2013年メッセージ・アーカイブ

理不尽な時代を生きる

マタイによる福音書2章13-23節

2013年12月29日

今日の聖書箇所はイエスさまの誕生に続く幼児虐殺の話です。この理不尽さは今の日本社会においてもさほど変わっていないように感じます。

マタイはベツレヘムで起きた幼児虐殺を旧約聖書の預言者エレミヤの言葉の実現と記しています。紀元前722年北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされてから100年も過ぎた時に、エレミヤは神さまの裁きに苦しむ人々の嘆きと同時に「息子たちは敵の国から帰って来る」という神さまからの回復を語っていたのです。

この希望は、創世記でヤコブの妻であるラケルが死ぬ場面にさかのぼります。旅路で産気づいたラケルは難産の末、男の子を生んで息を引き取ります。彼女は死ぬ間際その子を「ベン・オニ(わたしの苦しみの子)」と名づけますが、夫ヤコブは赤ん坊を「ベニャミン(幸いの子)」と呼びなおします。ヤコブ自身神さまによって名前が変えられたからでしょう。祝福(成功)ばかりを追い求めてきた苦しい人生が、「イスラエル(神が支配している)」と名づけられ、共におられる神さまを感じたからです。

マタイは旧約聖書の物語をよく知っているユダヤ人たちに、その物語をふんだんに使って、イエスさまが神さまの救いのために来られたことを伝えているのです。神さまの救いは理不尽な時代を貫いて実現されます。これに希望をおいて新しい年を迎えましょう。

 

神の言葉、主イエス

ヘブライ人への手紙1章1-4節

2013年12月22日

クリスマスおめでとうございます。

初代教会は厳しい現実の中で、イエスさまが「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であると信じ、そのイエスさまに従う覚悟をしていたと思われます。これは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。…それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)というヨハネ共同体の信仰に響き合っています。

最初のクリスマスの出来事には、神さまの言葉であるキリストによって、世界は創造され、支えられ、罪赦されていることが具体的に示されています。

創造主である神さまは被造物の限界を自ら選び取られ、そのような仕方で「暗闇と死の陰に座している者たち」(ルカ1:79)を救いへと導かれようとしました。「受肉」の恵みです。神さまの救いが抽象的なものではなく、人間の体をもった具体的なものである、ということなのです。

子どもたちがサンタにプレゼントをお願いしながら、ドキドキして朝を迎えるように、わたしたちはドキドキしながらクリスマスの出来事を思い起こし、神さまからの語りかけに心の耳を傾けて、聴いていきたいと切に願います。

マリアの待ち望み

ルカによる福音書1章46-56節

2013年12月8日

今日の聖書箇所はマリア賛歌と言われています。受胎告知後神さまの救いの実現をほめたたえています。この賛歌は旧約聖書のミリアムとハンナの賛歌を継承したものでしょう。

その救いの内容は、荒野でイスラエルの民に与えられた「ヨベルの年」のビジョンです。人も土地も安息を取り、奴隷たちは自由人となり、50年経っても返済できない借金は帳消しにするというものです。

マリアは羊飼いが赤ん坊を見に来た時も、イエスが12歳のとき神殿で律法学者たちと話し合っていた時も、マリアはこれらの出来事を心に留めて、神さまの秩序が取り戻されることを待望していたのでしょう。

マリアは成長した息子のイエスが、まさに神さまの救いを生きる姿を目の当たりにしましたが、その期待もつかの間、イエスは宗教指導者たちの政治的な犠牲となって十字架に架かって殺されてしまいました。息子の死は神さまの救いが取り消されたかのように見えたのかも知れません。しかし、マリアはイエスの復活を経験し、初代教会の中でイエスがキリストであったことを宣べ伝える者へと変えられていったのです。

私たちもマリアのように、神さまの救いは必ず実現することを、今年のクリスマスを通して再度確認できればと思います。

主の道を整える

ルカによる福音書 1章76-80節

2013年11月24日

ローマ帝国の植民地時代のことです。神さまの救いを語って民衆を励ますはずのイスラエルの宗教指導者たちは、自分たちの権力を保持する方策にあくせくしていました。荒れ野のようなこの時代に、洗礼者ヨハネは救い主の道を整える使命に生き、罪の赦しによる救いを知らせました。

彼は人々をイエスさまに向かわせるために、荒れ野で叫ぶ声として生きたのです。この救いは、イエスさまがご自分を拒みつづけた人々の罪をすべて背負って、十字架上で「彼らの罪をお赦しください」と赦しを祈られたことによる救いなのです。

この救いは罪に座している私たちをはらわたのちぎれる思いで見てくださる神さまの憐れみによって計画され、実現されたものです。私たちには救われるに値することなど一つもありませんでしたが、私たちを憐れむ神さまの一方的な恵みがあけぼのの光が暗闇を押し出し、朝をもたらすように起きたのです。救いは訪れです。

教会は、イエスさまを「神からのメシア」(ルカ19:20)として告白する群れであると同時に、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、」(ルカ19:23)イエスさまに従う群れです。苦難の道を選び取っていく、狭い道を選びとっていく、新自由主義下で競争を強いられるこの世の中でイエスさまの道を整えていきましょう。

 

帰れ、人の子よ

詩編 90編1-17節

2013年11月10日

詩編90編は、神さまの永遠性に対して、人間のはかなさを思い起こされます。

「人の子よ、帰れ」(3節)という呼びかけは、「人の子よ、塵に帰れ」と、本来塵に等しい存在であるにも関わらず、そのことを忘れて思い上がって生きる人間への戒めとして受け取れます。塵という言葉は、ヨブ記に多く出てくる言葉です。自分の正しさに固執していたヨブは、目の前に現れた神さまの存在に圧倒され、自分の正しさの限界を知ります。欠けのある者が神さまにゆるされ生かされていることを知ったのです。人が自分を正しいと考えることは、自分を神とすることであり、高慢という名の罪でしょう。

