2009年メッセージ・アーカイブ

新しい命に生きる

ローマの信徒への手紙6:1-14

2009年12月27日

バプテスマで水の中に身を沈められることは、キリストと共に埋葬されることを、水の中から起こされることはキリストと共に復活し新しい命を生きることを意味します。従って、新しい命に生きるとは、キリストと共に生きることだと言えます。しかし、古い自分がキリストと共に死んでこそ、新しく生きることは可能です。キリストと共に死ぬとは、罪から解放されること、すなわち自己中心の生き方をやめることです。

キリストは低みに生まれ、低くされた人たちと共に歩まれ、ついには犯罪者として十字架につけられて殺されました。私たちがこのキリストと同じく生きることができるのでしょうか?私たちが本当の意味で低みにくだって行くこと、他者の飢えや貧しさ、寒さ、痛み、苦しみや悲しみを自分の身にひきうけていくことは簡単ではありません。

ある聖書では、「信じる」ことが、「信頼して歩みを起こす」ことだと訳されています。自分がキリストと全く同じに生きることは出来ないと知りながらも、できないというところに留まるのでなく、信頼してまず歩みを起こすこと、今の自分にできることを行なうことが大切です。苦しんでいる人に目を向け、不十分であっても、その人に関わっていくことが、キリストに結ばれて、神に対して生きることになるのではないかと思います。他者のために生きることこそ、五体を義のための道具として神にささげることではないでしょうか。

ヘロデ王か幼子イエスか

マタイによる福音書2:1-12

2009年12月20日

クリスマスおめでとうございます。現代はクリスマスと言えば、サンタクロースや、ケーキ、プレゼントなどがすぐ浮かびますが、言葉からすると、クリスマスはキリスト礼拝を意味します(クリス=キリスト、マス=ミサ)。2000年前のクリスマスはどうだったのでしょうか。

当時のイスラエルはローマ帝国の庇護のもとで権力を握っていたヘロデ王に支配されていました。宗教指導者たちと民衆は、無論メシアを待ち望んでいたのですが、現実にはヘロデ王の力に妥協しながら、自分たちを守ろうとしていたようです。マリアとヨセフの赤ちゃんとしてお生まれになったイエスさまには誰も関心を持ちませんでした。

むしろ、このように隠された形でお生まれになったイエスさまを見つけて礼拝したのは、東方の博士たちでした。彼らは救いにあずかれないとされていた異邦人でもありましたが、星を発見して民族や、文化などの枠を超えて旅立ち、星に導かれてイエスさまのところに辿り着きました。そしてイエスさまを礼拝し、贈り物を献げ、喜びに満たされました。

現代を生きる私たちは、過去にも増してヘロデ王とキリストの中で誰を拠り所とするのか、という問いに立たされています。「わたしの道の光、わたしの歩みの灯」である御言葉の星に導かれながら、イエス・キリストへの信仰の旅路を主と共に続けましょう。

インマヌエル
(神が我々と共におられる)

マタイによる福音書1:18-25

2009年12月13日

クリスマスはインマヌエル(神は我々と共におられる)の約束が目に見える形で現実となった出来事です。

インマヌエルの主はマリアとヨセフにご自分のヴィジョンを分かち合われ、それに従うように招かれます。ヨセフは婚約相手のマリアが身ごもったことを知り、縁を切ろうとしたが、天使の御告げによって結婚に至ります。神さまはヨセフと共におられ、導きを与えられました。

二人は世間の冷やかな視線に加え、生まれる子に名前を付ける楽しみさえ許されませんでした。「イエス」と名づけるように告げられていたからです。この名には、すべての人々を罪から救うために独り子を十字架の死へと引き渡す神さまの決意が込められていたのです。

マリアの胎内の子は十カ月の期間順調に成長していきます。ヨセフとマリアにとってこの期間は様々な不安や葛藤の一方で、インマヌエルの主を信じて約束が実現されることを待ち望む時だったと思います。

インマヌエルの主は今も私たちに夢を与えてくださり、その夢に向かって共に歩まれます。イエス・キリストを待ち望みつつ、日々歩んでいきましょう。

来るべき方、イエスさま

マタイによる福音書11:2-14

2009年12月6日

「来るべき方は、あなたでしょうかそれとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3)

これは洗礼者ヨハネがイエスさまに問うた問いです。ヨハネは主の道を整えるという使命に生きてきました。彼はイエスさまに出会ってイエスこそが救い主だと確信していました。しかし、今ヨハネは牢の中にいて、いつ殺されるか分らない緊迫した状況であり、耳に入ってくるイエスさまの話は期待に及ばず、何も変わっていないかのように見えたのです。彼はそのような現実に焦りや喪失感を感じていたと思います。

イエスさまはこのヨハネの問いに対して、旧約聖書で救い主を約束した御言葉が今ここで実現したことを言われました。「目の見えない人は見え・・・・死者は生き返り、貧しい人は祝福を告げ知らされている」と。これらの人たちは当時の最も弱い立場ですが、イエスさまに出会って命のあるひとりの人間として尊ばれたのです。希望の持ちようがなかった者たちが、病気の苦しみから回復され、人との関係が取り戻せたのです。

私たちもヨハネのように何が神さまの御心なのかを悩みます。時には焦ったり、どのように進めばよいのかが分らなくなったりもします。しかし、イエスさまは私たちの悩みや迷いに対して御言葉を通して慰めて下さいます。そして不安や、焦り、喪失感などの揺れる心から立ち上がる力と希望を与えて下さることを信じます。

来るべき方はただひとり、イエス・キリストです。

イエスを待ち望もう

マルコによる福音書15:42-47

2009年11月29日

アリマタヤ出身のヨセフという人は神の国を待ち望んでいました。おそらく彼は心の中でイエスさまこそが神の国を到来させるメシアだと信じていたのでしょう。彼はそのような思いを表に出すことはなかったようですが、イエスさまの死に様に触れて勇気ある行動をしました。

多くの弟子たちはイエスさまの十字架上の死を目撃すると、希望を失い逃げてしたのに対して、ヨセフはイエスさまの死を前にして絶望せず、なおも勇気を出してピラトを訪ね、イエスさまの遺体を渡してくれるように願い出、イエスさまを墓に葬ったのです。

何がヨセフをそれほど大胆な行動へと導いたのでしょうか。それは言うまでもなくイエスさまの十字架の死に心から触れたからではないでしょうか。イエスさまは「この世の罪を取り除くための神の小羊」としてこの世に来られ、十字架につけられ、世の罪を贖うための死を成し遂げられました。さらにこのヨセフの行動が、イエスさまの復活を確かなものとする証として用いられたことも注目すべきことです。

アドベントにヨセフという人の信仰を通して、私たちはクリスマスの本当の意味、すなわち、私たちの罪を取り除くために全能の神ご自身が無力な人間となられて私たちに近づいて来られた出来事へと招かれています。私たちそれぞれが置かれた状況に屈せず、キリストを待ち望みつつ、勇気を出して自分に出来ることを行っていきましょう。

思考はグローバルに、
行動はローカルに

研修会を受けて

2009年11月15日

先週は藤田英彦先生をお迎えして特別礼拝と研修会が行なわれました。特に研修会で藤田先生は私たちの教会の23年の歩みを具体的に分析され、出発の頃の情熱や、頂点での勢い、底辺での行き詰まりなどを鋭く指摘して下さいました。心の痛い話でしたが、感謝すべきことは先生の分析の目的が今の教会の歩みを生かすためのものであったことです。先生の分析と提言は薬のように苦かったかも知れませんが、いつの間にかマンネリ化してしまっている自分たちの歩みに気付かされ、新しく歩み出す力と勇気を頂きました。

これからどうすればよいのでしょうか。まずは伝道開始の初心に戻りたいものです。赤羽の地に福音伝道の熱い思いで開拓を始めたことを思い起こして、現実の厳しさが立ちはだかる度にその原点に立ち返ることです。小さな教会の長所でもあり、状況に応じて変化を試みることは大事ですが、福音伝道の本質を失わないように心がけることもまた大切です。現実をしっかり見据えながら教会の使命を定めて共に歩みたいものです。今回の研修会はちょうど牧師・副牧師の再招聘が決まった後に行われ、まさにタイムリーだったと思います。牧師と教会員が祈り合いながら、スクラムを組んで教会に示された使命(ミッション・ステートメント)を定めた上で具体化していきましょう。

