他の3つの福音書では、2人の弟子にろばの子を連れてくる場面がありますが、このヨハネによる福音書ではそれが省かれています。その代わりに、ラザロの甦りを経験した群衆が、まだ経験していない群衆に証をする場面が出てきます。
第一に、14節に、「イエスはろばの子を見つけてお乗りになった」とあります。イエスが積極的にろばの子にお乗りになっています。これは、旧約聖書のゼカリア書9:9の「見よ、あなたの王が来る。…雌ろばの子であるろばに乗って」と言う言葉の成就です。実際、ローマの王はそれこそ神の子として絶対的権力を持つ統治者でした。それに対して、聖書には王がろばの子に乗ってと、へりくだりの王が描かれています。第二に、17節に「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせた時、一緒にいた群衆は、その証をしていた」とあります。イエスはラザロを甦らせる時、一緒にいた群衆たちが信じるようにしました。また、それを見ていない群衆に証を聞くようにしました。群衆の証を、イエスが用いて下さいます。直接見た群衆たちから、聞いている群衆たちへと話は広がっています。紀元後90年頃、キリスト教は、外部のユダヤ教による迫害や、内部のグノシス主義による、厳しい状況に置かれていました。イエスを直接見た群衆から、見ていない群衆へと証が繋がっています。
イエスの死と復活を心から信じるかと問われます。イエスを信じて証の連鎖を広げて行きましょう。イエスを自分の人生の中に認めて、生きて行きましょう。 〔魯 孝錬〕