先週のメッセージ
「解放の神」
2019年6月23日
使徒言行録2章14-24節
聖霊は一人ひとりの上に降って留まり、彼ら彼女らは「霊」が語らせるままに他の国の言葉で話し出しました。これは様々な矛盾を抱えている人々を解放してくださる神さまの業でした。
ペトロはこのペンテコステの出来事に二つの意味があると解釈しています。ひとつは、旧約聖書のヨエル書の預言の実現という解釈です。預言者ヨエルはイスラエルの民に対して神の裁きを語ると同時に「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と神の霊の注ぎによって全く神の業が見えてくると語っていますが、ペトロはまさにヨエルの預言が実現したと伝えているのです。
もうひとつは、イエスは「神を冒涜する者」と決めつけられ、十字架につけられましたが、神さまはイエスを死の苦しみから解放してくださった、それがまさに「復活」だと伝えているのです。
ペトロはこの出来事が神の計画の中にあったと言いますが、神の計画を理解する時に注意しなければならないのは、人間の背反も計画されてあるというよりは、人間がイエスを十字架につけて殺したその時点から神は人を救う道を切り開いてくださるという視点です。
神さまは聖霊によって人々を解き放たれます。教会はその聖霊の業によって支えられていることを覚えて歩みたいと願います。(魯 孝錬)
「平和の道」
2019年6月16日
ヨハネによる福音書8章6節
聖書は、神に背を向けている世を、暗闇であると表現します。イエスさまは、暗闇である世に、暗闇を照らす光として、来られました。そして、「世を照らす光である私に従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光をもつのだ」と言われます。
私たちの生きる世界には、経済的な格差や、強い者による弱い者の支配、差別、偏見、暴力など、様々な暗闇が存在します。 一人ひとりが命を輝かせて生きることを阻害するその暗闇は、私たちが作り出したものであり、私たちが存在を許したものです。その暗闇を、光であるイエスさまが、隠しようもなく明るみに出されます。
と同時に、イエスさまは私たちを暗闇から救い出そうとされます。「わたしに従う者は、暗闇を歩かず、命の光を持つ」という言葉の通りです。私たちが、イエスさまの歩みから学び、その歩みに従う時、私たちは、暗闇にしばられた命を解放して、活き活きと人間らしく、あるいは自分らしく生きることができます。さらには、暗闇を終わらせるための行動へ踏み出していく勇気もいただくことができるでしょう。
平和への道、すなわち貧困、格差、差別などの構造的な暴力がなく、一人ひとりの命の尊厳が守られる社会の実現は、私たちの努力だけで切り拓くものではなく、イエス・キリストが先導し、共に歩んでくださる道であると思います。だから、希望をもって、世の光であるイエスさまに、ついて行くことができればと思います。 〔細井 留美〕
「心の貧しい人々は幸いである」
2019年5月12日
マタイ5章1-12節
「心の貧しい人々は幸いである」。イエスさまの弟子たちへの第一声です。ルカは「貧しい者‥‥飢えている者」と伝えます。おそらくイエスさまの時には「極貧者」を意味した言葉が、イエスさまの死後60年経った頃マタイによって「心の貧しい」「義に飢え渇く」と再解釈されたと考えられます。
マタイがいた教会は、70年のユダヤ戦争でエルサレム神殿が廃墟になり、それまでの神信仰がゆさぶられていたユダヤ人たちに対して、神にのみより頼み、神の正義を待ち望んでいる者は幸いだと、主イエスが宣言されると聞いていたに違いありません。彼らは置かれた絶望の中で必死にイエスさまの言葉すがりついていたのだと思います。ここで注目したいのは、イエスさまの「幸いである」との宣言は、困窮や困難のただ中に主イエスご自身が共に歩まれる、という「恵み」である点です。パウロは自分の病気の癒やしを祈った際、神さまに「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われ、イエスの母のマリアは妊娠を告げられる際、天使に「恵まれた方」と言われました。私にはこれらの「恵み」が、今日の聖書箇所の「幸い」と重なってきます。
人々と共にいるという、イエス・キリストの決断と生き方に、共鳴した人々が従おうとしています。イエスさまは彼らを「幸い」と宣言され、人々はこのみ言葉を読み直しつつ、生きる支えとしてきたのです。 〔魯 孝錬〕
2019年のメッセージ
「イエスの愛に励まされて」
2019年5月5日
ローマ13章1-12節