詩編90編の作者は、人間のはかなさを謳いながらも、その空しさを嘆いているわけではありません。人間がその応分を知って生きることの大切さを語っています。罪ある者が神さまにゆるされ、支えられていることに気づくとき、人は自分をへりくだり、神に与えられた毎日を感謝して生きられるのではないでしょうか。1節の「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」に、詩人の神さまへの信頼をみます。この詩は、人間の人生に苦しみが多いことを知りつつも、神さまに与えられた生涯を苦しみも引き受けて全うしたいという願いであり、また、「人の子よ、帰れ」という呼びかけは、私たちを主に信頼する生き方へ導く、神からの招きの言葉ではないでしょうか。

 

救いの源、主イエス

ヘブライ人への手紙5章1-10節

2013年11月3日

旧約聖書に出てくるヨブを知っていますか。一瞬にしてすべての財産と召し使い、10人の子ども、健康を失ってしまった人です。ヨブは神を非難せず「主は与え、主は奪う」と言いますが、私たちは「なぜヨブが苦しみに遭ったのか、なぜヨブの訴えに神さまが沈黙しているのか」と疑問が深まるのが事実です。

ヘブライ人への手紙は、ローマ帝国で迫害に遭い苦しむ人々に対して、十字架上でのイエスさまが「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」ことと「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」たことを想起させています。

主イエスは多くの苦しみ(エパテン)によって従順を学ばれました(エマテン)。キリストはこのような信仰によって完全な者となり、救いの源となられたのです。キリストに従うすべての人々が救われることを自ら証してくださったのです。苦難の中でなお服従することは難しいことですが、キリストに支えられて歩んでいきたいものです。

ヨブのように苦難の中で苦しんでいるすべての人々が主イエスによって支えられ、永遠の救いへと導かれることを祈ります。

 

異国の寄留者

出エジプト記 2章16-25節

2013年10月13日

モーセはエジプトの王子という最高の地位から追われ、殺人者として逃亡生活をしていました。その歩みは大変辛いものだったようです。ミディアン地方に定着して得た息子を「ゲルショム」と名づけているからです。「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)」という意味です。何の権利もなく、ただその土地の人々の憐れみによって生きられる生活です。

今わたしたちにとって寄留者とは、社会の中で虐げられている人々なのでしょう。在日外国人をはじめ、福島の人々、沖縄の人々、忘れ去られ、見えなくされている人々です。これらの人々と一緒に生きる社会を訴えていかねばなりません。しかし、そのようなことを訴えれば訴えるほど、わたしたちは当事者にはなれない矛盾が鮮明になります。これは偽善なのでしょうか。

モーセも似たような矛盾の中にいたので、神さまから召命を受けた時に「わたしは何者なのでしょう」と言ったのではないでしょうか。神さまは「わたしはあなたと共にいる」と言われました。矛盾を抱えながらも神さまに遣わされたモーセがもう一人の息子に「エリエゼル(神が救われた)」と名づけているのは注目すべきです。

ゲルショムの人生がエリエゼルの人生に変えられたからです。神さまの憐れみです。私たちがこの世で寄留者と一緒にして生きるとすれば、神さまは私たちは尊く顧みてくださるのです。

 

信仰に踏みとどまる

ペトロの手紙第一5章6-11節

2013年10月6日

ペトロは初代教会が経験した迫害をキリストの受難として甘んじて受け止め、キリストの信仰に踏みとどまるようにと勧めています。

「信仰に踏みとどまる」とは、「わたしのねがいではなく、神の御心が行なわれますように」とすべてを神さまに委ねたイエスさまの信仰により頼むことです。悪魔 (ディアボロス、「訴える者」の意)の「あなたはふさわしくない」という訴えに抵抗することです。私たちはこのような訴えに弱い者です。イエスさまの一番の弟子だったペトロも死ぬ覚悟までしながら、いとも簡単にイエスさまを3度否んだことで、悪魔の訴えに悩んだことでしょう。

しかし、復活の主イエスはペトロに近づいてこられ、「わたしの羊を飼いなさい」と新しい使命に生きるように招いてくださいました。ペトロの過ちを指摘したのではありません。信仰に踏みとどまるとは、「あなたは相応しくない」という訴えに耳を貸すのではなく、「わたしが大切にする人々の世話をしなさい」という招きに応答することです。与えられたつとめを継続していくことです。

その時に神さまは私たちを相応しいものとし、訴える者に立ち向かわせ、新しい力を与え、揺るがない信仰に導かれるのです。信仰に踏みとどまって歩みましょう。

 

わたしたちの間にあるもの

ルカによる福音書17章20-37節

2013年9月29日

イエスさまはファリサイ派の人々に「神の国はいつ来るのか」と聞かれ、「神の国は見える形では来ない…神の国はあなたがたの間にあるのだ」と謎めいた答えをされます。神の国とは、神さまの支配であるとすれば、イエスさまが共にいることは不完全ではあるが、すでに神の国が来ていて始まっていることを言われたのです。

イエスさまはこれを機に弟子たちに「人の子の日は…稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように」とみなが分かるように現れるから惑わされないようにと注意しながら、ご自分の苦難と十字架の死に弟子たちの目を向かわせます。ノアとロトの時代にもそうであったように、神などいないかのような日々の現実の中に神さまの裁きと救いは確かに秘められていると言われます。

おそらく当時初代教会は、出口の見えないトンネルを通っているかのように外部からの迫害と内部からの葛藤の苦しみを抱えていたのでしょう。どのように進むべきかと悶々とした日々を送っていたのかも知れません。初代教会が抱えていたものは私たちの日々の歩みとも重なる部分が多くあるでしょう。しかし、今日の聖書箇所の言葉は、神さまの働きがなかなか見えない現実の中に、イエスさまの十字架の死と復活が揺るがない信仰として与えられているのだと教えられます。

我々の歩みの只中に神さまの愛の支配は確かにあります。

 

イエスと共に生きる

マルコによる福音書8章1-10節

2013年9月1日

7つのパンと少しの魚で4000人の群衆を満腹させたのは大きな奇跡です。これは群衆に対するイエスさまの憐みによる出来事です。岩波聖書では「この群衆に対して、私は腸(はらわた)のちぎれる思いがする」と訳されています。イエスさまは群衆の空腹と疲れに同情する以上に、ユダヤ社会の中で差別されてきた群衆の苦しみや、心の傷を憐れまれました。

