2022年9月18日メッセージ「種を蒔き続ける」マルコによる福音書4章1~9節

たとえ話(ギリシャ語のパラボレー)は、ストレートに結論を示す語り方ではなく、日常生活で馴染のある事柄を取り上げる短い話でありながら、聞き手をハッとさせて問いを残すものだそうです。イエスさまの話を聞くために集った群衆のほとんどは、農民でした。種蒔きのたとえ話は、群衆にとって身近でありながら、何かに気が付かされるお話であったのでしょう。

「道端におちた種」「石だらけで土の少ないこ所に落ちた種」「いばらの中に落ちた種」は、どれも単数、一粒の種です。それに対して、良い土地に落ちた種は複数です。条件の良くない場所に落ちて、育たないのは、蒔かれた種のごく一部であり、蒔いた種のほとんどは、30倍、60倍、100倍の実を結ぶとイエスさまは語ります。良い土地に落ちた種のことを、このたとえ話では強調しており、蒔いた種は何十倍にもなるという励ましと希望が語られています。

一方、4:31以下では、「種」は「神の言葉」であると明言され、福音書記者の時代の厳しい宣教活動の状況を反映しています。良い土地に落ちた種は豊かに実を結ぶが、悪い土地に落ちた種は実を結ばないという話に変わっています。み言葉を受け入れる良い人と受け入れない悪い人がいるかのように受け取れますが、実際には人を「良い人」と「悪い人」にはっきり分けることはできません。ある時の『聖書教育』では、この箇所を神のみ言葉が、その時のその人の状況によって、受け入れられる時と受け入れられない時があると解釈していました。その人にみ言葉が届く「時」があるというのです。だとすれば、いつかその人の中でみ言葉が実を結ぶ時が来ることを信じて、福音の種を蒔き続けることが私たちに与えられている使命だと思います。         [細井留美]

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