律法学者とファリサイ派の人々が、不倫した女性を連れて来て、イエスさまに問いました。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスさまを訴える口実を作るための質問でした。イエスさまが、「石で打ち殺すべきではない」と答えれば、律法に違反することになり、石打ちを認めれば、ユダヤ人による死刑を認めていないローマ帝国の決まりに違反することになり、何よりもイエスさまの周りにいた律法によって差別されてきた人たちが失望することになります。
イエスさまが、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うと、人々は一人二人とその場を離れていきました。イエスさまの言葉によって、人々―特に律法学者とファリサイ派の人たちは、自分もまた罪人であることを自覚させられました。
イエスさまは、女性に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。「主よ、誰も」。困惑する女性に、イエスさまは「わたしもあなたを罪に定めない」、すなわち「その罪を赦す」と言われました。その時、初めて女性は、安堵したことでしょう。イエスさまは言われます。「行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」。罪をゆるされたあなたは、もう罪を犯すことなく、新しい人生を生きなさい。イエスさまは、そう女性を励まされたのです。
正しく人を罪に定めることができるのは、神さまとイエスさまだけです。イエスさまの言葉は、自分は正しいと思っている人々に、己の罪を自覚させ、自分の罪に苦しむ人には、赦しを与えて、新たに生きることを励ますのです。 〔細井留美〕