「ウリヤの妻の沈黙」
2017年12月31日
サムエル記下11章1-13節
今日の聖書箇所にはダビデ王の罪が記されています。部下のウリヤの妻を奪い、ウリヤを殺した罪です。ダビデ王さえも罪深い人間であり、いかなる罪をも悔い改めれば、主に赦され新しく生きることができる、という解釈を子どもの時よく聞いていた覚えがあります。大事な読み方ですが、今日はイエスさまの系図の文脈で考えてみます。
ダビデ王が預言者ナタンに指摘されるのは、ウリヤの妻(所有物扱い)を奪い、ウリヤを殺したという、神を侮った罪です。ダビデの悔い改めはバト・シェバへの謝罪につながっておらず、彼女は夫や我が子の死にひたすら忍耐させられたように見えます。さらに教会は歴史の中で、犠牲者であったはずのバト・シェバに、男性を罪に陥れる「誘惑者」のイメージを重ねてきたのも事実です。これらは、聖書が家父長制や、ダビデの英雄化の意図に縛られていた裏付けでもあるのでしょう。
しかしイエスさまの系図の文脈で読み直す時、バト・シェバは時代の価値観に沈黙を強いられていたことに気づかされます。同様にイエスさまもこのような限界の中に生まれました。そして徴税人や娼婦、病者、子ども、寡婦など時代の宗教と価値観によって虐げられ、周縁に追いやられていた人々と共に生きられました。このような「解放」と「救い」を成し遂げた方の誕生が紹介されているのです。私たちの固定化された聖書の読み方は、常に主イエスによって覆され、今苦しんでいる人々に目を向ける生き方へと招かれていると信じています。〔牧師 魯 孝錬〕
「低きを高める神によって」
2017年12月24日
ルカによる福音書1章46-55、4章18-19節
・イエスさまの誕生をめぐって、当時のガリラヤの状況と、マリアの心情を思いめぐらしました。この世界に、新しい命を与えられながら、戸惑い、苦しむ人々がいます。八方ふさがりのような苦しみの中に「神がともにいる」のです。状況は何一つ変わらなくても、聖霊の励ましによってマリアは神を賛美する者へと変えられ、イエスの母となりました。世間や人々から蔑まれても、決して見放さない方、インマヌエル神が、どん底の中から救い出して下さる。この希望の福音に、どれほど人々が励まされることでしょうか。
・ローマ帝国の国教となり強大化するキリスト教界の「権威ある教え」は、社会の差別構造や男性中心主義を助長する役割を果たしてきたといえます。マリアが「おとめ」のまま「身ごもった」とされることによって、女性たちのいのち・性が貶められ、歪んだ価値観の中に閉じ込められてきたのではないでしょうか。昔から語られている教えを無批判に受け入れるだけではなく、なぜこのように記され、訳され、教えられたのか、当時の文脈を捉えなおしながら、今この世界で生きる私たちに、神が何を語っておられるのかを、新たな視点で受け取っていきたいものです。それは、信仰の土台が揺るがされるようで苦しいものです。しかし、その苦しさの中にこそ、神が伴い、解放と新たなメッセージが与えられるでしょう。私たちは揺らいでも、神は決して揺らがない方です。
・私たちは、何をもって「イエスを、救い主、キリスト」と信仰告白するのでしょうか。「奇跡的な誕生」だから、「イエスは神・救い主」と告白するわけではありません。奇跡を信じることが信仰ではありません。小さくされた人々に寄り添い励まし続け、生き抜いたイエスさまの生きざまが、神の本質(信実・愛)そのものです。ですから、「イエスはキリスト、救い主、神の子」と告白します。低きを高める神の伴いと励ましによって、マリアから誕生したイエスさま。その生きざまは、最も低い十字架と、復活へと繋がっています。このイエス・キリストこそが、インマヌエルなる神、低きを高める神、いのちを回復する道です。イエスさまの誕生を、心から感謝し喜びます。そして、ともにイエスさまの生きかたに倣って歩んでいきたいと願います。〔協力牧師 米本裕見子〕
「命をつなぐ挑戦 2」
2017年12月14日
ルツ記3章7-13節
ナオミとルツは落ち穂拾いを保障してくれたボアズの配慮を嬉がっていましたが、それはあくまでも助ける者と助けられる者とが分断されたある種の不平等でした。彼女らの唯一の願いは、神からの嗣業を取り戻し、彼女らの存在自体が尊重される権利でした。そのためルツはボアズの寝床に入り、彼に家を絶やさぬ責任があることを要求しました。
彼女らの夫たちは異郷で死を迎えました。家父長の死は残された女性にとっては沈黙と忍苦が強いられることを意味します。しかし、彼女らはあえて帰郷を選び取り、鮭が川を遡上するごとく、命をつなぐ挑戦に挑んだのです。この歩みから生じた二人の間の固い連帯によって、ボアズは突き動かされたのではないでしょうか。
このようなナオミとルツの連帯の働きは、民族的な差別や、やもめに強いられる諦めと沈黙を見事に克服して「オベド」(仕える者)を得ました。ダビデの祖父を産んだのも喜ばしいことですが、最も重要なのは、故郷の女性たちがナオミに対して「あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁」とルツの存在を喜ぶ告白ではないかと思うのです。
姑の故郷の女性たちは、ナオミの夫と息子たちが死んだのは、異邦人女性のルツを嫁にしたからだと決めつけ、嫌悪と排除とを正当化していたのかも知れませんが、ナオミとルツ(「友愛」の意)の連帯を通して偏見と嫌悪から解放されたのだと信じます。〔牧師 魯 孝錬〕
「周辺に立ち続ける」
2017年12月03日 アドベント1
ヨシュア記2章1-15節
今日の聖書箇所はラハブという遊女の決断で彼女の一家が死から救われる話です。これはカナンの先住民の中で周辺に追いやられた人々と、定着地を求めてエリコの周辺を探る人々との連帯の話かも知れません。
ラハブは町を囲っている城壁に住んでいます。一番先に敵の攻撃のターゲットになる場所です。彼女は社会の底辺であらゆる差別と蔑視を受け、転々としたあげく、死と隣り合わせのこの城壁に来ていたのかも知れません。正当な保護・保障からまったくはずされたされた存在です。
ラハブの行動は意味深長です。女性を半人前と思い込み、そして家父長的な価値観の下で聖書を解釈してきた抑圧に抗い、「女性」として命がけで家族の救いを、人の上に人の支配を認めないヤハウェの神に求めています。抑圧に苦しんでいたからこそ、イスラエルの人々をエジプトの抑圧から救い出された神に魅かれていたのかも知れません。
教会はラハブように痛みを持って周辺に立ち続けるものでありたいと願います。周辺に立って見えてくる「中心」の過ちに否を唱え、小さくされ弱くされている人々と共に生きていくことができればと思います。民族や、性別、文化、年齢などの互いの相違を超える連帯の連鎖を喜ぶ群れでありたいと切に祈ります。〔牧師 魯孝錬〕
「命をつなぐ挑戦」
2017年11月26日
創世記38章11-30節
マタイによる福音書の1章に出てくる系図には、タマルをはじめ、5人の女性が登場します。マリア以外の4人の旧約聖書の物語は、家父長的な価値観に抗った女性たちの歩みが描かれています。彼女らの挑戦は、マリアが置かれた現実の伏線とも言えます。
タマルは家父長的な価値観の犠牲者でした。不妊や夫の死の元凶と見なされて、実家に帰され、やもめの人生を強いられたからです。しかし聖書は、不妊や夫の死を夫が「神の意に反した」結果とし、タマルの命がけの挑戦は族長のユダの偽善を痛快に暴きます。ユダは「わたしよりも彼女が正しい」(26)と告白しているからです。
家父長の権威に認められた場合のみ権利が取り戻されることや、子どもが生まれて「めでたし」という結末は依然として時代の限界ですが、タマルの「命をつなぐ挑戦」が、ユダの悪を善に変えてくださる神さまの働きとして描かれていることは、当時の宗教価値観において革命的な話だったのではないかと思われます。
今日の日本社会にも依然として「家父長的な価値観」は存在し、さらに「新自由主義」や「排外主義」など、価値ある命と価値のない命を分けようとうする動きが広がっています。教会は聖書を読み直していく中で、このような時代の価値観に抗い、抑圧された者を解放し、命の尊さを大事にしていかねばなりません。〔牧師 魯 孝錬〕
「最も小さな者」
2017年11月19日
マタイによる福音書25章31-46節
この世の最後の日(終末)に、すべての人々は左右に分かれて片一方は神の国を受け継ぎ、また片一方は永遠の罰を受ける、という話です。これは終末を準備して「今、ここで」自分自身や、教会がどのように歩まばよいのか、ということが示されている話だと思います。脅しではありません。
イエスさまはご自分の死が近づいて来るにつれて弟子たちに「目を覚ましていなさい」と繰り返し言われました。またイエスさまの死後、教会は主イエスの死を終末の先取りとして捉えてきました。25章は最初の「十人のおとめ」の話を通して、終末への「準備」が強調されています。
そして続く「タラントンの話」と「最も小さな者」は、終末を準備する対極の話として位置付けられていると思います。「タラントンの話」では、金持ちがもっぱら利益を残した僕だけを評価していますが、「最も小さい者の話」では、神さまは小さくされた一人の命を大事にした人々を評価しているからです。主イエスは「「わたしの兄弟であるもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と招いてくださっています。
初代教会の時代において「兄弟」とは、「家族、親族」という身内に限定された意味に受け止められていたのでしょう。しかし、教会がこの主の招きに繰り返し立たされる度に、この「兄弟」の概念が、その時代において差別され沈黙と犠牲を強いられている一人の命であることに気づかされてきたのではないかと思います。〔牧師 魯 孝錬〕
