2015年メッセージ・アーカイブ

星に導かれて

マタイによる福音書2章1―12節

2015年12月27日

アンデルセンの「裸の王様」という童話があります。馬鹿だと思われるのを恐れ、王様をはじめすべての人が見えもしない服に感心していたその時、一人の子どもの「王様は裸だ」との告発を通してそれまで見ようとしなかった真実に気づかされた話です。

ヘロデ王の暴力政治となれば、童話のように笑って済まされません。彼は自分の妻や弟を処刑し、幼児虐殺を命じるほどの暴君でした。エルサレムに来た東方からの占星術の学者たちの「ユダヤの王として生まれた方はどこにいるのか?」という問いは、当時の抑圧への告発でした。

「東方」とは、バビロン捕囚を終わらせたペルシアのキュロス王を思い浮かばせる「解放の念願」であると同時に、アブラハムが寄留者(外国人)として神さまから導かれた「信仰の原点」でもあります。紀元後80年代、マタイの共同体はユダヤ戦争の失敗と廃墟の中で「ユダヤ教との決別」と「異邦人への伝道」という新しい歩みを踏み出そうとしていた時に、自分たちのアイデンティティを確認しているのです。

占星術の学者たちを導いた「星」は神さまの約束だと思います。時には見失うこともあるかも知れませんが、神さまご自身がその約束を誠実に果たしておられ、必要な時に私たちに先立って導いてくださることを信じます。「主イエスの誕生」の意味を吟味しながら、新しいを年を迎え、また暴力に怯まず歩み続けていきましょう。〔牧師 魯孝錬〕

 

平和の君の誕生

ルカによる福音書13章8~21節

2015年12月20日
クリスマス

救い主誕生の知らせは、最初に、社会の底辺に追いやられていた羊飼いたちに告げられました。しかも、その救い主(ソーテール)の姿は、飼い葉桶に寝かせられた無防備な赤ん坊であり、武力と富を手にしたローマの支配者(ソーテール)とは、正反対の姿でした。

14節は、「救い主の誕生により、すでに平和がある」と解釈することができます。神の平和シャロームは、強い者が弱い者を犠牲にしたり、利用することなく、一人ひとりが社会的にも精神的にも満たされた安らかな状態です。神さまは、シャロームの実現を、力によらずに、赤ん坊や羊飼いという弱さによって広げようとされます。

「御心に適う人に」は、「意にかなった人々の間に」とも訳されます。「人々の間」を、「人と人との関係」として考えるならば、御心に適う「人と人との関係」とは、競争でなく、共生の関係ではないでしょうか。互いに助け合うのはもちろん、弱い者の権利が特に守られる人間関係、他者の痛みに敏感で、多種多様な者が違いを認め合いながら共に生きる人間関係ではしょう。そのような関係の中に、神の平和シャロームはある、と神さまは言われているのです。

御使いの言葉を信仰によって受け入れ、その出来事を確かめるために、立ち上がった羊飼いたちが、救い主を探しあてた時、彼らが抱いていたかすかな希望は、確かな希望へと変わったでしょう。羊飼いたちは、その喜びを人々に伝えました。現代においては、教会がその役割を担っています。人々に、希望を指し示すために。   〔副牧師 細井留美〕

 

ひとりのみどりご

イザヤ書9章1~6節

2015年12月13日

アドベントの時期は救い主がなぜ「赤ん坊」の姿でお生まれになったのかを思いめぐらす機会でもあります。なぜ大人ではなかったのでしょうか。答えよりもこの疑問を持つことに意味があるのかも知れません。

今日の聖書箇所で北王国が滅ぼされようとしていた「闇の中…死の陰の地に」(1)おいて、預言者イザヤも「ひとりのみどりご」の誕生を告げ、その子は「驚くべき指導者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君主」と呼ばれることを語っています。しかし、多くのイスラエルの人々は彼の言葉に耳を貸すことをしませんでした。

彼の預言は500年以上を過ぎてエルサレムのベツレヘムという小さな町で生まれたひとりのみどりごの誕生を持って実現されました。赤ん坊はやがて十字架上で死に、3日目に復活させられ、「神」のシャロームを実現させ、罪深い人間が創造主の支配に生きる道が与えられたのです。

みどりごと神との間には大きな断絶があります。それこそ真っ暗闇の中で迷子になったようなものなのかも知れません。しかし、神ご自身がそのような断絶の中におられることによって、闇の中で歩んでいる者と共に歩もうとされたという意味において「光」は確かに輝いているのでしょう。十字架上で息を引き取られたイエスを見て、「この人は神の子だった」(マルコ15:39)と告白した百人隊長の信仰です。

これらのことは神の熱意によって成し遂げられた出来事です。神の働きが断絶を信仰へと変えてくださるのです。〔牧師 魯 孝錬〕

 

主を待ちつつ

マルコによる福音書13章24~37節

2015年12月6日

12月に入って子どもたちの楽しみの一つにアドベントカレンダーがあります。カレンダーのその日をめくれば、チョコやキャンディが食べられるからです。次の日が待ち遠しくなる感覚ですが、イエスさまの誕生が「時が満ちて」実現したことを象徴しているように思われます。

今日の聖書箇所は漠然とした終末の話というよりは、紀元後50年代にマルコの共同体が当時のローマに対する武力闘争がもたらす混乱を危惧しながら、生前のイエスさまの神殿崩壊や戦争、災難の話を想起している、もっと切迫した現実の話です。

大事なのは、最後の時が「いつ起きるのか」ではなく、その時に向かって「目覚めている」ことです。どのような意味なのでしょうか。ひとつ、「主ご自身が守って(ショーケード)くださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩127:1)とあるように、神さまの見守りを知ることです。もう一つ、「わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(ハバクク2:1)と言った預言者ハバククの姿勢です。「目を覚ましている」ことは「祈る」ことなのかも知れません。ゲッセマネでイエスさまのそばで寝てしまった弟子たちの姿が私たちの現実かも知れませんが、イエスさまの祈りに支えられています。

私たちも様々な混沌の中でクリスマスを待っています。主の見守りを信じて、主の声を見張っていきたいものです。 〔牧師 魯 孝錬〕

 

福音が宣べ伝えられる

マルコによる福音書13章1-13節

2015年11月22日

マルコによる福音書は紀元後50年代に書かれたと言われます。この時代はイエスさまの死後、終末が到来していないことを疑問視する雰囲気があったことでしょう。そしてローマの力や宗教指導者の腐敗に対して、武力闘争の流れに多くの人々が共鳴したと考えられます。マルコはこの混沌の中でもう一度生前のイエスさまの言葉を想起しているのです。

弟子たちが神殿の外見に見とれていたちょうどその時にイエスさまから言われた言葉です。神殿は完全に崩れ落ちるとの言葉に自分たちの本質が問われました。終末のしるしに関しては、戦争や、災難、飢饉、迫害などが起きると言われ、家族がお互いを死に追いやる時が来るとのことでした。紀元後66~70年のユダヤ戦争を暗示した言葉だったでしょう。

イエスさまがこれらの「混沌」を「産みの苦しみ」と表現されたことに目が留まります。「産みの苦しみ」とは、人々を本当に「生かす」ための、主イエスの十字架において示された神さまの側の苦悩そのものだからです。私たちの「耐え忍ぶ」ことは、この神さまの産みの苦しみに支えられています。またこの「耐え忍ぶ」ことは「すべてを我慢する」と解釈されがちですが、DVや、虐待などの被害者はむしろ「助けて」と叫ぶことが大事です。聖書の読み方が問われる場面でもあります。

教会は小さくされた人々の叫びの中にキリストの声を聞き取り、共に自由にされ解放される道を進みゆく群れです。   〔牧師 魯 孝錬〕

 

最も大いなる者

ルカによる福音書9章46-48節

2015年11月15日

弟子たちに、「自分たちの中で誰が一番えらいのか」という議論が起きました。弟子たちは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23)というイエスさまの言葉を全く理解していませんでした。

