2022年8月28日メッセージ「つながろう・ともに生きよう」ルカによる福音書10章30節後半~34節

沖縄の言葉で「ちむぐりさ」という言葉があります。それは、「他人の苦しみ、しんどさを知った時、自分の心、肝まで苦しい」という意味です。イエスさまは、「ちむぐりさ」される方でした。苦しむ人々を目にし、「はらわたがちぎれる」ほど、痛み、時に涙を流されました。そして人々を癒し、共に食事をとり、すべての人が持つ「いのち」の尊厳と再生の希望を、言葉と行いで表されました。神から与えられた「いのち」を、みながともに謳歌できる世界(神の国)を目指しました。

今回のたとえ話の中に、「あるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い」とありますが、この「気の毒に思い」は、イエスさまの「ちむぐりさ」と同じ意味です。このサマリア人は倒れている人を見た瞬間、傷つき倒れている人の苦しみが、自分の痛みとなり、それが彼に倒れている人とつながることを選ばせできるだけのことをさせたのです。

「危機の神学―無関心というパンデミックを超えてー」という本では、その場を通り過ぎた祭司とレビ人に注目しています。彼らこそが、苦しんでいる人に助けの手を伸べつながるのか見過ごすのか、その選択に迫られるという自らが問われる「危機」に直面したと記しています。私たちは、日々このような選択の「危機」に直面しながら生きているのではないでしょうか。私自身、この祭司とレビ人に「自分」を見る思いがします。ただこれからは自分の中に少しでも「ちむぐりさ」がわくことを祈り意識しつつ、一つ一つの選択をしていきたいと思います。その小さな積み重ねが私たち自身を新たに作り変え、また一人一人の選択によってこの世界が少しでも平和へと向かうことにつながることを願います。痛みの共感・共有によって、互いにつながり助け合い、共に生きる豊かな世界へと開かれていくことへ希望を持ちます。                        [米本裕見子]

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