「子どもを愛するイエスさま」
2017年11月12日
マルコによる福音書10章13-16節
イエスさまに触れていただくために、子どもたちを連れてきた人々を、弟子たちは叱ります。当時の価値観では、女・子どもは取るに足りない存在であり、イエスさまが煩わされないようにと考えたのかもしれません。
しかし、イエスさまはそのことに激しく憤ります。「子どもたちをわたしのところへ来るままにさせておきなさい。この社会で彼らがされているように、彼らの自由な行動を妨げてはならない。」なぜなら、「神の国はこのような者たちのものである」と。
「このような者たち」という言葉には、子どもだけでなく、子どもに代表される社会の中で存在価値を認められていない人々、女性や罪人のレッテルを貼られた人々も含まれているでしょう。「神の国は、このような者たちのものである」という言葉は、社会の中で弱くされている人たちに対する「神の国はあなたがたのものだ」という励ましである以上に、「あなたがたが立ち上がり、社会を変えていくことが起こされるのが神の国だ。だから、立ち上がり、社会を変えていきなさい」というイエスさまの促しかもしれません。
イエスさまは、子どもたちを両手で抱き上げ、両手を置いて祝福されます。子どもたちの痛みに全身全霊で向き合い、その存在を肯定されるイエスさまの行為は、社会の中で取るに足りない存在とされてきた子どもたちや子どもたちを連れてきた女性たちにとって、大きな力となったでしょう。〔副牧師 細井 留美〕
「愛し合う道へ」
2017年11月05日
ヨハネによる福音書15章12-17節
イエスさまとの別れが近づき、弟子たちは大変心を騒がせています。イエスさまは弟子たちとの食事の場で彼らの足を洗われ、弟子たちも同様に互いに愛し合いなさいと言われました。イエスさまはご自分の不在を前に、信仰によって開かれた新しい道を示されたのでしょう。
イエスさまの不在は十字架の死を意味します。ヨハネ共同体は主イエスの死と復活を経験した後、それらが「カナの婚礼」や「神殿で商人を追い出す事件」で象徴されているように、失われた喜びを取り戻し、神礼拝の回復の決定的な神さまの救いの出来事として再解釈しました。
今日の聖書箇所はヨハネによる福音書にある7回の「自己啓示」の最後、つまり「わたしはぶどうの木である」の一部です。木につながっていることも大事ですが、もっと大切なのはイエスさまが「わたしもあなたがたにつながっている」と言われる点です。主イエスは弁護者(聖霊)を約束した上で、ユダの裏切りや、ペトロの否認、弟子たちの逃亡など彼らが様々な失敗を乗り越えて生きる道として「愛し合う道」を示されたのだと思います。
この道への出発は「思考停止への抵抗」から始まります。これは伝統と習慣により苦しむ弱者と小さい者の痛みに連帯していく生き方です。この連帯の道は私たちが絶えず聖書を再解釈するチャレンジにつながっているのです。〔牧師 魯 孝錬〕
「知恵の心を得させたまえ」
2017年10月29日
詩編90編1節、Ⅰコリント3章10-17節
「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」(詩編90:1)。苦労と災いに過ぎない人生や、瞬く間に過ぎ飛び去ることになる生涯のただ中で、詩人はその人生が、むしろ主に造られ、命を生かされ、主ご自身が共に歩まれることに目を向けてこのように歌っているのでしょう。一切を委ねる心です。神さまこそが限りある人間の住処なのです。
コリントの信徒への手紙では、あるリーダーに頼って分裂している教会の現状の中で、パウロは主に呼び集められた教会は誰もが、自分自身も含めて神のために力を合わせて働く同労者であることを確認した上で、イエス・キリストこそが唯一の土台であると宣言します。
イエスさまの死を思い起こします。ひとつはマタイとマルコが描く徹底的に捨てられる死に様です。痛んでいる者と同じ境遇に置かれ、泣き叫ぶ姿です。もうひとつはルカが描くご自分の死だけでなく、人々の罪を赦し主にゆだねる死に様です。執り成しの祈りをする姿です。実は両方とも主イエスを通して「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の神の姿されているのだと思っています。
私たちと共におられる神が、イエス・キリストに誕生や生涯、そして死と復活の中で実現されたのです。このイエス・キリストという土台の上に教会(場所ではなく、会衆そのもの)は、神の宿るところとなり、結び合わされて共に成熟していくのでしょう。 〔牧師 魯 孝錬〕
「主の祈り」
2017年10月22日
ルカによる福音書11章1-4節
弟子たちの祈りを教えてくださいとの求めに、イエスさまはまず「父よ」(「アッバ」=とうちゃん)という親しみ溢れる表現を口にされます。これは神さまの誠実な導きがやがて「神の国」(神の愛の支配)の完成にとつながるという信頼が凝縮された表現なのでしょう。
祈りの特徴の一つは、「我々」の祈りであることです。この「我々」には、サマリア人や、女性、徴税人、罪人と決めつけられている人々が想定され、当時の「隣人は愛し、敵は憎む」という価値観を根底からゆさぶるチャレンジだったに違いないと思います。
チャレンジは続きます。「真の赦しは神のみが行う」という宗教理解が常識の社会に対して、あえて主イエスは神に先行して人の赦しを語られました。イエスさま自身中風の人や、食事の席でイエスさまの足を髪の毛で拭いた女性に対して、彼らを罪人と決めつける周りの視線を断ち切って「あなたの罪は赦された」と宣言されているからです。私たちが積極的に人を赦す時に、私たち自身も神さまに赦されるのです。
最後の「誘惑」とは、「眠り」だと思います。そしてイエスさまのゲッセマネの祈りの場面で眠ってしまった弟子たちを思い起こします。またその眠りとは、ユダやペトロ、師を捨てて逃げてしまった弟子たちが陥った誘惑そのものでした。祈りを教えてくださったイエスさまご自身が弟子たちのために祈られた土台の上で、私たちも一緒に主の祈りを祈っていけるものだと信じます。〔牧師 魯 孝錬〕
「神の導き」
2017年10月15日
出エジプト3章1-8節
エジプトの王様はイスラエルの人々の数を恐れるあまり、生まれる男子を殺すようにと命じます。モーセもナイル川に捨てられたところ、王女に拾われて王宮で育てられました。40歳の時、彼は同胞を苦しめるエジプト人を打ち殺してミディアン地方に逃げ、それから40年間羊飼いとして過ごしてきました。ヘブライ人でもなく、エジプト人でもなく、ミディアン人でもない、痛みを抱えていたでしょう。
神さまは燃え尽きない柴の中からモーセに語りかけられます。神さまは「履物を脱ぎなさい」とすべてをご自分に委ねるように迫ってきました。その神さまはイスラエルの人々の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知っておられたお方です。この出会いを機に、モーセは自分の人生を再発見したでしょう。王子と羊飼いとの経験がこれから、ファラオとの交渉と荒野での旅にどれほど貴重に用いられたのかを考えると驚きです。
10月3日神戸で日韓・在日連帯特別委員会は劇団「石(ドル)」のきむぎかんさんの一人芝居『在日バイタルチェック』を催しました。笑いと涙たっぷりの「在日」の歴史に思いをはせる貴重な時間でした。特に印象深かったのは、同じ在日3世の中で朝鮮学校で育った者と日本の公教育を受けた者との間に深い分断がある現実を知らされたことです。まさにこの芝居が両者の在日3世たちが互いの痛みに向き合う中で生まれた背景に深いを感動を覚えました。人の痛みは神さまの導きによってきっと人を励ます配慮へと変えられることを信じます。〔牧師 魯孝錬〕
「神の憐れみ」
2017年10月8日
マルコによる福音書8章1-10節
今日の聖書箇所は7つのパンと少しの魚で4000人を満腹させた話です。弟子たちは無理だと諦めた様子でしたが、イエスさまは人々が空腹を覚えていることを深く憐れみ、群衆を地面に座らせ7つのパンを取って感謝の祈りをし、裂いて弟子たちに配らせました。人々は満腹した上で、残ったパンくずが7籠も集まりました。
この出来事の原動力は、何と言っても空腹に苦しむ人々に対するイエスさまの深い共感・共苦です。7章24-30節での女性とイエスさまの対話には、パンを食べさせる話を娘から悪霊を追いだす出来事の比喩として、つまり抑圧から解放させる「救い」の出来事として話し合っています。
だとすればここの群衆の空腹を満たした話も、イエスさまがご自分の周りに集まった人々を憐れみ、いやした話につながると思います。群衆の中には徴税人や娼婦、あるいは、病者、障がい者などの社会的な弱者たちが多くいたし、彼らは当時の宗教的価値観では「罪人」と決めつけられ、家族や、共同体から排除されていた痛みを抱えていたからです。
弟子たちの理解はそこまで深められてはいなかったようです。しかし、イエスさまは、その弟子たちにパンを配らせ、パンと魚で人々の空腹が満たされるとともに、彼らが宗教的な抑圧から解放され、一人ひとり大切な存在である喜びを一緒に実感していたのではないかと思うのです。私たちも主の業に与っていく群れでありたいと思います。〔牧師 魯孝錬〕
「一緒にやろう」
2017年10月1日
Ⅰコリント 12章12-31節
パウロは、キリスト者を「キリストの体」にたとえます。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つである。キリストの場合もそれと同様である」(12)。11章にはコリントの教会に仲間割れのあることが記されています。それゆえパウロは、体が多くの部分から成り立つように、キリストの体も、様々な人々によって形作られていて、その一人一人がキリストの体にとって、必要な存在なのだと、訴えます。