天皇代替わりで大騒ぎとなった連休でしたが、政治の天皇制利用の危機を強く感じました。今の時代に教会はどうあるべきなのでしょうか。 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(1)とあります。
これを教会の国家に対する「倫理観」として読んでしまうと、かつての太平洋戦争の罪に沈黙し、加担してしまった過ちを繰り返すことになるのでしょう。使徒パウロがこの言葉を「善をもって悪に勝ちなさい」と、「互いに愛し合いなさい」という文脈の間で語っていることに注目すべきです。ローマ帝国に盲従するのではなく、人の心さえも支配しようとする権力をしっかり見張り、愛をもって立ち向かう精神が込められているのだと思うからです。
さらには「今ある権威」がいくら恐ろしくとも、力に屈服したり、その力をむさぼったりすることなく、それらの力さえも神の支配の中にあること、そしてその終わりは神によって定められていることを信じて歩むべき道を歩むことが大事だと思います。イエスさまがローマ皇帝の権威に従うべきかを聞かれた際、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(22:21)と言われとおりでしょう。
わたしたち、歴史の主に信頼して、国家に対して祈りつつ、見張り役をも誠実に果たしていきたいと祈ります。〔魯 孝錬〕
「イエスの愛に励まされて」
2019年4月28日
ヨハネによる福音書21章1-19節
復活したイエスさまから「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われたにもかかわらず、それを、実行に移すことができずに、漁に出かける弟子たちの姿があります。イエスさまを失った衝撃から、すぐには立ち直ることは難しかったのでしょう。
漁に出た彼らは、何もとることができませんでしたが、夜が明けた時、岸にイエスさまが立っていました。弟子たちはそれがイエスさまだとはわかりません。イエスさまの言葉に従って網を打った時、予想を超える沢山の魚が網にかかり、その時イエスさまが自分たちのすぐそばにいてくださることに気が付きます。
イエスさまは、疲れた弟子たちに言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、イエスさまと一緒に食事をすることで、イエスさまとの親密な関係を思い出し、また、弱い自分たちが全面的に受けいれられているという安心感を得たことでしょう。
また、イエスさまは、自分を否認したペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と働きを託し、「わたしに従いなさい」と励まされます。こうしたイエスさまの励ましによって、弟子たちは、再び歩み出す力をいただきます。
同じようにわたしたちも、共にいてくださり、励まし支えてくださる復活の主に信頼して、共に歩み出していければと思います。〔細井留美〕
「キリストの復活に励まされて」
2019年4月21日
コリント信徒への手紙第一 15章1-11、57-58節
イースターおめでとうございます。
パウロは大変な騒ぎで揺れ動くコリント教会に福音をもう一度伝えます。福音とは、キリスト・イエスが人々の罪のために十字架を背負って死なれ、葬られて三日目に復活させられ、ケファをはじめとする多くの人々に現れたことです。パウロは「神の恵み」によって自分が今あるのだと告白し、コリント教会がキリストの死と復活の恵みを想起し、キリストと結ばれた者として歩むことを勧めています。
この手紙は紀元後50年頃書かれたと言われ、その中心は何よりもキリストの死と復活でした。しかし紀元後70年に起きたユダヤ戦争を経て、キリストの教えを生き切れなかった反省を込めて、マルコ福音書が書かれたと言われています。そこには当時当たり前となっていた復活を、あえて女性たちが証人で、「震え上がり、正気を失って逃げ去り、誰にも何も言わなかった」恐怖の出来事として、さらに復活のイエスはガリラヤに先に行かれたとの知らせで締めくくられています。
このような視点の差の背後にはマルコとパウロの決別(使徒13:13,15:39)があったのではないかと想像します。おそらくマルコは、何の驚きもなく当たり前とされていく復活信仰に警鐘を鳴らす形で衝撃的な復活記事を書いていたのでしょう。私たちはこれら両方を持ち合わせています。片方に傾くことなく、復活の出来事に日々励まされたいと願います。〔魯 孝錬〕
「エルサレムに平和を」
2019年4月14日
ルカによる福音書19章28-38節