議論に気づいたイエスさまは、一人の子どもの手を取って、ご自分の傍らに立たせて、社会の中で取るに足らないと思われている者を受け入れることが、イエスさまを受けいれることであり、神さまを受けいれることと同じだと示されます。

48節の最後の言葉、「最も小さい者こそ、最も偉い者である」という言葉は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(18:14)というルカ福音書全体を流れる信仰に通じるものであり、それは、イエスさまの在り方そのものであり、十字架と復活の出来事において、ゆるぎないものにされました。イエスさまが伝えたかったことは、弱い立場の人の側に立つことの大切さであり、しかし、へりくだる者を神さまは高めてくださるということでしょう。

イエスさまの言葉は、教会に対する言葉でもあります。教会は自らへりくだって、最も小さい者の側に立たなければなりません。貧しい人、力のない人、病気の人、家のない人の中にこそ、神さまはおられるからです。キリストと共にへりくだる者は、神さまによって高められることに希望をおいて、ミッション・ステートメントの歩みを進めていければと思います。〔副牧師 細井 留美〕

 

喜んで聴く

マルコによる福音書12章35-44節

2015年11月8日

11‐12章の一連の論争を通して、イエスさまが当時の律法学者と違う視点を持っておられることが明らかになりました。上からの目線で教え込んだり、裁いたりする視点ではなく、へりくだって痛んでいる人々の立場に立って苦しめられている人々の痛みを深く憐れまれる視点です。

虐げられている人々の痛みをつぶさに見ておられたからこそ、イエスさまは律法学者たちが貧しい者の側に立とうとせず、律法を守っているか否かによって「罪人」と決めつけていた宗教指導者の信仰を厳しく指摘されたのだと思います。それとは逆にやもめの献金を大いに評価されたことを通して、神さまの最後の審判が徹底的に虐げられている者の側に立って行われることを示されたのだと信じます。

イエスさまはメシア(救い主=キリスト)がダビデ王の子孫ではなく、すでにダビデが「主」と呼んでいて、ダビデより優れた者であると教えられます。これは律法学者の教えをひっくり返すものであると同時に、ご自分がそのメシアであることを暗示するものでもあるのでしょう。権力を持つ軍事的かつ政治的なメシアではなく、むしろ十字架の死に至るまで徹底的に虐げられる、全く新しいメシア像を示されたのです。

自分たちの期待どおりのイエスさまでなくとも、あるいは厳しい裁きの言葉さえも喜んで聴いていきたいものです。   〔牧師 魯 孝錬〕

 

神の国から遠くない

マルコによる福音書12章28-34節

2015年11月1日

聖書の中で第一の教えは何でしょうか。イエスさまは何と答えられたのでしょうか。また私たちはそれをどう聞けば良いのでしょうか。

イエスさまは「神への愛」と「隣人への愛」に尽きると言われました。当時の常識だったと思われます。しかし、命令文を未来形で言われたことに目が留まります。なぜ未来形で言われたのでしょうか。一つは、当時律法を守ることができないため「罪人」と決めつけられた人々に対する信頼と期待があったものだと思います。もう一つは、そのような人々だけでなく、宗教指導者たちさえも、やがて神愛と隣人愛に生きるようになるためにご自分が十字架を背負うという決断があったと思います。

自分の生活を振り返ってみれば、言うこととやることが一致せず、他人には厳しく自分には寛大です。信仰者として不合格でしょう。しかし、にもかかわらず、主イエスは私たちのためにも十字架につけられ、神の恵みに生きられる道を整えてくださったのです。聖徒(ハシード)とは、神の慈しみ(ヘセド)に生かされる者を意味します。決して清い者を意味するのではありません。主の慈しみに生きる者です。

聖書を解釈して教えることが専門である律法学者に対して、イエスさまは「神の国から遠くない」と言われます。神さまの一方的な恵みによって生かされる生き方への招きではないでしょうか。現代を生きる私たちもまたこの招きに向き合う時に、歩みの方向が定まるのではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

 

神の顧み

詩編102編18-19節

2015年10月25日

「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み」(18)てくださいます。詩人は何らかの苦難に襲われていたのでしょう。病に苦しみ、経済的に困窮して人間の尊厳を傷つけられ、敵からは嘲笑われている状態です。心挫けて、主の御前に思いを注ぎだす貧しき者の祈りです。

主は貧しき者の祈りを顧みてくださいます。顧みる(パナー)には、「顔」の意味があります。ヤコブが神さまと相撲を取った場所を「ペヌエル(神の顔に、神の前に)と名づけました。ヤコブはそこで主と格闘した末、やっと主が共におられることを実感したからでしょう。つまり、顧みるとは、神さまが共にいてくださることを意味するのです。

人々に排斥され、十字架に引き渡されたイエスさまは、人々にののしられて嘲笑われて、最後は「なぜお見捨てになるのですか」と叫んで息を引き取られました。絶望に満ちた死に様でした。神の子が、人間と同じく、罪に死ぬ報いを受けることを通して、人々と共におられたのです。これをそばで見ていた百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と言った言葉に、わたしは「信仰」の本質を教えられます。

本日は召天者記念礼拝です。召天者やご家族、そして私たちは大きな悲しみを覚えますが、神さまは御前に(ペニーム)思いを注ぎ出して祈る一人ひとりの祈りを顧みてくださるのです。ハレルヤ。 〔牧師 魯 孝錬〕

 

真理の声を聞き分けて

ヨハネによる福音書9章35節~10章6節

2015年10月18日

別々に読まれることが多い9章と10章ですが、10章のたとえ話は、9章のお話を知ることによってその意味が明らかになります。

9章の話は、「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)に集約されます。イエスさまは、道端で出会った生まれつき目の見えない人の苦しみをご自分の痛みとされて、彼の目を癒します。ところが、自分たちが正しいと思っている人々には、イエスがキリストであるという真実が見えず、真実を語った彼が会堂を追い出されてしまいます。

イエスさまは、彼が町から追い出されたことを知ると、彼を見つけ出して「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。すると、彼は「主よ、信じます」と言って、イエスさまの前にひざまずきます。彼は真の救い主を見出して礼拝したのです。3節の「神の業がこの人に現れるためである」の意味が、障害が癒されることにあるのではなく、真の信仰告白に導かれ、救い主の礼拝へと導かれることにあることが明らかになります。

10章の羊たちの名を呼んで連れ出す羊飼いと羊飼いの声を聞き分ける羊のたとえは、イエスさまとイエスさまを礼拝した彼の姿に重なります。イエスさまに従うことは、生きづらさや苦悩を経験することかもしれません。しかし、イエスさまが導く先には、本当の意味でいのち輝く場所が広がるのではないでしょうか。〔副牧師 細井留美〕

 

生きている者の神

マルコによる福音書12章18-27節

2015年10月4日

サドカイ派の人々がイエスさまに、夫を亡くした女性が夫の6人の兄弟と順に結婚したならば(申命記25:5以下、「レビラート婚」)、復活の時にこの女性は誰の妻になるのか、ということを聞きました。

サドカイ派とは、モーセ5書のみを大事にする祭司たちと長老たちからなる貴族階級で、復活を認めなかったので「レビラート婚」の話を引用して復活を否定したかったのでしょう。

レビラート婚はやもめがその社会で生きられるようにするための救済策です。大事なのは「ゴーエール(贖う、家を絶やさない)」責任です。この言葉は旧約聖書の中で出エジプトやバビロン捕囚からの解放の出来事を神さまの「救い」という時にも使われています。イエスさまの答えには「7回も結婚をし直さねば生きられないその女性の苦しみを想像してご覧なさい。復活を問う前に、あなたがたこそローマの抑圧に苦しみ悶える人々が生きるようにする責任があるのではないか。あなたがたが放棄したその責任をわたしが背負う。もうすぐわたしは十字架につけられ、3日目に復活する」という決意が表れていると思います。

