キリストの十字架 -The Cross of Christ-

ローマの信徒への手紙5:8 1998年4月5日メッセージ

近頃はニュースを見るにせよ、新聞を読むにせよ、次から次に起こる犯罪を見せつけられているようです。
例えば、最近の大蔵省の不祥事、ダイアナ元皇太子妃の事故死は誰の責任なのか?今も続いている調査が思い浮かぶことでしょう。多くの人は神戸の猟奇殺人事件の犯人の少年がどのような処分を受けるであろうか、またどのような処分を受けるべきであろうかと論じています。
著名な科学者であり哲学家であるアイザック・ニュートン卿は、「いかなる行動においても、直接の反応、また正反対の反応がある」との発言を残しています。彼はおおむね宇宙や分子について語っていましたが、その発言のなかには私たちの生活のあらゆる側面にあてはまる、宇宙における生来の原理があります。私たちの考えや行動には、否定的・肯定的、両面の帰結があります。もし火のなかに手を入れればやけどをしてしまいます。一所懸命に勉強するならば、私たちは知りたいと思うことを学ぶことができるでしょう。
この考え方を精神面の世界に応用して考えますと、私たちの行動に宗教的な帰結があることがわかります。信仰の原理で最も基本的なことは、原罪のゆえに私たち人間は神様との関係が断たれているということです。私たちは皆罪を負っているので、神の栄光を受けるに値しないと、聖書は教えています。神が神聖で、私たちが罪ある存在ゆえに、私たちの罪が引き起こす結果があるのです。神様は罪を忌み嫌うため、いかなる不従順をも容認されません。このため、人類は悲しい事態の中にあります。
私たちに見通しを与え、かつ、神様が創造された私たちに対する神様の計画を理解する助けとなる聖書の中から3つの場面を、今日は皆さんと見て参りましょう。

第1の場面
最初の箇所は出エジプト記の第12章、最初の過ぎ越しの祭です。
初めて神様によって神の民と育てられた人々は、エジプトの地にあって奴隷となっていました。神様が自由にしてくださると約束なさっていたので、彼らは希望を捨ててはいませんでした。神様は僕(しもべ)のモーゼをエジプト王のもとへ遣わし、それらの民を神様が約束された土地へ帰れるようにと告げました。
王は400万人もの奴隷を自由に行かせたくありませんでしたので、これを拒絶しました。
神様はその力をエジプト王に知らしめるために10の行為を示し、そのどれもがいずれも過去に例のない破壊的なものでした。10回目の行為は、エジプト全土の人間と家畜の第一子が死ぬというものでした。神の民に対しては、極めて特殊な命令に従うように告げるよう、神様はモーゼに命じました。各家庭は、傷のない1歳の子ひつじを用意して、これを殺しました。そして血を抜いて、各家庭の入り口の上と両脇にこれを塗りました。その夜、子ひつじの肉を焼き、苦い香草、種を入れていないパンとともにこれを食べ、ワインを飲みました。背中にはコートを着て、足にはサンダルを履き、手には杖(つえ)を持ってこれを食しました。その夜、神様が放たれた魂がエジプト全土を吹き過ぎ、人間と家畜の第1子で子ひつじの血に覆われなかったものはことごとく命を奪われました。
なぜ、このようなおかしな行為をするように神様がその民に命じたと皆さんは考えますか?
神はその民に、代用となるもの、あるいは自身に置き換わる犠牲が必要であることを教えたかったのです。神様はその夜のことを覚え、その後は過ぎ越しの夜を祭るようにと教えたのです。
その後から毎年、彼らは自らの罪の代価として子ひつじを犠牲としました。血が「死」の証拠であると、皆さんおわかりと思います。原罪のゆえに、代価 ・犠牲が必要なのです。神の教えに彼らは従順であったので、死の霊はその夜彼らの上を通り過ぎたのです。