当時の宗教指導者たちは人々の痛みや救いの喜びより、既得権の維持を優先しました。人々は羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていました。人生の意味も、将来への希望もなく、人どころか、自分さえも愛することができなくなっていたであろう群衆の姿を見て、イエスさまは腸のちぎれる思いで見ておられたでしょう。

今の日本社会でも「経済成長」や「景気回復」の陰に見えなくされている人がいます。「改憲」「格差社会」「高齢化&少子化」「原発」「沖縄」「人権」「TPP」等の課題で、もがいている人々がいます。私たちはむしろ弟子たちの「誰が…どうやって…これだけの人を」という言葉に共感するのかも知れません。

イエスさまは一人ひとりを憐れんでくださり、弟子たちが持っているわずかのパンを用いて群衆の空腹を満たしてくださったのです。教会はイエスさまと共にこのような主の働きをする群れです。

福音に共にあずかる者

コリントの信徒への手紙一 9章19-27節

2013年8月11日

パウロは「福音に共にあずかる者となるために、私はどんなことでもする」といいます。「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、弱い人には弱い人のように」たとえ自らは違っていてもあえて「なる」のだと語ります。

迫害者であったころのパウロ(サウロ)は律法を守れない弱い人、小さき者はなきがごとく、取るに足らないものとうつっていたに違いありません。そのパウロがみずから「全ての人の奴隷」にあえてなるというのですから驚きであると言わざるを得ません。

わたしたちに本当の自由を与えるのは神様の愛です。イエスの十字架の死と復活の出来事に触れ、変えられたパウロの姿がここにあります。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」。(フィリピ2:6―)このイエスの姿に学び、全ての人を愛し、仕えることで私たちは「福音に共にあずかる者」とされるのではないでしょうか?

 

キリストの喜びに生かされる

コリントの信徒への手紙二6章1~10節

2013年8月4日

宣教部長として、実際には教会がいくつも無くなるという現状を間近に見る仕事をしています。落胆することもありますが、しかしそういう事柄においても聖書の約束によって、立ち上がらせていただいています。

パウロは、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓に置かれ、辱めを受け、悪評を浴びる時もある。人を欺いていると言われ、人に知られず、死にかかっている、罰せられている。悲しんで、物乞いのようで、無一物。何の価値も無いものであると言います。

しかし一方で、我々にはこれらのものが与えられていると言います。

純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、神に仕える者の実りを表している。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、好評を博するときにも、神の実りを表している。わたしたちは誠実であり、よく知られていて、事実このように生きているのであって、殺されてはいない。常に喜びながら、多くの人を富ませ、すべてのものを所有している。

主は私たちに自分の十字架を背負わされます。その十字架はある人にとっては病いを与えられる、家族や仕事場で悩むことかもしれません。ある時は、平和をつくることで難儀するということかもしれません。しかし、十字架を背負って歩む時、それはイエスさまが共にいてくださる深い喜びに生かされて歩むということなのです。

 

神がそうなさる

使徒言行録11章1-18節

2013年7月21日

ユダヤ人のキリスト者にとって「異邦人も神の言葉を受け入れた」ことは、ありえないことでした。ペトロは彼らに自分に起きた出来事の一部終始を報告しました。

祈りの中で律法で禁じられていた汚れた食べ物が天から降りてきて「屠って食べなさい」という声がした幻を3度も見たこと、コルネリウスが天使にペトロを招きなさいと言われて人を遣わして自分を招いたこと、彼らに話しはじめると聖霊が降ったことを順序正しく証しました。ペトロはこの出来事から異邦人への宣教が神さまのなさる業であり、人が妨げることはできないと力説しています。

実はペトロは生前のイエスさまのとの交わりの中で、このことを繰り返し教えられたと思います。イエスさまの死と復活に対して「そんなことがあってはなりません」、「わたしは決してつまずきません」と言ったり、イエスさまが捕らえられる場面では剣を取って大祭司の手下の片方の耳を切り落としたりして、ことごとくイエスさまの十字架の道を妨げました。しかし、イエスさまはご自分の道に従うように繰り返し招いてくださり、共に歩んでくださったのです。

神がそうなさることに従う時に不思議な業に出会います。教会はこの喜びの証人に変えられていく群れなのです。

 

光を見出す

ヨハネによる福音書1章1-5節

2013年7月14日

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずになったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)

人間の罪によって十字架で不条理に殺されたイエスが、死んで三日目に神によって復活させられた出来事によってもたらされた希望の光、そしてその光は暗闇の中で輝き続けていると聖書は語ります。光は、苦難の中にある人、社会の中で小さくされている人、苦しみや痛みの中で救いを求めている人にとっては、希望です。しかし神に背く者にとっては、光はすべてを照らし出し、露わにするので、喜ばしいものではありません。光を理解しない闇の現実があります。

今年も沖縄6・23学習ツアーが行われました。「本土」にいる私たちの無関心の罪によって犠牲を押し付けられ、基地の存在ゆえに多くの痛みを負わせられている沖縄と出会う旅です。闇が覆っているような現実の中で、しかし沖縄のキリスト者たちは闇にのみこまれることなく、光を見出し、諦めずに平和をつくりだそうとしている姿にキリストの福音の力を知らされました。この福音に私たちも与っているのですから感謝です。キリストの光を見出し、隣人と分かち合って共に福音にあずかりたいと願います。

 

神の訪れ

出エジプト記32章30-35節

2013年7月7日

イスラエルの民が金の子牛を作って拝んだ罪に対して、神さまは「わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」と言われています。罰する(パーカド)とは、「顧みる」とも訳せる言葉で、苦難の中にある者にとっては神の顧みとして、罪を犯した者にとっては神の罰として受け止められます。

エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を「顧みた」神さまと、金の子牛を作ったイスラエルの民を「罰する」神さまとは、何の差もなく、愛する民がご自分と共に歩むことを望んでおられるのです。パーカドは神の正義(ツェデック)とも通じており、聖書の多くの預言者たちは不法と理不尽な世の中に、唯一正しい神さまの正義が実現されることを待ち望んでいたのです。