多様性を認め合い、互いに配慮し合うから、体には分裂が起きない。キリストの体である教会も、同じく互いに配慮し合うように作られているのです。もちろん、キリストの体である教会は、初めから共同体として上手く機能するわけではありません。失敗も重ねながら、助け合ったり、励ましあったりする中で、「一人ひとりを大切にする」共同体が造り上げられていくのです。
「一人ひとりを大切にする」ために、すなわち「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ためには、「できないことは一緒にやろう!」と声を掛け合うことや、「一人でできないから、助けて」と声を挙げることが大切です。教会から始めて、孤立や分断が広がる社会の中に、みんなの居場所、共に生きる場所を広げていくことができればと思います。〔副牧師 細井留美〕
「神の働き」
2017年9月24日
使徒言行録10章1-18節
異邦人伝道の機がいよいよ熟したのでしょう。8章で聖霊はフィリポを通してサマリアの人々や、エチオピアの宦官を信仰に導かれました。9章では復活の主イエスが迫害に熱心なサウロに出会ってくださり、回心へと導かれました。異邦人を救おうとする神さまの働きは続きます。
今日の聖書箇所では主の御使いが異邦人の百人隊長のコルネリウスに、ペトロを招きさないと命じる一方、ペトロは律法で禁じられている食べ物を食べるようにとの幻を3度も見ました。神さまが清めたものだから大丈夫と説得されます。幻は異邦人伝道への促しだったのでしょう。
ヤッファの皮なめし職人シモンの家が舞台です。8章で宦官と別れたフィリポはアゾトからカイサリアへと向かう中で、きっとヤッファを通り過ぎたと思います。そして職業柄、差別をされてきたシモンをフィリポは訪ねたのでしょう。シモンは、神さまによって異邦人伝道へ突き動かされる初代教会の様子を目撃していたのです。
ペトロはコルネリウスに出会って、神さまが人を分け隔てなさらず、異邦人にも救いの道を開かれたことを体験しました。初代教会の中でこのペトロの体験は、異邦人伝道が実現していく時にとても大切な証言として共有されます。神さまが絶えず人々に働きかけ、主ご自身が望んでおられることを示してくださることを信じます。〔牧師 魯孝錬〕
「恐れることはない」
2017年9月17日
マルコによる福音書6章45-52節
5千人の給食の後、イエスさまは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸に先に行かせます。夕方になると、舟は湖の真ん中にあり、イエスさまは陸地におられました。やがて、舟は逆風に会い、弟子たちは漕ぎ悩むようになります。そんな弟子たちの姿を見たイエスさまが、「湖の上」を歩いて弟子たちのところに行きます。弟子たちは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というイエスさまの言葉で我に返り、イエスさまが舟に乗り込まれると、風が静まったことに非常に驚きます。
イエスさまが、あえて弟子たちを先に行かせたのは、いずれ、弟子たちだけで、逆風に立ち向かわなければならない時が来るからではないでしょういか。この出来事を通して、弟子たちは様々なことを学んだでしょう。自分たちが歩む道は、常に順風満帆ではなく、逆風も吹くこと。自分たちの力ではどうにもならないこともあること。しかし、イエスさまが共にいてくださるならば、困難の中で道が開けること。不安と混乱の中で、イエスさまが「安心しなさい。恐れることはない」と呼びかけてくださること。その呼びかけに耳を傾ける時に、平安が与えられることです。
苦難の中にあって、私たちは孤独ではなく、共にいてくださる方がいます。その方に、助けを求めることができます。イエスさまを信じる者には、苦難に立ち向かう力が与えられているのです。〔副牧師 細井留美〕
「主の約束を生きる」
2017年9月10日
創世記23章7-20節
サラが死にました。夫のアブラハムはヘト人から墓地を買おうと交渉をしはじめます。「私は寄留者ですが、墓地を譲ってください」「良い土地を選んでください」「マクペラの洞穴が欲しいです」「差し上げます」「代金を払います」「銀400シェケルです」。緊張の交渉の末、アブラハムは代価を払って墓地を買いました。
ただでもらえたのに、彼はなぜこれほど執念深く代価を払って墓地を所有しようとしたのでしょうか。彼は寄留者だからです。寄留者とは、今は歓待され土地を譲ってもらえたとしても、いつ敵対されその土地を取り上げられるか分からない、肩身の狭い立場だったからです。だからこそ、アブラハムはヘト人たちの中で命がけで交渉に出たのでしょう。
このような不安定な生活の中でアブラハムの唯一の頼りは、子孫を砂粒のように与えるとの約束を与えられ、自分をここまで導かれた、主なる神さまの約束だけでした。そしてこのマクペラの洞穴があったヘブロンの地で彼は主の約束を再確認してきたのです。ですからこの墓地は神を礼拝しつづけてきた場所でもあったのです。
ヘト人から墓地を買ったアブラハムの行動が神さまの御心に相応しかったのかどうかは分かりません。しかし、聖書はマクペラの洞穴にアブラハムの一族が葬られ、イサクとイシュマエル、そしてエサウとヤコブとが、自分たちの先祖と共におられた主の働きを想起した場所であることを、淡々と伝えています。〔牧師 魯 孝錬〕
「新しい命に生きる」
2017年9月3日
ローマの信徒への手紙6章4-8節
アブラハムは希望するすべもなかったときに、夜空の星のように子孫を与えるという神さまの約束を信じました。そして神さまはこの信仰を彼の義と認められました(創15:6、ローマ5:22)。「義」とは、神さまとシャーロムな関係の回復で、「救い」そのものと言えます。律法を守る「行い」ことによって義とされることが常識な時代に、「信仰」によって義とされるとパウロはチャレンジをしていたのです。
そしてこのような信仰に生きることを「バプテスマ」という事柄に当てはめて吟味しています。水に沈められることによって、古い自分がイエス・キリストと共に死んで葬られたことを告白する、また水から引き上げられることによって、神さまに復活させられたイエス・キリストによって与えられた「新しい命」を生きることこそ、キリスト者に開かれた恵みの道なのです。死の支配から解き放たれ、恵みの支配に大胆に生きようではないかという呼びかけなのです。
聖霊の導きによって信仰が与えられ、その信仰を自覚的に言いあらわした上で、体をもって浸礼の形でその信仰を証するのが「バプテスマ」です。午後のバプテスマ式に先立ち、一人がその信仰によって神さまに義とされる出来事を深く吟味したいものです。自分により頼むのではなく、キリストと結ばれて共に歩み続けたいと祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕
「隣人とは誰か」
ルカによる福音書10章25-37節
2017年8月27日
ある律法の専門家がイエスさまを試そうと行った「わたしの隣人とはだれですか?」という質問に対して、イエスさまは、ひとつの物語を語られます。
ある人が追いはぎに襲われ、追いはぎはその人の服をはぎとり、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去ります。通りかかった祭司とレビ人は、倒れた人を避けていきます。死体(汚れ)に触れると、祭司の務めができなくなるからです。ところが、旅の途中のサマリア人は、倒れている人を見ると憐れに思い、近寄って傷の手当をすると、宿屋に連れていき介抱します。
宗教上の理由で、サマリア人はユダヤ人にとって、憎悪や蔑視の対象でした。また、この物語のサマリア人は、商人であったと思われますが、当時の社会では、商人は泥棒だと見做され、忌み嫌われる存在でありました。そのような忌み嫌われる者が、祭司やレビ人に勝る、憐れみにあふれる行為を行ったことに、律法学者は大きな衝撃を受けたでしょう。
「わたしの隣人とはだれですか」と問うた律法学者自身の考えは、隣人とはまず第一にイスラエルの同胞のことであり、同時に律法を守ることに忠実な者のことであったでしょう。ところが、イエスさまの物語によって、律法学者のこれまでの「隣人観」は、大きく揺さぶられ、新たな視点を得たでしょう。イエスさまは、「隣人とは誰か」という定義よりも、目の前で痛む人に憐れみをもって接することの方が大切であることを示されたのです。〔副牧師 細井留美〕
「地の塩、世の光」
マタイによる福音書5章13-16節
2017年8月20日
マタイ書5-7章は「山上の説教」です。おそらくマタイは、モーセ5書を意識してイエスさまの言葉を集めて、律法をはるかに超える教えとして提示しているのだと思われます。「心の貧しい人々は、幸いである」と始まる8つの祝福は、当時の価値観に、見捨てられ、苦しむ者に、主イエスが「大丈夫だ」、「あなたは大切だ」と語りかけてくださる文脈です。萎縮し自暴自棄になった人々が主イエスの励ましに力づけられ、立ち上がる場面です。
この文脈に続く言葉が今日の箇所での「地の塩、世の光」宣言です。塩とは、殺菌や防腐剤として昔の人々の生活に欠かせない良いものでした。一方で旧約聖書は「塩地」を神の裁きや災いの象徴として語っています。また1世紀のパレスチナの人々の生活の中では、当時の「屋外の土の炉」に塩の板が着火剤として使われいて、燃え尽きると塩気がなくなり捨てられることはまさに日常でした。
しかし、イエスさまは闇を追いだす、「世の光」だと宣言してくださいます。弱い者をより苦しめる宗教的な価値観に対して、イエスさまは「否」を唱え、その価値観によって窒息している人々こそ「光」であると言われるのです。彼らの存在を尊く見てくださったその場はすでに「神の国」が豊かに実現された場であったと思います。
