コヘレトの言葉(かつての伝道の書)の3:1の「何事にも時がある」とは、神が定められた時を人間の思いで、変えることはできないという意味です。9節10節に「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは神が人の子らに与えた勤めを見極めた」とありますが、コヘレトは、この世の真理を探求した結果、定められた時を変えようとする人間の労苦は無駄であるというのです。
神は「また、永遠を思う心を人に与えられる」(11)とコヘレトはいいます。この世のすべてのものが、移ろい変化していく中で、不変のものは神ただお一人です。永遠を思う心とは、神と神の業を思う心を意味するのでしょう。しかし、「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(11)のです。私たちが知る神の知識は、ほんの一部分でしかなく、そのことを理解する時、わたしたちは自分たちの知識や能力の限界を知り、謙虚にさせられます。
コヘレトは言います。「わたしは知った。人間にとってもっとも幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と」(13)。「飲み食いする」は直訳すると「食い飲みする」で、ヘブライ語で「食い飲みする」とは、健康的で実のある生活をすることを意味します。自分の真面目な労働によって「食い飲み」して堅実な生活を営むことが神の賜物だとコヘレトは言います。ヘブライ語の「食い飲み」して生きることは、スローライフ(当たり前の日常を丁寧に生きること)に近いものなのです。
神の時、神の業を畏れて生きることは、神に信頼して委ねることだと思います。わたしたちが神を信頼してすべてを委ねる時、わたしたちの生活は頑張りすぎない、また疲れを覚えない、そして、心と体が喜ぶスローライフになるのではないかと思います。 〔細井留美〕