章32-43節

2012年4月1日

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)

イエスさまは十字架上で死に耐えながら、ご自分を十字架につけた人々のために赦しの祈りをささげています。イエスさまはご自分のエルサレムの入城を「ホサナ」と歓迎した人々が、1週間が過ぎない内に「十字架につけろ」と叫ぶことをご存じだったのでしょう。手のひらを反す彼らの弱さを担うために十字架で死なれました。この赦しの言葉は今もわたしたちを支えてくださっていると信じます。

イエスさまの両側に犯罪人2人が十字架につけられていました。その一人が主イエスに「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と叫びます。東日本震災以後多くの方々がこのように叫んできたかも知れません。しかし、イエスさまは叫んでいる犯罪人の隣におられました。イエスさまは犯罪人の姿で痛んでいる人々の傍らで一緒に痛んでおられました。愛する家族を失った時に、最後まで一緒におれなかった悔いや負い目が、残された者には残ります。しかし、この赦しの言葉には、人間の限界と弱さを担われる主イエスの慰めが響いています。

私たちの日々の歩みは、十字架のイエスさまのこの赦しの祈りに支えられています。私たちの傍らにおられる主イエスにすべてをゆだねて歩んでいきましょう。

互いに愛し合う

ヨハネによる福音書13章31-35節

2012年3月25日

イエスさまは十字架につけられる夜、愛する弟子たちと一緒に過越祭の食事を取りました。食事の途中、イエスさまは弟子たちの足を洗った後、ご自分がされたように弟子たちも互いに足を洗い合うようにと言われました。足を洗い合うとは、謙遜に互いに仕え合うことです。

ユダが出ていきました。十字架の死がいよいよ迫ってきています。イエスさまは弟子たちに新しい掟を与えられます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。

イエスさまは弟子たちが互いに愛し合う前に、イエスさまご自身がいかに弟子たちを愛されたのかを見て欲しかったのでしょう。弟子たちは自分たちの先生の死を前に、イエスさまを知らないと言ったり、逃げてしまったりしました。弟子たちは自分たちの愛の無さを痛いほど知れば知るほど、そのような弱い自分たちのために十字架を背負って、最後の最後まで自分たちを愛し抜かれたイエスさまの愛を見たはずです。

私たちが互いに愛し合えない者であることはイエスさまもご存知です。しかし、そのようなわたしたちのために主イエスは十字架を背負われました。わたしたちは十字架の前に自分が何の条件もなく愛された存在であることに気づかされるのです。そしてそこではじめて、互いに愛し合う、第一歩を踏み出していけるのです。

 

 

主により開かれる

マルコによる福音書7章31-37節

2012年3月18日

今日のこの箇所には、ティルスやシドン、デカポリスという地名がここで出てきていますが、イエスさまは、それらの場所で、すでに様々な癒しの奇跡を行っておられた場所でもあります。デカポリス地方では、墓場につながれていた人、手の施しようがないとされていた人を、正気に立ち返らせたという癒しの奇跡を起されています。おおぜいの人々の期待が渦巻く中に、イエスさまはガリラヤにもどってこられた。そこで、人々は、耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来たのです。

この当時、手話が成立していた時代ではありません。この人の親も含めて、周囲の人々すべてが、コミュニケーションが出来なかった人が連れてこられた。何か悪い霊が取り付いているのではないだろうかと考えられていたこともあるでしょう。その彼に、イエスさまの指が自分の両耳に差し入れられた。そして、イエスさまの唾がつけられた指が、自分の舌に触れる。彼はそういう経験をする。

彼は、おそらく、長い人生の中で、人が一生懸命、自分に話しかけ、しかし、通じないのを見ては、こいつはダメだ。何を話しても分かりゃしない、というあきらめが混じった顔になることを繰り返し、繰り返し、見てきたのであろうと思います。父親も母親もきょうだいも…。そういう彼に対して、イエスさまは違っていた。イエスさまは自分に正面から向き合い、自分を癒そうと自分の耳と舌に触れてくださった。イエスさまは、自分を癒そうと父なる神に祈ってくださった。そして、言葉をくださった。エッファタ!(開け)