イエスさまは子ろばに乗ってエルサレムに入られます。「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」(19章11節)人々に、ムナのたとえからご自分は一ムナ預かった僕のようにすぐ処刑されてしまうことを予告されました。
この道の出発点はベタニアです。貧しい者たちの家です。律法や力によって弱くさせられた人々と共に歩むという決意です。なぜろばに乗られたのでしょうか。過越祭ごとに行われるローマの騎兵隊のパレードに対する風刺や、民22章で背後におられる神を見たバラムのしゃべるろば、ゼカリヤ9:9のメシア預言の実現などが重なっていると言えます。
子ろばに乗ってのエルサレム入城は、ゴルゴタの十字架の道の象徴でした。自分たちの見てきた奇跡のゆえに興奮している弟子たちと、主イエスは一緒に進まれました。彼らがご自分を裏切ることをご存知でありながら。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」「見なさい、あなたの母です」、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、「渇く」、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、「成し遂げられた」という主イエスの十字架上での言葉を思い起こし、受難週を過ごせばと思います。
この出来事によってシャローム(神の平和)が実現され、人々の讃美は相応しいものへと変えられました。〔魯 孝錬〕
「イエスの祈り」
2019年4月7日
ヨハネによる福音書17章20-26節
今日の聖書箇所は、十字架の苦難と死が差し迫った際、弟子たちや弟子たちによってご自分を信じる人々のためのイエスさまの祈りです。
この祈りには「彼らを一つにしてください」という言葉が繰り返されます。「一つ」のモデルは、神さまとイエスさまとの関係です。神さまに愛され遣わされたイエスさまが、今度は「一つとなる」弟子たちや教会を愛しまた遣わすための祈りです。しかしその一致は、「命のパンである、世の光である、羊の門である、善い羊飼いである、復活であり命である、道であり真理であり命である、真のぶどうの木である」イエス・キリストによってのみ成し遂げられます。
「キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通してのみ、またイエス・キリストにある交わりを意味する」というボン・ヘッファーの言葉や、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(1コリント2:2)とパウロの言葉にチャレンジを受けます。教会はキリストに支えられ、キリストによって一つとなっているのです。
2019年度主題聖句は「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)という言葉です。キリストによって結ばれた隣の人を喜んでいくことを祈ります。〔魯 孝錬〕
「すべてをささげる-主の豊かさに期待して」
2019年3月31日
マルコによる福音書14章3-9節
高価な香油をイエス様に注いだ女性に、弟子たちは、「正論」をもって激しく怒りました。パワーを持つ彼らの「言葉」はここに記されていますが、この女性の言葉は、4つの福音書のどこにも、記されていません。彼女の言葉や思いは、ねじ伏せられ、無とされました。
しかし、イエスさまは彼女にぴったりと寄り添い、次のように弁護しました。「なぜこの人を困らせるのか」、「この人はできる限りのことをした。良いことをなしてくれた」。そしてイエスさまは、喜びをもって彼女を祝福されたのです。イエスさまの仰せられる通り、女の名前も言葉も記されてはいませんが、彼女の行動は記録され、世界中で人びとの記憶にとどめられ続けています。
彼女は、自らのいのちを顧みず、苦しむ人々に腸がよじれるほど「共感」しつつ、圧迫された人々と共に生きぬこうとするイエス様と出会い、生きる希望を得たのでしょう。心からの感謝、信仰のあかしとして香油をささげたのではないでしょうか。彼女のこの自由で勇敢な行動の原点は、イエス様への、心が震えるような喜びと同時に湧き上がる、イエス様の痛みや悲しみへの「共感」なのです。
もしかしたら、彼女は、想いを同じくする女性たちや人々と連帯し、精いっぱい協力し合って香油を用意したのかもしれません。不安や恐れなどの厚い壁をつき破った勇気ある行動、その献身は、彼女自身と仲間たちに大きな喜びと力をもたらしたでしょう。こっそり中の様子をうかがっていた仲間たちとともに、彼女に心から拍手を送りたいと思います。