神さまは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とあるように、「死んで甦って」今生きている者として語られています。彼らとの約束を誠実に守られた神さまは、今苦しみの中にいる人々と共におられます。生きている者の神を信じて、教会もイエスさまのまなざしを持ちつづけて歩みたいと願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

教会-キリストの体

コリントの信徒への手紙Ⅰ12章12-27節

2015年9月27日

コリント教会にはユダヤ人と異邦人、奴隷の身分の者と自由な身分の者、貧しい者と裕福な者がいて、さらにはパウロ派、アポロ派、ケファ派などの派閥にも分かれていました。教会が抱えていた様々な問題に答えるために手紙を書き送ったパウロは、今日の聖書の箇所で、教会の一致を勧めています。

パウロは、一人ひとりの多様性を認めつつ、こういいます。私たちの体が様々な部位が合わさって一つの体を作っているのと同様に、キリストの体である教会も様々な違いを持つ人々が、同じ霊によってバプテスマを受けて一つの体に属している。体に必要でない部分がないように、教会の一部として必要ない人などいないのだと。

教会は体と同様に、相互に助け合い、補い合う共同体として神さまに立てられているのであり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26)。パウロのいう教会の一致とは、他者と助け合って生きることであり、他者の痛みを自分の痛みとし、他者の喜びを自分の喜びとすることなのです。

私たちは誰かのために生きる時、自分の存在意義を知り、生きる喜びを感じることができるのではないでしょうか?世間の価値観とは違う、他者と共に生きる生き方、他者のために生きる生き方を、教会は示していく使命があるのではないでしょうか。   〔副牧師 細井留美〕

 

キリストと皇帝

マルコによる福音書12章13-17節

2015年9月20日

イエスさまは敵対者から質問を受けました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」と。

税金を肯定すれば、ローマの支配を認めることになります。その支配下で苦しめられている民衆たちの怒りを買うに違いありません。しかも銀貨には皇帝の像があることから十戒を破ることにもなります。一方で税金を認めなければ、ローマの支配に逆らう政治犯として逮捕されることになります。

イエスさまは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(16)と答えられます。税金に傷つけられ続けてきた群衆に対する憐れみとそれを利用する敵対者に対する憤りとが混じった答えをされたのです。彼らの言葉の罠を避けながら、当時のローマの力による平和(パックスロマーナ)に対して断固として否を唱えたのです。そして偽りの権威にだまされず、その庇護のもとで民衆を抑圧することをやめ、神にかたどられて造られた尊いものとして神を畏れ、神との交わりの中で、自由に生きなさい、との招きだったのでしょう。

イエスさまは論争には勝ちましたが、結局は十字架につけられます。真理が不正に敗北しますが、その敗北はプロセスの中ですでに勝利しています。神さまの救いが実現されたからです。

 

捨て石を親石に

マルコによる福音書12章1-27節

2015年9月13日

人びとはイエスを裁きました。しかし皮肉にもその裁判によって自らの罪を暴露させました。イエスさまは殺気立った人びとに語られます。

主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た。主人は収穫の時に僕を送ったが、農夫たちはその僕を袋叩きにして帰した。他の僕も同じようにした。もう1人を送ったが今度は殺し、多くの者を送ったが、殴ったり、殺したりした。主人は最後に「息子なら敬うだろう」と思って愛する息子を送ったが、農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまえば相続財産はわれらのものになる」と言って息子を殺した。

「主人は戻ってきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とあるのは、厳しい裁きの言葉ですが、農夫たちがやったことの報いは死刑の他にないという常識が背景にあったと思われます。しかしイエスさまは詩編118編を引用して、捨てられた石を親石としてくださる御業を語られます。これは人間のやった結果を逆転させる、神さまの側からの救いの業を意味するのです。

「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(Ⅰペトロ2;4)とありますが、捨て石とされている人々と連帯して共に生きることこそ、主のもとに行く道ではないでしょうか。〔牧師 魯 孝錬〕

 

イエスさまの権威

マルコによる福音書11章27-33節

2015年9月6日

エルサレムに入られて三日目のことです。宗教指導者たちがイエスさまに前日の騒動について「何の権威で?」と聞き、イエスさまは「ヨハネのバプテスマの権威はどこから?」と聞き返します。天からだといえばなぜ信じなかったと言われるだろうし、人からだといえば群衆の騒動が怖かったので、「分からない」としか答えられません。

宗教指導者たちは真理への渇きからというよりは、イエスさまを殺すための確実な証言を求めたのでしょう。しかしイエスさまはヨハネのことを聞き返すことによって、彼らの意図を見抜かれ、イエスさまの権威の本質が明らかになったのです。イエスさまの「聞き返し」は次のように解釈できるのではないでしょうか。

「わたしはヨハネからバプテスマを受けたのだから、わたしの権威はまずはヨハネからのものだろう。そしてバプテスマを受けた後、天から『愛する子』という声を聞いたのだから、わたしの権威は天の父からのものでもあるのだ。ヨハネはヘロデ・アンティパスにより惨い死に方をした。彼の父であるヘロデ王は神殿を立派に改修した。あなたがたはヘロデ王の庇護のもとで宗教活動を保証される代わりに民衆の痛みに目をつぶった。あなたがたの正体を見抜いているわたしは迫害され、殺されるだろう。」

この短い問答に私たち自身も厳しく問われています。〔牧師 魯 孝錬〕

 

もちつもたれつ

ルカによる福音書章22-24節

2015年8月30日
米本裕見子協力牧師就任感謝礼拝

富める者と貧しい者との格差の問題は、人間が富を蓄え始めたところから、始まります。富を蓄えることは農耕牧畜文化から可能になりましたが、聖書は、この農耕牧畜文化と無関係ではなく、人々は常に、神さまに信頼する生活と、富に頼る生活との葛藤の中にありました。

今日の聖書の箇所は、神さまを完全に信頼して生きる生活から離れてしまった人間に、神さまを信頼して生きることを喚起するイエスさまの招きの言葉です。命のために、食べ物の心配をし、着る物の心配をし、あくせく働き、お金を蓄える私たちに、イエスさまは、それらのどれ一つも命にとっては、大切なものではない、神さまに信頼して生きることこそ、命にとって最も大切なことだと言われます。

「神の国」を求めるとは、イエスさまに従って生きることであり、32節は、社会の大部分の人たちが、命のために食べ物、着る物、お金の心配をする中で、「神さまに信頼して」、また「イエスさまに従って」生きようとする小さな群れ「教会」への励ましの言葉として読めるでしょう。イエスさまは、お金や財産に頼ることのない生き方へと招きます。それは、神さまへの信頼が土台にある生き方です。財産やお金にたよらない生活には、助け合い、支え合い、自分のもっているものを分け合う「もちつもたれつ」の人間関係が生み出す楽しさがあるのではないでしょうか。〔副牧師 細井留美〕

 

神殿を清める

マルコによる福音書11章12-25節

2015年8月23日

実を結ぶ季節ではなかったのに、イエスさまはいちじくの実がないからといっていつまでも実を結ぶことがないと呪い、神殿の清めの出来事の翌朝、いちじくの木は根元から枯れてしまいました。サンドイッチ編集意図に注目したいものです。旧約聖書の中でいちじくの木はぶどうの木と同じようにイスラエルを意味します。イチジクの木で実がなかったことは、神の民イスラエルが、神礼拝のはずの神殿でむしろローマの支配を固定化させ、ローマの庇護の中で安全を確保し、弱者を搾取していた状況を表しているのです。そしてイエスさまはそのような神殿の働きを停止させる行動をもって、いちじくの木が根元から枯れたように、神殿の没落が遠くないことを戒めているのです。

これは預言者の象徴行為のようなものですが、本来の神殿が「祈りの家」のはずなのに、「強盗の巣」と変わってしまったことへのイエスさまの嘆きでもあります。神殿はそれ以上神さまとの出会いの場ではなくなり、すべての祭儀行為に利益を追求して貧しい者たちをゆすりとることに懸命だったからです。「祭司長たちや律法学者たち」はこのようなイエスさまの指摘を受けるや否やイエスを「殺す」決断をします。