からだが癒されるということ以上に、関係の回復がもたらされる、ここに本当の奇跡があります。

主を求めつづけよう

詩編22章23-32節

2012年3月11日

東日本大震災から早くも一年が経ちました。地震、津波、原発事故は死者15,854人、行方不明3,203人という深い傷を残しました。無論数字の向こうにはもっと深い悲しみが影を落としていて、震災は今なお人々の心を痛めつけているでしょう。

詩人は23節で「集会の中で賛美」して主の御名を語り伝えています。礼拝に身を置いている詩人は、神に見捨てられ、人に嘲笑われています。この状況はまさに、被災を受けた方々の叫びでもあれば、その中で福音を伝える私たちの教会の思いでもあるのではないでしょうか。

私たちの主イエス・キリストもまた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。このイエスさまの叫びに今、私たちは支えられ、救われているのではないでしょうか。負うべきでない十字架を背負わされたキリストであるために、キリストは被災された一人ひとりと向き合える、そしてその痛みが理解でき、励ますことができるのではないでしょうか。また教会は今痛んでいる人々と共にキリストがおられることを思い知らされているのです。

復興の道のりの中で教会は何ができるのでしょうか。主は被災された方々の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。キリストをとおして「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてください」と主を求め続けて礼拝していきましょう。

 

弱さを誇って生きよう

コリントの信徒への手紙11章19-30節

2012年3月4日

使徒パウロは絶えない苦労や、投獄、鞭打ち、死ぬような目に度々遭ってきたことをあえて誇っています。割礼や、食物規定を守るようにとコリント教会の人々を惑わす偽預言者たち以上に、自分自身キリストに仕えてきたことを伝えるためでした。

しかし、最終的には自分の弱さ以外には何も誇らないと言っています。パウロはてんかんとも、目の病気とも言われるものを離れ去らせてくださいと三度願った時に、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ」と言われたからです。それためパウロは弱さや、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足できたのです。

わたしが来日したことや、神学校への献身を決断したのは、決して立派な理由ではありません。失敗や迷い、将来への不安を多く抱えての決断であったと思います。主はこのようなわたしにバプテスト教会で多くの方々との交わりを与えてくださり、神学校での学びを通して自分を絶対化することの危うさを教えてくださいました。そして今一人の牧師としてみなさまに支えられている者として立ててくださいました。

弱さを誇って生きることは、固い心の「鎧」を脱ぎ捨てて「キリスト」を着ることです。「欠」の多い者が、この「恵み」にあずかることは何と幸せなことでしょうか。

主を畏れる

出エジプト記20章18-21節

2012年2月26日

現在の混沌とした社会の中で生きていくためには、本当の知恵が必要です。聖書には「主を畏れることは知恵の初め(箴言1:7)」と書かれています。

神さまが十戒を与えられる場面で、イスラエルの人々はシナイ山に降ってこられた神さまを恐れます。これは恐怖心です。モーセは人々に「恐れるな」と言う一方で、「あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいた」と語ります。畏敬とか畏怖という言葉で表される畏れは、単なる恐怖ではなく、自分を圧倒する相手に近くで出会い、その人を知ることで初めて生じる尊敬を伴うおそれです。

十戒は強制的な服従命令ではありません。十戒は、絶対者であり救い主である神ご自身に出会うところから始まります。エジプトからイスラエルを救った神が、わたしの神となった時に、イスラエルの人々は十戒を生きる者へと変えられるのです。神と出会った者は、その存在に圧倒されて謙虚にされます。自分の弱さ、愚かさを知った私たちは神に従う者に変えられます。神を畏れる者は、神の知恵に従って生きようとする者でしょう。

