2022年8月7日メッセージ「朝早くまだ暗いうちに」マルコによる福音書1章35~39節

巡回して宣教する、目立たない箇所であります。しかし、目立ちやすく分かり易いものに群がっていく人達とは本当のキリスト者は違います。みなさんの中には、人々のニーズに応えていくために、働きこそ必要という方もおられるかもしれません。しかし、一見、「必要があるのに、それを敢えて満たさない」ように見える決断があります。なぜならその見栄えが良く、分かり易い活動は、イエス様の使命ではないからです。

ボンヘッファーは、こう語ります。「祈りは、一日の全体を包むが、そこで働きは停滞をするのではなく、むしろ祈りは働きを促進し、肯定し、それに真剣さと喜ばしさを与えるのである。」つまり、私たちの必要と祈りとは、一日の時間を取り合うものではなく、互いにそれを本物にしていくものだという事です。

カファルナウムでこれ以上、癒しや悪霊を追い出しても、福音のためにはならない。主体は御言葉であり、今で言う所の、社会を良くするとか、ただ貧しさや差別や平和の問題を解決することではなかったのです。

本日は、8月7日です。広島の平和公園内には数多くの石碑が立てられています。これらはキリスト教でいう所の祈りであります。毎日祈る者にとって、平和への祈りは特別なものではありません。一人だけで、黙想する人にとって、み言葉は何か特別なものではありません。日々、主を信仰する者にとって、主を宣べ伝えることは特別な事ではありません。               [奥田 悟]

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