このように歩み出す際に心がけたいのは、思考はグローバルに、行動はローカルに、という視点です。私は今回この視点を藤田先生から教えられました。教会はキリストの世界宣教に与る大きな夢を持ちながら、自分自身を含めた隣人を愛する生き方を地味に示していく共同体です。お互いの違いを違いとして認め合い、主にあって一つの体として歩みましょう。

神のものは神に

マタイによる福音書22:17-21

2009年11月8日

ヨハネ福音書8章「こういう女は石で打ち殺せと…命じています。ところで、あなたはどう考えになりますか」と宗教指導者たちは現場で捕らえられた女性のことをイエスさまに問います。否定すれば律法を破る、肯定すればローマ法を破るというジレンマです。イエスさまは「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石をなげなさい」と答えられます。

今日の箇所でも「皇帝への納税が律法に適しているか」とファリサイ派の人々とヘロデ派の人々はイエスさまに聞きます。否定すればローマ帝国への反逆者となり、肯定すれば十戒を犯すというジレンマです。イエスさまは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられ、真理を語りながら罠にかけられませんでした。

イエスさまの答えの意味は、第一に、律法は人を裁くためではなく、人を愛するために用いるべきだ、ということです。イエスさまは当時の民衆が納税の問題で苦しんでいるのに、宗教指導者たちがその現実に目を閉じていることを指摘したのです。第二に、ローマ帝国支配下の中にあっても、神さまの主権を認めて生きなさい、という意味です。

今日のキリスト者もまたグローバルニズムという価値観に支配されたこの世の中で、神の国の先取りとも言える教会を形成して歩んでいます。ですから、神に代わる一切の富(マモン)に対して否を唱え、日常生活において神の主権を認め、神の支配を喜んで生きねばなりません。わずかな営みであっても主は大きく用いられるに違いありません。

世に遣わされた

ヨハネによる福音書17:17-21

2009年11月1日

しばらくお待ちください。

聖霊の風を受けて

使徒言行録2:36-42

2009年10月25日

私たちの日々の信仰生活は聖霊の働きによって支えられています。キリストにあらわされた神の救いの業、愛の業が、私たち一人一人に今働いていることが、聖霊の働きだからです。

バプテスマにより私たちは聖霊を受けますが、バプテスマに先立つ悔い改め自体が、聖霊の働きによって起こされることでしょう。神から離れている自分の罪に気がつくことは、とうてい自分の力でできることではないからです。また、聖霊はすべての人に約束されているものだとペトロは言います。聖霊の働きはすべての人を悔い改めと救いに導くものだといえます。

聖霊によって救われた者たちは、救われた者同士の交わりに導きいれられます。それは、使徒の教えを守ること、相互の交わり、共に食事をすること、祈ることに代表される教会のまじわりです。聖霊の働きは私たちにあらゆる違いを乗り越えて共に生きる力を与え、キリストの体なる教会として一つに導くのです。

私たちは聖霊の風を受けています。教会の中に、その恵みを沢山見ることをできます。私たちの教会がキリストを伝える器として聖霊に用いられることを期待して、日々聖霊が支えてくださる信仰生活に感謝して歩んでいければと思います。

キリストに望みをかける

ローマの信徒への手紙15:7-13

2009年10月18日

ローマ教会はキリストに結ばれた新しい共同体でしたが、様々な背景を持った人たちの間では、思わぬ葛藤や、裁き合う困難を抱えていたと思います。パウロはこのようなローマ教会に対して「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」、お互いに受け入れ合うことを勧めています。

キリストは、十字架の死と復活を通して神さまの愛(憐れみ)を示してくださいました。このキリストの姿は、ユダヤ人には約束したことを実現して下さる「神さまの真実」を、また異邦人には忍耐をもって人を悔い改めに導かれる「神さまの憐れみ」を示されたのです。

このキリストに望みをかける者は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、救いにつながります。そして、教会の中でお互いに裁き合うことをやめて、食物規定を守り、特定の日を重んじる信仰の弱い人を担っていきます。また、お互いの痛みを自分の痛みとして共有し、苦しむ者に誠実に接していきます。

今日の社会では人と人の関係が切り離されていきますが、私たちは死と復活をもって神さまの愛を示してくださったイエス・キリストに望みをかけて、お互いに受け入れ合って歩んでいきましょう。

福音を告げ知らせる

使徒言行録8:26-40

2009年10月11日

エルサレム教会にはヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人がいました。前者を代表する使徒たちの提案で教会は後者の中から7人の執事を選びます。共存を目指した両者でしたが、ステファノの殉教で起きたユダヤ教からの大迫害を機に、前者は後者を教会から追い出すことで自分たちの安全を確保しようとしました。

執事の一人であったフィリポも大迫害を避けてサマリアに逃れます。サマリアで福音を告げ知らせながらもフィリポにとって大きな心の傷となっていたのは、ユダヤ教徒からの迫害はもとより、同じキリスト者から見捨てられたことだったと思います。

一方、エチオピア人の宦官は礼拝に参加したことや、聖書を読んでいたことから、神さまを求める気持ちが強かったことが分ります。しかし、彼が異邦人で宦官であることは、ユダヤ人から二重にうとんじられることでした。これが彼の苦しみでした。

二人は聖霊の導きによって荒れ野の道で出会い、共に荒れ野の道を進んでいきます。二人はイザヤ書53章の「苦難の僕」の歌を、一人は求め、一人は解き明かして分かち合う中で、苦難の僕の姿がまさに、十字架を背負ったイエス・キリストであることに気づかされます。そして宦官がバプテスマに導かれる不思議な体験を通して二人共に大いに慰められます。

福音を告げ知らされるのは聖霊の働きです。それに与る私たちは苦しみを抱えた者どうしとして大いに慰められるでしょう。

心配するな

マタイによる福音書6:25-34

2009年10月4日

私たちは生きている限り、思い悩むことはつきものです。例えば、学校や、職場、家庭、教会において様々なことで思い悩んでいるのではないでしょうか。2000年前、イエスさまの山上の説教を聞きに来ていた聴衆は私たち以上に、衣食の問題に困っていたと思います。

実は「何を食べようか、何を飲もうかと~何を着ようか思い悩むな」というイエスさまの言葉は、24節の「神の富とに仕えることが出来ない」という文脈に沿って語られています。すなわち、当時の聴衆にとって衣食の問題があまりにも切実なために、それ自体が目的化されてしまい、命の尊厳がないがしろにされていたことへの戒めの言葉なのです。

イエスさまは聴衆の目を、空の鳥や、野の花を養われる神さまに向かわせます。その神さまが「あなたがたの天の父」であり、日々の切実なものが「あなたがたに必要」だとご存知であるから、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と言われます。

様々な日常の心配の中でも、小さな出来事に働かれる神さまを見出したいものです。また、わたしたちは市場主義や、競争主義を謳うこの世の価値観で生きるのではなく、被造物すべてを愛をもって支配しておられる神さまに仕えることを日々選び取って歩みましょう。

主よ、助けてください

マタイによる福音書14:22-33

2009年9月13日

イエスさまに強いられて船に乗せられた弟子たちは、夜通し逆風の高波に苦労します。実は、弟子たちが途方に暮れていた時、イエスさまも夜通しひとりで山の上で祈っておられました。すぐ前の話の5000人の給食の時も、逆風に苦労している時もイエスさまは弟子たちと共におられたのです。そして夜が明けるころに、弟子たちに近づいて来られました。

弟子たちは「幽霊だ」と叫びますが、イエスさまは「安心しない、わたしだ。恐れることはない」(27)と言われます。不安や恐怖にかられていた弟子たちにこれほど力強い言葉があったのでしょうか。励まされたペトロは早速船から降りて水の上を歩きますが、強風に気を取られて水に沈みかけます。このペトロの姿は私たちの自画像のようです。

しかし、ペトロは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来ました。そしてイエスさまは「すぐに手を伸ばして捕まえ『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』」(31)と言われます。これは夜通し弟子たちのために祈られ、近寄って「わたしだ」と声をかけられ、そして沈みかけていくペトロをすぐに捕まえてくださった、イエスさまの憐れみ深い言葉です。