私たちが神に出会うことのできるのは、聖書のみ言葉を通してです。み言葉の前に謙虚に立つ時、私たちは神に出会い、神を畏れる者に変えられていくのではないでしょうか。

 

イエスの死と復活

マタイによる福音書16章21-28節

2012年2月19日

キリスト教の核心とは「イエスの死と復活」です。これは神さまが独り子の死と復活を通してこれを信じるすべての者を救おうとした、神さまの隠されたご計画です。最後の日までミステリーです。

ペトロはイエスさまを「メシア、生ける神の子」と言い表したものの、イエスさまの苦しみや死、復活に対しては「とんでもない」「あってはならない」と拒否します。ペトロが持つメシア(救い主)像は軍事的な力の持ち主だからでしょう。しかし、イエスさまは無力に十字架上で死ぬことによってペトロの「金の子牛」を打ち砕かれました。

イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。自分の中で作り上げた「金の子牛」を捨てて、イエスさまが片方を背負われるイエスさまのくびきを担って、主に学ぶようにと言われたのです。

ある吹雪の夜2人が山道を歩いている。道端で倒れている1人を発見した。1人は通り過ぎ、1人は倒れていた人を背負って歩いた。翌朝2人で歩いた人たちは命が助かったが、1人の人は凍え死にした。

イエスさまは人に排斥され、迫害を受けて、無力さの中で苦しみを受けて殺されると予告されました。その姿は道端に倒れている人に似ています。だからこそイエスさまの十字架の出来事は逆説的にわたしたちの命につながるのかも知れません。

主の慈しみに生きよう

詩篇30編1-13節

2012年2月12日

詩編30編は「賛美」から始まり、「感謝」で終わっています。詩人は自分の人生を振り返って様々な苦しみを経験するたびに、神さまが命を得させてくださったことを思い起こしているのでしょう。

ダビデはサウル王の妬みに幾度も命を脅かされますが、神さまに命を助けられます。バト・シェバのために彼女の夫で部下であるウリアを激戦地に送って戦死させた罪を主に指摘され、悔い改めへと導かれます。ダビデはこのような波乱万丈な人生を振り返って、様々な逆境の中で与えられた神さまの恵みを歌っているのです

詩人は「主の慈しみに生きる人々」に「主に賛美の歌を歌い、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ」と呼びかけています。口語訳と新改訳の聖書では「主の慈しみに生きる人々」を「聖徒」と訳しています。「聖徒」と聞けば、聖く立派な行いをする人々のイメージがありますが、あえて「主の慈しみに生きる人々」と訳されているのは、ここに礼拝者としての生き方が示されているためだと思います

「主の慈しみに生きる人々」とは、神が見えない時、恐怖に陥る自分の弱さを知りつつ、しかし「命を得させてくださる」神さまにより頼んで、「憐れんでください」「あなたの御旨を行ってください」と祈り続ける者なのです。主の慈しみに生きていこうではありませんか。

 

愚かな者になれ

コリントの信徒への手紙一3章18-23節

2012年2月5日

パウロはコリント教会の人々に本当に知恵のある者となるために、「愚かな者になりなさい」と勧めています。これには当時のコリントの知恵あると自負する人々の常識に逆らう生き方が示されています。

コリントという都市は、ギリシア本土とクレタ島とトルコに囲まれた、おだやかなエーゲ海に開かれており、東方の先端の文化を受け入れていました。数多くの島々が分散されていたため、帝国に組み入れられずに済んだのでしょう。ここから自由に議論できるようになっていき、民主主義へとつながったかも知れません。聖書は彼らの新しい知識への強い欲求を「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」(使徒17:22)と伝えています。

「わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはケファにつく」という分裂の背景には、常に対話しながら真理に辿り着こうとしたギリシア文化の考え方があったのではないかと思います。しかし、パウロはこれに対して「知恵のある者たちの論議がむなしい」と一蹴りし、本当の知恵とは、神の前で「主を畏れる生き方」であると示しました。

