神が求めておられるのは、誠実な「憐れみ・慈しみ」や「神を知る(神に関心をもち交わる)こと」であり、心が伴わない「いけにえ(うわべの行い・義)」ではありません。神はいつも誠実に「憐れみ・慈しみ」と「関心」を私たちへ向けてくださっています。神の似像として創られた人間もこれらを求めあっているのでしょう。私たちは、うわべの愛ではなく、互いに心から関心をもって聴きあい、共感し、誠実であろうとする時、互いの存在を認め合う時、心から安心し喜び合うことができるのです。そして神の愛(神の支配・国)、イエスを証しする群れとなるのではないでしょうか。
「罪」とは「ハマルティア」「神なしで、的を外して生きること」。的を外せば、どんどん神から遠ざかります。神の恵みによる義を忘れ、「自分の義」が優先される時、様々な失敗や罪が付随してくるのかもしれません。戦争を起こしている国同士、どちらも「自分の正義」を信じ掲げ、結局、自国民の命を奪っています。「自分の正義」を優先することで、誰かを攻撃したり、自分自身を攻め傷つけてしまうことがあります。
人は弱く限界があり、つねに失敗する生き物です。本当に辛い時や、辛い人を前にするとき、「共に泣く」ことができない自らの限界を認めつつ、それでも神に「共に泣かせてください」と一人静かに祈ることができるでしょうか。
イエスは「罪びと」を招くために来られました。罪びとを「裁く」ためではありません。だれもが「罪びと」でありながら、なお神に愛され、ゆるされ、招かれている存在です。取税人マタイも招かれ人生の方向転換をしました。私たちの罪、孤独、痛みを知るイエスさまは、今も私たちをゆるし、受け入れ、招いてくださっています。私たちは、イエスの声が聴こえているでしょうか。 〔米本裕見子