「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:44) イエスの十字架の上での叫び。
人を愛し、人を再生しながら、人に裏切られ、罵られ、打ち捨てられたイエス。これほどの絶望の中の絶望につき落とされても、なおイエスは、人として、神を信頼し委ね、神への従順を貫いた。まるで、神は存在していないかのように思われる状況で、イエスは、最後の最後まで神を信頼し、だからこそ神に叫んだ。 「神の存在を疑い」、「神に捨てられた」と感じ、「神の不在」を実感するような時も、神はたしかに私たちの手をつかんで離さない。私たちの祈りにすぐに答えて下さらないと感じる時も、私たちの祈りは神に届いている。必ず届いている。祈りの答えは、神の時に、神の采配の内に示される。「神の無力」と空しさを実感する時も、神は見えないところで働いておられる。それを信じることが、復活の主にある希望につながる。
神は、時として、私たちとともに涙し、苦しまれ、奈落の底まで落ちていかれ、そして、私たちを引き上げてくださる。慈しみと憐みの神なのです。この信実を確信し、信頼することが、私たちの信仰であり、復活の主イエスにある希望です。 「恐れるな」「私はいつもあなたと共にいる」。復活の主イエスは今日も私たちを包み、語りかけてくださっています。「ガリラヤで会おう」―イエスが、人々を愛し、人々ともに生きたガリラヤ。今この時代、私たちにとって、この世界で、それぞれのガリラヤとはどこでしょうか。 神が私たちを遣わされる時と場、そのガリラヤで、神に信頼して祈り、信じるとき、そこには必ず、私たちの神、復活の主イエスが先立っておられます。なぜなら、私たちの神、イエスは復活し、私たちと共に生き続けておられるからです。 〔協力牧師 米本裕見子〕