本日の聖書箇所、マタイ25章の「最後の審判の譬え」には、羊と山羊を分ける場面が描かれています。天国と地獄の二元論的にとらわれると「脅しの宗教」となってしまします。神さまは、そのような脅しはされない方と思います。ここで大切な視点は、「神の国(はあなたがたの中にある」でしょう。王は「飢え、渇き、旅人、裸、病、牢」にある人々を具体的に助け寄り添った人を「正しい人」と呼びましす。神の愛に根ざした行動・奉仕こそが、「神の国(神の愛の支配)」のあかしです。自然に、気づかないうちに差し伸べた小さな親切や優しさにこそ、神は目を留められます。人の期待や義務感からでは疲弊しますが、神の愛に根ざすとき喜びに変わります。「互いに愛し合いなさい」とは、「最も小さき者の声を聞くこと」であり、「平和を作り出す」者となるのでしょう。
イエスは「最も小さき者」に寄り添う方です。フリッツ・アイヘンバーグの版画「炊き出しの列に並ぶイエス」が象徴するように、貧しく抑圧され、存在を見落とされた人々のただ中に主はおられます。そして同時に、弱さを抱えた私たち自身のただ中にも、主は共におられます。誰かのために祈り、手を差し伸べるとき、実は私たち自身が癒されているのです。
神の愛に根ざすとは、いま目の前の人との出会いの中で具体的に生きることです。教会と礼拝、御言葉と祈りに立ち返りつつ、そこから日々派遣される私たちは、不完全な自分を受け入れつつも、互いを裁くことなく支え合う自由へと招かれています。疲れたときは無理に立ち上がらなくてもよいのです。神の愛の守りの中で、小さな声に耳を傾け、優しさにあふれる癒しの群れとして歩むとき、神は私たちと教会を豊かに祝福してくださると信じます。 〔協力牧師 米本裕見子〕