ナルドの香油の強いどっしりとした香りはしばらく消えることはないそうです。ゲッセマネで一人、涙を流して祈られた時も、傷だらけの体でゴルゴダの道をくずおれながら一歩ずつ上る時も、あの十字架の上でさえも、かすかに残る優しい香は最後まで、イエスさまを慰めていたかもしれません。 〔米本裕見子〕
「キリストの苦難」
2019年3月24日
ペトロの手紙第一2章18-25節
「不当な苦しみを神がそうお望みだとわきまえて耐え忍びなさい」という勧めには、ただの運命論ではなく、むしろ神さまの裁きを待ち望んで、なお不条理な現実に立ち向かう決意が示されていると思います。そしてその模範としてキリストの苦難に目を向けています。
ペトロはキリストの苦難を、旧約聖書のイザヤ書53書に出てくる「苦難の僕」と重ね合わせています。かつて苦難の僕の惨たらしい死によって帰還の民がが命を助かったように、イエス・キリストの受難と十字架の死によって、人々の神への背き(罪)が暴かれました。
人々は、自分たちの正義に燃え、神から遣わされたキリスト(救い主)を「神冒涜」の罪を着せ、十字架につけました。神への熱心が逆に神に背く皮肉な結果でした。しかしこのような惨たらしいキリストの死は、キリストの神への完全な信頼を通して、逆説的に人々の咎と背きを担われ、執り成したのです。ペトロはたとえ死んでもイエスを知らないなどと決して言わないと言い張った自分が、その晩イエスを3度も否認したことを覚えていて、そのような自分が正しく生きるために主イエスが死んだのだと悟ったのでしょう。
イエス・キリストの苦難に、自分たちの罪を直視すると同時に神さまの赦しと恵みに力づけられ、揺らぐことのないように教会の歩みを続けたいと祈ります。 〔魯 孝錬〕
「バルティマイの信仰」
2019年3月17日
マルコ10章46-52節
エリコの町の路上に、バルティマイという盲目の物乞いが座っていました。彼は目が見えないことで、罪深い者とみなされ社会から排除されるつらさや一人の人間として認められない悲しさを経験してきたことでしょう。物乞いの彼は、路上を行き来する人々の会話や様子から世の中で起こっていることを、誰よりも敏感に感じ取っていました。当然、イエスさまの噂も耳にしていたはずです。
「ナザレのイエスだ」という言葉を聞いた彼は、大声で叫び始めます。「ダビデの子よ!」。「ダビデの子」とは、救い主を意味します。バルティマイは、イエスさまが抑圧され小さくされた人々を救われる方だと確信し、「救い主だ」と信仰告白したのです。
イエスさまに「何をしてほしいのか」と聞かれたバルティマイは「目が見えるようになりたい」と答えます。「見えるようになりたい」の一義的な意味は、「見上げる」です。彼は「神を仰ぎ見たい」と願ったのです。イエスさまは言われます「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
見えるようになったバルティマイは、イエスさまに従います。受難の道を歩むイエスさまに従うことは、決して楽なことではありません。しかし、バルティマイは、周縁に追いやられている者、小さくされている者が解放される社会の実現を切望して、自分もイエスさまと同じ道を歩むことを選び取ったのです。 〔細井 留美〕
「天地創造」
2019年3月10日
創世記1章1-5節
レント(受難節)の最初の主日に東日本大震災から8年目を迎えます。日本社会は東日本大震災以降を生きています。それまでの価値観が覆され、新たな秩序に渇いています。
今日の天地創造物語も国の滅亡とバビロン捕囚という出来事が背景にあります。絶望のどん底から神と自然と人間を捉え直す試みです。著者は大胆にも神告白の手段としてバビロン建国神話を借用します。エヌマ・エリシュのマドォルク(風の神)がティアマト(海の神)戦いと神々の奴隷として人間創造というモチーフを借りつつも、神話性を排除し、一貫性を持つ神、人を愛する神を告白しているのです。
混沌と闇の深淵(テホム:ティアマトと同じ語根)に秩序をもたらす神の霊(ルアフー風)は「光あれ」という言葉として響き渡ります。これは、軍事力による戦争と勝利とを最高の価値とするバビロン帝国のあり方を根底から揺さぶり、被造の世界を「良い」と肯定し、人間が神の似姿としてまた神の命の息を吹き入れられて互いに助け合うという、尊い存在として造られたことを訴えているのです。時の権力が見落としていた、ないがしろにしていたものがなんであるのかを怖気づくことなく宣言することによって、バビロンの人々の目も、またイスラエルの目もひらかれる出来事が当時起きていたのではないでしょうか。
神の愛の支配に気づかせてくださるイエス・キリストの支えを祈りつつ、レントの期間一人ひとりが整えられますように祈ります。〔魯 孝錬〕