このような憐れみがあったからこそ、「塩の板」のようなはかない存在ではなく、それこそ、世の光として送り出された尊い存在であることを宣言なさってるのです。〔牧師 魯孝錬〕
「平和への道」
マタイによる福音書5章38-48節
2017年8月13日
ヘブライ語の「シャローム」は、「平和」と訳されますが、ただ「戦争がない状態」と言うだけの意味ではありません。「あらゆる点、すべての関係性においてで満ち足りている状態」欠けのない状態です。ギリシア語で、平和は「エイレーネ」といいます。イエスの山上の説教の冒頭、5章8節に、「幸せだ。平和を作りだす者は」とあります。平和を目指して行動する者が、幸いな者だとの宣言です。信仰的なことがらと社会的な事柄は切り離せず、一体なものとして、イエスはまずこの「幸い」を宣言されました。
山上の説教の後の、イエスの非暴力による抵抗の勧めは、人間の常識、考え方の枠を超えた行動です。イエス様は、人が感情的になったり、怯えて諦める弱さをご存じです。そんな弱さを抱えるからこそ、そこを乗り越える所に、平和の道があると述べています。もちろん、リスクはあります。逆上されるかもしれません。それでも、イエス様の教える「平和への道」は、暴力で応戦するよりも、よほどシャロームの可能性に開かれているのです。マハトマ・ガンジー、マーチン・ルーサー・キングなど、非暴力によって、権力による理不尽な差別や抑圧に抵抗し勝利を勝ち取ったことは歴史が証明しています。何より、イエス自身が、権力の横暴に対して、最後まで非暴力に徹し、十字架に架けられました。すべての人のシャロームのために、非暴力の抵抗を貫いたのです。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。
神は、人を差別しません。すべて同じ人間を、個性と賜物を与えて造られました。そのすべての人に愛を注がれ、憐れみと慈しみのまなざしをもっておられるのです。わたしたち人間は、そんな神に似せて作られた者です。敵を含むすべての人に、愛と、憐れみと慈しみを注ぐようにと創られた者です。今この世界に派遣されている、私たち教会が、次の世代に本当の平和「神の国」シャロームを残していけますように。今、できることは何か、共に祈り、行っていきたいものです。〔協力牧師 米本裕見子〕
「主イエスの招き」
ルカによる福音書9章57-62節
2017年8月6日
ペトロのメシア(救い主)告白を(ルカ9:20)機に、イエスさまはご自分の死と復活を語られ、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という「服従」への招きをなされました。
「どこへでも従います」と言う人には、何の保障もない道であることを伝える一方、ある人には「わたしに従いなさい」と呼びかけ、父親の葬儀の心配に対しては、神の国の福音を広げなさいと送り出します。また「従いますが、まず家族に別れを」と申し出る人には、「鋤を手にして後ろを顧みてはならない」と厳しく戒められます。
「服従」への招きは、それぞれの状況や思いの中でその人に響くような言葉で与えられるものです。決して画一的なものではありません。そしてこれらの招きの大事なのは、血縁関係の家族を克服することが強調されている点だと思います。当時、血縁中心の家父長的な宗教観の中で、多くの病者や、悪霊に取りつかれた者、女性たちなど、関係を絶たされた者たちが主イエスのところに集められ、癒しと励ましを得ていたのです。イエスさまは彼らのことをご自分の家族だと明言されたことがあります(ルカ8:21)。主イエスは神の家族の関係を示されたのでしょう。
教会に呼び集められた一人ひとりは、様々な形で主イエスを中心に補い合い、支え合って生きるようにと招かれています。欠けの多い自分たちですが、共にこの使命に生きていく時に真の教会へと変えられていくと信じます。〔牧師 魯孝錬〕
「神の心」
ヨナ書4章1-10
2017年7月30日
ヨナは怒ります。神さまがニネベの滅亡を「思い直された」からです。それは神さまの恵みと憐れみの故だと頭では分かりますが、素直に喜べません。逆に「死んだ方がまし」だと訴えます。神さまは「お前は怒るが、それは正しい(ヤタブ)ことか」と問います。これは創造された時「良し(トーブ)」とされた被造物に本来の姿を取り戻してほしいとの造り主の招きとも言えます。神を避けて恐れていたアダムたちに「どこにいるのか」という根源的な問いと相通じています。
神さまはヨブのために一夜にしてとうごまの木を生じさせ木陰を与えられ、また一夜にして虫にその木を食い荒らさせ枯らしてしまいます。消えていたヨナの怒りはぶりかえります。ヨナは神さまに「お前は…怒るがそれは正しいことか」と問われます。これによってヨナが自分の怒りや自分の信仰が、自己中心的であったことに気づかされたのでしょうか。
神さまはヨナが何のかかわりもないとうどまの木を喜んでいるならば、ご自分が創造して生かしたものを惜しむのは当然ではないのかと必死に訴えます。このようにして神さまは、ヤハウェは自分たちだけの神だと思い込んでいる主の民を呼び覚ましているのだと思います。まさにイエスさまが善きサマリア人のたとえ話を通して、ユダヤ人の民族主義の克服を促されたのと同様に。神さまの惜しむ(フース、共に苦しむ)心に私たちは突き動かされ、これからの福音宣教を進めていくのです。〔牧師 魯孝錬〕
「主のまなざし」
マタイによる福音書12章1-21
2017年7月23日
安息日は、6日にわたる天地創造を完成された神さまが、7日目に休まれたこと、エジプトで奴隷であったイスラエルの人々を神さまが救ってくださったことに根拠があります。安息日には、「いかなる仕事もしてはならない」と命じられた神さまの本来の目的は、人間が人間らしく生きられるようにするためであり、一人ひとりの命を大切にするためであったでしょう。
ある安息日に、空腹であった弟子たちが、麦の穂を摘んで食べます。すると、それを目撃したファリサイ派の人々が、弟子たちの行為を「刈り入れ」の仕事と見做して、非難します。ファリサイ派の人々は、弟子たちの空腹、窮状には目を留めず、律法違反の行為を問題にします。イエスさまは聖書を引用し、律法を教条主義的に解釈するファリサイ派の人々を批判します。続いてイエスさまが、彼らの会堂に入られると、そこには片手の萎えた一人の人がいました。人々は、イエスさまを訴える口実のために「安息日に病気を治すのは、律法で許されているか」尋ねます。イエスさまの反対者たちは、イエスさまを訴えるために、手の萎えた人を利用したのです。その人の痛みには、目もくれずに。彼らの質問に、イエスさまは穴に落ちた一匹の羊(犠牲の羊)のたとえ話を語られると、「人間は、人々の手で犠牲にされる羊とは違う」と答え、手の萎えた人に向き合い、彼をいやされます。イエスさまのまなざしは、その人の痛みに向けられていたのです。
マタイは、イザヤ書42章1-4節を引用し、イエス・キリストが聖書の預言の成就であることを示します。律法の順守に固執するあまり、本質を忘れている宗教指導者たちに比して、イエスさまは柔和で、弱い者、希望を失っている者をそれ以上傷つけることなく、本当の憐れみをもつ方であることを伝えるのです。教会も、イエスさまと同じまなざしをもって、痛む人、苦しむ人、悲しむ人に寄り添って歩むことができればと思います。〔副牧師 細井留美〕
思い直される神
ヨナ書3章1-10節
2017年7月16日
サマーキャンプ当日
アッシリア帝国はイスラエルの人々の敵国です。紀元前722年北イスラエル王国はアッシリアに滅亡され、南ユダ王国も100年近く散々苦しめられた歴史があるからです。ニネベはそのアッシリア帝国の首都です。
おそらくヨナもニネベの人々が大嫌いだったのでしょう。一度はニネベに行って神さまの言葉を語りなさいとの命令に逆らって逃げ出したほどです。ヨナは海に投げ込まれ、魚に呑み込まれた出来事を経て、今度はニネベにちゃんと行って神さまの裁きを呼びかけます。すると、ニネベの人々が「神を信じ」て王様から家畜までも悔い改めます。神さまはこれらを御覧になり、「思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられ」たのです。
イスラエルの敵国の人々であっても彼らを憐れみ「思い直される神」は、ヨナをはじめ当時の人々には馴染まなかったはずです。これは「ナホム書」にある、「主は敵に報復し仇に向かって怒りを抱かれる」(ナホム1:2)「ニネベは破壊された…お前を慰める者はどこを探してもいない」(ナホム3:7)という「報復する神」への挑戦です。まさに「隣人を愛し、敵を憎め」と、「隣人」をユダヤ民族に限られて捉えていた時代に、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたイエスさまの言葉に通じる話です。
自国第一主義が正当化されていく時代に呑み込まれず、果敢に「待った」を呼びかけ、神の「愛」を伝えていきたいものです。
〔牧師 魯孝錬〕
何もかも捨てて
ルカによる福音書5章27-32節
2017年7月9日
イエス様はレビという徴税人のところに出掛けて行き「わたしに従いなさい」と言って彼を招かれました。27節に「イエスは出て行って」と書かれていますが、並行箇所のマタイとマルコでは「通りがかりに」となっています。つまり、ルカはイエス様が通りがかりにレビと出会ったと言うよりも、わざわざ出かけて行ってレビに出会われたことを強調しています。このイエス様の行動から失われた一匹の羊を求め、見つかるまでどこまでも捜しに行く羊飼いの愛を感じます。