英語の聖書がこのパーカドを「神が訪れる(visit)」と訳しているのは示唆に富んでいます。まさにキリストが世の「光」として来られることとつながっているからです。暗闇の中で光を求め、待ち望んでいる人には希望ですが、悪を行う者にはその悪が明るみ出されてしまう、滅びなのです。イエスさまの「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)という言葉と通じます。

神さまは必ず訪れ、ご自分の正義に基づいて「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れ」(33:19)んでくださいます。

 

見えない明日を物語る

イザヤ書2章1-5節

2013年6月23日

終わりの日に、主なる神さまが諸国の仲裁に立たれ、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない(2:4)」とイザヤはいいます。この言葉に深い感銘を受けつつも、私たちは、聖書の価値観とこの世の価値観を対立させてしまいます。「戦争の放棄、戦力と交戦権の否定」は非現実的だ、日米安保条約によって日本の安全が守られている、沖縄に米軍基地がなくてはならない、と多くの人が考えています。

イザヤが語る平和は、軍事力に頼って得られる平和ではなく、神さまの教えに従うことによって実現される平和です。神さまの御言葉に信頼することによってのみ、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」未来は確かなものになります。

今日6月23日は沖縄県の「慰霊の日」です。地上戦により多くの犠牲者を出した沖縄は、今も米軍基地が押し付けられ、土地が奪われ、命が危険にさらされています。日本の安全のために米軍基地が必要だと主張することは、沖縄の痛みを無視することでしょう。私たちが本当に神さまの御言葉に信頼するならば、沖縄の米軍基地は必要のないものとなるはずです。

この世を支配する価値観に対して、神さまの価値観を伝えていくのが教会の役割です。神さまの約束された未来を語り、すべての人に「主の光の中を歩もう」と呼びかけていきましょう。

 

ごく小さなことに忠実を

ルカによる福音書16章1-13節

2013年6月16日

イエスさまは弟子たちに譬え話を語られます。「お金持ちの主人は管理人が自分の財産を無駄使いしていると聞いて、管理人を解雇した。管理人は職を失った後のことを心配したあげく、自分を迎え入れられる人々を作ることにした。主人に借りのある者たち呼んで、証書の内容を減らして書き直させた。しかし、主人は管理人を褒めた。彼が賢くふるまったからだ」と。管理人が褒められた理由とは?イエスさまの真意とは?

当時のお金持ちは貧しい人々に高利子を天引きして貸して財産を増やしていたと言われています。そして管理人は悪賢さを使って主人の高利貸し業を管理していたのでしょう。しかし、解雇を機に管理人はその悪賢さを弱者に対してではなく、権力者に対して働かせました。最初は自分が生き延びるために選んだ方法でしたが、実は彼の行動はそれまでお金持ちにやられっぱなしの貧しい者に、神さまの正義の実現をもたらしました。そして管理人はそのようなプロセスの中で、弱者との連帯を学び、お金ではなく人と共に生きることに気づかされたでしょう。管理人は絶対権力だと信じていたお金や自分の地位がいかにはかないものであるかを痛いほど感じ、その後の生き方が大きく変えられたでしょう。

葛藤や悩みつつも行動を起こした管理人こそ、小さなことに忠実な者だったのかも知れません。神さまの正義が実現されることに巻き込まれることは幸運かも知れません。

 

神の国の価値

マタイによる福音書13章44-52節

2013年6月9日

神の国は、「からし種」や「パン種」のように、何よりも小さくて見えませんが、確かに存在してやがて「成長」し、全体を変えてしまうものです。すでにあるが、いまだ完成していない、神の国の譬え話は続きます。

「神の国」とは、畑に隠された宝のように、また高価な真珠のように価値あるものです。その価値を見つけた人は、喜んで「神の国」に自分の存在をかけます。「見つける」という言葉は、こちら側の努力にかかっているように聞こえますが、実は私たちたち一人ひとりを探し回って見つけてくださる、神さまの働きをも表しています。

神の国を学んだ者は古いもの(律法)と新しいもの(神の国)を自由に分かち合うようになります。ここで「もの」とは、畑に隠された「宝」と同じ言葉(テサウロス)が使われています。まさに私たちは土の器に「宝」をもっているのではないでしょうか。

神の国の価値に気づかされ、神の国を喜び、その価値を自由に分かち合うことに自分の存在をかけて歩みたいものです。「神の国」はわたしたちの間にあり、確かに働いていることを信じ、神の国の完成に希望をもって歩んでいきましょう。

 

救いの訪れ

ルカによる福音書19章1-10節

2013年6月2日

今日の聖書箇所は徴税人のザアカイがイエスさまに出会い、変えられた場面です。「救いの訪れ」の話です。当時の徴税人とは、ローマの手先となって同胞から規定以上の税金を取り立て、その上汁を吸っていると見られ、「罪人」と決めつけられていた人です。

ザアカイは何かを求めてイエスさまを見ようとしましたが、群衆に遮られて見えませんでした。いちじく桑の木に登って不安と恥ずかしさの中にイエスさまが通り過ぎるのを待つことしかできませんでした。イエスさまは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。ぜひあなたの家に泊まりたい」と無条件に彼を招いてくださいました。ザアカイは「急いで降りてきて、喜んでイエスを迎え」て、イエスさまの招きに答えました。

群衆はイエスさまが「罪人のところで宿をとった」と非難しましたが、ザアカイはイエスさまの招きに答え、そしてイエスさまとの交わりの中で自分自身を受け入れる自由と解放とを味わい、自ら隣人に対する行動を起しました。最初から伴われたイエスさまは「今日、救いがこの家を訪れた」と言われ、アブラハムの祝福に与る喜びを与えられました。

イエスさまは今もザアカイのような「失われたもの」を捜して救いに導いてくださると信じます。この「救いの訪れ」の喜びにあずかっていく教会として歩んでいきましょう。

 