いちじくの木に対する呪いと神殿のあり方に対する審判は厳しい話ですが、それらを背負うのはイエスさまご自身であることを覚えたいものです。裁きの背後にある神さまの救いの働きを信じ、祈りつつ、隣の人々と歩み続けていきたいと切に願います。〔牧師 魯孝錬〕

 

子ろばに乗って

マルコによる福音書11章1-11節

2015年8月16日

時は過越祭です。出エジプトの解放の出来事を記念する祭りです。群衆はダビデのような力強い救い主を待望しています。イエスさまがすぐ近くまで来ていて今にでも革命が起きるかも知れないとの噂で緊張が高まります。エルサレムの宗教指導者たちは暴動が起きれば、ローマ軍による武力鎮圧は避けられないと警戒を緩めません。ローマ帝国は支配者の力を見せつけるために、祭りに合わせてローマ軍の騎兵隊のパレードをしています。

このような一触即発の雰囲気の中で、イエスさまは子ろばに乗って、よたよた歩いてエルサレムに入られます。これは、ローマ軍の騎兵隊のパレードを風刺するパフォマンスだったのでしょう。この滑稽な姿を通して、イエスさまは弟子たちの政治的な欲望を笑い、ローマの軍事力に憧れている人びとを笑い、民衆の暴動に戦々恐々とする宗教指導者たちを笑い、群衆のメシア待望を笑っていたと想像できます。しかし、ローマ当局やエルサレムの宗教指導者からは嘲笑われたであろうこの出来事は、深い意味がありました。

それは旧約聖書で「小ろばに乗ってくる王が、エルサレムから軍車を断ち、諸国民に平和を告げる」というゼカリアの預言が見事に成就した点に尽きます。マルコが第一次ユダヤ戦争(紀元後66年)が起きる前の武力闘争が共感を得ていた時代に、もう一度このイエスさまの平和を示していることに注目しながら、「戦争で平和を」という無茶な方向に進もうとする今の日本社会に生きるキリスト者としてしっかりとこのイエスさまの行動を思い起こしたいものです。

 

まことの平和

イザヤ書11章1-10節

2015年8月9日

旧約聖書で平和を意味する言葉「シャローム」は、単に「戦争状態にないことを」表すのではなく、「社会的にも精神的にも満たされた安らかな状態」をさします。4節にあるように、「シャローム」は弱者や権利を奪われた人々のために行なわれる正義と公正によって基礎付けられます。

6-9節では、メシア的王によって実現される平和が、人と家畜と野獣の共存の形で描かれています。これを、人と動物の関係が天地創造時の状態に回復するという終末論的な平和と解釈することもできますが、イザヤが生きた時代と重ねて考えるならば、強い者(国)が弱い者(国)を犠牲にしたり、利用するのではなく、全ての人が「シャローム」である平和だと解釈することが可能です。そして、「主を知る知識」こそが、そのような平和の源です。

6-9節の平和が、「まことの平和」であるとするならば、今ある平和はまだ途上に過ぎません。イエスさまの「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という言葉は、「シャローム」への招きの言葉ではないでしょうか。私たちが「まことの平和」のために何ができるのでしょうか。マタイ5:9「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」の「平和を実現する人々」とは、力強い働きをする人ではなく、平和を実現するために苦悩する無力な人をさす(渡辺政友師)そうです。無力であっても「まことの平和」のために悩み苦しむ時、私たちは「神の子」と呼ばれる励ましが与えられています。〔副牧師 細井留美〕

 

主の慈しみ

マルコによる福音書10章17節-31節

2015年7月26日

何かをして永遠の命を受け継ぐことができると思っているある金持ちの男がイエスさまにその方法を尋ねました。子どものときから律法をすべて守っていたのに永遠の命を確信することができなかったようです。確実な方法を求めてイエスさまのもとに来ました。

イエスさまは彼を見つめて慈しんだとあります。愛のこもったまなざしです。産みの苦しみに耐えているお母さんの心を想像します。財産を売り払って貧しい人に施してご自分に従いなさいと言われましたが、彼は悲しんで立ち去りました。神の国に入ること、つまり永遠の命を受け継ぐことは人間にできることではありません。

断絶であり、絶望です。しかし人間の可能性が尽きたところに神の可能性が語られます。救いは神さまの一方的な恵みです。人間の行為の報いではありません。だからこそ今イエスさまは十字架の道を歩まれるのです。弟子たちは自分たちの服従を強調します。イエスさまは愛に満ちたまなざしで血肉の家族に代わる新しい神の家族を約束されました。

律法遵守こそ救いに至る唯一の道だというときの考えをひっくり返す教えです。お金持ちの男の絶望と弟子たちの自慢は自力救済を目指している面では同じものです。イエスさまは両者を慈しみ、愛されました。十字架上で死んだことにその愛は示されました。これに私たちの信仰があり、これこそ私たちの希望です。〔牧師 魯孝錬〕

平和の主

コロサイの信徒への手紙1:19-23

2015年7月19日
サマーキャンプでの礼拝

神さまの平和はヘブライ語でシャーロムです。戦争がないだけでなく、抑圧されている者や犠牲を強いられ苦しめられている者がない状態を指します。神さまはこの平和を「キリストの十字架の血によって打ち立てられた」(20)とあります。ある神学者はこのキリストによる平和とは、神さまとの平和だけではなく、人と人との平和、自分自身との平和、時との平和を含むものだと解釈しています。イスラエルの国が滅んでしまった時に、民は聖書を書き残し始めました。その最初に天地創造の神によって自分たちが造られたことを告白したのです。主の平和を実現していく中で様々な混沌とした壁を感じますが、だからこそキリストによる平和を成し遂げてくださった神さまが歴史の主であることを信じて歩んでいきたいものです。〔牧師 魯孝錬〕

暗闇に輝く言葉

ペトロの手紙Ⅱ1:12-21

東京北での礼拝

「この体を仮の宿としている間」という言葉の中には、年老いてもろくなった肉体生活と印象づけられる意味を感じさせられますが、実際はペトロの心中には、これから突然何が起こるか分からないとの予想の故に「主イエス・キリストが示してくださったように」と留めているのです。

ペトロの信仰の確信は、あの山上の変貌にあるともうせましょう。彼はグノーシス的に詭弁を弄して「巧みな作り話」をする必要はないのです。唯事実を告げるだけでよいのです。山上の変貌は再臨のイエスの栄光の予見だからです。それは同時に救い主と彼の再臨を予告して「確かなもの」になっているのです。 それは永遠の夜明けであり「明けの明星があなたがたの心の中に昇るとき」は、夜明けを更に強調して「予言の言葉を暗い所に輝くともし火」として再臨を信仰の眼をもって待ちつつ注意深く見守りつずけたいものです。 [田代 敬]

 

子どもを祝福される

マルコによる福音書10章1-16節

2015年7月12日

イエスさまが祝福された子どもたちを想像してみたいと思います。彼らは無邪気に親の周りを駆け回ったり、弟子たちの険しさを恐れて後ずさりしたり、両手を広げて自分たちを受け止めてくださるイエスさまを不思議に見つめていたのかも知れません。しかし見落としてはならないのは、その子どもたちの中には親の離縁によって大変な生活に直面している子どもがいたかも知れないということです。だからこそ彼らの母親は必至にイエスさまの守りと祈りを願ってきたのでしょう。

当時のユダヤ社会では夫が妻を離縁するには離縁状さえ書いてあげれば問題ないと考えられていました。男性中心、しかも男性優越の社会では多くの女性が男性の都合によって離縁させられ、離縁による被害に耐えていました。イエスさまは彼女らの痛みを知り、律法解釈が命の尊厳を無視していると指摘し、人間は神さまにかたどって造られたかけがえのない存在であり、男女を問わず神さまとの関係、そして人との関係に生きる、つまり向き合う存在であることを教えられました。