ヘブライ思想に由来するキリスト教の信仰は、「燃え尽きない柴」の中でモーセを召される、外から人の人生に介入してくださる、絶対他者との出会いからスタートします。人はこの絶対他者である神さまに捕らえられて、イエス・キリストと共に「知恵」へと導かれていくのです。主の前で主を畏れる「愚かな者」として歩みましょう。

線でつながり面で広がる神の御業

ローマの信徒への手紙8章28~30節

2012年1月29日

先週の主日礼拝では東風平巌宣教師がメッセージをされました。東風平師は2004年に沖縄バプテスト連盟(OBC)からネパールの首都であるカストマンズに遣わされ、ゴミ問題に取り組んで来られました。目の前のゴミを拾った、小さな実践は、分別を身につけることで、悪臭と伝染病の原因だったゴミが、堆肥や商品に変えられ、衛生維持と収益効果という一石二鳥の働きへと広がりました。さらにその働きに加わったネパール人の中からキリストを信じる者が出たと聞くと、胸が躍ります。

師の献身や宣教地での働きの証を聞きながら、私は神さまがご自分の業に私たちを招いてくださり、「万事を益として変えてくださる」お方であることを実感しました。講壇の後ろの窓の向こうに広がる透き通った冬空と神さまの働きに感動しつつ励まされる時間でした。神さまは私の人生の中でも、御言葉や人や出来事との出会いを与えられ、ここまで導いてくださったからです。そして当時には、ばらばらの点に見えたことがつながって面に広がることを想起することができたからです。

祈祷会でサマリア人の女性が井戸のそばでイエスさまに出会い、その喜びを村の人々に証した箇所を読みましたが、東風平先生のお話はまさに主に出会った者の喜びの証だったと思います。今回の礼拝は教会の企画ではなく、外部からの提案を引き受けて進められものです。去る一週間、御言葉の余韻をかみ締めている中、この機会は神さまのタイムリーな励ましだったのではないかと思わされました。神さまの業はすごい。

日々の偶然だと思う点々は神さまによって必ず線とつながり面に広がります。私たちの歩みを楽しみにしていきましょう。

イエスによる律法の成就

マタイによる福音書5章17-20節

2012年1月22日

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止する…ためではなく、完成するためである」

イエスさまはご自分のもとへきた人々を無条件に喜ばれ、祝されました。人々はこれからは律法遵守など必要ないと思ったかもしれません。しかし、イエスさまは律法の本質が「神愛」と「隣人愛」にあるから、決してなくならないと言われ、小さい掟一つさえも誠実に守り、またそのように教えることを強調されたのです。

伝統と律法は「殺すな」と命じているが、イエスさまは「兄弟に腹を立てる」ことさえ人殺しに当たると言われるばかりか、和解という積極的な実践まで言及されています。この通りだと、私たちは毎日人を殺していることになります。イエスさまの言われる戒めには、結局自分自身が「罪人」であることを痛切に気づかされるばかりです。

しかし、イエスさまは私たちと同じ人となられて、この世の中で神を愛して隣人を愛した生涯を貫かれました。そして十字架の上で私たちの罪を背負って身代わりの死を成し遂げてくださったのです。

私たちは律法の実践では決して神の国に入ることはできません。イエス・キリストの信仰によってのみ、可能です。私たちのためにご自分の命さえも惜しまずに与えられたお方が私たちと共に歩んでくださいます。主イエスに信頼して歩んでゆきましょう。

 

神のために力を合わせて

コリント信徒への手紙3章1-9節

2012年1月15日

コリント教会の人々は「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」と言って分かれていたようです。人にとらわれ、もっとも大切なことが見えなくなることはいつの時代にもありがちな姿です。

しかし、パウロとアポロは福音宣教のために、「力を合わせて働く者」です。他の聖書では「同労者」、「協力者」と訳されているように、一緒に苦労し、補い合っていく関係、ずばりそれが教会ではないでしょうか。

