2024年4月7日メッセージ「生まれながら目の見えない人の癒し」ヨハネによる福音書9章1~12節

 イエスは死にうち勝って復活なさいました。実は、聖書のイエスの話は、すべて復活後に記されています。イエスは目の見えない人を治そうと思いました。イエスは彼が想像のできない大きな計画を実行しました。
第一に、イエスは、病人を癒す前に自由にさせています。弟子たちは目の不自由な人に対して憐れむ心を持てませんでした。本人の罪ですか、それとも両親の罪ですか、と言う選択肢しかありません。しかし、イエスは全く新しい発想を提案します。病人は目が見えない原因が、両親か本人か言うのに、耐えられなく苦しかったと思います。3節にイエスは「神の業がこの人に現れるためである」と答えました。これこそ、イエスの癒しが病人を自由にする言葉ではないでしょうか。第二に、5節で、イエスが「唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」事は、創造の業を思い起こす行為でした。創世記2章で神が人を造る動作を念頭に置いた表現です。イエスは人を新しく見る目を提案されました。病人を元気づける、新しく造る動作に見えます。主が神の業を行う、そして病者がその業を信じて池に行くのです。目の不自由な本人と、彼を池まで連れて行く人々は、池に共に行って、目が開かれるのを目撃しました。
神さまは「神の業がこの人に現れるためである」とように、私のために、特別な計画を持っておられます。私の証を主が用いて下さいます。新しく始まるそれぞれの歩みを主が共に歩まれますようにお祈りします。             〔牧師 魯 孝錬〕  

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