2023年3月26日メッセージ「イエスの愛にとどまる」ヨハネ15章1~17節

イエスさまはご自分をぶどうの木、弟子たちを枝にたとえます。イエスさまにつながっていれば、その人は豊かに実を結び、イエスさまにつながっていなければ、枝は自分では実を結ぶことができないと言われます。イエスさまにつながるとは、どういうことでしょうか?本文中の別の言葉で言うならば、「わたし(すなわちイエスさま)の愛にとどまる」ことだと思います。そして、イエスさまの愛にとどまるとは、イエスさまの掟「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)を守ることです。 では、「愛する」とは、どういうことでしょうか?13章の最後の晩餐の席で、イエスさまは弟子たち一人一人の足を洗いました。そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われました。通常、客人の足を洗うのは、召使や奴隷の仕事ですが、イエスさまはご自分が弟子たちの足を洗うことで、弟子たちを大切に思っていることを示され、あなたがたも同じようにしなさいと言われたのです。イエスさまの言われる「愛する」とは、相手を自分と同じように大切にすること、尊重すること、認めること、受け入れること、さらには一緒に生きることだと思います。

イエスさまの愛にとどまる時、その人は豊かに実を結ぶと言われます。豊かに実を結ぶとは、11節にあるように、喜びに満たされることでしょう。イエスさまの愛にとどまる時、イエスさまに愛されている喜び、イエスさまが共にいてくださる喜びがあり、またイエスさまの愛に押し出されて、人を大切にし人と共に生きるならば、そこにも大きな喜びがあるのです。イエスさまはこう言われます「わたしの命じることを行うならば、あなたはわたしの友である。」イエスさまがされたように、私たちが他者を尊重し、大切にするならば、私たちはイエスさまの友なのです。           〔細井留美

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