「座っていたレビがイエス様と出会い、立ち上がって行く」という単純な短い文章の中に大切な意味が込められています。この「立ち上がる」という言葉は「復活する」という言葉と同じギリシア語が使われています。つまり、「新しい人間になる」、「新しく生まれ変わる」ことを意味しているのです。イエス様の招きが、愛が、レビの心に働いて、罪人として無力と束縛と絶望の中にあった彼を揺り動かし、命の息を吹きかけ、立ち上がらせたのです。そして、レビもまた持てる物を何もかも捨てた(手放した)からこそ、その場から立ち上がることができ、イエス様に従って行くことができたのです。
イエス様は、今日もこの私たち一人一人に目を留め「一緒に歩むもう」と招かれています。私たちは今日、その招きに素直に応えて、何もかも捨てて、何もかも手放して、ここから立ち上がり、共に前へ歩んで行きましょう!〔牧師 松崎 準〕
主との対話に生きる
創世記18章20-28節
2017年7月2日
神さまはソドムの町を滅ぼすと決断されました。アブラハムはこれに「正しい者がいたら滅ぼされますか」と異議を申し立てます。神さまは「町全部を赦そう」と答えられます。やり取りは何度も繰り返され、その都度神さまは「滅ぼさない」と言われます。「あれ?神の決断ってこんなにすぐ変わるものだったのか」と疑問を抱く人もいるでしょう。
私はこのやりとりが「対話」に見えます。すべてを滅ぼすという神さまの決断に対する、一人の人間の戸惑いと揺れ動き、そして神の真意を知りたいという叫びに聞こえてくるからです。対話の実りもなくソドムは滅ぼされます。では、この対話は一体何の意味があったのでしょうか。盲目的な信仰への戒めではないでしょうか。神さまの決断であったとしても「違う」と言える空間が聖書にあることが不思議な気がします。
神さまは命を生かすお方です。だからこそ、神さまの決断であったとしても命を滅ぼすという命令に対話の余地はひらかれていると思います。むしろ神さまの側がこの対話を喜び待っているのかも知れません。新約聖書の福音書にはシリア・フェニキアの女性の話が出てきますが、彼女は「子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と断るイエスさまに、食卓の下の小犬でも子どものパンくずはもらう、と対話に挑みました。
今の時代に神さまとの対話に生きる信仰とは、他の人々と一緒に聖書を読み、相手の読み方に心の耳を傾ける姿勢かも知れません。その輪において私たちは解放を味わうのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕
力づけてくださる神
列王記上19章1-18節
2017年6月25日
バアルの預言者らと対決し勝利したエリヤは、バアルの預言者らを皆殺しにしてしまいます。イスラエルの王アハブが、これらの出来事を熱心なバアル信仰者の妻イゼベルに告げると、イゼベルはエリヤに死を宣告します。
恐れ、逃げ出したエリヤは、イズレエルから遠く離れたベエル・シェバから更に荒れ野を一日中歩き続けます。しかし、体力の限界を迎えたエリヤは、生きる気力も、自信も失い、「わたしの命を取ってください。」と主に呼びかけ、眠ってしまいます。すると、主は食べ物によってエリヤを力づけます。力づけられたエリヤは、ホレブの山に行きます。
山の中で、主が通り過ぎますが、激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられません。しかし、火の後に、静かにささやく声が聞こえます。孤独と恐怖を訴えるエリヤに、主は逃げてきた道を引き返し、新しい場所へ向かうように告げます。そして、エリシャという後継者とバアルにひざまずかった7千人の同志の存在をエリヤに示します。
主は、エリヤを励まし、再び預言者として立たせるのです。生きる気力を失っていたエリヤ。しかし、自信にあふれたエリヤでは、主の静かな声を聴くことはできなかったでしょう。エリヤは自分は弱いが主が共にいてくださる、そして仲間が与えられているという心強い思いで、引き返して行ったことでしょう。〔副牧師 細井留美〕
キリストの愛
エフェソの信徒への手紙3章14-21節
2017年6月18日
今日の聖書箇所は、「神があなたがたを強めて、あなたがたの心にキリストを住まわせ、…この愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、そして聖なる者と共に、キリストの愛を深く理解し…この愛を知るようになり…神の豊かさにあずかり、満たされますように」(15-19)という祈りです。
これは「神の愛」に対する確信なしにはあり得なかったのでしょう。そしてそれはキリストにおいてユダヤ人と異邦人と間に実現された平和と和解そのものでした。イエス・キリストは傷む者の友となって一緒に歩まれ、十字架において「神の愛」を示してくださいました。パウロは「キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)と確信しています。
創世記のヤコブ物語を思い出します。故郷を離れ苦労しつづけてきたヤコブが最後の最後に兄のエサウに対する恐れで悩みます。ペヌエルで神との格闘です。ヤコブは神が自分の人生に共におられるとの約束を誠実に守られたことをそこで気づかされたのでしょう。太ももの関節を打たれてはじめて。
いわゆる共謀罪法が可決され、絶望している人々が多いのかも知れません。しかし、キリストを信じるがゆえに、祈りつづけられます。また横のつながりを広げて可能なことから少しずつ実りをあげていきたいと切に祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕
教会の出発
使徒言行録2章36-42節
2017年6月11日
ペンテコステの出来事の本質は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の実現です。イエスさまが生涯をもってこれを示したとするとすれば、これからは聖霊がこのインマヌエルの約束を引き続き示していく、ということです。教会の出発です。
酒に酔っているとの非難に対してペトロは立ち上がって語り始めました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36)と。これは、自分たちこそ神を知っていると高いプライドを自慢していたユダヤ人にとっては、その信仰が根底から揺さぶられる言葉だったのでしょう。まさにパウロの目からうろこの体験だったと思います。
「どうしたらよいのか」と叫ぶ人々に対して、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38)と語ります。力強いメッセージです。しかし聖霊の働きが彼らをバプテスマに導いていたのに、いつのまにかバプテスマが聖霊を受ける条件のような言い方となっていることに注意したいです。初代教会の限界です。
自由な聖霊の働きはこのような限界ある群れを、教会としてふさわしく導いていくのです。私たちの神を「知っている」ということが、時に神に対する「無知」(高慢、罪)であり得ることを覚え、主によって日々新たにされていく教会でありたいと切に祈ります。 〔牧師 魯 孝錬〕
驚きととまどい
使徒言行録2章1-13節
2017年6月4日
ペンテコステ
聖霊が降った出来事の本質とは、旧約聖書のモーセの召命記事の燃え尽きない柴や、シナイ山での律法授与記事を想起させる「神の臨在」です。そしてこれはモーセを通して与えられた律法の時代から、イエス・キリストを通して与えられる聖霊の時代へ突入を意味します。
聖霊とはヘブライ語では「神の息」で、天地創造物語の中に神の命の息を吹き入れられてはじめて人は生きる者となったことが連想されます。つまり神さまが人々を「主イエスの証人」として再創造される新しい物語のはじまりなのです。そしてそれは原初史のバベル塔の分断と離散がまさに主によって回復される出来事なのです。
「これは一体どういうことか」と人々は「驚き、戸惑」っています。ユダヤ戦争後律法遵守において自分たちのアイデンティティを守ってきた人々にとっては、民族と宗教を超えるチャレンジだったからです。受胎告知を受けたマリアも、復活を告げらせられた女性たちも同じ驚きと戸惑いを経験したのでしょう。ペンテコステの出来事は、キリストに従う群れがユダヤ教の枠を乗り越えて、主イエスの証人として送りだされる派遣式だと言っても過言ではありません。
初代教会は過越祭(出エジプトの解放を記念)と五旬祭(シナイ山での十戒授与記念)を、それぞれイエス・キリストの復活と聖霊降臨として再解釈して、主イエスの証人として開かれたいく歩みに踏み出しました。私たちも教会のあり方を問われています。 〔牧師 魯 孝錬〕
失望せずに祈る
ルカによる福音書18章1-8節
2017年5月28日
イエスさまのたとえ話です。神を畏れず人を人と思わない不義な裁判官が、正しい裁きを絶えず求めるやもめをしばらくは取り合おうとしなかったが、散々な目に遭わされるのはごめんだと裁判を行う決心をした。このたとえ話の大切なポイントは、「気を落とさずに祈り続ける」ことです。「祈り続ければ何でも叶えられる」ではありません。
もちろんルカは11章で「しつように頼めば…何でも与えられる」と言いましたが、この時でさえ「何でも」とは具体的に「聖霊」であると明らかにしています。ユダヤ戦争を機に激しくなっていくキリスト者に対するユダヤ教徒からの迫害のただ中で、聖霊の導きを必死で求めていたことが想像できます。文脈を追って読むことが大事です。
今日のたとえ話の前後の文脈はどうでしょうか。前の部分は、すでに到来した神の国(支配)の確認とやがて完成する神の国(支配)への希望との間で、今落胆せず祈り続けることの大切さが強調されています。また後の部分には、イエスさまの眼差しを通して示された神の誠実さが並列されています。徴税人の祈りを聞き、金持ちの欠けを指摘し、十字架の死に復活をもたらすことがまさに神さまの働きです。しかしこれに無理解の弟子たち。イエスさまは最後に目の不自由な人をいやすことを通して、弟子たちの霊的な目をも開こうとされたのでしょう。