イエスさまは私たちの人生で、私たちのために執り成してくださり、いつも共にいてくださいます。強風に気を取られ沈みかけた時にこそイエスさまに目を向け直して「主よ、助けてください」と叫びたいものです。イエスさまはすぐに私たちを捕まえてくださいます。

 

希望と苦難の間

ローマの信徒への手紙5:1-11

2009年9月6日

パウロは「律法を誇る」生き方から「神を誇る」生き方へと生き方の転換を訴えています。ここで「誇る」とは「喜ぶ」の意味です。神を喜んで生きることは、どのような生き方でしょうか。

第一に、神の栄光にあずかる希望を喜んで生きることです。私たちはキリストの死によって神さまと和解させられています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(8)とあるように、キリストの死によって「神との間に平和」(1)を得、「今の恵みに~導き入れられ」ているのです。私たちの救いがキリストによって確保されていることに希望があります。

第二に、苦難をも喜んで生きることです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(4)とあるように、苦難は一連の過程を経て希望へとつながります。これは女性が子どもを産むときに苦しむが、子どもが生まれると、命の喜びのために、その苦しみを思い出さないことによく似ています。蒔いた種から芽が出るまで待つ農夫の心を持って、苦難を希望へと変えて下さる神さまを喜んで生きたいものです。

救われる希望と現在の苦難の間を歩みつづけ、うぬぼれず、絶望せず、キリストによってわたしたちへの愛を示された神さまに信頼して歩んでいきましょう。

耕作地を耕せ

エレミヤ書4:1-4

2009年8月23日

エレミヤは今から約2600年前のイスラエルの預言者です。預言者は神さまのみ言葉を預かって民に伝える人です。当時のイスラエルは神さまを離れて偶像礼拝に走ったあげく、バビロン帝国に滅ぼされます。エレミヤは民に向かって「耕作地を耕せ」と命がけで伝えています。

「耕作地を耕せ」とは、第一に、神さまのもとに立ち帰ることを意味します。命の源である神さまを去り偶像礼拝や隣国の軍事力に頼っている道から、180度引き返して神さまに向かうことが求められました。そうすれば、再び迷うことはないという約束が与えられています。

第二に、真実と公平と正義をもって主は生きておられると誓うことを意味します。口だけではなく、神さまが人に示された誠実さをもって人に接することが求められました。そうすれば、イスラエルを通して諸国の民が神さまの祝福を受けるという約束が与えられています。

エレミヤの伝えた神さまのみ言葉は、時空を超えて今日を生きる私たちの心に響きます。わたしたちも心を耕して神さまのもとに立ち帰り、誠実さを持って兄弟姉妹に接するように願います。ここに私たちが繰り返し立ち帰るべき信仰の原点があります。

 

神は見て良しとされた

創世記1:1-5

2009年8月16日

初めに、神は天地を創造された。・・・見て良しとされた」(1:1-2:4a)。この創造物語はバビロン捕囚の時期に書かれたものです。

「創造する(ヘブライ語:バーラー)」という言葉は神さまが主語の時にのみ用いられます。そして、捕囚の時期に書かれたイザヤ書に多く使われています。神の民は社会、経済、政治、宗教的にもっとも困難であった時期に、自分たちが神さまに創造されたものであることを告白しています。創造主を無視した自分たちの高ぶりを悔い改める信仰告白でした。神さまを創造主として告白した時、神さまはイスラエルを救われました。その意味で神さまの創造は救済であり、神さまからの平和への働きです。

「良しとする(ヘブライ語:トーブ)」という言葉は神さまの肯定を意味します。世界が被造物としてありつづける時に神さまはこれを常に「良し」とされます。イスラエルの民が創造主から離れた時、国は滅びて民は捕囚を経験し裁かれました。イスラエルの民はこのことを受け止め、絶望のどん底で「神が良しとされた」という神さまの肯定に希望を託しました。神さまの肯定は恵みであり、神さまの平和への唯一の希望です。

神さまの平和はわたしたちが神さまに創造されたものであることを認める時に訪れるものです。神さまの平和はわたしたちが神さまの肯定にすがりつく時に訪れるものです。このような神さまの平和がわたしたちの心の隅々までゆきわたりますように切に祈ります。

 

イエスさまにつながる

ヨハネによる福音書15:1-5

2009年8月9日

イエスさまはご自分とわたしたちの関係をぶどうの木とその枝に譬えられます。この話の核心は「つながっている」という言葉です。つながっていれば生きて実を結ぶが、つながっていなければ死んで実を結ばないのです。ぶどうの木であるイエスさまにつながっていてこそ、その枝であるわたしたちは根から必要な栄養と水分を供給されて生きるようになり、実も結ぶのです。

「イエスさまにつながっている」とは、言い換えれば、わたしたちが自分の限られた努力や力に頼って生きることをやめて、神さまの限りのない力により頼んで生きることを意味します。イエスさまは十字架の上でわたしたちの罪を贖ってくださいました。それはわたしたちが神さまの救いに与る、すなわち神さまの愛に生きるようになるためです。これはわたしたちがイエスさまに接ぎ木されたとも言えます。

接ぎ木されたのは神さまの恵みですが、その恵みによってイエスさまにつながっている者にはイエスさまから離れないようにする責任が生じます。枝はぶどうの木から離れては枯れてしまうからです。

ぶどうの木であるイエスさまにつながっている、一つのあり方は「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの言葉を実践していくことです。失敗を恐れず、実を結ぶときまで。

 

教会は一人一人の持つ多様性が喜ばれ尊ばれるところであると同時に、キリストにあって一つの思いが共有されているところです。一つの思いとは、神の愛に出会って知った自分が罪人であることの自覚と、救われた者として生きようとする思いです。

わたしたちは一人一人違うからこそ、部分部分を担って一つの体なる教会を作り上げることができます。必要でない部分というのは存在しません。異なる者たちの交わりには、時に葛藤が生じますが、その葛藤を通して私たちは互いを理解し合い、配慮し合い、助け合うことを学びます。教会の兄弟姉妹は、共に成長するように神さまから与えられた恵みです。

各部分が互いに配慮し合って、調和している体とは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ(12:26)」教会のことであり、それがキリストの体ではないでしょうか。そして、共に苦しみ共に喜ぶことこそ、本当の意味で交わりの多様性を尊重し、一致を喜ぶことだと思います。

 

天の国のことを学んだ者

マタイによる福音書13:51-52

2009年7月26日

マタイによる福音書13章は神の国のたとえ話です。導入は種を蒔く人のたとえで、神の国は私たちに蒔かれています。道端、石だらけの土、茨の間に蒔かれたものとは、御言葉を悟らなかった人であり、良い土地に蒔かれたものとは悟ったために豊かに実を結ぶ人です。御言葉を悟らないものは「持っていないものは持っているものまで取り上げられる」(12)とある通りです。それほど悟ることは大切ですが、神の国の悟りは修練の積み重ねで得るものではなく、「許され」るもの、すなわち神さまの恵みなのです。一方、たとえ話のしめくくりは、天の国のことを学んだ学者が皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人にたとえられた話です。

「天の国のことを学んだ学者」とは、神さまの統治に生きるようにと招かれ、服従を決心した人々です。言い換えれば、「神の国の弟子となった律法学者」となるでしょう。注意したいのは、弟子となった人に訓練はつきものですが、訓練を通して弟子となるわけではないことです。この人々は神の民と呼ばれます。神の民には神への愛と隣人への愛の実践が求められます。実践において大切なのは、自分に出来るか出来ないかという問題でなく、神の国の民として行なうことです。

新しいものとはイエスさまが伝えた神の国の福音で、古いものとは旧約聖書、ことに律法を意味します。「わたしが来たのは~律法や預言者を~廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)とあるように、イエスさまは旧約聖書の約束を神の国の伝道と御自分の死において実現されました。私たちはこれを証する群れなのです。

 

御言葉を行う

マタイによる福音書7:21-29

2009年7月19日

イエスさまは「これらの言葉を聞いて行う者」を岩の上に自分の家を建てた賢い人に、「これらの言葉を聞くだけで、行わない者」を砂の上に家を建てた愚かな人に似ていると言われています。御言葉を聞いて行う者として生きるためには何が必要でしょうか。