教会につながっている者たちは、イエスさまに従う、そして人をイエスさまに向かわせていくための同労者です。人に従ったり、人を自分に引き寄せることより、主にあって結ばれていきたいものです。

体は一つですが、各部分は違う働きをしています。それぞれの部分がしっかりしてはじめて体全体の調子はよくなります。コーラスで各パートが自分の音をブレないように出してはじめて素敵なハーモニが生まれるのと同じではないでしょうか。

教会の福音宣教は一人の業ではありません。イエス・キリストにつながっている一人ひとりが、互いの足りないところを補い合い、良いところを伸ばし合って歩む一つの共同体です。

2年余り議論を重ねてきたミッションステートメント(教会の約束)作成が大詰めを迎えています。神のために力を合わせて働く私たちのビジョンを言葉に表して共有しつつ、福音宣教に励んでいきましょう。

イザヤ書49章1-7節

2012年1月8日

「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」預言者イザヤは国の滅亡と終わりの見えない捕囚生活の中で、神の救いを語り続けてきたことに懐疑を抱いています。私たちは東日本大震災と原発事故の中でこのような懐疑を経験しています。また日々の歩みの中で遭う様々な出来事に多かれ少なかれ、このように嘆いたことがあるのではないでしょうか。私たちは信仰を持っていながら、ある出来事の中で、戸惑い、迷い、嘆き、時には自分や自分がしたことが無駄で無意味ではないかと思うこともあるのでしょう。

しかし、自分の働きを空しく嘆いているイザヤが「わたしを裁いてくださるのは主である」と最後の判断を主に委ね、「主の御目にわたしは重んじられている」と神さまの目を通して自分を見直すことができたのは、注目すべきことです。神さまは真の僕を遣わされ、「人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」を必ず解放する、という約束を与えられた、「真実」なお方です。そしてイザヤを母胎から選ばれ、言葉を口に授けられたこの神こそ、捕囚の暗澹たる現実を嘆いているイザヤを奮い立たせた力だったのではないでしょうか。

皆さんの力はどこから来ますか。2000年前にイエスさまをこの世に遣わされ、十字架上の死に渡され、復活させた「神こそ、わたしの力」です。わたしたちの信仰は時代と共に揺れ動くかも知れませんが、神こそが私たちの力であることは揺るぎない真実です。

イエスは神の子です

マタイによる福音書3章13-17節

2012年1月1日

イエスさまが来られることを証してきた洗礼者のヨハネすら、イエスさまにバプテスマを授けることに戸惑ったようです。イエスさまについていく時には戸惑いがたくさんあるかも知れませんが、ヨハネの戸惑いを理解して、「正しいことをすべて行う」ためだと言われたイエスさまに聞きながら歩みたいものです。

ヨハネが授けていたバプテスマとは、体を水に沈めて起き上がらせるという形を持って、「悔い改め」を表す儀式でした。しかし、罪なきイエスさまのバプテスマとは、水に沈んで起き上がることで、すべての人間の罪の身代わりの死と復活による「赦し」を示されたのではないでしょうか。

この場面から始まったイエスさまの公の働きは、ぶれることなく十字架の死と復活による「神の救い」に向かっていたからです。

神さまはバプテスマを受けたイエスを「わたしの愛する子、わたしの心に敵う者」と宣言されました。私たちはこの神さまの一方的な証を「啓示」、あるいは「恵み」として信じています。なぜならイエスさまは最後の最後まで神さまへの信仰を貫かれたからです。

初代教会はこのイエスさまのバプテスマに倣って、バプテスマを受けて「主と共に死んで、共に生きる」という信仰を、神さまの前でそして主にある兄弟姉妹の前で、体をもって言い表し、信仰に入ったのです。2012年の歩みは、イエスさまのバプテスマに示された「イエスは神の子です」という信仰からスタートしまよう。

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