霊の導きに従って

ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

2013年5月26日

おそらく多くの日本人は「霊の導き」と言われたら、霊的存在や霊的世界と接触・交流する霊能者(スピリチュアルカウンセラー)をまず思い浮かべるのでしょう。しかし、聖書で言う「霊の導き」とは、土の塵にすぎなかった人の鼻に命の息を吹きいれられた神さまの愛の支配を信じて生きることであり、師の死に絶望と恐怖に陥っていた者たちを励まし、遣わしたイエスさまの復活の命を信じて生きることです。

パウロは、アンテオキア教会で外国人と食事をしていたペトロの一行がエルサレムから来たユダヤ人を恐れてひそかに席を立った「外国人差別事件」を経験して、律法が既得権者たちの理論的な武器となった時、外国人がいかに傷つくのかを痛感させられたようです。彼はこの「律法」に対して「信仰」を強調していくのですが、これが「信仰義認論」と呼ばれ、この手紙の核心でもあります。しかし、一方でパウロは自分の話が「律法廃止」として誤解されてはいけないと思い、5章の13節からは律法の本質を「隣人を自分のように愛しなさい」という一句に要約しながら、「互いに仕えなさい」という具体的な教会像を示しているのです。

このような歩みの中で「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実が結ばれていくものだと信じています。仕え合って歩んでいきましょう。

 

求める者に神の霊を

ルカによる福音書11書1章5-13節

2013年5月19日

イエスさまが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、「我々の祈り」です。自分ひとりのためではなく、兄弟姉妹と連帯して献げる祈りです。

イエスさまは続いて一つの話を語られます。あなたがたの中に友達がいて夜中にその人の家を訪ねて「パンを3つ貸してくれ。旅をしている友だちが家に来たが何も出すものがない」と言ったと。イエスさまは弟子たちが真夜中に旅人の必要を求める立場に重ねています。弟子たちには大勢の人々が押し寄せてくる中、彼らは自分たちに解決策など持っていませんが、人々のことの必要を神さまに熱心に祈ることができる、と気づかされたことでしょう。

もちろん各自の必要を祈ることも大いに許されていると思いますが、ここで強調されているのは、主の祈りの連続線上で弱くされている者、虐げられている者、疎外されている者のために、共に主に求め、探し、門をたたくことです。まさに「しつように」祈ることです。この言葉には、忍耐の意味もあり、気を落とさず祈り続ける姿勢が示されています。

友の必要を求める者に神さまは「聖霊」を約束されました。そしてこの約束はペンテコステの出来事で実現されました。その聖霊の働きに連なって、東京北教会の福音宣教も続けられています。感謝です。兄弟姉妹一人ひとりと共に祈ってまいりましょう。

 

彼らを守ってください

ヨハネによる福音書17書1章11-19節

2013年5月12日

紀元後90~100年ごろのヨハネの共同体が置かれていた状況は大変なものでした。ローマ帝国とユダヤ教からの2重の迫害に加え、キリストの受肉を否定するグノーシス主義との戦いに激しく揺れていたからです。このような信仰の困難の中で、教会は主イエスの祈りを想起しています。

イエスさまの「彼らを守ってください」という祈りに注目してみましょう。守る(テレオー)という言葉は、「見張りをする」という意味で、「善い羊飼い」であるイエスさまの生き方そのものです。それと同時にこの言葉は旧約聖書においてまどろむことなく、眠ることもなく「イスラエルを見守る方」、すなわち神さまの働きでもあるのです。イエスさまはご自分の死、そして昇天後にも、神さまの働きが信じる者と共におられることを切に求めています。イエスさまの祈りは弁護者(パラクレートス、「傍らに立つ者」の意)である聖霊によって、初代教会の時代から今日まで形こそ違うけれども続けられているのです。

御父、御子、御霊は私たちと共におられ、私たちを守ってくださいます。私たちはこのインマヌエルの神の愛を受けて、主の御言葉を「守って(テレオー)」生きる者に変えられていくことを信じます。困難な時代に怯むことなく、主と共に歩んでいきましょう。

 

目が開け、語り合う

ルカによる福音書24章28-35節

2013年5月5日

イエスさまが十字架上で処刑されてから3日経った日のことです。二人の弟子がエルサレムを離れて歩きながら話し合っています。従っていた師を亡くした喪失感、その師にかけていた民族解放の望みが消えた絶望感、最後まで従いきれなかった自己嫌悪、取り残された者として孤独と不安など、二人は相当気を落としていたと想像します。そして二人の思いは私たちが日常生活で感じる葛藤にどこかつながっていると思います。

しかし、復活された主イエスはこの二人に近づいてくださり、道を共に歩んでくださいます。イエスさまは二人の話を十分に聞いた上で、目がさえぎられていた二人に旧約聖書で書かれているメシアの苦難と死と復活を解き明かされます。二人はイエスさまと一緒に食事の席に着き、イエスさまからパンを渡されたとき、目が開けてイエスさまだと分かるのです。不思議なのは、分かったときにはイエスさまの姿が見えなくなったことです。復活は肉眼ではなく、信仰の目で見ることなのでしょう。

二人は主イエスが変わらずに自分たちと共にいてくださることを実感したのでしょう。二人は絶望を語り合う者から、復活の喜びを語り合う者へと変えられていたのです。そしてエルサレムに戻り、他の仲間たちと自分たちに起きたことを語り合ったのです。主イエスの働きによって目が開け、語り合う教会として歩んでいきましょう。

 

みんな違って一つ

詩編133編1節、エフェソの信徒への手紙4章14-16節

2013年4月7日

2013年度最初の主日礼拝に愛する兄弟姉妹と共にあずかる恵みを心から感謝致します。今年度の主題標語は「キリストによる一致と成長を考える」です。キリストの体である教会とは何か、みんな違ってなぜ一つなのか、何を成長とするのか、ということを一緒に考えたいと切に願っています。役員会や総会ですでにその議論が始まっています。

詩編の詩人は、兄弟姉妹が共に礼拝に座っている様子を「なんという恵み」と歌っています。この「恵み」(トーブ)とは、神さまの天地創造の際の「良しとされた」(トーブ)と同じ言葉ですから、神さまに肯定かつ祝福された恵みです。神さまを礼拝する場で共に新しく造られる喜びに満ちているのでしょう。