「わたしはぶどうの木」
2019年3月3日
ヨハネによる福音書章15章1-11節
「わたしは真のぶどうの木である」とイエスさまは言われます。「ぶどうの木」とは、当地では誰もが日常的に見られる植物であると同時に、旧約聖書で神の民の象徴でした。人々はこの言葉に、新しい主の民の創造が直結していたことを実感していたのでしょう。
1節では「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、また5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。イエスさまは神さまとご自分の関係をご自分と弟子たちの関係のモデルに示していたと思います。そして弟子たちがご自分とつながって、ご自分の言葉に留まっていることを望んでいたのでしょう。
枝は木につながって栄養を受けてはじめて成長でき実が結ばれます。木と離れた枝は枯れて実を結ぶことができません。イエスさまの言葉に突き動かされ、従っていくことがまさにイエスさまというぶどうの木につながる意味です。忘れてはならないのは、イエスさまは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」とご自分が弟子たちに、また私たちにつながっていると約束に支えられていることです。
結ばれる「実」とは、生きづらさを抱えている今の時代に、教会が傷ついた人々のいやしの場となることでしょう。数が増えることだけではありません。神さまの働きを信じ、イエスさまに支えられて、自分と人の尊さに気づかされ、互いの違いの豊かさに目がひらかれていく教会となることを心から祈ります。〔魯 孝錬〕
「何を見に行ったのか」
2019年2月24日
マタイによる福音書11章1-15節
イエスさまの到来を大変喜んでいたバプテスマのヨハネでしたが、獄中でイエスさまの働きを聞くと揺れてしまい、イエスさまが本当に待っていたメシアなのかと弟子たちを使って尋ねさせます。
イエスさまは彼らに淡々と「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えられます。イザヤの預言が実現され、命と尊厳が回復されていることを伝えます。
イエスさまは群衆に対して「何を見に荒れ野に行ったのか」と3度も問うことを通して、バプテスマのヨハネが救い主の道を整えた「使者」であり、「預言者」であることを想起させます。イエスさまはバプテスマのヨハネの存在を認めると共に、ご自分と一緒に新しい共同体を目指す人々は天の国ではバプテスマのヨハネより大きいとご自分の下に来る一人ひとりの存在の尊さも認めてくださったことに驚きます。なぜならイエスさまの周りに集まった人々は当時の宗教価値観では罪人とレッテルが貼られていたからです。
当時の宗教価値観を翻し神の愛の支配を生きられたイエスさまこそ、神の国を激しく襲う者ではないでしょうか。神の国は誰かが定義づけてくれるものではなく、神の愛の支配を信じて生きる歩みに見出される関係の中にあるのではないかと思わされます。〔魯 孝錬〕
「分かち合う生き方へ」
2019年2月17日
ヨハネによる福音書5章1-30節
「ベトザタ」では、病のために社会から排除された人々が癒しを待っていました。この、祭りでにぎわう神殿とは対照的な場所に、イエスさまは目を留め、38年間も病で苦しんできた人に「起き上がりなさい」と声を掛けます。すると、その人はイエスさまの言葉によって、自分で起き上がり、新たな歩みを歩み出します。それは、まるで彼を排除し苦しめているユダヤ教の縛りの中から、彼自身が立ち上がったかのようでした。起き上がり、歩み出した時、彼は、大きな喜びに満たされたことでしょう。
イエスさまは、神殿の中で再会したこの人に言います。「あなたは、良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」。イエスさまが言う「もう罪をおかしてはいけない」とは、「私が誰であるのに気が付かないままではいけない、私が誰なのかを認めなさい」という意味ではないでしょうか。イエスさまは、彼がユダヤ社会に再び受け入れられることだけでなく、彼自身がユダヤ教の規定に縛られない新しい生き方を歩むことを望まれたのではないかと思います。それは、単に神殿に出入りできるようになったことを喜んで終わるのではなく、いまなお神殿に入ることが許されない、かつての彼のようにベトザタの池の周りに横たわっている人たちに、「起き上がりなさい。大丈夫。あなたはイエスによって癒されている」と、自分のいただいた恵みを分かち合っていく生き方なのではないかと思います。〔細井 留美〕
「ヨセフが見た夢」