まず、知恵ある者のように御言葉を聞くことです。聖書の言う知恵とは博学多識ではなく、神さまに対する畏敬の心なのです。すなわち、神さまは天地万物の創造主であり、自分自身は神さまの被造物であることに徹することです。主を畏れて御言葉を聞く時に、御言葉はわたしたちの力となって如何なる場合でも私たちの心の支えとなります。

次に、失敗を恐れず実践してみることです。わたしたちは御言葉を行う際に、出来るか出来ないかを心配しがちです。そして過去にも出来なかったから今回も出来ないと事前に諦めることもあるかと思います。しかし、失敗を通して教えられることもたくさんあります。まず、自分の弱さが自覚出来るし、神さまの憐れみと慰めに気付かされる時でもあります。これは御言葉を聞くだけで行わない人が味わえない神さまの恵みです。

御言葉を行うという一つのバロメーターは「献金」ではないかと思います。わたしたちの献金には、すべてのものが神さまからの贈り物であるという告白と感謝が表れているからです。イエスさまが「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:24)と言われるとおりです。

御言葉を賢く聞き、失敗を恐れずに行っていきましょう。

 

泣く人と共に泣きなさい

ローマの信徒への手紙12:9-21

2009年7月12日

「どう生きるべきか」「お互いに受け入れ合いましょう」

使徒パウロはこれらのテーマをローマの信徒への手紙の後半で述べています。当時ローマ教会がユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との葛藤で苛まれていたことが手紙の背景となっています。パウロは愛の実践をローマ教会の現実に具体化させたのです。

15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という箇所は実に印象深い言葉です。この箇所から相手の立場に立って考えることの大切さを教えられます。これは自分の周りにいる兄弟姉妹を気づかい、話を聞く、そして心から理解することを意味します。この箇所はシェル・シルヴァスタインの『大きな木』を思い出させます。りんごの木はいつも少年の話を聞いてあげて、少年の立場から考えて自分のすべてを与え続けます。「木はそれでうれしかった」と繰り返し書かれているのは意味深長です。

しかし、「泣く人と共に泣く」ことは、自分の力や努力で出来ることではなく、イエスさまの愛に突き動かされてはじめて出来るようになるのだと思います。イエスさまはいつも人の痛みを御自分のものとして担ってくださり、最後には御自分の命さえも惜しまなく与えてくださいました。わたしたちは十字架に架けられたイエス・キリストの死と復活が自分のためであることを信じる時、悲しむ兄弟姉妹に付き添える力を与えられます。

私たちの隣に泣いている兄弟姉妹がいます。少しでも彼らの痛みを分かち合い、主に執り成していきましょう。イエスさまが慰めに富んだ言葉を通して立ち上がる力と勇気を与えられることを信じます。

 

主は心によって見る

サムエル記上16:5b-13

2009年7月5日

イスラエルの初代の王となったサウルは次第に神さまに逆らい始めます。神さまはサムエルをベツレヘムに行かせて新しい王を立てさせます。

エッサイと息子たちを食事に招いたサムエルは、長男のエリアブを見るや否や「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思います。しかし、神さまは「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われます。結局羊の番をしていた末子のダビデに油が注がれて彼が王として立てられます。神さまは人から一番小さい者と見られていたダビデを選ばれ、王となる道へと導かれます。その道のりは決して易しいものとは言えませんが、ダビデは神さまの約束だけを信じて聖霊に助けられて歩みます。

わたしたちは人を見る時に背丈や顔立ちなど外見に目を奪われて本質を見逃したり、時には逆に人の目を気にして自分を装ったりすることがあります。しかし、神さまはいつも人の心を正しくご覧になるお方です。神さまの前では自分を装ったり、本当の気持ちを隠したりする必要などありません。神さまは独り子、イエス・キリストをこの世に遣わされ、わたしたちのために十字架の死に引き渡されました。わたしたちはこれを信じるすべての者に救いが与えられるという約束にあずかっています。この約束に力づけられて生きたいものです。

わたしたちの心を見られる神さまに正直に心の戸を開いてみてはいかがでしょうか。その時にイエス・キリストはわたしたちの心の主となってくださり、信仰に生きる力を与えて下さいます。

 

 

ステファノの殉教

使徒言行録7:54-8:3

2009年6月28日

今日の箇所は初代教会の執事のステファノが殉教を遂げる場面です。石打される中、ステファノは神の右に立っておられるイエスさまに自分の霊を委ねます。そして自分に死を強いている人々のために祈ります。彼の死に様は十字架上でのイエスさまの死を今一度浮き彫りにしてくれます。

イエスさまもまた十字架の上で神さまに御自分を委ね、そして群集のために執り成しの祈りをしているからです。ここでわたしたちが注意せねばならないことは、彼の殉教を美化したり、正当化したりするのでははく、歴史を貫いて行われる神さまの主権に目を向けることです。神さまの働きは人間の想像をはるかに超えます。ステファノの殉教が初代教会のキリスト者に対する大迫害をもたらしますが、逆説的にその迫害によって福音は世界へと広がったからです。

イエス・キリストの十字架の死はわたしたちに永遠の命を与えられるための神さまの恵みです。このような恵みによって、わたしたちは日々欠けの多い器を用いられる神さまに出会うのです。イエスさまの血潮に連なる兄弟姉妹は誰一人残らずイエス・キリストを頭とする教会を造り上げるための役割を担う者として成長していきます。これこそがイエスさまの死から触発された「どう生きるか」という問いに答える生き方だと思います。

その実践の一つとしてわたしたちは沖縄を知ろうとしています。沖縄戦や、集団自決、沖縄返還など長い間日本本土の捨石とされてきた沖縄の歴史に目を向ける時、どう生きるかという問いに具体的に答えられるのだと思います。

 

信仰の道を歩もう

ルツ記1:8-18

2009年6月21日

波乱万丈の人生の女性が一人います。飢饉をさけて異国に移りますが、夫と二人の息子に先立たれて一人となります。彼女の名はナオミ(意味:快い)です。ナオミは二人の嫁たちと故郷へ帰る道すがら、嫁たちに家に帰って自分たちの人生を歩むように言います。やがて一人は去っていきますが、ルツはナオミについていくことを決断します。

ナオミは嫁たちへの心配ばかりではなく、心の奥底に自分の不幸な人生は神さまに打たれたという悲しみがありました。彼女自身「主がわたしを打った」(13)、「全能者がわたしをひどい目に遭わせた」(20)と言っているからです。このナオミの叫びの中にわたしたちは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上でのイエスさまの叫びを聞けるのではないでしょうか。そう考えた時、ルツの「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という決意は、まさに十字架のイエスさまに従っていくという信仰告白として読み取ることができるのではないでしょうか。

十字架に架けられたイエスさまと共に歩むという信仰告白こそが、混沌とした、また殺伐とした今日に求められているものだと思います。実は、ルツ記自体が「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21:25)士師の時代にどう生きるべきかが示されている書物なのです。

一度限りの人生、ルツのように信仰の道を歩みましょう。

神さまの家族

マルコによる福音書3:31-35

2009年6月7日

今日の箇所からは「神の家族とは何か」ということを教えられます。

「あの男は気が変になっている」(21)とのうわさを聞いてイエスさまを取り押さえに来た家族、そして「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(22)と言っていた律法学者たちはイエスさまの「外に」立っています。一方、社会や、家族から徹底的に疎外された大勢の民衆はイエスさまの「周りに」座っています。アイロニーだと思います。

イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟はだれか」、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と周りの民衆に向って言われた後、彼らこそが「神の御心を行う人」だと宣言されます。ここでわたしたちは神の家族とは血縁関係を超えて、神さまの御心を行う人々のことだと教えられます。

神さまの「心に適う者」(1:11)はイエスさましかいませんが、イエスさまが「神を愛して隣人を愛しなさい」(12:30-1)という掟を生き抜かれたことによって、わたしたちはイエスさまの傍らに座ることが出来ます。当時の大勢の民衆も、また今日のわたしたちもそのイエスさま近くで聞く時に、神さまの御心を行うものと受け入れられるのではないでしょうか。

イエスさまの共同体はペンテコステの出来事を通じて教会という具体的な形で発展してきました。教会はイエス・キリストに呼び出された神さまの家族です。イエスさまに目を向けつつ歩みましょう。