主イエスがなさった救いの出来事の豊かさをぜひ見るために、私たちを憐れんでくださいと現実に落胆せず祈り続けて歩みたいと願います。 〔牧師 魯 孝錬〕
12人の働き
マルコによる福音書3章13-19節
2017年5月21日
イエスさまが12人を立てた目的は、彼らを派遣するためであると同時に、ご自分と一緒にいるようにするためでした。それは、彼らがイエスさまを見て学ぶためですが、イエスさまにとっても12人が必要であったのかもしれません。
立てられた12人は、実に多様な人たちです。この多様性は、教会にも受け継がれています。パウロの書簡からは、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、奴隷と、様々な人たちが、イエスを主と信じる信仰の下に集まっていたことがわかります。私たちの教会にも、様々な年齢、職業、背景をもった人間が集まっています。そのため、誤解や摩擦が生じることもあります。互いを理解し合うために努力も必要です。しかし、そこから学ばされ、聖書を読む視点を新しくされるのです。
イエスさまは「派遣するため」に12人を立てました。派遣するとは、彼らを人々の間に送り出すことでしょう。彼らが派遣される目的は、「宣教するため」(イエスさまの言葉を人々に伝える)であり、「悪霊を追い出す権能を持つ」(人々を苦しめているものから解放する)ためでした。この働きは、教会にも託されています。一人では難しいことも、多様な人の集まる教会ならば、知恵を出し合い、力を合わせて、出来ることも広がるでしょう。東京北教会が、イエスさまからの任務を携えて、人々の中に入っていくことができればと思います。 〔副牧師 細井留美〕
主の食卓に招かれる
ヨハネによる福音書21章1-14節
2017年5月14日
ペトロが漁に行くと言い出すと、他の弟子たちもついて行きました。弟子たちは 復活の主に励まされ(20:19以下)聖霊を受け、おそらく「あなたは人間を取る漁師となる」(ルカ5:10)という生前のイエスさまの招きを思い起こしていよいよ福音宣教に出かけたことなのでしょう。
ですから「夜は何も取れなかった」(3)ということは、単に魚が取れなかったというより、福音宣教での挫折を意味すると言えます。依然として弟子たちは自分たちの力と経験に頼っていたのかも知れません。しかし主イエスはこのような弟子たちの様子を見守っておられます。弟子たちと共にいるとの約束を誠実に守ってくださる姿です。
イエスさまは弟子たちのために魚とパンを用意し、陸に上がった弟子たちを責める代わりに、食卓に招かれます。弟子たちは何を考えていたのでしょうか。そこはティベリアス湖畔で、一人の少年が差し出したパン5つと魚2匹で5000人を満腹させた場所です。弟子たちは持っているものはわずかでも差し出して主の働きを信頼することこそが、福音宣教の核心であることに気づかされたのではないでしょうか。
21章はユダヤ教からの迫害や、教会内で異端に惑わされていたヨハネ共同体の厳しい現実に対する主イエスの励ましでもあったと思います。この言葉を通して、私たちの福音宣教の歩みの厳しさとともに復活の主イエスが共におられる希望が与えられることを祈ります。〔牧師 魯孝錬〕
真ん中に立つ主
ヨハネによる福音書20章19-29節
2017年5月7日
イエスさまの死後、ひどく恐れた弟子たちは部屋に閉じこもっていました。すると復活の主イエスが真ん中に立たれ、「平和があるように」と言われます。イエスさまの十字架の傷は弟子たちの恐れを覆うのに十分でした。イエスさまは弟子たちが復活を生きるように「使命」を与えられます。それは、互いの足を洗い合う生き方でしょう。
イエスさまは弟子たちに息を吹きかけて聖霊を与えられます。これは創世記で「その鼻に命の息を吹き入れられ(て)…人は…生きる者となった」(創2:7)と、神が人を造られたように、イエスさまが弟子たちを新しく造り直され「赦し合う」生き方へと生かして下さることだと思います。
復活体験に居合わせていなかったトマスは復活を疑います。8日の後、再びイエスさまが現れ、真ん中に立たれ、平和を願われます。8日とは、生まれた子どもが割礼を受けるのに必要な期間です。疑う者が信じる者へと変えられることを割礼に重ねていたのかも知れません。割礼は神の救いへの応答です。同様に復活の恵みに対する応答へと、トマスをはじめ私たちも招かれているのではないでしょうか。
イエスさまは常に、傷む者や虐げられた者を真ん中に立たせて真の解放を与えられました。主イエスはいまも最も小さな者の姿を通してわたしたちの前に立っておられます。教会はこれに気づき、その一人を受け入れ、共に生きることによって復活を生きるのです。〔牧師 魯 孝錬〕
ガリラヤ伝道
マルコによる福音書1章14-45節
2017年4月30日
シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、「救いの時は成就した。神の国が今、目と鼻の先に来ている」というイエスさまの呼びかけに、応えて従います。
シモンの家で、イエスさまが熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取って起こされると、熱が去ります。共同体を健康に保つために、病気の人に触ってはいけないという規定がありました。この規定によって病人は「汚れた存在」と見做され、病人に触れる者も汚れた者とされる危険がありました。しかし、イエスさまはそのことを承知の上で、「汚れた存在」だと見做されている人の痛みを、ご自分の身に負うことを選ばれたのです。苦しみから解放された姑は、イエスさまの弟子として歩み始めます。他者の痛みを自分の痛みとするイエスさまに、教会もシモンの姑のように従うことができればと思います。
ご自分のところへやってきた病の人々、悪霊にとりつかれた人々をいやされたイエスさまは、宣教するために自ら出かけて行かれます。イエスさまは来る人を待つだけでなく、やって来られない人たちのところへ行くことも大切にされたのです。教会も人が来るのを待つだけでなく、私たちから出かけていく必要があるでしょう。様々な人々に出会うことで、教会は教えられ、新しく変えられていきます。何よりも、出かけて行った先で、すでに働かれているイエスさまに出会うことができると思います。 〔副牧師 細井留美〕
エマオの途上で
ルカによる福音書24章22-35節
2017年4月23日
イエスは十字架上で処刑されました。弟子たちには晴天の霹靂だったでしょう。急いでエルサレムを立ち去る二人。「暗い顔」とは、深い喪失感、迫る命の危険、師を見捨てた罪責に耐えられない想いが詰まっていたから知れません。しかし気づくといつの間にか同伴の一人。
その人は二人と対話をされ、聖書全体を紐解いてくださいました。メシアの死と復活を説明されたのです。夕方になり二人はその人と食事をします。その人はパンを取り感謝の祈りをして裂いてくれました。パンを受け取った瞬間二人の目が開きます。イエスさまだ。一日共に歩んでくださったのだ。我らの悲しみに耳を傾けてくださったのだ。聖書の言葉に我々の心は燃えていたのではないか。イエスさまが復活したのだと分かったのです。不思議なことに悟った瞬間イエスの姿は見えません。
見える見えないという境界を超えて二人の弟子は復活を体験したと思います。二人の体験から垣間見られる初代教会の復活信仰とは、聖書や主イエスの御言葉を「想い起す」ことです。この「想起」のチャレンジの中で主ご自身が復活を悟らせてくださったのでしょう。二人は時を移さず背を向けた共同体に戻ります。そこにはすでに主イエスの復活の喜びが満ちていました。共同体の回復です。
不安と恐れの暗い時代に復活の喜びを分かち合う共同体として歩み続けたいと切に祈ります。 〔牧師 魯孝錬〕
復活信仰
ヨハネによる福音書20章1-10節
2017年4月16日
イースター
4福音書著者たちは皆復活記事を伝えますが、その意図は違うようです。ことにヨハネはマグダラのマリアのみを復活の最初の証人として伝えています。また彼女は十字架の「そば」でイエスさまの死を見守ったとあります。「マリア」のヘブライ語表記はミリアム(「抵抗」の意)です。彼女はまさにミリアムのような女預言者だったのかも知れません。
教会の初期の伝承によるとマグダラのマリアは復活の証人として初代教会の女使徒として重要な役割を果たしたと言われています。しかし聖書の中には、例えばコリントの信徒への手紙15章の復活信仰の記事や使徒言行録では彼女は一切登場していません。このような違いは初代教会が男性の権威を強調する過程の中で起きたことなのかも知れません。ルカは彼女は7つの悪霊に取りつかれていたと伝えたり、彼女を含めた女性たちの復活の知らせを「たわごと」と聞いています。彼女が罪深い女で娼婦だったという解釈は紀元後500年代に初めて登場したものです。
ヨハネは復活の最初の証人であった女性たちの働きが、初代教会によって縮小及び削除されようとしたことに抵抗して、あえてマグダラマリアに焦点を当ててクローズアップしたのかも知れません。21章が後代に追加されたことを考えると、ヨハネの試みは失敗だったと言えるのでしょう。だからこそこのイースターに、初代教会の中で沈黙させられ、罪深いイメージを着せられ、歪曲させられたマグダラのマリアの姿を読み直したいと思います。 〔牧師 魯孝錬〕
エルサレム入城
ヨハネによる福音書20章12-19節
2017年4月9日
イエスさまはいよいよエルサレムに登られる時、なぜろばの子に乗ったのでしょうか?
