2021年11月7日 「まことの礼拝」  ヨハネによる福音書4章27~42節

 旅の途中、つかれたイエスさまはサマリアのヤコブの井戸の近くに座っていました。そこへ一人の女性が、水汲みにやって来ます。イエスさまは、「水を飲ませてください」と声をかけます。イエスさまが女性に声をかけたのは、単にのどが渇いていたからでは無く、彼女の魂の渇きに気づいて、「生きた水」の話をしたのでしょう。イエスさまは彼女の境遇—5人の夫がいたが、今は夫とは呼ぶことのできない人と連れ添っていることを知っていました。事情があっても、社会的に認められないことです。人々の目を裂けて生きることは、自分という存在を肯定できずに生きることにつながったでしょう。そのことが、彼女の魂の渇きに関係していたでしょう。
 イエスさまが、女性の境遇を言い当てると、彼女は驚き、イエスさまが預言者のような存在であることを察して、質問します。「わたくしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると行っています」。果たして、どちらが正しいのですか?と。するとイエスさまは、霊と真理をもって礼拝するのであれば、誰でもどこででも神さまを礼拝することができると、彼女を真の礼拝へと招きます。
 彼女は言います「わたしはキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」その言葉には、「もしかしてあなたは、キリストと呼ばれるメシアではありませんか?」という問いが含まれているように思います。するとイエスさまは言われます「それは、・・・わたしである」。キリストが自分に出会ってくださった、そのことによって、彼女は取るにたりないと思っていた自分が神さまに礼拝をささげることのできる存在であることを知ったでしょう。彼女の回復の始まりです。〔細井留美〕 

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