枯れた骨が生き返る

エゼキエル書37:1-14

2009年5月31日

神さまはエゼキエルに一つの幻を見せて下さいます。「非常に多くの枯れた骨」がその上に筋と肉が生じ、皮膚で覆われ、その中に神の霊が吹き入れられて「非常に大きな集団」に生き返る、という幻です。

枯れた骨とは、バビロン帝国によって捕囚に連れられて来て苦しい捕囚生活を余儀なくされているイスラエルの人々の姿です。異国で奴隷として生きている人々にとってエルサレム陥落(前587年)の知らせは「我々の骨が枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11)という絶望そのものでした。それまでエゼキエルは民の罪や、神さまの裁きによる国の滅亡を預言してきましたが、エルサレム陥落により国が滅ぼされたことを機に一変して主がご自分の民を回復させる信託を預言します。

この神さまの回復の約束は70年も経って実現されます。その間、イスラエルの民はすべての自由を剥奪される奴隷の生活を強いられますが、その中での唯一の希望は枯れた骨が生き返る御言葉、すなわち、「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」という神さまの約束でした。この希望は神の霊の働きによって後の世代に語り継がれていきます。

本日はペンテコステです。聖霊を求めていた人々に聖霊が降って神の偉大な業を語り、各地から来ていた人々が自分たちの言葉で神さまのことを聞かされた日です。聖霊はイエス・キリストを通しての神さまの救いの御業が私たちに分かるようにしてくれます。教会が歩み続けるのはこの聖霊の力によるものです。

イエスの証人となる

使徒言行録1:6-11

2009年5月24日

AD90年頃、ルカはイエスさまの教えや、使徒たちの伝道活動を文章に残す作業に取り組み、ルカによる福音書と使徒言行録を書き上げました。それは、初代教会がイエスさまから直接見聞きしていた人々が次第にいなくなる中で、イエスさまがなかなか再び来られない現実をどのように受け止めて、どのように生きるべきかを切実に求めていたからです。

6節にある弟子たちの「国を建て直して下さるのは、この時ですか」という問いはルカのいた初代教会の課題を表しています。ルカはイエスの「時期はあなたがたの知るところではない…聖霊が降ると…力を受ける…わたしの証人となる」という答えから、イエスさまの再臨実現の可否より「証人」として生きることに注目しています。

イエスさまの証人となることは自分によるのではなく、神さまの約束された聖霊の力によるものです。聖霊は人にイエスを主と告白させ、御言葉を知らせます。イエスさまの証人となる生き方には赦し合う出来事、すなわち、イエス・キリストによる和解の出来事が起こされます。初代教会はサマリア人や、異邦人への根強い差別や分け隔てを乗り越えて、主にあってひとつの兄弟姉妹であることを確かめていったのです。

神さまはわたしたちの教会を開拓してから20余年間変わらぬ愛をもって導かれました。今は最初の夢が少し薄れて来て戸惑いを覚えている時期かもしれませんが、この時こそ聖霊の働きによって大胆にイエスさまの証人として生きていきたいと思います。

 

主の愛に生きる

ヨハネの手紙一4:7-11

2009年5月17日

好き嫌いが激しい性格だったヨハネはイエスさまに出会ってから徐々に変えられていき、人生のたそがれ時には愛の使徒と呼ばれるようになります。愛の使徒であるヨハネが属していた教会は偽預言者たちの出現により分裂する危機を経験します。このような痛みがヨハネの手紙の背景となっており、ヨハネは偽預言者をわきまえる基準として「愛」を力説するのです。なぜならば、「愛は神から出たもの」(7)だからです。

神さまの愛は無条件で献身的な愛です。ギリシャ語でアガペーと言います。この愛はイエス・キリストの生涯、ことに「受肉」と「十字架の死」の中に明らかに現れました。神さまはわたしたちの罪を贖わせるために独り子をこの世に引き渡されました。そしてイエスさまは神さまの御心に従ってすべての栄光を捨てて十字架の死に至るまで従順でした。何と深い愛でしょうか。わたしたちはこのような神さまの愛に生かされているのです。

ヨハネによる福音書の8章には姦通の現場で捕らえられた女性が出てきます。石打されそうになっている女性を救われたのはイエスさまでした。イエスさまは女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と、過去を引きずって生きるのではなく、赦されたものとして自由に生きるように促されています。このようなイエスさまの一方的な「赦し」は私たちにも与えられています。

私たちの教会はこの神の愛に導かれ、これからも生きていくと信じます。互いに愛し合いましょう。キリストの赦しを心に刻んで。

わたしを愛しているか

ヨハネによる福音書21:15-19

2009年5月10日

海辺での朝の食事中、ペトロは主に再会した喜びの片隅に主を否認した自分の過ちを思い出して苦しみを覚えていたと思います。主に赦しを乞おうとした矢先に、イエスさまはペトロの目をいつくしみ深く眺めながら「わたしを愛しているか」と問われます。一瞬でペトロはイエスさまの目の中にある豊かな愛に気付いたのではないでしょうか。

ペトロの口からは謝罪の言葉に代わって、イエスさまにすべてを委ねる「あなたがご存知です」という言葉が飛び出しました。かつての「あなたのためなら、命を捨てます」と大言壮語を吐く姿とは大分違います。イエスさまの問いかけによってペトロは自分の弱さや、自分でさえ受け入れられなかった自分自身を無条件で抱いて下さるイエスさまの愛を痛感しました。

イエスさまの赦しはすでに十字架上で実現されました。ペトロの弱さを担うために十字架につけられたからです。そして、イエスさまは今ペトロを励ますと共に、「わたしの羊を飼いなさい」という新しい生き方を命じられています。これは御自分の体である教会に仕えなさいという命令です。ペトロが主の命令をどのように受け止めたのかより大切なのは、イエスさまがペトロは必ずそうなると確信していたことです。このようなペトロに対するゆるぎないイエスさまの信頼は、最初ペトロを弟子として呼ばれた時「岩」と言われて以来、終始貫かれたことが分かります。

罪責感に苦しむペトロに変わらぬ愛と信頼を寄せ続けられたイエスさまは、今わたしたちを愛し、信頼しておられます。わたしたちも復活された主に信頼を寄せて従っていきたいものです。

 

復活の主に励まされて

ヨハネによる福音書21:1-14

2009年5月3日

復活されたイエスさまがディベリアス湖畔で弟子たちにご自分を現されました。もう3度目ですが(14)、弟子たちは全くイエスさまに気づいていません。弟子たちがイエスさまにやっと気づいたのは、魚が沢山取れた「しるし」と主が用意して下さった「食事」の時でした。復活されたイエスさまとの出会いは、肉眼で見て分かるようなものではなく、イエスさまの語りかけによってはじめて可能となるものだと教えられます。

今日の箇所に出てくる漁の失敗は、師の死に対する絶望の奥底で、「人を取る漁師」として宣教に出かけた初代教会が直面した厳しい現実を暗示していると思います。そこに復活されたイエスさまとの出会いと交わりほど大きな励ましはありません。沢山の魚を取り、海辺に戻ってきた弟子たちに対して、イエスさまは「来て、朝の食事をしなさい」と言われます。弟子たちは主から朝の食卓が差し出された時、5つのパンと2匹の魚で5千人を食べさせた出来事や、最期の晩餐を思い起こしたに違いありません。イエスさまは傷つき、喪失感に捕らわれた弟子たちの心を暖かく包んで下さいました。このように弟子たちを力づけたイエスさまは、弟子たちにとってはまさにいのちの糧にほかありません。

今もイエスさまはわたしたちの人生の歩みや、わたしたちの教会の歩みに伴って下さいます。復活されたイエスさまとの出会い、ご自分をいのちの糧として与えられる主から力と勇気とを得ましょう。

 

日々新たにされて

コロサイの信徒への手紙3:1-11

2009年4月26日

この世は何をしたのか(Doing)によって人を評価しますが、聖書はどのような存在であるのか(Being)を大切にしています。わたしたちはどのような存在でしょうか。

今日の箇所でパウロはわたしたちが「キリストと共に復活させられた」存在であると言っています。キリストの身代わりの死によって新しい命、新しい生き方が与えられているからです。この復活の信仰はキリストを復活させた神さまの力に基づいています。ラーゲルクヴィスト(注)の『バラバ』という小説には、イエスに代わって命を助けられ、イエスの死と復活を生きるようになるバラバの信仰の旅が描かれています。