群衆は過越際の祭りの最中、イエスさまがローマをかの昔のエジプト兵士たちのように溺れさせてくれると期待して歓呼したのかも知れません。私たちが時々生きづらい現実を主がからっと変えてくれることを期待するように。弟子たちは復活後、旧約聖書のゼカリヤ書を通してその意味が分かりました。
預言者ゼカリヤは9:9でろばに乗って来る王を「高ぶらない者」(アニー)と描いています。貧しき者の意味です。また10節では王が「戦車」や「軍馬」を絶ち、「平和」(シャローム)を告げる使命があると言います。弟子たちはこの聖書箇所を通して主イエスの十字架の道が理解できたのでしょう。
ろばの子に乗って大勢の群衆に迎え入れられるイエスさまはどのような気持ちであったのでしょうか。前章の11章で死に支配される人間の限界に憤ったように、(ローマ)の力に恐れつつもその「力」に憧れていく人間の限界に憤り、また憐れんでおられたのではないでしょうか。主イエスは非暴力で抵抗し、十字架の死をもって死に打ち勝ちました。
私たちの現実でも「おやおや、ろばの子に乗って何ができるの?」という嘲笑いがあるのかも知れませんが、なお主イエスと共に一人ひとりが主に生かされる教会を建てていきたい、イエスの十字架に目を向け、復活を生きる教会を建てていきたいと願います。 〔牧師 魯孝錬〕
神の恵み
ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節
2017年4月2日
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16)。これは「信仰義認」というパウロの重要な神学です。これは異邦人伝道の働きが水の泡のとなりかかっていた岐路で生まれたものです。机上の空論ではありません。現場の苦悩から出て来たものです。
ペトロはアンティオキア教会で異邦人キリスト者と食事をしていましたが、エルサレムから人々来た時には律法違犯者という非難を恐れて食事を共にしませんでした。パウロはペトロの行動を批判し、ただキリストへの信仰によって救われることを主張しています。
ユダヤ人や異邦人という出自は選択不可能で、努力して変えられるものではありませんが、長い間ユダヤ人は異邦人を軽蔑してきました。イエスさまは十字架の死によってこのような敵意の中に和解を実現させられました。初代教会はこの土台の上にスタートしたはずですが、差別は依然としてありました。パウロは他ならぬこの差別と戦ったのでしょう。
沖縄の課題をはじめ、在日や、福島、部落差別、難民、格差社会などの現実から突き付けられる課題がたくさんあります。それぞれの課題に誠実に向き合いながら福音を吟味して分かち合って歩んでいきたいです。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く教会となることを心から祈ります。 〔牧師 魯孝錬〕
主イエスに聞く
ルカによる福音書9章28-36節
2017年3月26日
イエスは弟子たちと一緒に祈るために山に登られます。ゲッセマネの祈りを二人の天使が力づけたように(22:43)、モーセとエリヤがイエスと話をしています。イエスの姿が輝くようになったことは、モーセとエリヤの例で分かるように、神さまがイエスと共におられることを意味するのでしょう。このような書き方は一種の革命です。なぜなら当時はイエスが神を冒涜した罪で神に呪われて十字架につけられたと考えていたからです。実はイエスが変わったというよりは、弟子たちのイエスさまを見る目が開かれたことを伝えているのかも知れません。
3人はイエスの「最期」について話をしています。最期とは死、つまり終わりを意味します。しかしこのギリシア語は「エクソドス」です。エジプトの奴隷であった人々を神さまが導き出される解放(救い)の出来事を意味する言葉でもあるのです。ですから、十字架の死とは、終わりではなく神の救いの業が始まる「新たな旅立ち」と受け止めているのです。復活や、昇天、再臨に対する希望が投影されている言葉です。
気が動転して何をしゃべているのか分からなかった弟子たちに雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声が聞こえます。イエスがバプテスマを受けた時の言葉です。神ご自身がイエスを証している場面です。このイエスが切り捨てられた一人ひとりを受け止め、関係を回復させて共に生きるようにしてくださったことを、私たち教会は聞いていきたいと切に願います。〔牧師 魯孝錬〕
生きて働く神の力
Ⅱコリントの信徒への手紙4章7-15節
2017年3月19日
コリント教会のパウロの反対者たちが、パウロの弱々しさを批判すると、パウロは、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇(11:30)」ろうと反論します。
イエスを救い主として信じることで、パウロが経験したのは、ありとあらゆる苦難でした。しかし、自分自身が最も弱くされているその時に、パウロは生きて働くキリストの力を実感したのです。パウロは「わたしは弱いときにこそ、強い」と告白します。なぜなら、パウロは「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる(13:4)」ということを、自分の身において経験したのです。パウロは悲惨な状況にある時に、神によってキリストと共に生かされていることを何度も実際に経験したのでしょう。
「わたしたちはこのような宝を土の器に納めています(17)」とは、パウロ自身が経験した、人間の弱い肉体の内に、神の力が働くことを意味しているのだと思います。それは、具体的には、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(8)」ということでしょう。
キリスト教は、「いつでもハッピー」という安定的な幸福を約束してくれるものではありませんが、苦しみの中で生きる力を与えてくれるます。パウロが経験したように、私たちにも苦難から立ち上がる力を与えてくれるのです。〔副牧師 細井 留美〕
悪人に手向かってはならない
マタイによる福音書5章38-48節
2017年3月12日
今日の聖書箇所は、イエスさまが律法を廃止するのではなく、完成するために来たという言葉の延長線上にあります。イエスさまは「目には目、歯には歯」という律法、つまり復讐のエスカレートを防ぐための規定を、「悪人に手向かうな」と再解釈されます。イエスさまは抑圧を受けて苦しめられている民衆に対して、一切の抵抗は無用だと語っているのでしょうか。決してそうではありません。
「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とは、手の甲で右の頬を打つ(=彼を動物のように扱う)相手に対して、「左の頬」を向け「わたしは人間である」と訴えることです。また「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着をも取らせてやれ」とは、裁判を通してあらゆるものを搾取しようとする相手に対して、裸で必死に抗うことです。また「あなたを徴用して一ミリオン行かせようとする者とは一緒に二ミリオン行け」とは、義務として1ミリオンの徴用を強いる相手に対して、こちらの自由でもう1ミリオンを歩くことによって不条理を訴えることです。暴力の連鎖を断ち切る、非暴力の抵抗そのものです。
これは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、神さまの在り方に通じています。受難節の2週目、イエスさまの十字架の道を想起しながら、教会のあり方を考えていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕
福音のためなら
コリントの信徒への手紙一 9章17-27節
2017年3月5日
今日の聖書箇所は、「福音のためなら」何にでもなる、あるいは何でもやるとのパウロの言葉です。読み方によってはとても危険なニュアンスですが、おそらくこの背景には、コリント教会の中に救われたのだから「何をやっていもいい」という人々の信仰が、弱い信仰者を傷つけていることを心配する配慮があったと思われます。
パウロは救われた者はその自由を兄弟を「生かす」ために用いることを進めているのです。決して兄弟を「つまずかせる」ために用いてはならないのです。パウロは様々な立場の人々と全く対立があろうとも、忍耐して対話し続けていく生き方を選び取ったのです。これは公の働きの前に40日間の荒野での誘惑を退けたイエスさまが示してくださって自由です。さらには十字架の道を怯むことなく進まれたイエスさまが選び取った自由と相通じるものがあります。
パウロは自分が福音のために「すべてのものに対してすべてのものに」なったのは、「わたしが福音に共にあずかる者となる」ためだと告白します。「共にあずかる(シュン・コイノノス)」とは、接ぎ木された各々の枝が根から同じく養分を受けているように、キリストに結ばれて一つの体となった者同士が、主イエスによって共に生かされていることを意味しているのです。結局パウロはキリストがそうであったように、互いに仕え合う生き方を進めているのでしょう。
私たちは主がなさる業を共に経験する群れです。〔牧師 魯 孝錬〕
さあ、向こう岸へ
ルカによる福音書8章22-25節
2017年2月26日
イエスさまは嵐を静めました。恐怖でパニックになっている弟子たちを救い出したのです。イエスさまは「あなたたちの信はどこにあるのか」と言いながら、それでも、悲鳴を上げつつ、なお助けを求め続ける弟子たちに、イエスさまは脱出の道を与えられました。神の誠実、です。わたしたちを決して見捨てない神の誠実です。人の消えそうな信仰を覆う、神の信(エメト)が、嵐の中でこそ鮮やかに浮かび上がるのです。
「シャローム」(主の平和)とは、温泉に浸かったようなのんびりした状態のことではなく、嵐の中で、「ひえ~」と言いひっくり返されながらなお喜んでいる状態が、シャロームです。向かい風、嵐はだれにでもおこります。その中でどう立つのでしょうか。
Life is not just waiting for the storm. Life is about how to dance in the rain. 人生は、ただ嵐を待っているだけのものじゃない。人生とは雨の中でどうやって踊るかだ。無力、小ささを思い知らされて、そこに十字架を担いでともに苦しみ涙してくださるイエス・キリストに出会い直すとき、静かな確信と希望、平安が、生まれます。
私が東京北号に乗り込んだ理由の一つは、教会が大きな夢をもってチャレンジしていると聞いたからです。どんな主のわざに出会えるのか、教会が試され、強められていくのか、一緒に体験したくて、わくわくしながらこの船に乗り込みました。小さな力ですが、ご一緒に苦労と恵みを分かち合って、主のわざに感動したいと思いました。
同じように、期待をよせて、注目している教会、人々がいます。ともに夢を追い、主のわざを見上げていくプロセスが、恵みであり、励まし、力となるからです。この舟は、すでに東京北だけのものだけではなく、全国の教会の祈りの対象となりつつあります。東京北は希望の芽となるよう選ばれ、赦されているのです。
地域共同プロジェクトを通し自前の会堂を持つことは、多くのエネルギーを必要とします。嵐は何度来るかわかりません。現実を見据えつつ、恐れるときこそ神に立ち返り、ともに祈り、私たちにできること、今、自分にできることを探し、神の声に従っていきたいと願います。イエス様が招かれる「向こう岸」、次の世代へ、前を向いて漕ぎ出したいと願います。険しい道のりこそが、神の恵み、憐み、恵に満ちているからです。〔協力牧師 米本裕見子〕
命の息
創世記2章4-9節
2017年2月12日
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息(ネシャマー)を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
人間は土の塵のようにはかない存在ですが、神の息を吹き入れられて、つまり神との交わりによってじめて本当に生きるようになる、という人間理解、そして神理解です。背景は前10世紀頃の全盛期を謳歌していたダビデとソロモン王国時代です。戒めの性格が強い箇所です。