エフェソの信徒への手紙の著者は、キリストは教会の頭であり、教会はキリストの体であることを強調しています。ここで忘れてはならないのは、教会が成り立つのは「キリストによって」のみ可能であることです。違う者同士の間にキリストが立っていてくださるからこそ、組み合わされて結び合わされていけるのです。

十字架は縦と横になっています。縦は神さまと人との和解であり、横は隣人との和解です。みんな違う私たちは、この十字架を背負ってくださったキリストによって、神さまと隣人とそれぞれ一つとされていきます。その途上で互いの違いを認め合って成長できることを信じます。

 

復活の主に出会う

マルコによる福音書15章42節-16章8節

2013年3月31日

イースターおめでとうございます。

ヨセフは傷だらけのイエスさまの遺体を十字架から降ろして亜麻布で巻きました。いわゆるヨセフのピエタです。ヨセフは惨たらしく侮辱され、殺されたイエスさまの死を、復活なしで受け止めました。彼の行動でイエスさまの死がまぎれもない事実であることが証明されています。

何人かの女性たちはイエスさまの遺体に香油を塗りに朝早く出かけました。彼女らは空いている墓の中で「あの方は復活なさってここにはおられない」という復活の知らせを聞きました。マリアへの「受胎告知」や、羊飼いへの「メシアの誕生」のように、復活もまた御言葉によって告げられました。福音は神さまの啓示によってのみ知らされるものです。

最初の復活の証人たちは、復活を告げられただけではなく、弟子たちにイエスさまが「先にガリラヤへ行かれる…そこでお目にかかれる」という言葉を伝えるようにと命じられました。復活の知らせは「正気を失う」「誰にも何も言わなかった」ほど衝撃的でしたが、彼女らは弟子たちに伝えたでしょう。そしてその言葉が弟子たちの裏切りの予告の場面で言われた言葉であることを知ったでしょう。そして弱い者をなお支え、変わりなく愛し続けるイエスさまの姿を思い起こしたことだと思います。

イエスさまの死を受け止め、復活の知らせを聞き、イエスさまの愛に気づかされて歩んでいきましょう。

 

十字架の道

ヨハネによる福音書12章12-26節

2013年3月24日

なつめやしの枝を振っていた群衆はエルサレム入城されるイエスさまに、ラザロを生き返らせたようなパワーでローマ帝国を打ち倒してくれることを期待して盛り上がっていたように見えます。

群衆の期待は戦争の勝利の喜びでしたが、イエスさまは十字架の道を示されました。ろばの子に乗って都に入られる姿はこれから歩まれる十字架の道を無言で示された行動です。まさに「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2:8)に神さまに従う姿なのです。

イエスさまはギリシア人たちが会いたいと願い出たことを機に、「人の子が栄光を受ける時がきた」と答えます。十字架の道は神さまの救いがユダヤ人の枠を超える全人類の救いです。ご自分を一粒の麦として譬えて一粒の麦の死、すなわち十字架の死が多くの人に命を与えることをはっきりと示されました。

これからの1週間、私たちはイエス・キリストの十字架の道を黙想します。十字架の道のイエスさまは「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿も」なく(イザヤ53:2)、ろばの子に乗った弱々しい姿にほかありません。イエスさまに対する自分の期待を確かめたいものです。そして全存在をかけて十字架の道を歩まれ「アコル(苦悩)の谷を希望の門とする」(ホセア2:17)神さまの約束を実現されたイエスさまを心から受け止めたいです。

 

欠けのない愛

マタイによる福音書20章1-16節

2013年3月17日

キリストの福音は救いをもたらす神の力です。十字架という代価を支払って、あがないとられた私たちの救い。その神の愛の大きさ。欠けのない神の愛を、私たちは、世界に伝えていく使命を与えられています。

ぶどう園の主人が労働者一人ひとりに渡す一デナリオン。それは、神さまがすべての一人に対して、100パーセントの愛を注いでおられることを表わしています。イエスさまがたとえ話で示された神の愛、それは私たちの眼からすれば、あまりにも非論理的で、不器用にさえ見える。でも、父なる神はそのようにして、お前たち一人ひとりを愛しておられるのだとおっしゃった。多くの人を愛しておられるからといって、一人に対する愛が減ってしまうようなかたちの愛ではないのだということを教えようとされた。一デナリオンにはそのような意味があります。

一方で、私たちは、朝から働いた労働者のように、放蕩息子のたとえ話の中に登場する兄のように、それはおかしいではないかと不平をぶつけます。その不平を正面から受けとめ、困惑の中に私たちの前に立たれるイエスさまは、その困惑の中で十字架に付けられていったのであろうと思います。

故に、主の十字架は、すでに救いにあずかり、主に結ばれて生きる私たちの罪をさらに赦すための十字架でもあります。そのような愛が、例外なく、すべての「一人」に対して注がれている。だから、私たちはこの福音を伝えずにはおれないのです。

 

新たにされて

エフェソの信徒への手4章17-24節

2013年3月10日

今日の聖書箇所は「古い自分を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて」生活することが勧められています。キリストの十字架の前で神さまの裁きと救いのリアリティを思い知らされ、それまで価値観や方向性が転換されたのを意味するでしょう。換言すれば自分の十字架を背負ってキリストに従う生き方です。

明日で東日本大震災・津波・原発事故から2年が経ちます。多くの方々が喪失の長いトンネルを抜け出しきれず、先の見えない不安に苦しんでいます。被災地の教会は信仰の揺さぶりを経験しつつも、御言葉に支えられて被災者の方々の苦しみに耳を傾けています。震災以前には戻れませんが、生き方の方向転換が真剣に問われています。

とりわけ「脱原発」は時代の恥部を直視する、将来のために先送りできない課題ではないでしょうか。原発は政府版の貧困ビジネスで、弱い者に犠牲を強いるシステムの元凶でだからです。壺井明氏の油絵『無主物』は、汚染された人や動物たちに自らの血(富)を分ける男の姿が印象的です。まさに無感覚に原発の利益を独占した者が新たにされた姿だと言えます。しかし多くの人々の期待とは裏腹に日本政府は「脱脱原発」へと日々傾いていくようですが、方向を見失わないように祈っています。