わたしたちの信仰の旅にもイエスさまの死と復活を通して「すでに」起きている罪の赦しと「いまだ」それに相応しく生きられない緊張関係があります。そこでパウロは「キリストと共に復活させられた」者として「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と勧めています。古い人を脱ぎ捨てるとは、貪欲などで代表される偶像礼拝を取りやめることです。新しい人を着るとは、十字架上で血潮を流してわたしたちの罪を赦してくださったイエス・キリストの従順に倣うことです。生きることです。

一度限りの短い人生です。「キリストと共に復活させられた」者として神の義、聖霊の導き、平和と隣人への愛を求めていきたいものです。わたしたちの信仰の旅路の中で日々新たにされて、真の知識に達することを願ってやみません。

(注)ラーゲルクヴィスト(1891-1974):スウェーデンのノーベル文学受賞者

 

祝福された生命

イザヤ書65:17-25

2009年4月19日

今日の箇所には神さまが新しい世界を創造されるという約束が記されています。主の民はその世界を喜び楽しむ、神さまはそのような民の姿に大いに喜ばれる世界です。わくわくしてきませんか。

実はこの約束は、厳しい現実の中で神さまにこそ救いがあると信じた人々の祈りに対する神さまの応答でした。前6世紀頃、イスラエルの民は70年間の捕囚生活を終えて故郷に戻ってきますが、荒れ果てたエルサレムの姿にみなが希望を失います。しかし、その時にこそ神さまの救いを祈り求める人がいて、またその応答として神さまの祝福が約束されたのです。

具体的にどのような祝福が約束されたのでしょうか。みなが長寿を満たし、自分の家や土地を奪われることがなく、そして働いた分だけ十分に報われるという内容です。特に注目を引くのは神さまと人、人と人、人と自然との間に新しい関係が生じることです。民の祈りがすぐ応えられ、狼と小羊、獅子と牛のように敵対し合う者の間に完全な平和が与えられます。神さまは人知を超えた大きな祝福を約束されましたが、これはイエス・キリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられました。そして、イエス・キリストを信じる私たちの日常の生活でも実際に起きる祝福です。復活されたイエスさまが恐れや絶望の中に陥っている弟子たちを励まされたように、今もわたしたちに日々生きる力と勇気を与えてくださいます。

パウロは「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者だ」(IIコリント5:17)と言っています。神さまに祝福された生命を感謝を持って大胆に生きていきましょう。

 

死から生命へ

マタイによる福音書28:1-11

2009年4月12日

日曜日の朝、二人のマリアはイエスさまの墓に行きますが、墓の中にイエスさまはおられませんでした。生前から言われていたとおり復活なさったからです。彼女たちはこの知らせを弟子たちに告げるようにと天子から言われて、墓を立ち去り、走って行った時にイエスさまに会ったのです。

恐れながらも喜びを持っている彼女たちに復活されたイエスさまは「おはよう」、すなわち「シャローム」「平安あれ」と声をかけられました。イエスさまご自身が共にいてくださることほど彼女たちを勇気付けてくれることはありませんでした。イエスさまは彼女らに「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われます。

ガリラヤはどのような場所でしょうか。イエスさまが福音を宣べ伝えたり、病人を癒されたりした場所です。イエスさまが弟子たちを呼ばれ、共に生活した場所です。弟子たちの信仰の原点です。イエスさまがガリラヤで再び会うことになると言われたのは、弟子たちが絶望に陥って恐れの中で閉じこもるのではなく、もう一度信仰の原点に立ち返り、イエスさまのみ言葉や働きを思い起こすことではないでしょうか。その時にこそ弟子たちは復活されたイエスさまを見出せる、というメッセージだったと思います。それこそ「墓からガリラヤへ」、「死から生命へ」変えられる生き方です。

イースターの朝です。わたしたちもイエスさまに出会った信仰の原点に立ち返り、イエスさまのみ言葉や生き様をもう一度噛み締め復活されたイエスさまと共に信仰の歩みを続けましょう。

 

最後の晩餐

マタイによる福音書26:26-30

2009年4月5日

主の晩餐の由来はどこにあり、どのような意味があるのでしょうか。

パレスチナ地方では共に食事をする者たちには言えない秘密がないと言われています。一緒に食事をすることは信頼や受容が欠かせないという考え方です。イエスさまは病人や徴税人など、当時罪人だと決め付けられた人々と共に食事をされて彼らを一方的に受け入れられました。ここから主の晩餐が由来しており、今日の最後の晩餐もまたこの延長線上にあります。

今日の最後の晩餐には神の身分でありながら、僕の身分となり十字架の死に至るまで従順であったイエスさまの生涯が凝縮されていると思います。イエスさまは十字架につけられる前日の夜、弟子たちと共に過ぎ越しの食事を持たれます。私たちはこの最後の晩餐を通してご自分の命を与えてくださるイエスさまに出会います。また、与えられる一方的な恵みに与ることが求められていることを教えられます。主の晩餐には二つの意味があります。御自分のすべてを与えて下さることによって成し遂げられた「罪の赦し」と、赦された者同士がお互いに主にあって交わる「天の国の先取り」です。

イエスさまは弟子たちにパンを食べ、杯を飲むようにと命じられています。それは自分の力では出来ません。わたしたちは与えられてはじめて与ることが出来るのです。主に委ねてパンを食べ、杯を飲む時にこそ、イエス・キリストから与えられた命を生きることが出来るのはないでしょうか。

2009年度が始まりました。受難週に主の晩餐に与り、罪が赦されたことを感謝しつつ、豊かな交わりから力付けられて歩みましょう。

 

かなめ石キリスト

エフェソの信徒への手紙2:11-22

2009年3月29日

キリストは十字架の死を通してユダヤ人と異邦人とを神と和解させ、両者の間の敵意を滅ぼされました。そして両者を一つにさせて「聖徒」「神の家族」、すなわち「教会」として造り上げられました。

ですから、教会にはキリストが中心におられます。これは私たちの信仰の核心として新約の使徒たちによっても、また旧約の預言者たちによっても証されています。キリストと教会との関係を建物に例えるならば、キリストは建物の四隅に据えられ、建物を支えるかなめ石であり、教会はキリストというかなめ石の上にお互いに組み合わされて造り上げていく建物です。

教会のゴールは聖なる神殿、すなわち神の住まいとなることです。これはキリストを中心として霊の働きによって可能となります。創世記に夢の中で神さまに出会うヤコブが出てきますが、ヤコブが一つの石を枕にして寝ていた時、神さまから「あなたと必ず共にいる」という約束を与えられます。目覚めたヤコブは枕の石に油を注いで礼拝をし、その場所を「神の家」と名づけます。インマヌエルの神さまが不安の中にいたヤコブを憐れまれた時、枕だった石は祭壇に、その場所は神の家と呼ばれました。それと同様に神さまが私たちを憐れまれる時、キリストは神さまに近づく唯一の道となり、キリストが中心におられる教会は神さまの住まいとなります。

キリストは教会を支えて下さり、お互いに赦し合って生きる力と勇気を与えられます。かなめ石、キリストを中心に組み合わされて成長し、神さまの住まいとなる教会を夢見ていきましょう。

 

死と復活の予告

マタイによる福音書16:21-28

2009年3月22日

今日の箇所はイエスさまが弟子たちに御自分の死と復活を予告される場面です。弟子たちの思いとは違って、イエスさまは御自分の苦難の道を指し示されています。このイエスさまの言葉を通じて、今日イエスさまに従っていくためにわたしたちに必要なことを考えてみましょう。

第一に、自分を捨てることです。ペトロは「そんなことはあってはなりません」「つまずきません。・・・・知らないなどとは決して申しません」と大言壮語したものの、いざとなった時にはイエスさまを3度も否認しました。自分を捨てるとは、自分を守りぬくための垣根を果敢に壊して、十字架の死と復活の道を歩まれるイエスさまに注目することではないでしょうか。

第二に、自分の十字架を背負うことです。友たちに連れられて来られたある中風の人にイエスさまは「あなたの罪は赦される・・・・床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われます。彼は床を担いだ時、癒されたことを実感したと思います。また、ラザロの墓に立たれたイエスさまは「石をとりのけなさい」と言われました。人々は石をとりのけた時、ラザロが生き返されたことを見ました。自分の十字架を背負うとは、自分の力ではなく、イエスさまがわたしたちに先立って十字架に付けられたことを信じて、そのみ言葉に突き動かされてその通りに行うことではないでしょうか。