しかし国の滅亡を経験する時代に入って、預言者たちは、この箇所も1章と同様に励ましとして読み直したようです。預言者イザヤは「息」(ネシャマー)を1章2節の神の「霊」(ルアフ)と同じく捉え、このネシャマーの動詞形を、「今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く(ナシェム))」とバビロニア捕囚からの解放のために「産みの苦しみ」に神の働きとして使っているからです。
このように「命を生かす」神の働きは、創造物語だけではなく、創世記全体に奏でられてる重低音のように聞こえてきます。人は自分たちのはかなさに気づかず、高慢に振る舞い、神などいないかのように様々な悪をはからいますが、神はその中で虐げられている一人ひとりの命を生かすために、人と一緒に働き、計らってくださるのです。
「命を息」を吹き入れられ、今を生かされていることを心にかけ、「命を生かす」神の働きに参与していく群れでありたいと切に願います。〔牧師 魯 孝錬〕
混沌からの創造
創世記1章1-5節
2017年2月5日
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2)。創世記1章は、国の滅亡とバビロニア捕囚という出来事が背景です。ですから混沌とは、国の滅び及びヤハウェの敗北という絶望であり、神の民が現実にバビロニア帝国の宗教や文化の支配下で生きざるを得ない困難さを意味しているのでしょう。混沌「形なく(トーフ)」、「むなしく」)とは、まさに生きるすべを見失った状態を表すのです。
しかし、その上に神の霊(ルアフ)が働いていることに注目したいものです。神の働きが混沌を包み、「命を生かす」陣痛の中にある様子だと言えるからです。決して敗北してしまい、世の離れ去った神ではない。むしろ混沌の中にさまようご自分の民に生きる力と勇気を与える神なのだと、人々は告白しています。「光あれ」という言葉には混沌(トーフ)を良し(トーブ)へと変えられる神のシャロームに対する確信があったのです。
ヨブは自分の人生から神の正義が消えたことを叫びます。暗闇です。ヨブは友達からの「お前こそ問題だ」という言葉に納得せず、絶え間なく闇を歩み、神に訴えます。神の創造世界に生きていながら。論争の最後に、ヨブは神の登場にあっさりと承服します。なぜでしょうか。ヨブは実は神が苦しむ自分自身と共におられ、自分の訴えを聞き、見、知っておられたその一点にあったのだと思います。
混沌としたこの時代に、神が共におられ、一人ひとりの命を生かしてくださることを証言していきたいと切に祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕
新しいぶどう酒
マタイによる福音書9章9-17節
2017年1月29日
イエスさまは徴税人のマタイを弟子と呼ばれ、彼の友達と一緒に食事をされました。当時の徴税人はローマの手先と見なされ、さらには罪人だと決めつけられ、なかなか共同体から受け入れれてもらえなかったので、このようなイエスさまの行動は議論を巻き起こしました。
ファリサイの人々は「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と聞き、ヨハネの弟子たちは「なぜ、あなたの弟子たちは断食しなのですか」と聞いているからです。イエスさまはご自分の行動が神の憐れみに基づいていることを示され、友なき者の友となってくださるイエスさまを共に喜ぶようにと招かれています。
イエスさまは「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われました。新しいぶどう酒とは、当時の価値観を打ち破って友なき者の友となってくださる、イエスさまによってもたらされる喜びを意味するのでしょう。古い革袋とは、律法遵守を重んじるあまり人や命をおろそかにしてしまう、当時の本末転倒の価値観なのかも知れません。
外キ協(外国人住民基本法制定を求める全国キリスト教連絡協議会)全国協議会・全国集会へ参加のために大阪に行って参りました。「在日」の存在に改めて気づかされ、否定できない彼らの「生」を通して自分の信仰が揺さぶられ、また自分自身が解放される体験をしました。弱くされている人々との出会いは、新しいぶどう酒を喜べる新しい革袋となると信じます。〔牧師 魯 孝錬〕
人間であるために
出エジプト1章8-2章10節
2017年1月22日
イスラエルすなわちヤコブたちがエジプトに移住して長い年月が経ち、新しい王はイスラエル人の脅威を煽り、彼らに強制労働を課し、さらにはその数を減らすために、生まれてくる男児殺害を命じます。初めは秘密裡に、二人のヘブライ人助産婦に。ところが、彼女たちは、神を畏れ、王の命令に従いません。二人は、それが神の前に正しいことなのかを考えたのでしょう。職業柄、命は神に与えられるものであることも知っていたでしょう。たとえ命の危険にさらされても、神によって与えられた命を奪うことはしてはいけない、そう考えたのでしょう。彼女たちは、神の前で思考し王に背くことによって、子どもたちをジェノサイドから救います。
次に王は、ヘブライ人の男児を川に放り込むように人々に命じます。しかし、王の娘は、川に捨てられたヘブライ人の男児を憐れに思い、自分の子として育てることを決めるのです。彼女は他者の痛みを自分の痛みとすることのできる人間だったのです。
神というこの世の価値観を相対化する、絶対的な存在を畏れる信仰と、その神が与えられる命への尊敬の想い、そして他者の痛みに共感する力こそが人間を人間らしくするのではないでしょうか。今、世界で起きている様々な問題には、個々の命への尊敬の念が欠如しているように思います。世間の流れに抗って、一人ひとりの命を大切にするために、神を畏れ、他者の痛みを想像し思考することを大切にする「人間であり続ける」ことができればと思います。〔副牧師 細井 留美〕
彼らも一つに
ヨハネによる福音書17章20-26節
2017年1月15日
ヨハネは他の福音書とは違って十字架の受難が迫ってきたゲッセマネの園でのイエスさまの祈りを詳しく伝えます。核心は弟子たちが一つとなることです。さらに弟子たちの言葉によってご自分を信じる人々が一つとなることを祈っています。
イエスさまはご自身と神が天地創造のはじめのときから一つであったように彼らが一つとなることを祈ります。ヨハネの教会は神の子が人となられて人々の間に宿られ、共に生きられたことを通して独り子の恵みと真理に満ちた栄光を見た信仰告白によって一つとなった群れです。
「彼らも一つに」とは、体の各部分がつながっているような一致を意味します。キリストは教会の頭であり、一人ひとりはその体の各部分だからです。この一致の一番の特徴は、「痛みを共に感じる」ことです。血統や、民族、国家、組織など、ありとあらゆるボーダーを乗り越えた全く新しい基準がここに十字架を背負ったイエス・キリストによって示されているのです。自国中心主義が広がり、愛国心が強調される時代に、小さくされ痛みつけられる人々がこれまでよりも急速に見えなくされていくのでしょう。教会が誰と一緒に「彼らも一つに」と祈られたイエスさまの福音を分かち合っていくのか、大きな岐路に立たされています。
イエスさまの執り成しの祈りは聖霊の働きを通して続けられていることを信じます。私たちは罪深い時代を生きていますが、善き力に囲まれているのです。〔牧師 魯 孝錬〕
暗闇に輝く光
マタイによる福音書4章12-25節
2017年1月8日
カファルナウムとは、慰めの町という意味です。イエスさまは中心から追いやられた人々の苦しみを共に苦しまれました。貧しい者たちを弟子と呼ばれ、神の国を伝え、悪霊に取りつかれた者や病人をいやされました。まさに「慰め(ナハム)」であり、新しい共同体の始まりです。
マタイはこのようなイエスさまの働きとそれによって始まった新しい共同体はイザヤ書の言葉の実現だと言っています。なぜなら紀元前8世紀にアッシリア帝国の支配に反対したアラムや北イスラエルからの攻撃(シリア・エフライム戦争)を、南ユダはアッシリアの力を借りて退治したのですが、まさに戦場となり苦しんだガリラヤ湖畔の町々はやがて神の回復を与えられることが語られていたからです。
イザヤはアッシリア帝国に苦しめられながらもその帝国の力に憧れていた時代に、「神の支配」を伝え、その神の支配を生きるようにと促した預言者です。そのような神の支配に生きる共同体が700年の年月を経て、ローマ帝国の支配とエルサレムのヘロデの権力の時代に、ここカファルナウムにおいてイエスさまによって今始まっていることは、旧約聖書を知っているユダヤ教の人々に大きな慰めとチャレンジを与えたものだと考えられます。
このようなイエスさまの働きは今も「弁護者(パラクレートス)」(ヨハネ14:16)、すなわち主イエスが与えてくださった聖霊によって実現されていることを信じます。〔牧師 魯 孝錬〕
新たな旅立ち
マタイによる福音書2章1-12節
2017年1月1日
東方の占星術の学者たちは星を見て旅立ちます。その星はすぐ見えなくなったようです。彼らがたどり着いたのはヘロデの宮殿だったからです。新しい王は宮殿で生まれるとばかり思っていたのでしょう。しかし番地数が間違っていたのです。マタイは彼らの失敗に、当時の人々が軍事的なメシアを待ち望んでいたことや、自分たちさえもイエスさまが革命を起こすに違いないと期待を高めていたことを重ね合わせていたのかも知れません。
「ユダヤの王は、どこにおられますか」という彼らの問いに、ヘロデをはじめ、エルサレムのすべての人々が「不安を抱いた」(3)のです。ローマの植民地支配下で権力を手に入れたヘロデは、神殿補修工事を通して民衆に自分こそがメシア(救い主)であるとアピールしていたし、この時の権力に協力した宗教指導者たちは見返りとして宗教行為を保障されていたのです。パックス・ロマーナ(ローマの平和)に安住していたことによって多くの小さな者が苦しめられていたのです。
エルサレムを後にしたベツレヘムに向かってはじめて星は再び現れて先立って進みました。方向性を再発見した彼らは、イエスにひれ伏し、贈り物を献げて権力の不条理に抵抗しました。へりくだり、小さい者と共に歩まれたイエスさまの教えや生き方こそがマタイ共同体にとってはまさに星そのものであったのでしょう。私たちもこのような信仰告白をする一年の歩みであることを祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕
主との対話に生きる
創世記18章20-28節
2017年7月2日
神さまはソドムの町を滅ぼすと決断されました。アブラハムはこれに「正しい者がいたら滅ぼされますか」と異議を申し立てます。神さまは「町全部を赦そう」と答えられます。やり取りは何度も繰り返され、その都度神さまは「滅ぼさない」と言われます。「あれ?神の決断ってこんなにすぐ変わるものだったのか」と疑問を抱く人もいるでしょう。
私はこのやりとりが「対話」に見えます。すべてを滅ぼすという神さまの決断に対する、一人の人間の戸惑いと揺れ動き、そして神の真意を知りたいという叫びに聞こえてくるからです。対話の実りもなくソドムは滅ぼされます。では、この対話は一体何の意味があったのでしょうか。盲目的な信仰への戒めではないでしょうか。神さまの決断であったとしても「違う」と言える空間が聖書にあることが不思議な気がします。
神さまは命を生かすお方です。だからこそ、神さまの決断であったとしても命を滅ぼすという命令に対話の余地はひらかれていると思います。むしろ神さまの側がこの対話を喜び待っているのかも知れません。新約聖書の福音書にはシリア・フェニキアの女性の話が出てきますが、彼女は「子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と断るイエスさまに、食卓の下の小犬でも子どものパンくずはもらう、と対話に挑みました。
今の時代に神さまとの対話に生きる信仰とは、他の人々と一緒に聖書を読み、相手の読み方に心の耳を傾ける姿勢かも知れません。その輪において私たちは解放を味わうのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