2025年4月13日メッセージ「わたしたちのために」イザヤ書53章2~12節

 本日の聖書箇所は、イザヤ書に出てくる「僕の詩」の第四の詩です。「僕の詩」に登場する「主の僕」は、神に選ばれて、神の意志を遂行する人物または集団のことを指します。ユダヤ教では、それはイスラエルの民全体のことだと理解されていますが、キリスト教では、イエス・キリストを予め示したものだと考えます。特に、52章~53章の「苦難の僕」の姿は、受難を受けるイエスさまと非常に良く重なります。イエスさまの受難を目の当たりにしたイエスさまの弟子たちが、苦難の僕の詩を思い起こし、それをイエスさまであると理解したのは、当然のことであったと思います。
 イザヤ書53章では、主の僕が受けた苦しみは、わたしたちのためだ、と言います。彼が苦しんでいるのは、彼自身の罪に対する神の罰ではなく、彼はわたしたちの罪のために、打たれているというのです。「わたしたちの罪」とは、神さまに聴き従わずに、自分勝手に歩んだことです。彼の苦しみは、わたしたちの神への背きのせいであったのです。
 イエスさまの苦しみが、自分たちの身代わりであったことを知った弟子たちは、イエスさまの愛の大きさに驚かされ、イエスさまが救い主であることに改めて気付かされたことでしょう。そして、イエスさまの死によって、自分たちが神からゆるされ、神との間に平和を得たことを知って、感謝の念にあふれたでしょう。と同時に、救い主であるイエスさまを十字架にかけたのが、自分たち人間の弱さ、罪であることも思い知らされたはずです。そして、このことがその後の彼らの歩みの原動力となりました。
 イエスさまの受難は悲惨なままでは終わりませんでした。神さまはイエスさまを見捨ててはいませんでした。神さまがイエスさまを復活させられたのです。悲惨な死からの復活、敗北からの勝利、これがキリスト教の最大の秘儀です。イエスさまの復活を共にお祝いしましょう。 〔牧師 細井 留美〕   

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