イエスさまの行かれた道は人知を超えた道です。これによりわたしたちに救いが与えられました。イエスさまの十字架と復活に突き動かされて歩み続ける教会を目指していきましょう。

 

神の愛はとこしえに

ローマの信徒への手紙8:31-39

2009年3月15日

ローマの信徒への手紙は「信仰によって義とされる」(1-8章)と「信仰によって生きる」(12-16)という両輪で構成されています。今日の「神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ない」という箇所は手紙の前半の結論とも言えます。 神さまはわたしたちを選ばれ、救われ、そして栄光へと導かれる御自分の計画の中で働かれます。この世の如何なるものも神さまの愛の支配を断ち切ることは出来ません。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(8:28)からです。

パウロはこの神さまの愛の支配を「神が味方である」と解しています。なぜでしょうか。それは、大切な独り子をすべてのもののために「惜しまず死に渡された」からであり、復活させられたキリストが「わたしたちのために、執り成してくださる」からであります。このキリストの卑下(受肉から十字架の死へ)と高揚(復活から昇天へ)は、ほかならぬわたしたちのための神さまの救いの御業です。パウロはイエス・キリストの死と復活によって示された神さまの愛の故に、如何なる者もわたしたちを「敵対できない」、「訴えられない」、「罪に定められない」、「キリストの愛からわたしたちを切り離せない」と確信しています。

この神さまの愛はとこしえにあります。来週は2009年度の計画総会が開かれますが、新しい教会の歩みを共に吟味する時に、神さまの愛がわたしたちの教会、そして一人一人の歩みに豊かに注がれることを覚えたいものです。

 

正しい人の苦難

ヨブ記1:1-12

2009年3月8日

私たちはヨブ記1-2章で、ヨブが一朝にして全財産を失うが「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよう」と言い、また全身に皮膚病が生じて妻から非難されたにも関わらず「神から幸福も、不幸もいただこうではないか」と言ったことに驚きます。私たちはこのような苦難に見舞われたら、ヨブのように告白できるのでしょうか。

ヨブ記は1-2章がプロローグ、42章の後半がエピローグで散文です。中身の3-42が本文で詩文です。中身の内容は二つです。第一は、ヨブと3人の友だちとの対話です。ヨブは頑固なほどに自分が無罪であることにこだわりますが、友だちは神さまが義であることが損なわれないようにむしろヨブの有罪を主張します。ここには慰めは行方不明となり、是々非々の論争があるだけです。第二は、ヨブへの神さまの語りかけです。友だちとの論争で浮き彫りにされた因果応報信仰に対して答える代わりに、神さまは御自分の知恵を語られます。やがてヨブは自分の無知を悔い改めます。

ヨブ記は因果応報信仰に対するチャレンジです。無論、イスラエルの歴史の中で各々の行いに応じて報われる神さまというのは重要な捉え方ですが、ヨブ記は神さまがその枠を遥かに超えられるお方であることをヨブの葛藤の中で伝えようとしたのではないでしょうか。その中から私たちは神さまを祈り求める信仰者の姿を教えられます。

私たちはレントの中でイエス・キリストの苦難を覚えています。独り子を死に引き渡された神さまの憐れみを祈り求めていきましょう。

聖霊に導かれて荒れ野へ

マタイによる福音書4:1-11

2009年3月1日

イエスさまは神の霊に導かれて荒れ野へ行かれ、サタンに三つの誘惑を受けられました。一つ目は、石をパンに変えるように、二つ目は、御言葉を試すように、三つ目は、神さま以外のものを拝むように、という誘惑でした。結果はイエスさまの圧勝。

今日の箇所が位置づけられているのは、イエスさまがバプテスマを受けられた箇所とワンセットとなって、公の働きのスタートラインです。二つの出来事の共通点は聖霊に導かれたことです。バプテスマを受けられて聖霊が降り、霊に導かれて荒れ野に行かれたとあるからです。これは、イエスさまのお働きが神さまのみ旨に適ったことを意味します。

最初のアダムは誘惑に負けましたが、二番目のアダムとしてこの世に来られたイエスさまは、サタンの誘惑に打ち勝たれました。これは十字架の死に打ち勝ち、復活させられるイエスさまの救いの御業を象徴する出来事です。換言すれば、神さまが天地創造の時最初に「光あれ」と言われたように、イエスさまを光としてこの世に遣わされた神さまの再創造の出来事です。

わたしたちはいつも誘惑に負けてしまうし、誘惑に勝ったか否かに一喜一憂しがちです。しかし、大切なことは、イエスさまが人間となられて肉体の限界を背負って誘惑に勝たれたことではないでしょうか。そのイエスさまがいつもわたしたちと共におられる、という約束をしてくださったのですから、わたしたちは誘惑に立ち向かう力と勇気とが与えられると信じます。すでに誘惑に勝たれたイエスさまを信頼して歩みたいと思います。

水がめに水をいっぱい入れなさい

ヨハネによる福音書2:1-12

2009年2月22日

ヨハネからバプテスマを受け、最初の弟子たちを迎えたイエス様は、故郷ガリラヤ地方に戻られました。そしてカナという町に行きました。そこでは婚礼が行われていました。イエス様と弟子たちも招かれていました。しかし、そのお祝いの席で葡萄酒が切れてしまうというハプニングが起こりました。

イエス様は召使いの人たちに、そこにあった水がめ6つに水を満たすように言いました。手伝いの人たちが言われたとおりに水がめから、ぶどう酒をテーブルに出すために小振りの入れ物に移しました。それを持っていくと、宴会の世話役の人は驚きました。上等のぶどう酒でした。そして花婿をほめて、「だれでも初めに、良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と言ったのです。

11節に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。召使いたちは、イエス様の言われたとおり「水がめに水をいっぱい入れました」彼らは、ひたすら水がめに水をいっぱい入れました。では、教会は何をもって「水がめに水をいっぱい入れる」のでしょうか?

ひたすら御言葉を語り続けること。水がめに水を入れるように、ひたすら同じことを繰り返す。そこに何があるだろうかと思う。しかし、イエス様が水をぶどう酒に変えてくださる。御言葉を命あるものに、喜びあるものに変えてくださるのはイエス様なのです。信仰を持って聞くときに必ずイエス様が、喜び、至福のぶどう酒に変えて下さるのです。

(常盤台教会主事  林 健一)

種を蒔く人

マタイによる福音書13:1-9

2009年2月15日

イエスさまはたとえ話が理解できない弟子たちにむしろ「悟ることが許されている(11)」し、「目は見ているから、耳は聞いているから幸いだ」(16)と言われています。イエスさまは弟子たちの現在の姿を超えて将来の姿を確信したのです。

このたとえ話は神さまが蒔かれた天の国という種がやがては豊かな実を結ぶことに焦点が当てられています。道端や石だらけのところ、茨の間に落ちる種に注目する前に、まずは豊かな実を結んだことに注目すべきです。なぜなら、実が結ばれたことはこの世に独り子を遣わされた神さまの一方的な恵みがあるからこそ可能だからです。人間の努力ではなく、神さまの誠実さのために必ず実を結ぶことを信じます。

18-23節ではイエスさまがこのたとえ話を弟子たちに説明されていますが、ここでは神さまの一方的な恵みに対する人間側の応答に焦点を当てているように思われます。すなわち、御言葉を聞いて悟るか、悟らないかを問題にしているからです。13章の中でこのたとえ話が2回も言及されているのは、天の国が神さまの恵みによってこの世に到来しており、人間がその恵みに応答して生きることを表しているのではないでしょうか。

イエスさまがこの二つの点を確信して福音を宣べ伝えたのであれば、教会もまたそのような確信の中で福音を宣べ伝えていきたいと思います。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に借り入れる」(詩126:5)

 

一つの希望にあずかる

エフェソの信徒への手紙4:1-16

2009年2月8日

キリストは教会の頭であり、教会はキリストのからだです。からだの各部分がそれぞれの役割を充実に果たす時、からだ全体はバランスよく成長し続けることができます。わたしたち一人一人はキリストにより与えられた多様な賜物を持って奉仕の業を通してキリストにまで成長する、一つの希望にあずかっています。

