2022年5月15日メッセージ「共に担ってくださる方」マタイによる福音書11章25~30節

「労働で疲れ果てた者、重荷を背負う者は誰でもわたしのところに来なさい」(本田哲郎訳28節)。底辺に立たされ、身を粉にして働かなくてはならない者たち、様々な重荷を背負っている者たちのことを、イエスさまは憐み、「わたしが安らぎを与えよう」と言われます。ご自身も貧しい大工であったイエスさまは、底辺に置かれた者たちの生活がいかに辛く苦しいのかを身をもって知っていたでしょう。彼らは単に貧しいだけでなく、社会の中で無視され、差別される存在でした。

どのように「安らぎ」は与えられるのでしょうか?「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とイエスさまは言われます。軛とは、家畜の首に付けて車を曳かせるものですが、親と子の首をつないで、一緒に働かせることで、仕事を学ばせるそうです。その時、くびきの重さは、大きい方、すなわち親の方に負担となり、子どもの方は軽くなります。イエスさまがご自分の軛を負うことに私たちを招かれるのは、イエスさまが私たちの重荷を軽くし、私たちがイエスさまの歩みに倣うためです。

イエスさまは、自分のことを「抑圧にめげない者、心底身分の低いもの」(本田訳29節)だと言います。イエスさまは、人々と同じく抑圧される者、身分の低い者として、世の中の低みに立って神さまに信頼して生きる姿を示されます。この世の底辺、抑圧される側に立つ時に、神さまの力以外に頼るものはありません。そして、この世の人々が頼るものではなく、神さまに信頼して生きる時に、本当の安らぎ、神さまから与えられる安らぎを得ることができるのです。 〔細井留美〕

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