離縁の是非を問われたイエスさまは、人の尊厳が律法よりはるかに大事だと言われました。イエスさまは姦通の現場で捕えられた女性を罪に定めず生かしてくださり、サマリアの女性の霊的な渇きを満たしてくださったように、傷ついた者を受け入れ、その荷を担ってくださるのです。

イエスさまは傷ついた子どもたちを祝福されました。〔魯 孝錬牧師〕

 

命にあずかる

マルコによる福音書9章38-50節

2015年7月5日

ヨハネはイエスの名前で奇跡を行う人々を「自分たちに従わないから」「敵」と見なしてやめさせようとしたが、イエスさまは「逆らわないから」「味方」だと言われました。そして弟子たちに一杯の水を飲ませてくれる者への報いも約束されるのです。当時のイエスさま一行への「反対」や「拒否」はやがて初代教会への「迫害」となっていきますが、そのような状況の中でピリピリしていた弟子たちへの励ましだったと思います。

イエスさまは弟子たちを励ました上で、37節の「子どもの一人」につながる「小さな者の一人」をつまずかせることがないようにと戒めます。自分の手や足、目がこれを邪魔するならば、切り捨ててしまいなさいと厳しく言われます。弟子たちが弱くされた人々を受け入れ、共に生きることを通して「命にあずかる」ようになることへの期待です。それこそ「神の国に入る」ことだったからです。

イエスさまは弟子たちが直面している、あるいは直面していくであろう苦難によって塩味をつけられ、「平和をなしていく」ことになるのだと言われます。これは「誰が一番えらいか」(34)という弟子たちの議論に対するイエスさまの答えであり、弟子たちが世の塩として互いに平和を実現していくために召されていることへの再確認です。

主イエスは十字架の死と復活を通して私たちを使命に生きるように招いてくださっています。〔魯 孝錬牧師〕

 

神の引き渡し

ヨハネによる福音書13章21節-30節

2015年6月28日

ドイツの神学者カール・バルトは「しようとしていることを、今すぐするがよい」というイエスの言葉を、ユダに対する厳しい裁きでありながら、ユダの企てていることが事実起こるようにイエス自ら指令する命令でもある。と言っています。

人間の側の事情は、祭司長や長老たちの告訴状がローマからイエスの処刑の判決を引き出すために、ユダを巻き込むという陰謀や偽証が神に対する反逆であることも知らず唯ひたすら、イエスを十字架へと押しやっているのです。

これは神の側から見れば、神の愛に対する裏切り以外の何ものでもありません。イエスを裏切ったのはユダだけではありません。ペトロも弟子たちも今日の私たちも同じと申せましょう。

その人々の罪を背負ってイエスは十字架に掛かられ「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」(ルカ23章34節)と執成しておられるのです。「彼ら」とはユダも弟子たちも祭司長。長老たちも21世紀の私たちにも例外なく救いの手が差し伸べられているのです。〔田代 敬〕

 

旅の途中

ヨハネによる福音書8章1-11節

2015年6月21日

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)

パウロが抱えていたどうしようもないこの矛盾は、こんにちのわたしたち一人ひとり、また信仰共同体である教会が同じく抱えていることです。自らの矛盾に苦悩するわたしたちに、パウロは希望を語ります。

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださいます。」(ローマ8:26)

言葉にならないわたしたちの貧しい祈りを、キリストの霊自らがうめきをもって、わたしたちに代わって神に祈ってくださっていると言うのです。わたしたちは、自分自身の現実に、また近くに遠くに起こっている苦しみや悲しみの現実に心を痛め苦悩します。助けてくださいと祈らずにいられない日々です。

神は、イエスの生と十字架の死を通して、神がいと小さき者、弱さの中にある者と共にいてくださることを決定的に示されました。その主イエスが、わたしたちの苦悩や苦難の只中にいてその重荷を共に担ってくださっているとパウロは証ししています。主がどんな時も共にいてくださることを信じ、その先にある希望を待ち望みつつ日々の歩みを進めていきたいものです。〔協力牧師 野口 哲哉〕

 

わたしの内に生きるキリスト

ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

2015年5月31日

パウロは言います。律法を守ることで義とされようとする自分は死んだ。だから、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです」(19)と。「キリストがわたしの内に生きる」とは、どういうことでなのしょうか。「キリストへの信仰において生きる」、すなわち、キリストに従って生きること、と言うことができるかもしれません。

私たちには、「あなたの神である主を愛しなさい」という掟と同時に、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟が与えられているように、神さまは、人が如何に敬虔であるべきかということではなくて、人が人との関係性の中で、どう生きるかということを求めています。「キリストへの信仰において生きる」とは、この二つの掟を全うすることでしょう。

同じことが、教会にも言えます。教会が自分たちの信仰生活を守ることに終始し、もしも、教会外の人々に全く無関心であるならば、「キリストへの信仰に生きている」とは言えないでしょう。また、教会内に目を向けて言うならば、私たちの共同体は、礼拝を守るためにだけ集うのではなく、互いに愛し合うためにも集わされているのでしょう。

「キリストを着る」(3:27)という表現の通り、私たちは、肉の業を行なう罪人であるにもかかわらず、キリストの恵みによってその罪を覆われて、救われているのです。このキリストによる救いをよりどころとして、「キリストがわたしの内に生きる」生き方において、前進していくことができればと思います。〔副牧師 細井留美〕

 

イエスに聞く

マルコによる福音書9章2節~13節

2015年5月24日

ペンテコステ(ギリシア語で50の意)は聖霊が降り、旧約聖書のバベル塔の混乱(創11章)が一致され、枯れ切った骨(エゼ37章)が生き返った出来事です。教会はこのような聖霊の働きによって造り上げられていく群れです。

イエスさまは3人の弟子を連れて登られた山上で真っ白な姿に変わり、モーセとエリヤと話し合っています。弟子たちは非常に恐れましたが、ここでの恐れは旧約聖書によると金の子牛を作った人々を滅ぼそうとする神の憤りに対する「恐れ(ヤゴル)」です。この死の恐怖が雲に覆われ「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われたのは、死ぬはずの弟子たちが救われ、生かされたことを意味するでしょう。弟子たちの「恐れ(ヤゴル)」は救い主に対する「畏敬(イラーハ)」に変えられました。

一同は山を降ります。弟子たちはイエスさまに、律法学者がまずエリヤが来るはずだと教えている理由を尋ねます。律法学者たちはマラキ書3:22-24から「恐る(イラーハ)べき主の日」の前にエリヤが遣わされ、すべてを回復すると教えていたからです。イエスさまはそのエリヤがバプテスマのヨハネであり、彼の死において人の子の苦難と死が示されているのだと言われます。これが山上での話題だったのかも知れません。

神さまは人間の罪を愛する独り子に負わせ、十字架で人間の罪を裁かれると同時に自ら人間の罪を覆う救済を刻んだのです。その主イエスに聞き(尋ね)つつ、聞いて(聴いて)いきたいと思います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

自分の十字架を負いつつ

マルコによる福音書8章31節~9章1節

2015年5月17日

イエスさまは群衆と弟子たちに「自分の十字架を背負って(アイロ)、私に従いなさい」と招きます。イエスさまの死と復活の話に対して、ペトロが激しくイエスさまを戒めたのと同様に、この招きは当時の人々や、今の私たちに依然としてつまずく話なのかも知れません。

2章で中風の人がいやされた場面で、屋根からつり降ろされた中風の人にイエスさまは「罪が赦された」と言われました。ご自分が十字架を背負う決断ゆえの宣言だったと思います。死ぬのは私が引き受けるのだから、あなたは「床を担いで(アイロ)歩け」ということでしょう。床を担いで歩くとは、いやされたからこそ直面せざるを得ない日常の大変さとその中で「信仰」を生きることを意味します。十字架を背負ったキリストだからこそ、それを信じて生きるようにとの招きにほかありません。

