パウロがキリスト者に変えられたことは、周りの者には驚きでしたが、彼自身にとっては大きな喜びであり、その後の彼の活動の原動力となっていきました。
パウロは言います。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。「信仰によって義とされる」とは、キリストを信じる信仰によって神の前に正しい者とされる)ことです。ユダヤ教は、律法を守ることによって、正しい者になることができると考えていましたが、律法を完璧に守ることの難しさをパウロは感じていたのでしょう。そして、律法を守ることでなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の前に正しい者とされ、終末の救いに与る希望を与えられたことに心からの喜びを感じたのだと思います。
パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」。パウロは、イエスが救い主であることを宣べ伝えるために旅行し、各地で迫害を経験しました。しかし、それさえも喜びとしました。彼はこう言います。「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。」パウロは様々な苦難を経験する中で、そのことに耐える力を身に着け、そこからキリストに対する信仰が深められ、神からの希望によって、苦難に打ち克つことができることを学んだのです。
神からの無条件の愛によって救われたパウロは、この恵みを宣べ伝えるために、人生を献げました。彼が信仰によって救われることを繰り返し語ったのは、その恵みを人々に伝えるため、また人々にその恵みに応えて生きることを勧めるためでしょう。 〔牧師 細井留美〕