東日本大震災から2年、「古い自分を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて」今なお他者の痛みを知り、共感し、共に生きることが求められています。光は暗闇の中に輝いています。

 

何が見えるか

エレミヤ書1章11-12節

2013年3月3日

「エレミヤ、何が見えるか」、「アーモンド(シャーケード)を見ています」、「わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」。ヘブライ語の語呂合わせで見事に意味が強調されています。

エレミヤはアーモンドを見ながら神さまが見張っていてくださることを聞いています。人間が見るものには限界があります。この話は何が見えるかというよりは、何が聞こえるかという話だと思います。エレミヤはアーモンドの枝を見ていると同時に、冬に耐えた枝から見張っていて花を咲かせる神さまの働きを聞いているからです。今起きようとする裁きを見せられますが、同時に神さまの救いと回復を聞いているからです。

世の中は見えないものを自分で積極的に(無理矢理?)見ようとしています。いわゆるプラス思考(ポジティブシンキング)です。一理ありますが、これは自分で物事を捉えることによってすべてが変わる、という幻想です。「自己暗示(マインドコントロール)にすぎません。人は神さまに呼ばれてはじめて見えないものが見えるようになるのです。

信仰とは暗澹たる現実の中で、絶対的な他者に耳を傾けることです。そして、「見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。見えない事実とは、ご自分の言葉を成し遂げようと見張っていてくださる神さまがおられることです。神さまがわたしたちを「御名にふさわしく正しい道へと導いてくださる」(詩編23:4)ことを聞く者は幸いです。

 

試される信仰

マルコによる福音書10章17-31節

2013年2月24日

「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」と聞く人にイエスさまは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という律法を知っているはずだ」と言われます。

それらの律法はずっと守ってきたという彼の答えは、律法の遵守が救いにつながる考え方に対する懐疑を表しているように思われます。イエスさまは愛のまなざしを持って彼の求めが渇きであることを見抜かれたのでしょう。イエスさまはたくさんの財産を捨てて従うようにと招かれます。しかし、彼は落胆し悲しみながら立ち去ります。

救われるために何をすればよいかとイエスさまに問うた人は、逆に「捨てて従うように」と問われました。この話を聞きながらも救われるのは難しいと思われる人がいるでしょう。イエスさまも「神の国入るのは難しい」と言われ、弟子たちも「では誰が救われるだろう」と言ったように救いは「行い」という側面から考えると難しい事です。しかし「人間にできることではないが、神にはできる」のです。神さまの恵みによらなければ、誰一人救われる者はいません。

イエスさまは弟子たちの「捨てて従った」行いを祝福されつつも、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われることによって「行い」が「救い」の保証ではないことを示されたと思います。捨てて従うという行いはその恵みに対する「応答」なのです。様々な人生の場面でこの信仰が試されます。

 

目を留め、手をおいて

ルカによる福音書13章10-17節

2013年2月17日

「そして、見よ、女」、ルカ13:10はこの呼びかけから始まります。

イエスが会堂で教えておられた時、そこに18年間も病に苦しんでいる女がいました。「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」。これは、彼女が身体的苦痛より精神的苦痛が大きかったことを象徴していると言えます。当時、病を抱える人は神の祝福から遠ざけられた存在と見なされ、社会から疎外されていました。心身共に痛みを負いつつ、しかし、彼女は命の希望を見上げて黙って会堂にすわっていたのです。イエスはその女に目を留め、呼び寄せ、「病気は治った(解放された)」と宣言します。そしてイエスご自身が低くなって彼女の上に手を置くと、その女性はいやされました。偏見や差別、あらゆる縛りから解放され、立ち上がった彼女は、沈黙を破り、神を賛美する者へと変えられていったのです。

人の命よりも安息日規定を重視し、イエスを非難する会堂長。イエスはその会堂長に「偽善者たちよ」と厳しく呼びます。律法は本来命を生かすもの。しかし、律法によって命が軽視される時、また、最も小さい者、小さくされている者が不当な扱いをされる時、イエスは厳しく「否」を唱えます。

「見よ」、主が私たちに呼びかけています。貧困、病気、紛争、自然災害、差別、抑圧、格差の問題、等、平和とは言えない現実の中で、十字架の主の救いに与り、福音を分かち合う私たち教会は、何を、どこを見るべきでしょうか。

 

弟子の歩み

ルカによる福音書14章25-35節

2013年2月10日

「自分の十字架を背負う」とは、イエスさまの「わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」という葛藤と祈りに倣う弟子の歩みです。イエスさまは家族や自分の命であろうとも「これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言われます。弟子の歩みは「御心を選び取る」道です。家族や自分の命を憎むほど、御心を選び取っていく、私たちの優先順位が問われています。

またイエスさまは「だから、同じように自分の一切の持ち物をすてないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われます。弟子の歩みは「断念」の道です。これはあきらめではなく、前の二つの話にもあるように、塔の完成のために、自分の一切の持ち物を捨てて「建てる」、あるいは王様の戦いができないと分かれば自分の一切の持ち物を捨てて「和を求める」、という積極的な断念です。

弟子の歩みは、神さまの御心を葛藤して祈りつつ、選び取っていく道です。これは自分の思いや、力、自分の持ち物を断念して初めて開かれる道です。これこそが塩の味なのでしょう。ご自分の命を惜しまなく与えてくださったイエスさまに呼び出されていることを覚えながら、共に弟子の歩みを歩んでいきましょう。

 

小さな者と共に

マタイによる福音書25章31-46節

2013年2月3日

かの日イエスさまは裁判官として栄光の座に座って、「羊飼いが羊と山羊を分けるように」すべての民を分けて、審判を行ないます。私たちは生活の様々な場面で出会う弱い者たちが実はイエスさまであることを教えられ、小さな者と共に生きる教会形成をしていくでしょう。