「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という招きは、暗闇の海上で進むべき方向を照らしてくれる灯台の光のようなものだと感じます。決してすべてがうまく行くという約束ではありません。疲れた者、重荷を負う者がイエスさまに出会い、イエスさまの軛を負って(アイロ)、イエスさまに学んで生きるときにこそ真の休みがあるということです。イエスさまは軛の負担をすべて背負ってくださるからです。

主の恵みの招きに応答して、主に学びつつ、与えられた課題に向き合って歩みましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

神の執り成し

ローマの信徒への手紙8章26-27節

2015年5月10日

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)

パウロが抱えていたどうしようもないこの矛盾は、こんにちのわたしたち一人ひとり、また信仰共同体である教会が同じく抱えていることです。自らの矛盾に苦悩するわたしたちに、パウロは希望を語ります。

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださいます。」(ローマ8:26)

言葉にならないわたしたちの貧しい祈りを、キリストの霊自らがうめきをもって、わたしたちに代わって神に祈ってくださっていると言うのです。わたしたちは、自分自身の現実に、また近くに遠くに起こっている苦しみや悲しみの現実に心を痛め苦悩します。助けてくださいと祈らずにいられない日々です。

神は、イエスの生と十字架の死を通して、神がいと小さき者、弱さの中にある者と共にいてくださることを決定的に示されました。その主イエスが、わたしたちの苦悩や苦難の只中にいてその重荷を共に担ってくださっているとパウロは証ししています。主がどんな時も共にいてくださることを信じ、その先にある希望を待ち望みつつ日々の歩みを進めていきたいものです。〔協力牧師 村上千代〕

 

ほかの福音はない

ガラテヤの信徒への手紙1章1-24節

2015年4月26日

ガラテヤの教会に、ユダヤ主義的な伝道者たちがやってきて、キリストへの信仰に加えて「人は割礼を受けてユダヤ人になった上で、律法を守らなければ救われない」と主張しました。「霊において完全な者は、肉体においては何をしてもかまわない」という自由の乱用が問題になっていた教会は、「律法の遵守」という教えに動かされそうになります。

しかし、パウロは、ユダヤ主義者の主張に強く反対します。理由は、パウロの福音の理解にありました。福音の捕らえ方がラディカルで、律法遵守からの自由やエルサレムにおける神殿礼拝批判をしたヘレニズム的なキリスト信者は、ユダヤ教の主流派から迫害されます。熱心なユダヤ教徒であったパウロは、ヘレニズム的なキリスト信者を迫害しますが、迫害しながら、彼らの信仰に触れたのです。熱心に律法を守りながらも、律法を守ることでは義人(罪のない完全な者)になることはできないという律法による救いの限界を感じていたパウロは、イエス・キリストによって人は神から義とされるという啓示を受けて劇的な回心をします。パウロは、初めて罪との葛藤から解放され、自由を得、イエス・キリストによってのみ人は救われるということを確信したのです。

ですから、教会が律法を守ることで課題を解決しようとすることに、断固として反対します。「ほかの福音など存在しません」と。パウロは、キリストの恵みにより自由を得た者が、その自由を、愛の実践に用いていくことを願ったのです。〔副牧師 細井 留美〕

 

七つのパン

マルコによる福音書8章1-21節

2015年4月19日

4000人の群衆が荒涼なところで3日間空腹でいます。緊急事態です。群衆の空腹は、「律法遵守=救い」と教えるユダヤ社会の中で行き詰った人々の危機を表すのでしょう。

群衆のほとんどはお金がないため、あるいは病気のために律法を守りたくても守れない、そしてそのために「罪人」と決めつけられ、すべての関係を剥奪されていたと思われます。イエスさまは彼らを憐れんでいます。ギリシア語の「憐れむ」とは「はらわたが千切れる痛み」を持つことですが、ヘブライ語では「子宮」とも訳せる言葉です。イエスさまの憐れみとは、苦しみを共にして新しい命を産み出す「産みの苦しみ」なのです。給食の奇跡の原動力はここにあります。

皮肉にもイエスさまは神さまの救いの原点である「出エジプト」を記念する、過越祭(除酵祭)に十字架につけられました。かつてのエジプトでイスラエルの民は種なしのパンを食べて、苦しき日々の中で迫ってくる神さまの救いに備えました。ファリサイ派とヘロデの「パン種」とは、神の価値観を歪曲する当時のユダヤ教指導者たちへの強烈的な批判です。

七つのパンの奇跡は人々が宗教指導者たちの否定的な影響力から自由になり、イエスさま自身が「産みの苦しみ」をもって人々の飢え渇きを満たすことを示す物語です。弟子たちの役目はイエスさまから渡された七つのパンを「分け与える」ことです。〔牧師 魯孝錬〕

 

主の業にあずかって

ヨハネによる福音書2章1-11節

2015年4月12日

イエスさまは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と、そして「それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と命じられます。「えっ」と思われる言葉ですが、召し使いたちはそれに従った時、水をぶどう酒に変えられた主の業を体験しました。

この出来事は主イエスの「栄光」を指さす「しるし」です。神の子が「わたしたちの間に宿られ」(1:14)、「世の罪を取り除く小羊」(1:29)となり、十字架につけられ、神さまの救いの業を「成し遂げられた」(19:30)、その栄光を指さしているからです。結局「栄光」とは、神が計画され、実現させた、主イエスの「十字架と復活」です。

召し使いたちはイエスさまの「水がめへの水汲み」の命令と、「水がめの水を宴会場に運ぶ」命令に、黙々と従いました。水がめへの「水汲み」は召し使いたちにとっては普段からやっていたことであり、なすべきことだったのです。さらに水がめからの「水運び」は信仰が試される場面でした。召し使いたちの「水汲み」と宴会場への「水運び」は、見事に「主の業にあずかって」主の喜びに参与できたのです。

私たちの教会の歩みもまた27年間水がめへの「水汲み」と「運び」の連続でした。ミッションステートメント(教会の使命と役割)の実践において「主の業にあずかって」歩んでいきましょう。〔牧師 魯孝錬〕

 

生ける望み

ペトロの手紙一1章3-9節

2015年4月5日
イースター礼拝

この手紙の読み手は「離散している、仮住まいをしている人々へ」とあるように、居住地で社会的な弱者として生きていたことが伺えます。教会がマジョリティではなく、社会から疎外されているマイノリティに目を向けることが示されているのでしょう。

ペトロは「神がほめたたえられる」理由を12節まで一気に書いています。中で目が留まったのは、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望が与えられ」ている、という点です。復活が「生き生きとした希望」として与えられているとは、復活の希望が神さまから生まれたことを意味します。自分たちから出たものではありません。「生き生きとした」とは「ザオ(永遠に生きる)」で、「ゾエー(永遠の命)」の動詞形ですが、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」です。

ペトロは様々な場面で揺れます。湖を歩いたかと思うと波を恐れ沈んでしまったり、イエスさまを「あなたはメシアです」と告白したかと思うと、「サタン、引き下がれ」と叱られたりする有様。しまいには「死んでも一緒に行きます」と言った直後に主イエスを3度も「知らない」と否認してしまいます。しかし、このようなペトロに対して主イエスは最初から「ケファ(岩)」と呼んでくださり、一貫してペトロを信頼されました。復活によって証明された主イエスとの「信頼関係」にこそ、私たちの生き生きとした希望があるのです。

主イエスの復活による「生ける望み」を持って2015年度の歩みができれば幸いです。主をほめたたえます。〔牧師 魯孝錬〕

 

人間の裁判

マルコによる福音書14章53-65節

2015年3月29日

子ろばに乗ってエルサレムに入られるイエスさまに向かって「ホサナ(救いたまえ)」と叫んでいた群衆は、数日後「十字架につけろ」とののしります。自己中心的な態度ですが、私たちの自画像でもあります。

師を売り渡したユダや、逮捕されたイエスさまを見捨てて逃げた弟子たち、あるいは師を3度も「知らない」と否認したペトロなどはその具体例でしょう。その只中でイエスさまは敵中の裁判立たされています。彼らは死刑を前提に不利な偽証を求め、大祭司の「お前は…メシア(救い主)なのか」という問いにイエスさまがうなづいたとたんに、神聖冒涜だと死刑を決議します。