第2の場面
きょう次に見てゆきたいのは、イエスが弟子たちと持った最後の晩餐の光景です。
イエスとともにいた男女にとって、イエスの行動と発言は偉大な伝統と象徴でした。 弟子たちは以前に少なくとも2回、イエスと過ぎ越しの食事を持ったようですが、この食事の意味をほとんど理解していませんでした。イエスはこれが弟子たちとともにとる最後の食事であることを知っていました。イエスは弟子たちといくつかの区切りをつけた上で、新しいことを始めようと望んだのです。
弟子たちのほとんどはイエスと3年前に出会っています。弟子たちのうち何人かには、バプテスマのヨハネが砂漠で「神の子ひつじを見よ」と叫んでいるのが聞こえていたと、私は想像しております。彼らは、イエスと過ごした3年間、イエスの教えと奇跡について、顧(かえり)みていたかもしれません。弟子たちが完全に理解していなかったとしても、彼らは私たちとともに生きた神の存在とともにあったのです。
イエスはまず上着を取ると、布で体を巻き、弟子たちの足を洗いました。この日足を洗う仕事は、弟子たちに残されていた仕事でした。土や砂だらけの路を歩いたあとで、洗面施設が整っているわけでもなく、奴隷たちは誰もがこの仕事を嫌がりましたが、イエスは自ら進んで奴隷の仕事を望み、召し使いの役割を果たしたのです。
象徴的な意味がおわかりでしょうか。
神は自らを低くし、私たちの中で生きられるように、また私たちの中でより重要な死を迎えられるよう人間となったのです。
晩餐も終わりに近づいたころ、イエスは種をいれていないパンを手に取りました。イエスはこれを割き、このパンは彼らのために朽ちるイエスの体の象徴であると言いました。パンを膨らませる種を入れていないため、これを割いた時にはバリバリッという音がしたことでしょう。イエスは弟子たちに、イエスが人間のために自らを犠牲として献げることを受け入れる象徴として、パンを取りこれを食べるようにと言いました。
食事のあと、イエスはワインの杯(さかずき)を手にとりました。弟子たちの手のひらにワインを注ぎ、指の間からワインが滴(したた)り落ちる様子が目に浮かびます。イエスは弟子たちに、これは人間の原罪のために流すイエスの血の象徴であると告げました。
その部屋でイエスが彼らに示したメッセージは失われませんでした。弟子たちは神の行為を、過ぎ越しの祭りまで1000年遡(さかのぼ)ったかのようにその目で見たのです。弟子たちはイエスが人間の罪のために犠牲になろうとしている姿を目撃したのです。

第3の場面
最後に皆さんと見てまいりたいのは、イエスが十字架に架けられた場面です。
ちょっとここで立ち止まって、入り口の脇に血を塗るために犠牲となった子ひつじのことを考え起こしてください。
子ひつじは死という罰を受けるようなことをしたでしょうか。いいえ、子ひつじは罰として死を迫られるようなことはしておりません。タイミング悪く、運のない場所に居合わせただけです。
イエスは罰として死を受けなければいけないことをしたでしょうか。いいえ、イエスは罪のない神の子ひつじです。神様ご自身が、私たちの原罪の贖(あがな)いとなるものを与えてくださったのです。
過ぎ越しの祭の子ひつじとイエスとの違いは、イエスが正しい場所に適切な時に存在したことです。「私たちが罪のなかにあったときにキリストが私たちのために死に、神様が偉大なる愛を示された」ことがおわかりいただけると思います。
イエスの十字架は歴史の上において過去においても現在においても中心点です。過去のすべてと将来のすべてが、一場面において変わりました。イエスは、彼を信じている、あるいはこれから彼を信じるすべてのひとのための、一回にして相手を限定しない犠牲となったのです。みなさんも私も、私たちの罪が贖われていますから、神様の前に正しい者なのです。ペテロは「イエスの傷のゆえに、わたしたちは癒(いや)されている」という言葉を使っています。
何と信じられない贈り物を、私たちは与えられたのでしょうか。イエスが私たちの罪の犠牲となってくださったので、私たちは私たちの罪に対する帰結(きけつ)を被(こうむ)らなくてよいのです。イエスが私たちにあたえてくださったおかげで、自由に生き、自由に愛し、自由に与えることができます。
ここでちょっと戻りまして、最後の晩餐で弟子たちに語ったイエスの言葉を思い出しょう。イエスは弟子たちに対して、それからのちパンを食べワインを飲むときはいつでも、イエスが弟子たちに対して行ったことを覚えなさいと告げています。私たちが主の晩餐をまもるときには、私たちのために傷つき、打たれたイエスの体のことを、立ち止まって考えます。
イザヤは「私たちが行った間違った事のためにその人は傷つき、私たちがなした悪事のために彼は打ち砕かれた。私たちを『良し』とするための罰をその人は受け、その人の傷ゆえに私たちは癒されている」と語っています。
十字架のイエスを思い起こすとき、象徴的に見るのはもはや苦痛や死ではなく、命と健全さです。キリストの十字架のゆえに、わたしは自信と誇りをもって生きることができます。私たちのためにイエスが払った犠牲については厳かな気持ちで受け止めていますが、同時に、忍耐や辛抱ではなく、救われた素晴らしさに満たされています。打ち負かされた人生を送る必要はないのです。キリストの十字架の勝利によって、私たちは毎日の戦いをも勝利できます。

最後に
これら3つの光景があいまって、神の私たちへの愛の絵を描いています。
罪の代価は死ですが、神の贈り物は、私たちの救い主キリスト・イエスにある永遠の命です。
ともに祈りましょう。

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