パウロは、書簡の中で、繰り返し教会をキリストの体にたとえています。私たちの体が様々な部分によって成り立っているのと同様に、教会は一人ひとりもキリストに結ばれて一つの体を形作っています。 6節以下に、信徒の一人一人に様々な恵みの賜物が与えられていることが述べられていますが、私たちがそれぞれの賜物に基づいて奉仕する時に、教会はキリストの体として、働きをなすことができるのだと思います。
ローマの信徒への手紙の11章まで、神の恵みについて語ってきたパウロは、12章で神の恵みへの応答的な生き方を勧め、1節で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と語ります。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」るとは、単に聖い者になるようにというあいまいな勧めではなく、神さまからいただいた恵みの賜物を用いて神に仕えること、すなわち賜物を用いて教会の働きを支えることが含まれていると考えます。 そして、「これこそあなたがたのなすべき礼拝」だと新共同訳聖書は記しています。岩波訳聖書では、「あなたがたの霊的な礼拝をなすようにしなさい」なります。私たちが自分に与えられた賜物を神に献げることこそ、「なすべき礼拝」であり「霊的な礼拝をなすこと」なのです。
教会は、牧師や役員、または一部の奉仕者の働きだけでは成り立ちません。教会に連なる一人一人が与えられている賜物を神さまに献げていくときに、教会はキリストの体として成立するのだと思います。選挙で選ばれた役員に委ねるだけでなく、私たち一人一人が神さまからいただいた賜物を献げて、キリストの体である教会を共に作り上げていくことができればと思います。〔細井留美〕