コリント教会の中に、キリストの十字架を重要ではないと言う人々がいました。十字架刑は、服は一切なしで幾日も恥をさらす処刑でした。ローマ帝国の反対派を見せしめる刑でした。これに対して、パウロは人々に、恥ずかしい十字架こそ、「神の力」だと言います。加えて、イザヤ書29:13を引用し、「あなた方の知恵を滅ぼし」と言っています。
21節の「愚かな手段」とは、人々から見た十字架を言います。それに対して、パウロは十字架の宣教を言います。ユダヤ人は奇跡行為を、ギリシア人は哲学的思考を求めます。しかし、パウロは、十字架は神の裁きの厳しさと、神の恵みを同時に表すと言います。
先週、召天者記念礼拝で、53歳で亡くなった小高京子さんを偲びました。彼女は家のポストに入った伝道のチラシを見て、私たちの教会に導かれました。彼女は教会に通い始め、数ヶ月後にバプテスマを受けました。教会はそのような神の奇跡を共に喜び、共に悲しむ場所です。私たちの働きは、1人の魂が主に出会うことにあります。
当時は自分が救われたのは、他の人より自分が優れたものという考え方がありました。彼らに対して、パウロはもう一度キリストの十字架を強調しています。主の十字架にこそ、神の裁きと救いがよく現れています。私たちが救われたのは、ただ神の恵みのためです。それぞれの人生の過程の中で、その恵みに対して自分の応答をして行きたいです。人との比較は要りません。 〔牧師 魯 孝錬〕