イエスさまはこの裁判の不当性を指摘しなければ、自己弁護さえもしません。この沈黙は「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザヤ53:7)というイザヤ書の言葉のとおりです。その時には気づいてなかったとしても十字架の死と復活の後に人々はイエスさまの沈黙にイザヤの苦難の僕の姿を重ね合わせたのでしょう。

「お前はメシアなのか」という大祭司の言葉は、原文ではペトロの告白「あなたはメシアです」(8:29)と同じで、逆説的にイエスさまが救い主であることが公に示しています。すべての者の罪を背負って十字架につけられるイエスさまの決断は、エルサレム入城時の群衆の歓呼の実現でもあります。この裁判は私たちが問われています。〔牧師 魯孝錬〕

 

イエスの愛につながる

ヨハネによる福音書17章1-17節

2015年3月22日

最後の晩餐の後、イエスさまは自分と弟子の関係をぶどうの木と枝にたとえて、豊かに実を結ぶようにしっかりつながりなさい、と言われます。「つながりなさい」「とどまりなさい」という語が何度も出てくるのは、師匠亡き後の弟子たちのことを心配する想いと、もう一つは、激しい迫害によって弟子たちがイエスさまから離れてしまうことを心配したのだと思います。この言葉は、イエスさまが目の前の弟子たちに語られた言葉ですが、迫害の只中にあった初代教会の人たちが自分たちへのメッセージとして聴いた言葉でもあります。「イエスさまとつながる」とは、イエスさまと同じ思いをもつことであり、それは、イエスさまのように、神さまを愛し、隣人を愛することを指すのでしょう。

「豊かに実を結ぶ」が何を意味するのかは、「あなたがたが出かけて行って実を結び(16節)」という語が、手がかりを与えてくれます。迫害の中、共同体の仲間同士で愛し合い励まし合いなさい、とだけイエスさまは言ったのではなく、「外へ出かけて行きなさい」つまり、イエスさまの愛を世人に証ししなさいと言われます。そして、初代教会の人々は、迫害に耐えながら、良い証をたてて生き、それを見た人たちがキリストの教会につながっていきました。イエス・キリストにある交わり、すなわち教会という共同体こそ、イエスさまの語られた豊かな実りではないかと思います。〔副牧師 細井 留美〕

 

イエスに出会って

マルコによる福音書7章24-37節

2015年3月15日

イエスさまに出会った二人の話です。一人は悪霊に取りつかれた娘のいやしのためにイエスさまに「ひれ伏した」異邦人女性です。積極的で能動的にイエスさまを求めています。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエスさまの厳しい拒絶を「食卓の下の小犬も、子どものパンくずはいただきます」と答えているからです。「ひれ伏す」とは、「完全に打ち砕かれた」という意味で、イエスさまが神の子であることを知っていたからこそへりくだることが出来たのでしょう。

もう一人は耳が聞こえず舌の回らない人です。異邦人女性とは対照的に受動的な姿勢です。彼自身がイエスさまを求めたのかがはっきりしていないからです。イエスさまは断絶に生きている彼を群衆の中から連れ出して彼と1:1で向き合い、両耳と舌に触れました。イエスさまは彼の苦しみを深い憐れみを持って「エッファタ」(開(ひら)け)と命じたのです。ただイエスさまは人々に口止めをされましたが、人々は「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」とますます言い広めました。この言葉は彼のいやしの出来事であると同時に、イザヤ書にある「神の救い」の預言の実現でもあったのです。

主イエスは荒地に川が流れるように、打ち砕かれた心を包み、嘆いている人々を慰めてくださります。私たちが「打ち砕かれ」「嘆いている」時こそ主に出会っているのかも知れません。〔牧師 魯 孝錬〕

 

大切なこと

マルコによる福音書7章1-23節

2015年3月8日

「背教者たちに望みが与えられないように。…根絶されるように。またナゾラ人たち(キリスト教徒)…は一瞬して滅び、生命の書から消されて、義しい人々と共に書き入れられないように。」(『原典新約時代史』より)。これは後70年頃エルサレム神殿が破壊された混乱の中で、自分たちの純粋性(正当性)にこだわったユダヤ教礼拝の祈祷文の一節です。アイデンティティの固執には恐ろしいものが感じられます。

今日の聖書箇所で、イエスさまは人を「浄・不浄」と線引きしていた当時のユダヤ教の過ちを指摘しています。例えば「コルバン(神への献げ物)」と言えば「父母を敬う」掟を守らなくても済むようなシステムだったからです。掟の精神を見失ったまま、口伝律法の遵守にこだわる本末転倒の様子でした。人は律法を守る人と守らない人とに線引きをしがちですし、そうすることによって安心感や優越感を、あるいは逆に不安や劣等感を覚えるものですが、イエスさまは律法の本質を強調することによって線引きは無意味であり、すべての人は律法の前で罪人であることを示されました。そしてご自分は命を献げることを宣言されました。

このような恵みを受けた者として、人は「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」(15)という言葉を大切にして、隣の人と共に歩んでいきたいと祈ります。〔牧師 魯 孝錬〕

 

あなたは招かれている

エフェソの信徒への手紙4章1-6節

2015年3月1日

「教会」という言葉は、新約聖書が初めに書かれたギリシャ語で「エクレーシア」という単語があてられています。口語訳聖書では「召された」と訳されていますが、新共同訳聖書では「招かれた」となっています。また私たちの教会の信仰告白では「招かれた者たちの群れ」という表現を用いています。

「招かれた者」とはいまここにある私たちのことであり、私たちそれぞれの日常生活の中から「呼び出され」「招き出され」て、それに応えて集まっているいる私たちなのです。

旧約聖書の「ヨナ書」で、神様が何故悪評高いニネベの人々にメッセージを伝えようとされたかが語られています。「お前は自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしがこの大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜がいるのだから」と語っておられます。

神の「招かれる」意味はイエス・キリストの十字架と復活の中に全て包含されています。招かれた私たちが「柔和で、寛容の心を持ち、愛を持って忍耐し、平和の絆で結ばれて一つ思いになって、希望に与るように」と招かれているのです。〔田代 敬兄〕

 

はじまり

ヨハネによる福音書2章1-12節

2015年2月22日

イエスさまたちが招かれたカナの結婚式で、ぶどう酒が無くなるというハプニングが起こります。母マリアが、イエスさまに「ぶどう酒が足りなくなりました」と言いますが、イエスさまはそれを強い言葉で拒否します。

しかし、律法主義的ユダヤ教を象徴する石の水がめを見た時に、イエスさまの心は動かされ、イエスさまは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じます。召し使いたちは、疑問をもちつつも水をかめの縁まで満たし、言われるままに水を汲んで、宴会の世話役に運んで行った時に、自分たちが汲んだ水が、ぶどう酒に変わったことを知ります。彼らにできる最善を行なった時、イエスさまの行う驚きのできごとに与ることができたのです。

この出来事は、命を失っていたユダヤ教の信仰に、命をもたらし新しくしていくイエスさまの働きを象徴しています。また、イエスさまが新しい清めをもたらすこと(=十字架による贖い)、更に言えば、死からの甦り(=復活の希望)も暗示されています。

「水がめに水をいっぱい入れなさい」というイエスさまの命令は、死に命をもたらし、絶望を希望へと変えてくださる主の働きに加わりなさいという私たちへの招きの言葉でしょう。イエスさまがご自分の働きに、私たちを招いてくださるのは、不信仰な私たちがイエスさまにつながっていることができるため、であるのかもしれません。〔副牧師 細井留美〕

 

福音の広がり

マルコによる福音書6章1-29節

2015年2月8日

ナザレはイエスさまが生まれ育った町です。多くの人々がイエスさまの知恵と奇跡には驚きましたが、よく知っているが故につまずきました。この様子を「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と表現されたのは、イエスさまが目指すところが「十字架の死」であったからではないでしょうか。