教会(エクレシア)は神さまに召し出されて集まった群れですから、教会を教会たらしめるのは神さまの召し(クレシス)です。神さまの招きには教会がお互いの多様性を受け止め合うことはもとより、聖霊による一致のために努めることが求められています。それはキリストが和解のいけにえとなって初めて与えられた平和の絆で可能となり、聖霊の助けによって持続します。従って、教会が目指すべき目標はキリストご自身ではないでしょうか。

神の子イエス・キリストはこの世に遣わされていつも低みに立っていました。すなわち、飼い葉桶に生まれ、子ろばに乗ってエルサレムに入城し、十字架に付けられたイエスさまの生き方は貧しき者や弱い者、疎外された者の友となる生涯を貫かれました。教会の成長は、高みに上ることにあるのではなく、イエスさまが立たれたこの低みに立つことにあるのだと思います。

キリストによって教会全体が、お互いが補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、それぞれ自分の賜物の分に応じて働き、愛によって教会を造り上げていく希望を常に抱きつつ、教会の歩みができればと思います。

安息日の主

マタイによる福音書12:9-14

2009年2月1日

マタイによる福音書12章1~14節には会堂の内外で起きた安息日を巡る論争が記されています。前半(1~8節)では麦畑で弟子たちが麦の穂を摘んだことから起きた論争を機にイエスさまご自身が安息日の主であると宣言し、後半(9~14節)では会堂の中で片手のなえた人を癒される行為をもってイエスさまが安息日の主であることを証明されています。

当時、ユダヤ人にとって安息日は非常に重要でした。安息日は天地を創造された神さまが7日目に休まれたことに由来して十戒に命じられていたからです。ファリサイ派の人々がイエスさまとのこの安息日の論争を機にイエスさまを殺す策略を企て始めたことからも安息日の重要性は明らかです。しかし、彼らは安息日を守ることに熱心であったものの、真の安息が必要な弱い人々がその安息日に疎外されていることを見落としていたと思います。

イエスさまは神さまの子としてこの世に来られました。そして神の子の権威を持って安息日に御言葉が解き明かされていた会堂の中で疎外されていた片手のなえた人を癒されたのです。これはイエスさまが安息日の主であることを明らかにした出来事であると同時に、人が定めた安息日の細則を越えて本当に安息が必要な人に真の安息を与えられた出来事でした。

キリスト教はイエスさまの復活を記念して週の初めの日を礼拝の日として守っています。教会の中にいながらも様々な規範によって疎外される人がいないように、安息日の主であるイエス・キリストに聞きながら日々歩んでいければと思います。

祈りの家

マタイによる福音書21:12-17

2009年1月25日

イエスさまはエルサレム神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出して「わたしの家は、祈りの家と呼ばれる」と言われました。そして近寄って来た目の見えない人や足の不自由な人をいやされました。私たちはこのイエスさまの行為から神殿の本質を教えられます。

まず、神殿とは「神さまの家」です。神さまが臨在してくださる場所です。これは神さまが一定の場所に限られるという意味ではなく、時空に限界のある人間のレベルまでご自分を合わせてその人間との交わるという神さまの決断です。次に、神殿とは「祈りの家」です。イエスさまが引用されたイザヤの言葉には「すべての民族のため」とありますから、祈りというのは自分と神さまだけではなく、必ず他者を視野に入れるという意味があります。

神さまの臨在を経験する、また隣人のために執り成しの祈りをする、この二つがイエスさまが言おうとする神殿の本質ではないでしょうか。イエスさまをメシアとして賛美する子どもたちと、イエスさまの行為を理解できない宗教指導者たちが対比されます。イエスさまはご自分がエルサレム神殿に代わる新しい神殿であることを強調します。イエス・キリストは十字架で贖罪のいけにえとしてご自分の体を献げられたのです。

教会はキリストの体ですから神さまの神殿です。その教会に連なる一人一人もまたイエス・キリストを心から受け入れた神さまの神殿です。イエスさまご自身がわたしたちから間違った考えを追い出してくださり、痛みや苦しみを癒して下さることを確信します。

救いをもたらす神の力

ローマの信徒への手紙1:8-17

2009年1月18日

福音は神の力です。ローマ皇帝の力が崇められていた時代にパウロは大胆にイエス・キリストの十字架と復活を神の力として力説しています。パウロはまだ会ったこともないローマの教会の人々にこの福音を宣べ伝えてお互いに励まし合うことを夢見ています。

イエス・キリストを通してもたらされるこの救いの御業は人間の努力で成し得るものではなく、御自分の約束を実現する神さまの誠実さによるものです。わたしたちはこれを信じる信仰へと招かれています。旧約聖書に出てくるアブラハムは神さまからの祝福の約束を信じて神さまに義とされたことがこれを確証しています。わたしたちもイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって救われるのです。

その福音には神さまの義が啓示されました。すなわち、人間はすべて罪を犯して神さまの栄光を受けられなくなっているが(罪の審判)、イエス・キリストの贖いの業を通して信じるすべての者を救われた(罪の赦し)、ということです。神さまは一方的恵みによって御自分にそむき離れた人間を「無罪」と認めてくださり、神さまとの交わりへと招きいれて下さったのです。

この救いの御業は徹底的に神さまの誠実(ピスティオス)に基づいており、わたしたちの信仰(ピスティオス)はその恵みへの応答です。御自分の誠実さによってわたしたちを義とされた神さまは必ずわたしたちを救いの完成へと導かれるに違いありません。日々この揺るがない神の力により頼んで歩みましょう。

キリストに結ばれて生きる

ローマの信徒への手紙6:1-14

2009年1月11日

自分はキリストに結ばれて生きているのだろうかと省みますと答えに困るかも知れません。しかし、キリストに結ばれて生きることは神さまの望みです。

「キリストに結ばれて生きる」とはキリストと共に十字架につけられて葬られたことを受け入れて、キリストにあって新しい命を生きることへと向かう生き方だと思います。パウロは6、8節でキリストと共に「死んだ」という言葉を過去完了形で、またキリストと共に「生きる」という言葉を未来形で語っているからです。わたしたちの信仰は、罪に対してもうすでに死んでいる一方、神に対してはいまだ完全な者になっていない、という二つの緊張関係の中で育まれていくものです。換言すれば、途上にあると言えます。

パウロは途上にあるわたしたちに三つのことを勧めています。第一に、わたしたちはイエス・キリストと共に十字架に付けられて、もはや罪の奴隷ではない、ということを知るように。第二に、わたしたちが罪に対して死んでキリストに結ばれて神に対して生きているのだと考えるように。第三に、自分自身を神に献げるように、という三つです。

パウロは途上にあるわたしたちが神さまの愛を失うことなく、必ず神さまの霊によって「新しい命を生きる」ように導かれることを確信しています。様々な課題を前にして気落ちするのではなく、「キリストに結ばれて」生きる人生を分かち合っていきましょう。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ローマ8:17)

新たな出発

創世記12:1-8

2009年1月4日

ミレニアムを境に流行った『チーズはどこへ消えた?』という本の中で著者は、変化を読み取って素早く対応すれば幸福が掴み取れる人生を力説していますが、一方、私たちは神さまとの出会いを通して神さまによって導かれる人生を覚えたいものです。

本日の箇所の4節に「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。これはアブラハムの新たな人生の出発が神さまの召し出しに基礎付けられていることを意味します。アブラハムにとって無謀にしか見えない神さまの召し出しに従えたのは、神さまから与えられた「祝福の源」という約束があったからだと思います。アブラハムは思い切って出発したものの、カナン地方に着いてそこにカナン人が住んでいることを見て寄留者である自分のアイデンティティを実感します。そこで神さまは「あなたの子孫にこの土地を与える」と再び約束されます。アブラハムは依然として見えない神さまの約束に応答して礼拝を献げます。

「信仰の章」とも言われるヘブライ章11章は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信することです」と語り始められていますが、その一例として「召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した」(ヘブライ11:2)アブラハムが取り上げられています。

2009年の初めに、神さまの御言葉に従って「行き先も知らずに」出発したアブラハムの応答に励まされて、日々の生活へと信仰の歩みが始められることを心から祈ります。

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