2019年2月10日
創世記37章5-11節
父親に偏愛され、兄たちに憎まれていたヨセフがある日夢を見ました。「兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏している」と。ヨセフはこの夢を兄弟に話したことでますます憎まれます。
これを引き金にヨセフは兄たちに命を狙われ、エジプトに売り飛ばされ、異郷の地で奴隷とされ、濡れ着を着せられ牢屋に入れられていくのです。とんでもない展開ですが、聖書は「神が共におられた」と解釈します。ヨセフは牢屋で夢を解いてあげたことがきっかけで、エジプト王ファラオの夢を解き7年の豊作と7年の飢饉のことを伝えます。ヨセフは対策を講じる責任を任され大臣となり、飢饉の時エジプトに来た兄たちと再開し、色々と兄たちを試したあげく自分の身を明かします。
試しのやりとりは、ヨセフの傷がいやされ、兄たちの罪が赦されていくプロセスだったと思います。そしてヨセフは兄弟間の深い傷を「命を救うために神がわたしを先にあなたより先にお遣わしになったのです」と(45;5)、また「あなたがたはわたしに悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの命を救うために、こんにちのようにしてくださったのです」(50:20)と、告白し、神の救いと和解の出来事として過去を捉え直します。これは族長物語を読む視点でもあります。
ヨセフの夢の背後には神さまの「救い」の出来事が隠されていました。わたしたち一人ひとりの人生に、また教会の歩みにおいても主の計らいがあることを信じ、一歩一歩進めていきたいと思います。 〔魯 孝錬〕
「わたしは道である」
2019年2月3日
ヨハネによる福音書14章1-14節
イエスさまは、師の不在予感に恐れる弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われ、「わからない」、「御父をお示しください」と目に見える保証を求めるトマスやフィリポに、「その道をあなたがたは知っている」(4)「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9)と、弟子たちを支え、励ましたのです。
しかし初代教会がこのようなイエスさまの支えと励ましに気づかされたのは、イエスさまの死と復活を経験してからのことです。それから70年以上経った時に、ヨハネ教会の人々はユダヤ教とローマ帝国による厳しい迫害やグノーシス主義による神学危機に直面して再びこの場面を想起し、「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と弟子たちを支え励ましたイエスさまの言葉に耳を傾けていると考えられます。そういう意味では、これはイエスさまの自己啓示であると同時に、ヨハネ教会の「信仰告白」でもあるのです。
「道、真理、命」とは、イエスさまの存在そのものを意味します。決してノウハウではありません。「飼い葉桶に生まれた神の子」や「子ろばに乗ってエルサレムに登る救い主」、「十字架で処刑されたユダヤの王」の姿に端的に現れています。2000年も経った今日において、私たちは何事に不安や恐れを感じているのでしょうか。そのような時にこそ、イエス・キリストに目を向け、聖霊(ヨハネは「弁護者、パラクレートス」(助け手として呼ばれた者の意」の単語を使っていますが)に助けられながら歩みつづけていきたいと祈ります。(魯 孝錬)
「キリストと共にバプテスマ」
2019年1月27日
ローマの信徒への手紙6章6-11節
パウロは罪深い自分に神の恵みがなお満ちあふれた(5:20)と告白しましたが、論敵は言葉尻を捉えて、恵みが増すように罪の中にとどまるべきだ(6:1)と主張します。このような詭弁に対してパウロは「罪に対して死んだ者は、罪の中に生きることはできない」ときっぱりと答え、人々にバプテスマを想起させます。
バプテスマとは、水の中に沈められることによって古い自分がキリストと共に死に、水から引き上げられることによってキリストと共に新しい命を生きることを体で証する場です。キリストと共に死にキリストと共に新しい命を生きる者は、罪の中にとどまることはできません。
バプテストという教派は、その発生当時(1610年頃)伝統的教会から「バプテスマ(水に浸す)を頑なに主張する奴ら」という軽蔑されていました。しかし彼らはその批判と迫害を引き受けて、なお自覚を持った信仰告白と、浸礼によるバプテスマにこだわり続けました。そしてその中で、自ら身を低くかがめて、人々からの冷たい軽蔑の視線、裁く視線をご自分のものとして引き受けられ、弱者を憐れみ宗教や社会構造の矛盾に立ち向かった主イエスが共に歩まれることを実感したのでしょう。