一方では自分はきっと左に分けられて永遠の罰を受けるのではないか、という不安を覚える人も多いでしょう。なぜそのように感じてしまうのでしょうか。それはキリストの恵みがいつの間にか消え去り、小さな者と生きる、ということひとつの律法になってしまったからでしょう。

この話を聞いていた人々のことを想像してみましょう。彼らは最後の審判をそれほど恐れていなかったのかも知れません。なぜなら、彼らはすでに当時の日常の生活において罪人と決めつけられ、社会から疎外され、律法で厳しく裁かれていたからです。むしろ彼らは、この話の中でイエスさまがご自分を小さな者(飢えや、渇き、宿がない、裸、病気、牢にいる者)であると言ってくださったことを通して、自分たちの痛みや悲しみを理解し、受け入れてくださったことに心打たれたでしょう。

私たちは小さな者と共におられたこのイエスさまに心打たれて信仰に入って、イエスさまに従うことを決めたのではありませんか。この恵みを忘れず歩んでいきましょう。

 

神への信頼

フィリピの信徒への手紙4章2-7節

2013年1月27日

パウロはフィリピの教会の人たちに、「主において常に喜びなさい」と呼びかけます。「主にあって喜ぶ」とは、すべてのことを配慮してくださる神さまに信頼をして喜ぶことであり、神さまへの信頼があって初めて、どのような時も喜ぶことができるのでしょう。

また、パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」と言います。思い煩うことは、自分の考えに信頼することであり、自分の正しさに頼ることです。「思い煩うことをやめなさい」とは、神に信頼しなさいという呼びかけです。

パウロの呼びかけは、人は自分の行いによって救われるのではなく、ただイエス・キリストの信実によって、救われるという確信からきていました。パウロは、キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、自分の義を求める生き方から神に信頼して生きる生き方へと変えられたのです。

パウロ自身「既に完全な者」ではなく、「何とかして捕えようと努めている」途上にありました。しかし、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」という、思い煩いが神への信頼に変えられていく秘訣を知っていたのでしょう。私たちも共に神さまに信頼する生き方をめざして歩んでいければと思います。

 

祈りからはじまる

マルコによる福音書1章35-39節

2013年1月20日

クリスチャンホームで生まれ、教会に慣れていた私は幼い頃、大人の祈りを真似して祈っていました。祈ることを神さまに自分を打ち明けて神さまからの語りかけを静まって聞く、と思うよりは、どこか人を意識しすぎて、人に褒められようと祈っていたのではないかと思います。

私たちの祈りは時に神さまより、人間に向けられることもありますが、イエスさまはどのように祈っていたのでしょうか。今日の聖書箇所では「朝早くまだ暗いうちに、イエスさまは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。荒れ野で孤独の只中で静まり、神さまと向き合い、交わりを持ったのでしょう。おそらく神さまの御心が行われることの一点に集中していたのではないでしょうか。

「起きる(アナスタス)」という言葉は、「復活する」とも訳される言葉です。ですからこのイエスさまの祈りは、師の死に絶望していた弟子たちや、遺体を求めて墓に向かっていた女性たちにご自分の姿を現してくださった復活の主の力強い励ましではないでしょうか。イエスさまの福音宣教と当時の人々の働きが、このイエスさまの祈りに支えられていたことは言うまでもありません。

使徒パウロも「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」(ローマ8:34)と言っています。教会の福音宣教もまたこのようなイエスさまの祈りから始まって、また広がっていくものだと信じています。

 

共にある神の恵み

コリントの信徒への手紙一15章9-11節

2013年1月13日

パウロは、それまで歩んできた自分の生涯を思い出しながら、神の恵みの福音をコリント教会の人びとにもう一度伝えています。

福音とは、キリストが死んで、葬られて、復活して、人に現れたことです。とりわけ「現れた」ということは、キリストから近づいてくださって現してくださる一方的な恵みです。この出会いを通して私たちはキリストの死と復活を真実として信じるようになります。

教会の迫害者であったパウロはダマスコ途上で、死んで復活されたキリストと出会い、自分がイエス・キリストを十字架につけた張本人であることを痛いほど気づかされたでしょう。「いちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」というパウロの告白は、まさにキリストを拒んだ罪深い自分自身を深く認識しているからであり、キリストによって罪を赦され、証人として生かされているからであるのです。

パウロは自分に対してはイカノス(値打ち)のない者と言いつつも、福音を伝える者へと導いてくださった神の恵みはケノス(無駄)ではないと告白しています。罪深い者であるのにもかかわらず、神の恵みに生かされている「信仰」を大いに喜んでいます。

キリストは私の罪(-)のために死んで(-)、赦された罪人(+)として生かしてくださいました。私たちは共にあるこの恵みに気づかされて日々歩んでいきたいと思います。

 

主を讃美せよ

詩篇113編1-9節

2013年1月6日

詩人は冒頭で「ハレルヤ」(主を賛美せよ)と呼びかけて、最後を「ハレルヤ」と締めくくっています。新しい年が「ハレルヤ」で始まって、「ハレルヤ」終わることを切に願います。

詩人はなぜ神さまを賛美することを呼び掛けているのでしょうか。神さまが「低く下って、天と地をご覧に」なり、「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ」てくださるお方であるからです。キリストは弱い者、貧しい者の傍らに立って共に歩まれ、インマヌエルの神を示してくださいました。「わが罪のため、栄えを捨てて、天より降り、十字架につけり」という賛美歌(523番)の歌詞が心に響きます。

詩人は神さまがエジプトでファラオの奴隷であった自分たちの先祖を、力ある御手をもって導きだされたことを思い起こしています。サムエルの母であるハンナの嘆きを聞き入れ、喜びへと変えてくださったことを思い起こしています。詩人はヨブのように、苦難の中に置かれているのかも知れません。しかし、自分の叫びや、嘆き、訴えを神さまは聞いてくださることへの信頼から主を賛美しているのではないでしょうか。

私のようなもののために主は十字架を背負わされたのです。私たちは主の晩餐式の度にこの恵みを想起(ザハル)し、ハレルヤと主を賛美して歩む一年でありますように。

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