6章の初めに主イエスは五千人の空腹をわずか五つのパンと二匹の魚で、満腹された奇跡が語られていました。満腹し、驚いた群衆は、イエスを追いかけて来るようになります。しかし、この群衆は、パンを食べて満腹したという体験への驚きと、自分の腹が満たされたという満足感のために主イエスのもとに来ています。神の救いを求めることではなく、その満足感をこれからも味わい続けたいと願っているのです。
彼らの思いに対して主イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われました。ここで、主イエスは群衆に対して、物質的な欲望を満たすためではなく、「永遠の命に至る食べ物」である主イエスご自身への信仰を要求しているのです。しかも神がお遣わしになった者を信じることこそが、必要な神の業を行うことだと答えられたのです。
2000年前のユダヤ社会と比べると、私たちは今どこでも食べ物が簡単に手に入る時代です。私たちの問題は食べ物が「ない」ことではなく、「ありすぎる」ことです。選択肢が多すぎて、本当に必要なものを忘れてしまい、必要は欲望に取って代わられたのです。その欲望を食べても、食べてもまた空腹になる、そしていつかはなくなってしまうのです。主イエスこそ、いつまでもなくなることのない、永遠の命に至る食べ物です。私たちは、主イエスを信じることによってこそ、永遠の命に至る朽ちない食べ物を食べることができるのです。 〔郭 修岩〕