バプテスマは信仰の仲間が一人増えた喜び以上の意味があります。教会の一人ひとりがイエス・キリストの共に歩んでくださることを想起し、主イエスに従って生きる決断を新たにする恵みの場でもあるからです。〔魯 孝錬〕
「生きた水の泉」
2019年1月20日
ヨハネによる福音書7章37-39節
仮庵祭の期間中、どれほど多くの水が祭壇に注がれても、イエスさまの目には、人々の魂が渇いているように見えたのでしょう。イエスさまは、大声で人々に向かって叫びます。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
渇きの原因は、人々が神さまの愛から大きく離れていることにありました。神さまに立ち返る時、人の魂は本当の意味で潤され、渇かないばかりか、その人の内で永遠の命が泉となってわき出ていく。人々が真に活き活きと生きるために神さまに立ち返ってほしい、そう切実に願っての説教でした。
水は、あらゆるものを生かすと同時に、ものをきれいにする力も持ちます。聖書では、罪を洗い清めるものとしても語られています。人々が本当に幸せに活き活きと生きるためには、人々の命の尊厳が守られることが必要です。そのためには、神さまの心から大きく離れいるユダヤ社会を、変革していく必要がありました。だからこそ、イエスさまは、人々を苦しめている律法解釈に対峙し、本来の律法の意味を示し、神さまの愛の真意を人々に伝えたのです。
私たちもまた、一人ひとりが本当に活き活きと生きるためには、社会の中で痛みを覚えている人々の人権の問題に関心を持ち、社会を変えていく必要があるでしょう。〔細井留美〕
「神の民となる」
2019年1月13日
エゼキエル書37章15-23節
37章で預言者エゼキエルは、バビロン捕囚時代において神の救いを、枯れた骨の生き返る幻と、二つの木を手の中で一つのように合わせる象徴行為とを、セットにして語っています。
預言者の行動は、ユダ(南)と書いた木と、ヨセフ(北)と書いた木が一つとなる、つまり枯れた骨が生き返る驚くべき神の救いとは、南ユダと北イスラエルとが一緒に神の民となるという意味です。これは南の人々にとっては大きなチャレンジだったのでしょう。なぜなら、南北王国の歴史は神の民としての正当性を主張し合った対立だと言えるからです。
「神の救い」は捕囚の民にとって、希望であると同時にチャレンジでした。かつて出エジプトの出来事が奴隷状態からの解放であると同時に、未知の荒れ野生活のチャレンジ出会ったように。さらに初代教会もユダヤ人の枠をはるかに超えて異邦人と共に教会を建てるというチャレンジを受けていたのでしょう。「キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ」(エフェソ2:14-22)とあるように、「神の民」となることは、キリストの体としての「教会」となることを意味します。
教会を建てていくことは画一となりがちですが、むしろ体の各部分のように多様性と有機性の中で、キリストを頭とする体としての「教会」を、それぞれの分に応じて形成していくことを祈ります。〔魯 孝錬〕
「復活と命の主イエス」
2019年1月6日
ヨハネによる福音書11章17-27節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25-26節)
これはラザロの死後4日も経って到着したイエスさまが、弟の死を残念がるマルタに、終末の復活の出来事がご自分を通して「いま、ここで」先取りしているのだという主イエスの証です。
ラザロの死は、形しか残っていないユダヤ教に縛られ、諦めを強いられていた当時の人々の現実を端的に表しているのでしょう。人々はラザロの死からもう四日も経って匂っていると諦め、盲人の目を開けた人もラザロの死はどうすることもできなかったのかと嘲笑しています。主イエスは、その死に支配され「生」を諦めている人々の現実を憐れまれ、ラザロの墓の前に立ち「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。「死」の敗北と「新しい生」の創造です。人々はイエスさまの十字架の死と復活を通して、この出来事を想起したことでしょう。
イエスさまはもうダメだと諦める人々に「石を取りのけなさい」と言われ、墓から出てくるラザロを見て怖がっている人々に「手足の布をほどいて行かせなさい」と言われました。我々に新しい命を与えられるイエス・キリストを見上げ、諦めと恐怖を超えて主の救いの出来事に参与していく教会でありたいと祈ります。〔魯 孝錬〕