続いて派遣される弟子たちさえもイエスさまが誰なのか分かっていません。そう意味では弟子たちもまた今の教会もふさわしくない者かも知れませんが、宣教はただイエスさまに呼び出され、任命されて押し出されるのだと思います。けっして自分たちの能力によるものではありません。足りない者たちが宣教を通して崩され変えられていくのでしょう。

バプテスマのヨハネはヘロデが兄弟の妻(ヘロディア)を奪うことを批判したことで牢につながれていたのですが、ヘロデの酒席での誓によってあっけなく処刑されます。ヨハネの死に様はイエスさまの死に様に似ています。これらの話は福音の広がりの挫折のように見えます。伝える者たちは失敗して挫折することがあっても、福音そのものは神さまの計画の中で豊かな広がりを持つのです。

私たちはその福音の広がりの証ではないでしょうか。やがて豊かな実を結ぶ神の支配を信じて歩み続けていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

タリタ、クム(起きなさい)

マルコによる福音書5章21-43節

2015年2月1日

今日の聖書箇所は、12年間出血が止まらない女性が「癒される」お話が、ヤイロの12歳の娘が「よみがえらせられる」話に包まれている、サンドイッチの構成です。

会堂長のヤイロは死にそうな娘が助かって(ソーゾー)生きることを切に願っています。イエスさまはすぐ一行と出かけますが、途中で出血の止まらない女性もイエスさまの服に触れ、いやされて(ソーゾー)生きることを願っています。イエスさまは一刻を争う時ですが、必死でイエスさまに近づいた女性としっかり向き合って「娘よ、あなたの信仰があなたを救った(ソーゾー)」と宣言されます。驚くことに、イエスさまは社会的に追放され、ユダヤ教の蚊帳の外で苦しんできたこの女性を「娘よ」と呼んでいます。これはヤイロの娘のよみがえり、さらにはイエスさまの復活の伏線だと思います。

再びヤイロの娘の話です。娘の死が告げられます。悲しみと諦めが広がる中、イエスさまは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。長血の女性の救いを体験したヤイロはイエスさまに従って家に入ります。イエスさまは少女の手を取り「タリタ、クム」と言われ、娘は生き返ります。「クム(起きなさい)」という言葉に押し出されてヤイロの娘は「死」を超えて「日常」に取り戻されました。長血の女性も。

主イエスは私たち一人ひとりが救われて生きることを望んでおられます。恐れず信じて従っていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

解き放ち

マルコによる福音書5章1-20節

2015年1月25日

イエスさまが湖の対岸にやって来ると、一人の汚れた霊に取りつかれた男が、イエスさまの足元にひれ伏します。イエスさまが名を尋ねると、「名前はレギオンだ。大勢だから」と答えます。彼の中には、ローマの軍団レギオンのように大勢の霊が共存していたのです。このことは、彼の苦しみの大きさを表します。彼の中の大勢の霊を、イエスさまが追い出し、汚れた霊に取りつかれていた人は、やっと深い苦しみから解放されます。これまで、誰も彼を救うことはできませんでしたが、イエスさまだけが、彼を救ったのです。

これらの出来事を見聞きした人々は、イエスさまがその地を去ることを願い、異邦人の地にやってきたイエスさまの活動は中止に追い込まれます。しかし、一緒に行きたいと願う癒された人に、イエスさまは言います。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」。イエスさまはご自分がその地を離れるにあたって、彼を宣教者として立てられたのです。すなわち、彼を彼自身の生活の場へ、「証する者」として送りだされたのです。

「人々に告げ知らせなさい」という呼びかけを、私たちは自分たちへの呼びかけとして聞くことができます。また、この呼びかけを教会への呼びかけとして、聞くことができるでしょう。イエスさまが、汚れた霊に取りつかれた人を、その苦しみから解き放ったように、教会は、私たち人間を不自由にし、生きる喜びを奪うすべてのものから救ってくださるイエス・キリストの福音を聖書から聞き、社会に伝えていく使命をいただいています。〔副牧師 細井 留美〕

 

主は我が灯台

マルコによる福音書4章35-41節

2015年1月18日

神の国は今は隠されていますが、やがて成長して豊かな実を結びます。イエスさまはこれを聞いた弟子たちに向う岸に渡るようにと言われました。向こう岸とはゲラサという異邦の地ですから、偏見を超えて豊かな出会いへの招きです。

しかし教会は「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」(37)とあるように、ユダヤ教とローマ帝国からの迫害に加えて、異端との論争や固定観念を乗り越える戸惑いなどの現実に揺さぶられていたように思います。そこで弟子たちは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38)と不満をぶつけます。

このような存亡の危機にイエスさまは船の後方で眠っていました。漁師としての自信はイエスさまを眠らせた結果につながったのかも知れません。マルコの教会からすれば、先頭にいたはずのイエスさまを見失ってしまったことでしょう。イエスさまは湖を叱って静かにさせ、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われます。厳しい宣教の現実に縮こまっている共同体に対して、「復活信仰」をもって、大胆に歩むようにとの促しです。

イエスさまは私たちの灯台です。復活された主イエスに照らされて歩んでいきたいと願います。〔牧師 魯 孝錬〕

 

たとえ話を用いて

マルコによる福音書4章21-34節

2015年1月11日

イエスさまは「神の国を何にたとえようか」と、群衆の「聞く力に応じて」多くのたとえで語られました。その理由は二つです。何とか神の国を理解してもらいたいのが一つ。もう一つは注意して聞かない人には神の国の真実が隠されるようにするためです。

ともし火は升の下やベッドの下にではなく、燭台の上におくためです。神の国は今は隠されて見えるが、やがてすべてを照らすともし火のように輝きます。神の国は私たちが判断するものではなく、神の国によって私たちが判断されるのです。種が蒔かれどのように成長するのか分からないが、多くの実を結ぶのと同じく、神の国も必ず成長して豊かな実を結びます。神の国はからし種のように小さく見えないけれども、やがて多くの人々を休ませられるほどに成長するのです。

神の国とは、神の支配、あるいは神の価値観が支配する世界のことです。決して死んでから行く「あの世」のようなものではありません。ローマの植民地下で目に見える「力」を憧れる時代に、その大きな「力」の顔をうかがうばかりのユダヤ教の中に、主イエスが苦しむ群衆の傍らで神の国を語っています。神の国がすでに到来したことの証しだと思います。

イエスさまは2000年前にすでに世に勝っています。私たちも日常の中で神の国の真理を聞いていきましょう。〔牧師 魯 孝錬〕

 

誰が種を蒔くのか

マルコによる福音書4章1-9節

2015年1月4日

日本での種まきは土を耕してから種を蒔くものですが、パレスチナでは先に種を蒔き散らしてから耕して種を土の中に入れるそうです。イエスさまは誰もが知っている種まきの話を通して、神の国がどのようなものであるかを語られます。

ある種は道端や石だらけのところ、茨の中に落ちますが、いずれも結局は実を結びません。一方、良い土地に落ちた種は、芽生えて育って30倍、60倍、100倍と豊かな実を結びます。種が意味するのは「神の国」です。神の国は種のように小さく、失われているばかりに見えるが、確実に成長してやがて豊かな実を結ぶのだという話なのです。

飼い葉桶の中に生れたイエスさまの姿は、ふくよかで見栄えがする「実」としてではなく、まさに「種」として与えられたのではないでしょうか。そしてイエスさまをこの世にお与えになったのは、神さまなのです。換言すれば、神さまの種まきです。この神さまの種まきによって、教会の伝道や証、分かち合い、これらの働きもまた種まきだと言えますが、私たちの種まきは常に神さまの種まきに支えられ、進められていくのだと思います。

主イエスがこの世に蒔かれて十字架の死と復活を通して豊かな実を結んでいるように、教会の福音宣教の業も、失敗を繰り返すかのように見えるかも知れませんが、確実に豊かな実を結ぶことを信じて2015年を歩みたいと願います。〔牧師 魯孝錬〕

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